第一回 聖務超過、本日で辞めさせていただきます
――カツン、カツン、カツン。
重厚な石造りの廊下に、小気味よいヒールの音が響く。
夕刻、午後五時を告げる教会の鐘が鳴り響いた瞬間。
聖女エリアは、手にしていた羽ペンを正確にペン立てへと戻した。
一ミリの狂いもない。それは彼女がこの三年、毎日欠かさず繰り返してきた「業務終了」の儀式であった。
「お疲れ様でした。定時ですので、失礼いたします」
エリアは背後の事務机に向かって、事務的に、かつ爽やかに告げた。
デスクの上には、先ほどまで山積みだった「魔力付与申請書」と「治療依頼書」が、完璧なカテゴリー分けで整理されている。
「ま、待ちたまえ、エリア君! まだ終わっていないだろう!?」
背後から、脂ぎった声を張り上げたのは、大司教ゴルマスだ。
彼はその丸々とした体を揺らしながら、エリアの行く手を阻むように立ちふさがった。
その手には、新たな書類の束が握られている。
「まだ東の街から『聖水』の追加発注が来ているし、巡礼者の足を洗う儀式も三百人分残っている! 何より、君は聖女だぞ? 民の苦しみを取り除くことに、労働基準法もクソもあるかね!」
ゴルマスは「やりがい」という名の毒を、聖職者の慈愛という名のオブラートに包んで吐き出した。
エリアは無表情のまま、懐から一冊の手帳を取り出した。
「大司教様。聖典第三章、第六節をお読みになったことは?」
「……は? 何を突然」
「『神は六日の間に万物を創造し、七日目には安息された』。全知全能の主ですら週休一日は確保されているのです。平民である私が、一日の労働時間を八時間に制限することの、どこに教義上の不備がありましょうか」
「それは屁理屈だ! 聖女の祈りは無償の愛であるべきで――」
「無償の愛と、無償の労働は別物です。それを混同するのは、神に対する冒涜、あるいは『経営努力の放棄』と呼びます」
エリアは淡々と、しかし鋭く言い放った。
彼女の視線は、ゴルマスの後ろにある古びた砂時計に向けられている。
本来、聖女が一人でこなすべき仕事量は、この教会のキャパシティをとうに超えている。
だが、エリアが着任して以来、この「ブラック教会」の業務効率は飛躍的に向上した。
なぜなら、彼女は術式マクロを組み、「奇跡」をシステム化してしまったからだ。
「聖水の件ですが、既に最適化を済ませてあります。あちらの噴水をご覧ください」
エリアが指差した先では、庭園の噴水が淡く輝いていた。
「……な、なんだ、あの光は?」
「聖化の魔法陣を『循環式』に書き換えました。水が流れるだけで自動的に聖水に変換されます。従来のように一本ずつ手に取って祈る必要はありません。これで生産性は三千パーセント向上しました」
「なっ……バカな! 聖女の祈りが込められていない聖水など、ご利益がないではないか!」
「成分検査の結果、純度は従来比で一・二倍です。神は効率を愛されます」
ぐうの音も出ないゴルマスを放置し、エリアはコートを羽織った。
彼女にとって、聖女という職分は「世界を救う高潔な使命」ではなく「極めて専門性の高い技術職」に過ぎない。
「では、私はこれで。駅前のベーカリーで、夕方限定の『黄金クロワッサン』が焼き上がる時間ですので」
エリアが廊下を歩き出したその時。
教会の巨大な扉が、荒々しく蹴り開けられた。
「聖女様! 聖女様はいらっしゃいますか!」
現れたのは、全身血まみれの聖騎士団長、レオンだった。
彼は部下たちの肩を借りながら、必死の形相でエリアを仰ぎ見る。
「街道で高位魔族の襲撃を受けました! 副団長が、呪いの毒で瀕死です! どうか、どうか奇跡を……!」
「レオン団長。現在は十七時五分です」
エリアは一歩も止まらない。
「私の勤務時間は終了しました。緊急の治療依頼は、そちらの『夜間救急受付』の箱に書類を投入してください。明日の午前九時から順次対応いたします」
「明日の朝!? バカな、今すぐでなければ彼は死ぬんだぞ!」
「死にません。先ほど、廊下ですれ違いざまに『持続性治癒魔法』のパッチを彼の背中に貼り付けておきました」
レオンが慌てて背後の副団長を確認すると、彼の背中には奇妙な「光るシール」のようなものが貼られていた。
副団長の顔色は劇的に改善し、既にスースーと寝息を立て始めている。
「……え? 治っている? いつの間に?」
「工程の簡略化です。詠唱を三十行程カットし、発動条件を『対象の脈拍が低下した時』に設定したトリガー魔法です。後で私のデスクに、治療費の請求先を書いておいてください。深夜割増はつきませんが、材料費は実費でいただきます」
レオンは呆然として立ち尽くした。
彼が知る聖女とは、膝をつき、涙を流しながら神に祈りを捧げ、自らの寿命を削るようにして奇跡を起こす存在だったはずだ。
目の前の女は、まるで「壊れた時計のネジを巻く」かのような手際で、人の命を繋ぎ止めてしまった。
「ああ、それから」
エリアは教会の出口で足を止め、手首の時計をチラリと見た。
「まもなく、教会の防壁に魔族が接触します」
「な、なんだと!? 迎撃態勢を――」
「不要です。五時十五分に起動するよう、防衛用魔法陣に『自動タイマー』を組み込んでおきました。定時後に魔族の相手をするのは、私の信条に反しますので」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
教会の外、遠くの森から凄まじい爆発音と、魔物の悲鳴が聞こえてきた。
地響きが教会を揺らすが、エリアは眉ひとつ動かさない。
「それでは、お疲れ様でした」
エリアは優雅に一礼し、教会の門をくぐった。
背後では、ゴルマス大司教が「勝手に改造するな!」「伝統が!」と叫んでいるが、彼女の耳にはもう届かない。
外の空気は、ひんやりとして心地よかった。
夕焼けが街をオレンジ色に染めている。
これから一時間は、誰にも邪魔されない至福の自由時間だ。
クロワッサンを買い、お気に入りの紅茶を淹れ、録画しておいた魔導水晶のドラマを観る。
それこそが、彼女が「最強の聖女」として効率を極める最大のモチベーションだった。
エリアは軽やかな足取りで、人混みの中に消えていく。
彼女の背中を見送るレオンとゴルマスは、まだ気づいていなかった。
彼女が「定時」で帰るために構築した、あまりにも効率的すぎる魔法のシステム。
それが崩れた時、この教会……いや、この世界がどれほどの窮地に立たされることになるのかを。
聖女エリア、本日の業務終了。
残業代ゼロ、カタルシスは無限大。
彼女の戦いは、明日の午前九時から再び始まるのだ。




