SF大相撲三部作『土俵は、空の向こうにある』
その夜、街の上空には巨大な惑星が浮かんでいた。
紫と桃色が混じり合った雲をまとい、幾重にも重なる光の輪がゆっくりと回転している。まるで天そのものが円を描き、見えない土俵を作っているかのようだった。
ネオンが雨上がりのアスファルトに映り、街はいつもより少しだけ騒がしい。
今日は特別な夜――惑星環の最接近日であり、同時に「最後の大相撲興行」が行われた日でもあった。
「……あれ、ほんとに毎回見ても慣れないな」
交差点の真ん中で、俺は立ち止まって空を見上げた。
黒い礼服の襟元が、まだ少しだけ土の匂いを残している気がした。
「大きいね。でも、きれい」
隣に立つミオが、背中の小さな羽根を軽く揺らしながら言った。
ピンク色の髪はネオンに染まり、現実と幻想の境目みたいに見える。
俺は元・力士だ。
さっきまで、いや、つい数時間前まで、土俵の上にいた。
重力制御技術が当たり前になり、人々は空を飛び、惑星間スポーツに熱狂するようになった。この街に残った伝統競技は、どれも観客が減り、相撲も例外じゃなかった。
「重たい」「古い」「宇宙時代に合わない」
そんな言葉を、何度も聞いた。
それでも俺は、土俵に上がり続けた。
理由は単純だった。
踏み出した一歩の重さを、ちゃんと感じられる場所が、そこにしかなかったからだ。
「引退式、どうだった?」
ミオが前を向いたまま聞いてくる。
「静かだったよ。拍手も少なかった」
「でもね」
俺は少し間を置いた。
「行司の声と、土俵を踏みしめる音だけは、昔と同じだった」
立合い前の、あの一瞬。
呼吸が止まり、世界が円の中に凝縮される感覚。
勝ちも負けも、その中にすべてがある。
赤信号が俺たちを足止めした。
バスのヘッドライトがこちらに向かってくる。
「怖くなかった?」
ミオが聞いた。
「正直に言うと、怖かった」
勝っても、負けても、終わる。
取り直しはない。
それは、どんな大一番よりも重かった。
ミオは少し考えるように空を見上げ、惑星の輪を指さした。
「でもさ、あんなに大きな星があっても。あなたがいた場所は、あれより小さくて、ずっと濃かったんでしょ」
俺は驚いて、彼女を見た。
「土俵って、円だよね。閉じてるけど、逃げ場がなくて、だから正直になれる」
まるで、昔の親方みたいなことを言う。
「……だった、って言いたいところだけどな」
「今もだよ」
ミオはきっぱり言った。
「あなたの中にあるなら、まだ終わってない」
信号が青に変わる。
俺たちは同時に一歩を踏み出した。
その瞬間、ふと、立合いの感覚がよみがえった。
前に出る。
ただ、それだけ。
惑星はゆっくりと回り、街のネオンは瞬き続ける。
土俵はもうない。
けれど、俺の背筋は自然と伸びていた。
勝つことより、立つこと。
押し出すことより、耐えること。
それを教えてくれた場所は、確かにここにあった。
夜の交差点を渡りきるころ、俺は少しだけ胸を張った。
空の向こうにある土俵に、礼をするように。




