第ニ回 有給申請、魔王降臨につき却下?
翌朝、午前八時五十九分。
聖女エリアは教会の事務棟、大司教室の重厚な扉の前に立っていた。
左手には完璧に整えられた業務引継書。右手には、純白の羊皮紙に金文字で「有給休暇申請書」と記された、神々しくも世俗的な書類が握られている。
午前九時。時報と同時に、彼女はノックもそこそこに室内に踏み込んだ。
「おはようございます、大司教様。明日の有給休暇の申請に参りました。こちら、業務の進捗状況と不在時の対応マニュアルです。ご確認の上、速やかに承認印をお願いします」
デスクの向こう側で、昨夜の心労からか目元に深いクマを作ったゴルマス大司教が、ひきつった笑いを浮かべて顔を上げた。
「……おはよう、エリア君。有給……かね? 明日?」
「はい。隣国の港町で『深海魚の解体ショー』が開催されるのです。鮮度が命ですので、こればかりは譲れません。聖女として、生命の輝きをその目に焼き付ける義務があります」
「いや、義務の方向性がおかしいだろう! それ以前にだ、エリア君。外の騒ぎを知らないのかね!?」
ゴルマスが窓を指差す。
教会の広場では、騎士たちが血相を変えて走り回り、伝令の馬がひっきりなしに出入りしていた。
「魔王軍の先遣隊だ! しかも率いているのは魔王軍四天王の一角、執事長デスマスク! ヤツの放つ『絶望の瘴気』によって、既に国境の防衛線が突破されようとしているのだぞ! この国家存亡の危機に、有給……解体ショーだと!?」
ゴルマスは激昂し、エリアの差し出した申請書を掴み取ろうとした。
だが、エリアの動きは速かった。
彼女は懐から、儀礼用の短剣――かつて伝説の英雄から贈られた、あらゆる呪いを断ち切る聖剣のレプリカ――を抜き放った。
シュンッ!
鋭い風切り音と共に、ゴルマスの指先が届く直前で、申請書が空中で一回転する。
エリアは短剣の腹で、ゴルマスの手を軽く、しかし断固として弾き飛ばした。
「……ッ! あだだっ!? 今、叩いたな!? 聖職者の頂点たる私を、物理的に!」
「大司教様、書類は丁寧に扱ってください。それに、申請書の受理を拒否するのは労働基準法……失礼、神託に基づいた『聖職者雇用ガイドライン』の第五条に抵触します」
「そんなガイドライン、私が勝手に破り捨ててやるわ! いいかエリア、魔王軍が来ているんだ! 君が結界を強化し、騎士たちに広域バフをかけ、ついでに聖なる一撃で軍勢を殲滅しなくてはならないんだよ!」
「残業代は出るのですか?」
エリアの冷徹な問いに、ゴルマスの動きが止まった。
「……は?」
「ですから、定時外、および休日における『世界救済業務』に対する手当の支給について確認しています。現在の私の契約では、魔王軍の襲来は『不可抗力による突発的事態』に含まれておらず、業務外となります。どうしてもというのであれば、現在の基本給の三倍、および深夜休日手当、さらに精神的苦痛への慰謝料として『特急料金』を別途申し受けます」
「な、何を現金なことを! 聖女の奇跡は無償だろうが!」
「無償なのは『私の慈愛』であり、『私の労働力』ではありません。対価のない奇跡は、神に対する経済的損失です」
エリアが淡々と論破していると、部屋の扉が再び勢いよく開いた。
入ってきたのは、鎧をガタガタと鳴らした騎士団長レオンだ。
「大司教! エリア様! ついに、ついにデスマスクが教会の正門前まで到達しました! 門を突き破る勢いです!」
「な、なんだと!? エリア君、こうなったら強制出動だ! 行きたまえ!」
「行きません。現在はまだ勤務時間内ですが、午後の『結界メンテナンス』の予定が詰まっております。どうしてもというなら、デスマスク氏に『事前予約』をしてから出直すようお伝えください」
エリアはそう言うと、レオンを無視して部屋を出て行った。
そのまま、彼女は騒然とする教会の正門へと向かう。
正門前には、漆黒の馬車に乗った骸骨のような騎士、デスマスクが鎮座していた。
彼の周囲には不気味な黒い霧が立ち込め、近づく騎士たちが次々と恐怖で膝をついている。
「ククク……愚かな人間どもよ。この私、デスマスクの前に平伏すがいい。今日、この聖域は絶望に――」
「失礼します、デスマスク様ですね」
エリアが霧の中にすたすたと歩み寄った。
彼女は手に持っていたクリップボードを掲げる。
「な、なんだ貴様は? 聖女か。私の瘴気に当てられて狂ったか?」
「いえ、正気です。聖女エリアと申します。デスマスク様、貴殿の今回の侵攻ですが、事前のアポイントメントが確認されておりません。現在、当教会は非常に繁忙期であり、飛び込みの侵略は対応いたしかねます」
「……アポ? 侵略にアポが必要だと言うのか?」
「当然です。貴殿がここで暴れれば、私の本日の業務予定が大幅に狂います。特に、門の損壊などは修復作業に多大なコストがかかります。それは巡り巡って、私の定時退社を妨げる要因となるのです」
デスマスクは面を食らったように、空洞の目に灯る青い炎を揺らした。
「……貴様、何を言っている? 私は世界を滅ぼしに来たのだぞ。私の組織、魔王軍は二十四時間三百六十五日、常に破壊と殺戮を――」
「……え、二十四時間稼働? シフト制ではないのですか?」
「シフト? そんなものはない。魔王様が『壊せ』と仰れば、我らは寝る間も惜しんで壊すのみだ」
エリアの瞳に、深い同情の光が宿った。
「デスマスク様。それは、いわゆる『ブラック組織』の典型的な症状です。睡眠不足は判断力を鈍らせ、侵略の効率を下げます。見てください、貴殿の配下のスケルトンたち。骨の節々がボロボロではありませんか。適切なメンテナンス(休暇)が与えられていない証拠です」
「なっ……魔王様への忠誠こそが、我らのガソリンなのだ!」
「ガソリンは有限です。いいですか、持続可能な侵略のためには、適切なワークライフバランスが必要不可欠です。本日は一度お引き取りになり、魔王軍の福利厚生を整えた上で、来月の平日に改めて予約を取ってください。そうすれば、私も万全の態勢で『迎撃(仕事)』をさせていただきます」
デスマスクは絶句した。
何千年も侵略を続けてきたが、敵から組織運営のコンサルティングを受けたのは初めてだった。
しかも、その指摘はあまりにも論理的で、彼の心の奥底(あるのか不明だが)にある「疲労」を的確に突き刺した。
「……確かに、最近の部下たちの離職率は異常だった。皆、骨になるまで働かされて、最後には粉になって消えていく……」
「でしょう? 定時で帰れば、粉にならずに済みます。さあ、本日はこれでお引き取りを」
デスマスクは、ゆっくりと馬車の向きを変えた。
「……分かった。今日のところは、組織の再編を優先させてもらう。だが聖女よ、次に会う時は……」
「はい、来月の平日の、午後二時頃が空いております。では、失礼します」
魔王軍の先遣隊が、信じられないほど静かに撤退していく。
その様子を、教会の窓から見ていたゴルマス大司教とレオンは、開いた口が塞がらなかった。
「……帰った。魔王軍が、カウンセリングを受けて帰ったぞ……」
エリアは大司教室に戻り、呆然自失のゴルマスの前に、再び「有給休暇申請書」を突きつけた。
「デスマスク氏との交渉という『突発業務』を完了させました。これにより、本日の業務進捗は予定を上回っております。さあ、承認印を」
「……あ、ああ……分かったよ……」
ゴルマスは震える手で、印章を掴んだ。
だが、土壇場になってセコい考えが頭をよぎる。
(ここで印をさなければ、彼女を明日の有給に行かせずに済む。魔王軍の件で市民は不安がっているんだ、聖女が街にいないなど困る!)
「……あ、ああっと! いけない! 印章が、印章が詰まってしまって、どうしても押せないようだ! 残念だが、承認は保留だな、エリア君!」
ゴルマスは露骨な嘘をつきながら、印章をデスクの引き出しに隠そうとした。
しかし、エリアは微笑んでいた。その微笑みは、慈愛に満ちているようでいて、深淵のような冷たさを孕んでいた。
「ご心配なく、大司教様。私の持つ『最適化魔法』は、物理現象すらも効率化します」
エリアが指をパチンと鳴らす。
すると、ゴルマスの手の中で印章がひとりでに動き出した。
それは魔法の力で強制的に引き寄せられ、エリアの申請書の上へ。
ドンッ!!
それは、教会の鐘の音よりも重厚で、絶対的な「承認」の響きだった。
申請書には、燃え上がるような真っ赤な聖印が、完璧な角度で刻まれていた。
「承認、ありがとうございます。明日の業務はすべてマニュアル通りに進行するよう、各所に魔法的な『自動実行命令』をセット済みです。私が不在でも、教会の運営は一ミリも滞りません。……むしろ、上層部の皆様が余計な口出しをしない分、通常より効率が上がる見込みです」
「な、何を……」
「では、私は有給の準備がありますので、失礼します。レオン団長、私のプライベートな休暇中に連絡をしてくることは、法律で固く禁じられています。もし通信魔法を送ってきた場合、着信拒否の設定と共に、貴殿の鎧をピンク色に染め上げる呪いを付与しますので、ご注意を」
レオンは顔を青くして頷いた。
エリアは完璧な一礼を残し、風のように部屋を去った。
残されたのは、静まり返った室内と、デスクの上に残された「承認済み」の書類だけ。
夕日に照らされたその文字は、もはや教会の権威などではなく、一人の「有能すぎる聖女」が勝ち取った、自由の象徴であった。
教会の結界が、かつてないほど強固に輝き始める。
それはエリアが「休暇を邪魔されないために」施した、鉄壁の防護壁だった。
その輝きの中で、教会の人々はまだ気づいていなかった。
彼女という「システム」がいなければ、自分たちは書類の一枚すら正しく処理できない、ただの無能な集団に成り下がっているという事実に。
聖女エリア、有給確定。
明日の目的地は、深海魚の解体ショー。
カタルシスは波を打ち、絶望は定時と共に去りぬ。




