第三回 崩壊する教会、定時退社の聖女
その時、聖女エリアは、青い海をバックに「深海魚の姿造り」を堪能していた。
箸先で一切れの身を持ち上げ、光にかざす。透き通るような白身は、まさに効率化を極めた自然の芸術品だ。
「……素晴らしい。この身の締まり、無駄な脂肪が一切削ぎ落とされている。見習いたいものですね、我が職場の上層部も」
彼女が優雅に刺身を口に運んだ瞬間。
数百キロ離れた王都の空が、パリンッ、と乾いた音を立てて割れた。
それは、聖女エリアが三年間、一度の遅延もなく保守運用してきた「超高効率・多層防護結界」が完全に機能を停止した合図だった。
――同時刻、王都大聖堂。
「な、なんだ!? 何が起きている! 空にヒビが入っているぞ!」
ゴルマス大司教は、金糸で刺繍された豪華な法衣を振り乱し、テラスへと転がり出た。
見上げる空には、エリアが設置した「自動防衛システム」のホログラムが真っ赤に点滅している。
『警告:ライセンスの有効期限が切れました。管理者の承認が確認できないため、全防衛機能をシャットダウンします。本日の聖務時間は終了しました。継続を希望する場合は、速やかに未払い分の残業代および誠意ある謝罪を提示してください』
「なんだこのメッセージは! エリアだ、エリアの仕業に違いない! あの女、有給休暇中に結界を人質に取りおったな!」
隣にいた騎士団長レオンが、青ざめた顔で報告に駆け寄る。
「大司教! 結界の消失を感知した魔王軍の残党が、一斉に王都へなだれ込んできました! 防衛陣を敷こうにも、エリア様が書き換えたマニュアルが複雑すぎて、我々では魔法陣の再起動すらできません!」
「バカな! ボタンを押すだけにしておけと言っただろう!」
「そのボタンが、エリア様の指紋認証と『定時退社への強い意志』を検知しないと反応しない仕組みになっているんです!」
王都はパニックに陥った。
空からはガーゴイルが降り注ぎ、街の広場にはスケルトンの群れが溢れ出す。
信者たちが救いを求めて大聖堂に押し寄せるが、エリアという「システムの核」を失った教会は、ただの豪華な石造りの箱に過ぎなかった。
ゴルマス大司教は、聖典を振り回して奇跡を起こそうとしたが、彼が放った治癒魔法は、エリアが最適化する前の「燃費が最悪で詠唱に三十分かかる旧式」だった。
一人の傷を癒やす間に、百人が呪いを受ける。
「ああ、神よ! なぜこのような試練を!」
「神のせいではありません、大司教様。単なる人的リソース管理の失敗です」
聞き慣れた、そして今最も待ち望んでいた声が、頭上から降り注いだ。
一同が仰ぎ見ると、そこには空中に浮遊する魔法の絨毯(最新モデル)に座り、お土産の「魚の干物セット」を抱えたエリアがいた。
時刻は、午後五時一分。
「エリア君! 帰ってきたか! さあ、早くあの魔物どもを掃除したまえ! 結界を直せ! これは聖女としての命令だ!」
ゴルマスが指差した先では、王都の象徴である大聖堂の尖塔が、ガーゴイルの一撃によって無残に崩れ落ちようとしていた。
かつての権威が、瓦礫となって降り注ぐ。
エリアはそれを冷めた目で見下ろし、手元の懐中時計の蓋を閉じた。
「お断りします。私はたった今、有給を終えて帰路についている最中ですが、同時に『退職願』を神託ポストに投函してきたところですので」
「たい、退職……!? この状況でか!」
「はい。ですから、ここからは一分一秒が『コンサルティング料』としての特急料金対象となります。大司教様、まずは一回目の会話ミッションといきましょうか」
エリアは絨毯を降下させ、震えるゴルマスの目の前に着地した。
「助けてくれエリア君! 君の望む通りの給与を出そう! だからこの事態を――」
「いいえ。私はもう、この腐敗した組織の再建に興味はありません。大司教様、貴殿を本日付で私の『救済リスト』から除名します。これまでのやりがい搾取、およびパワハラの対価として、貴殿には自力で魔王軍を説得していただく。これが私からの最後のリクルート、いえ、リストラ宣告です」
「な……破門だと!? 聖女が私を破門にするというのか!」
「いいえ、市場原理による淘汰です。さようなら、旧時代の遺物様」
エリアは背を向けた。
その背後で、大聖堂の正門が轟音と共に吹き飛ぶ。
泣き叫ぶ民衆たちが、エリアの足元に縋り付いた。
「聖女様! 見捨てないでください! 我々はどうすればいいのですか!」
エリアは足を止め、民衆に向けて優雅に、しかし事務的な微笑を浮かべた。
これが二回目の会話ミッション。
「皆様、ご安心ください。私は教会を辞めましたが、聖女を廃業したわけではありません。本日より、私は『フリーランス聖女・エリア』として独立いたしました。そこの看板をご覧ください」
エリアが指を鳴らすと、王都の広場に巨大な魔法の掲示板が出現した。
「救済、治癒、結界の構築、すべてメニュー化して価格を明記しております。今なら『王都防衛キャンペーン』として、初回限定で魔除けのバフを二割引きで提供中です。お支払いは現金、または同等の価値がある魔石でお願いします。寄付という名の不透明な徴収より、よほど健全だと思いませんか?」
民衆は一瞬呆気にとられたが、背後に迫るスケルトンの群れを見て、我先にと財布を取り出した。
「た、助けてくれ! 三万ゴールド払う!」
「はい、毎度ありがとうございます。三万ゴールドプランなら、周辺三十メートルの魔物を三秒で殲滅し、三時間の健康増進バフが付帯します。キャッシュレス決済ならさらに五パーセント還元ですよ」
エリアが杖を軽く振るだけで、王都を埋め尽くしていた魔物たちが、文字通り「効率的」に消滅していく。
血も流れない、無駄のない光。
民衆からは悲鳴ではなく、サービスに対する賞賛の声が上がり始めた。
「すげえ! 教会の祈りより十倍速いぞ!」
「料金が明確なのは助かるわね!」
圧倒的な熱狂が王都を包む中、ついに魔王軍の本体……四天王のさらに上に君臨する、魔王直属の使者が姿を現した。
漆黒の翼を持つその魔族は、自分たちの軍勢が「課金アイテム」のように処理されていく光景に激昂した。
「貴様……! 神の奇跡を切り売りするとは、なんという冒涜! 我ら魔王軍が、そんな小細工で――」
「お静かに、ビジネスの時間です。これが三回目の会話ミッションになりますね」
エリアは使者の鼻先に、一枚の契約書を突きつけた。
「使者様。貴方たちの侵略行為は、非常にコストパフォーマンスが悪い。兵士を消耗させ、貴重な魔力を浪費し、得られるのは焦土だけ。そこで提案ですが、我が社――『ホワイト救済ギルド』とBtoBの業務提携を結びませんか?」
「……何だと?」
「侵略を『魂の回収業務』と定義し、私が仲介することで、貴方たちは戦わずしてノルマ分の魂(期限切れ間近の悪人のもの限定)を確保できる。私は王都の平和を守る手間が省ける。ウィンウィンの関係です。無駄な残業(戦争)はやめて、契約ベースでやり取りしませんか? 組織の合理化、私がコンサルティングして差し上げますよ」
使者は絶句した。
魔王軍の歴史の中で、聖女から「合併」を提案された者はいなかった。
しかし、彼女が提示したシミュレーション数値は、戦慄するほど魔王軍の利益を最大化させていた。
「……検討、せざるを得ないな」
魔王の使者が契約書を受け取り、闇へと消えていく。
戦わずして、王都に平和が訪れた。
崩れ落ちた大聖堂の瓦礫の上で、エリアは悠然とタイムカードを取り出した。
時刻は十八時。
「ふう、トラブル対応で一時間の残業となってしまいましたね。これは後で『新組織』の経費として落とすとしましょう」
彼女が空を見上げると、そこには異変が起きていた。
教会の崩壊を嘆くはずの「神」の光が、なぜかエリアの頭上だけを暖かく照らしている。
それは、古い権威に縛られた信仰の終わりと、新しい時代の、あまりにも「現実的でホワイトな救済」の始まりを祝福しているかのようだった。
「さて、明日は新店舗のオープン準備がありますから。今日は早めに休みましょう」
エリアは、もはや誰もいなくなった大司教の椅子をデスク代わりに、明日のTODOリストを書き込み始めた。
王都の平和は守られた。
ただし、それは「信仰」のおかげではなく、一人の聖女の「徹底した業務管理」のおかげであった。




