婚約破棄された翌朝、私の部屋で婚約者が土下座していた
私——辺境伯令嬢レリア・アミールの平穏な日常に異変が見え始めたのは、ここ数日前からのことだった。
その異変は朝、私が起床したタイミングでいつも起こっている。
一番最初の異変は、ぬいぐるみお座り事件だった。
父から巨大な魚のぬいぐるみをもらったのは、私が八つの歳を迎えた誕生日だった。
普段から娘にすら構えないほどの膨大な仕事に追われていた父だったので、その誕生日プレゼントを私はいたく気に入った。
八歳から現在に至るまで、寝る時には必ずそのぬいぐるみを抱えて一緒に眠った。
でも、形あるものはいつか壊れる。布で作られたぬいぐるみは尚更だった。
使い続けるとぬいぐるみの生地はシミで汚れ、所々にホツレが見えた。私にできる延命処置はできるだけ頑張って、辛うじて魚の形を今も維持している。
あの時とても大きく感じていたぬいぐるみも、今では私の身体の方が大きい。
今でも私はそれを大事に抱えて眠っているのだけど……。
と……今は思い出話に浸っている場合ではない。
問題はその巨大なぬいぐるみが、朝目を覚ますと寝台の隣に置かれた椅子に、ちょこんと腰掛けていたことだ。
普通ならそんなことは決してありえない。前夜の記憶もなければ、こんなことが起きた前例もない。
私が眠りにつくと、ぬいぐるみが勝手に歩く……なんてわけ、あるはずもない。
想定できるシチュエーションでいえば、私が深夜に起きて、このぬいぐるみをわざわざ座らせ、そしてそのまま眠りにつく。そんなところだろう。
でも、果たして。私は一緒に眠らない日はなかったほどのお気に入りのぬいぐるみを、無意識とはいえ何故わざわざ深夜に起きて律儀に座らせたんだろうか……。
「それは夢遊病ですね」
「む、夢遊病……? それはなにかしら、ルオ」
ぬいぐるみお座り事件が起こった日の昼。
昼食の準備をする使用人のルオに聞いたところ、そんな返答が返ってきた。
勤勉なルオは使用人の中でも一番の博識だと、この屋敷の人間はみな認めている。
だから昔から分からないことがあればルオに聞いて、その答えを私はすぐに信じた。
ルオ曰く、夢遊病の主な症状は深い睡眠時に脳が覚醒し、無意識に身体を動かしてしまうものらしい。
初めて聞いた病名だったけれど、ルオの言う通りその病気は私の行動と多く重なった。
納得した私はさすが博識のルオだと言って、黒い艶やかな髪をわしゃわしゃした。……めっちゃ嫌がられたけど、反抗期なのかな。
そしてその次の日。
また昨日とは違う異変が現れた。
起きると、抱いていたぬいぐるみのホツレやシミが完璧に無くなっていることに気付いた。
ぬいぐるみの表面は、もはや新品かと見紛うほどに整えられていた。
私の延命処置——裁縫の技術では限界だったぬいぐるみの傷跡が、今では跡形もなく綺麗になっている。
そんなこと、ありえるのだろうか。
「さすがはお嬢様です。寝ている時でもぬいぐるみも大事にされてらっしゃるのですね」
二日目にして、ルオは考えることを放棄してしまった。
ルオの乾いた拍手が静かな部屋に響いていた。
その音を掻き消すように、私は怒気と焦りを込めた声で叫んだ。
「ちょっと! もう少し真剣に考えてよ! こんな裁縫の腕があったらずっと前からやってたわよ! ぜっーーーたいにおかしい!」
「僕に言われましても……確かにお嬢様の言う通り、無意識に動く夢遊病の症状ではそんな事態ありえないかと」
「やっぱりそうよね……改めて考えるとなんだか怖いわ、ルオ」
「僕も怖いです」
そういえば、とルオは思い出したように提案した。
「僕に頼るよりもエドルス様に頼んでみるといかがでしょうか? 王都で働かれているエドルス様なら、この現象を知っているかもしれません」
エドルス、という名前に私の眉毛がピクリと動いた。
シルルヴェル公爵家の嫡男——エドルス・シルルヴェル。貴族ながら王都で騎士を務めている男だ。
そして……エドルスは私の婚約者である。
「ダメ! 絶対ダメ!」
「何故です?」
「変な女だと思われるわ! ただでさえ、あの人は堅物なんだから!」
「……? まだ変だとバレてないんですか?」
黒い艶やかな髪に、ゲンコツを一発。昨日は撫でてやった黒髪を、今日は殴ってしまった。
ルオは私より五つ歳下だが、主人と使用人というよりも姉弟に近い関係性だった。
だからか昔から少し舐めた口を聞く節が、ルオにはあるのだ。
こほん、とルオはゲンコツを平然と受け流して、こちらをジト目で見てきた。
「な、なによ」
「お嬢様、直近でエドルス様と最後にお話されたのはいつですか?」
「えっと……二週間、んや、三週間? 手紙じゃなくて、直接ならもう少しで二ヶ月になるかも……?」
はぁ、とルオは主人の私に向かって大きなため息を吐いた。
それに私は全力で反論の体制を構える。
「し、仕方がないでしょう! エドルス様は私よりも比べ物にならないほどに忙しいし、立場でみても公爵子息で騎士団勤めのエドルス様は雲の上の人よ!」
そう、気軽に話しかけられる相手ではないのだ。
婚約者といえど、私たちはお互いの両親が決めた政略結婚のようなもの。
利益で結ばれている私たちの関係性で、気軽に謎の現象を相談できるはずもない。
「ですが……」
「ダメといえばダメなの!」
「分かりました。ですが、結婚まで遠くはありませんよ、もう少し親睦を深めておくことをおすすめします」
「うぅ……それは正論ね、ルオ」
ルオに言い包め……ごほん、背中を押され、その日、私はエドルス様へ送る手紙の準備を始めた。
もちろん夢遊病(仮)のことは触れずに。
手紙の内容は三日三晩考えた。
悩む理由は簡単、これはデートのお誘いだからだ。
手紙を使者に預け、異変に悩まされながら待つこと二日。
エドルス様から手紙が返ってきた。
「ルオ、見て! 私のためにエドルス様が時間を空けてくれたみたい!」
「よかったですね」
その手紙には一言だけ——『いいですよ』と書かれていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
数日後の早朝。
ルオに見送られながら、使用人が御者する馬車で私は領地を出発した。
目指すはエドルス様のいる王都へ。
デート内容は二人で美味しいランチを食べに行くだけ。私が食べたいものを提案し、お店は彼が事前に選んで予約してくれた。
やはりエドルス様はとても忙しい方だった。
今日は朝から次期当主としての実務があり、夕方からも外せない騎士団の合同演習があるという。
それに、彼から聞いたスケジュールでは今日のお昼は唯一の空き時間であり、一休みできる限られた時間だった。
私なんかのためにエドルス様の貴重な時間を消費してもよいのだろうか、と心配になるほどの多忙さである。
約束の時間より早く王都へ到着した。
とは言っても、のんびり買い物する時間はないので予定の時間より三十分ほど早く集合場所へと向かった。
「エドルス様……?」
所定の時間より早く集合場所に到着したというのに、先に来ていたエドルス様と目が合った。
炎を宿したような赤い瞳に、後ろできっちり結われた青みを帯びた髪。身長がすごく高いため、エドルス様だということは一目瞭然だった。
「……久しぶりだな、レリア嬢」
視線を泳がせ、どこか落ち着きのない挙動不審なイケメンの彼こそ、私の婚約者である。
それにしても今日はいつもより元気がない気がする。
仕事の合間に来てくれているからさぞ疲れているのだろうか、と私は疑問に思った。
「本日はお忙しい中、私のために時間を作っていただいてありがとうございます、エドルス様」
「いや、こちらこそ王都まで来てくれてありがとう。本来ならば僕がそちらへ出向くべきなのだが」
顔は常に無表情で何を考えているのか思考の読み取れないエドルス様だけれど、いつも私に気を遣ってくれている。
エドルス様に案内され、予約してあるお店へと向かった。
「わ、すごい! 」
お店の中に入ると、まず見えてきたのは天井から吊り下がる大きなシャンデリアだった。
煌びやかな光に包まれる店内では、優雅に流れる音楽と共に紳士淑女が真ん中に用意された広間で踊っていた。
私の住む街にはない。
王都ならではの上品なお店。
私は隣に立つ相変わらず無表情なエドルス様に訊いてみた。
「エドルス様はここへ来たことが?」
「いや、僕はあまり食には興味がなくてね。恥ずかしい話だが、このお店も部下に教えてもらったんだ」
「ち、ちなみになんて聞いたんですか?」
「……? 普通に婚約者とご飯を食べに行く、と」
その言葉を聞いて、私の顔がポッと熱くなるのを感じた。
私の知らないところで周囲の人にこういった無意識な惚気をしてくれているエドルス様がすごく愛おしくて可愛いのだ。
いつもながら、自滅行為だと分かっていてもエドルス様が鈍感なことをいいことに、私はこうして惚気させてもらっている。
会えることなら毎日会いたいところだけど、今日もなんとか時間を作ってくれただけ。あまり贅沢やわがままは言えない。
それに、私がエドルス様に対して好意を感じているだけで、体裁上私たちは政略結婚である。エドルス様に、私への好意は一切ない可能性も大いにある。
……少なくとも、この無表情から好意は感じ取れないのが残念ね。
と思っていたら——
「すまない、レリア嬢。本日を持って、婚約を破棄させてほしい」
食事を終え、運ばれてきた美味しそうなデザートをスプーンで一口。
甘みの幸福感が口の中を満たし始めた、その瞬間だった。
「わ、私なんか失礼なことをしてしまいましたでしょうか!?」
驚きで呂律がうまく回らなかった。
多分舌も噛んだ。
「そういうわけじゃない」
「では、どういうことなのでしょうか……エドルス様の決めたことを拒否できる立場ではありませんが、このまま帰っても父上に合わせる顔が……」
「すまない。アミール辺境伯には僕から伝えておくから安心してくれ」
そのあともエドルス様から婚約破棄の説明はなく、デザートを食べる合間もずっと「すまない」と謝り続けるエドルス様に、私は涙を堪えるのに必死だった。
そもそも釣り合っていなかった、そう考えると自然と納得できた。
食事を終え、お店を出てすぐ。日もまだ明るいうちに私は馬車に乗り込んで帰路に着いた。
小さく手を振るエドルス様は相変わらず無表情だった。
何を考えているのか分からない人だったけれど、辺境に住む私からすれば王都でエドルス様と話す時間はとても充実していたし、幸せだった。
実際、それも私の片思いで終わったけど。
——もう会うことないのだろうか。
「最後くらい笑ってくれてもよかったんだけどなぁ……」
エドルス様の姿が見えなくなるほど遠く離れた馬車の中、私は目を伏せて御者にも届かない声音で小さく呟いた。
家に着く頃には日は落ちかかって、外は薄暗くなっていた。
屋敷に到着すると、私は自室へと走った。
ルオにも、父上にも合わせる顔がなかった。
寝台の中央に置かれた巨大な魚のぬいぐるみ目掛けてジャンプする。幼少期によくやった遊びだ。
ホツレが酷くなり始めてからは我慢していた遊びだけどホツレは今のところ見当たらないし、久々だからいいよね。
それよりも今はぬいぐるみを抱きしめて安心したかった。
ぬいぐるみに顔が沈んだ瞬間だった。
扉をノックする音とルオの声が聞こえてきた。
「お嬢様」
「……なに、ルオ」
「入っても?」
「嫌よ」
そんな会話をしたというのに、ルオは入ってきた。
ルオは部屋の周囲を見渡したあと、やれやれといった表情で首を横に振るのが枕の隙間から見えた。
「エドルス様とお会いしたあとはいつも荒れていますが、今日は特段と荒れてらっしゃいますねお嬢様。いつもはさながら草原を荒らす精霊でしたが、今日は村を荒らす嵐のようです」
「なにそれ! どっちも悪口にしか聞こえないのだけれど!」
「えぇ、悪口ですよ」
ゲンコツをしようとしたけど、足に力が入らず立てないので断念した。
ルオとはもう十年近くの仲になる。私の態度から色々察して、不器用なりに元気づけようようとしてくれているのだろう。
でも今はその優しさが、私の心の傷口に沁みる。
「私、何か間違えたのかな」
「心当たりが?」
「ない! まったくない! だから困ってるのよ」
婚約破棄を言い渡すために、今日わざわざ時間を割いて会ってくれたのだろうか。
でも、対面すれば揉め事も多くなるからと、最近婚約破棄のやり取りは書面の方が多いと聞いたことがある。
「今日はどちらへ」
「王都のレストランよ。エドルス様が予約をしてくれたの」
「そこで何か話されたのですか?」
「まぁ、普通に世間話よ? エドルス様のお仕事とか、私の趣味の話とか」
「そのときに異変のことを話した覚えはありますか?」
「あるわけないわ! ポロッと出そうで怖いから意識しながら話していたもの」
いっそ話したらどうなっていたのかな。
婚約破棄を告げるのは延期して、私の悩みの解決の手助けをしてくれたり……さすがにないか。
「とりあえず考えても分からないし、今日は早く寝るわ」
「夕食のご用意は?」
「いらない、三日間くらい食べるつもりないから!」
「分かりました、お嬢様」
「冗談に決まってるでしょうが、ルオ!」
そんな冗談を挟みつつ、ルオが部屋を出ようとした時。
私はルオを呼び止めた。
「お父様にはまだ、内緒にしておいて」
「いいのですか?」
「うん、せめて私の心が整理できてから話す」
「承知しました」
パタン、と扉が閉じた。
ふぅ、と深呼吸して私はぬいぐるみを抱えながら目を瞑った。
やっぱりこれが一番落ち着く。
眠気なんてなかったはずなのに、ぬいぐるみを抱くと安心できた。
私はそのまま眠りについた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
朝、目が覚めた。
早く眠ったおかげで、起床は快適だった。
腕の中にはぬいぐるみもいる。
見たところ異変もない。
だが部屋の所々に起きることもある。
最近は起床したあと部屋の周囲を見ることが私のルーチンと化していた。
「っ——!」
そうして、部屋を見渡した時、部屋の中心に見慣れない物体があることに気がついた。
——人らしきものが、こちらを向いて土下座している?
額を床にこすりつける、その姿をに思わず私は口を手で覆った。
部屋に突然現れた魔物か、あるいはこいつがここ数日間私を怯えさせていた異変の正体ではなかろうか。
じっ、と。
ぬいぐるみの影に隠れて、私はそれを目視した。
そして気付いた。
綺麗にこちらを向く頭部から伸びた、青みを帯びた長い髪に見覚えがある。
その見慣れた髪色に、私はその人の名前を無意識に呼んだ。
「……エドルス様?」
「……あ、起き……ちがうな」
私の声に驚いたエドルス様は顔を上げ、その赤い瞳に私を映した。
でも、すぐにその頭をまた床につけてしまった。
チラッと、一瞬見えたエドルス様の額は真っ赤になっていた。
「レリア嬢、すまなかった」
「な、なななな! やめてくださいエドルス様!」
寝起きということもあるけど、この状況は頭が冴えていても処理しきれない一大事だ。
爵位でも上の立場のお方が、額を床につけて土下座している。
しかも相手は、昨日私に婚約破棄を言い渡した婚約者。厳密には、元婚約者という方が正しいのかな……?
それはさておき。どちらにしても、ここ数日間の異変の中でも群を抜いて意味不明だった。
「本物、ですか?」
「あぁ、僕の気持ちは本物だとも」
「あ、いや、エドルス様自身が本物かどうかです」
今も尚、床に這い蹲っているエドルス様が異変ではないかどうか。
正直、本物でも異変でもどちらにしてとすごく怖い。
「立ってみてください……」
「分かった。土下座してほしい時はいつでも言ってくれて構わない。誠心誠意、君に謝罪しよう」
「土下座してほしい時なんてありませんから!」
もはや偽物だと言ってくれ、と願いながら、私はエドルス様を見つめた。
品定めをするような、いやらしい視線だったと我ながら自覚してる。
「本物、みたい……」
立ち姿とその端正な顔立ちは、記憶にまだ鮮明に残る昨日のエドルス様と全く同じだった。
青い髪と赤い双眸。首元に見える戦いでついたであろう、痛々しい一生傷もしっかりあった。
その綺麗な立ち姿は、偽物だと疑う私を否定するかのように美しかった。
厚手のカーテンの隙間から差し込む淡い光が、床の木目をぼんやりと照らし、空気には冷えが残っていた。
いつもなら、ぬいぐるみの温もりに安心して深呼吸する時間だ。
けれど今朝は、それどころではない。
「もちろんだ。これは夢でも幻覚でもない、私は誠意を持って君に謝罪しに来たんだ」
「そこが理解できないんです! 本物っていうのは納得できましたが、なんで土下座してるんですか!」
真面目なエドルス様だ。おそらく昨日の少し乱暴に思えた婚約破棄で思い詰めてしまったのかもしれない。
婚約破棄のことなら別に謝ることではない。未練は沢山残っているけど、多分私が悪いから納得できている。
「……レリア嬢は覚えてないのか? 昨日のこと」
だけど、私の言葉にエドルス様は驚いた表情を浮かべている。
「昨夜、のことでしょうか? 覚えているも何も、昨日は屋敷に戻ってきてからはすぐに寝室へ行き、部屋に来た使用人と少しだけ話してから……そのあとはすぐに寝ましたよ?」
私は寝台の端に腰を下ろしたまま、魚のぬいぐるみを抱き締める。
昨夜の記憶を辿ろうとしても、眠りに落ちたところで途切れている。
「覚えてないんだな」
「申し訳ありません、何も……」
「そうか」
いつもと変わらない表情だったが、その短い返事はどこか寂しそうな声色を含んでいる。
失望や怒ってる様子はない。首を傾げたエドルス様は珍しく唸った。
「わたし、何かしちゃいましたか?」
「記憶がないならこれを君に言うべきどうか……」
『記憶が無くなる』といった現象に、ここ数日私の身に起こった異変が脳裏をよぎった。
言われてみれば、それらは全て私が寝てから起床するまでの睡眠時間に起きている。
だからエドルス様が言う昨夜の記憶が私の中にに存在してないのは、きっとそのせいかもしれない。
「何をしたのかはごめんなさい、心当たりはないんですけど、その最近私が寝ている時に色んなことが起こるみたいで……」
「ほう、色んなこと?」
「内容はあれですけど! 使用人曰く、夢遊病の一種ではないか、と。だから、私が何をしたか教えてもらえるなら……」
「そういうことなら——レリア嬢、夜中に僕の屋敷に君がやってきたんだ」
「え」と思わず声が漏れた。
エドルス様がこの期に及んで嘘をついてるはずもない。
逆に言えば、私が最近悩まされている異変にエドルス様を巻き込んだ形だ。
謝罪するのはどう考えても私の方だ。
そう思って急いで頭を下げると、エドルス様の方向から笑い声が聞こえてきた。
初めて聞いたエドルス様の笑い声だ。
「頭を上げてくれ、レリア嬢。確かに君が来た時は驚いた、数刻前に君が乗った馬車を見送ったばかりだったからね」
「あのあと、ちゃんと屋敷まで帰ったんですよ……」
「あぁ、そこは疑ってないよ」
エドルス様の表情が、心なしか柔らかくなった気がした。
「外も暗いから追い返すわけにもいかないからな、そのまま屋敷に入れたんだ。すると、入ってくるなり君は『エドルス様を愛してる』と叫んでね。てっきり酔ってるのかな、とも思ったんだが、話すと別に普通で……」
「嘘です、よね……?」
「僕もすごく疑ったよ、これは夢ではないのか、と」
あまつさえ、私は婚約破棄を言い渡された身。
だというのに、夜中にその元婚約者の元へ行き、屋敷へ侵入するなり叫ぶなんて……。
真に土下座をするべきは、私ではないの? いや、するべきよね。
そう思い立って、寝台の上で土下座の体勢になろうとした私を、エドルス様は止めた。
「——嬉しかったんだ」
「え?」
「昔から僕は自分に自信がなかった。君との縁談も喜んで引き受けたが、本当に君を幸せにできているのか分からなかった」
「私はすごく幸せでしたよ!?私の日常の中でも、エドルス様と王都で会うのは一番の楽しみでしたし!」
「あぁ、昨日の君はそれも熱弁してくれていたよ」
「え? どこまで言ってました?」
「ええと、全部」
全部、とはどこからどこまでを含められているのだろう。
いつも具体的に話すエドルス様が、目を逸らしながら顎を撫でている。
「僕の勝手な勘違いで君に一方的な婚約破棄をして、愛する人を悲しませてしまった。それが僕が犯した大罪だ。土下座じゃ許されないと分かっている……」
「少し大袈裟かもですけど……でも、それってつまり婚約破棄は……?」
「君がもし僕を許してくれるなら、ぜひ撤回をお願いしたい」
考える間もなく、私はエドルス様の言葉に即答した。
「もちろんです!」
そこから、私の日々は大きく変わった。
エドルス様と暮らすため、父上からもらったぬいぐるみと共に王都へと移った。
不思議なことにエドルス様土下座事件以降、ぬいぐるみが勝手に座ったり、縫い目が勝手に直ったりすることはなくなった。
代わりに、別の“異変”が私——ではなく、二人の日常となった。
「昨夜のレリアは、すごく甘えん坊だったよ」
「い、いちいち言わなくて大丈夫ですっ!」
朝食の席で、エドルス様は平然とそんなことを言う。
騎士らしく背筋を伸ばして、紅茶の香りの中で。
——まるで戦果報告でもするみたいに。
「だって事実だろう? 無意識とはいえ、僕に甘えたい君がいるのは」
無表情に見えるのに、目だけが妙に楽しそうで腹立たしい。
私は頬を熱くしながらパンをちぎり、視線を逸らす。
……恥ずかしい。
けれど、嫌じゃない。
『好き』は、事実だ。
夜の私が先に暴露しただけで、昼の私だって同じ気持ちを抱えている。
だから私は、意趣返しのつもりで——少しだけ勇気を出す。
「愛してますよ、エドルス様」
「ぶふっ」
噴き出す音がして、私は顔を上げた。
咳き込みながらも、彼の耳は真っ赤だ。
その赤が、朝の光に透けて、妙に綺麗で——胸がくすぐったくなる。
夜の私相手にしか言われ慣れていないのだろう。
こうした不意打ちが効くのは、今の私の小さな楽しみだ。
「……今のは」
「事実です」
私は魚のぬいぐるみが待つ寝室の方を、ちらりと見た。
今夜もまた、少し素直な私が現れるのかもしれない。
謎は謎のままだ。
けれど、彼が笑うなら、当分先まではそれでいいかもしれない。
——だって、私は本当にこの人を愛しているのだから。
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