第80話・荷物の重さ
暗闇は怖い。落下は怖い。不安は怖い。
なんでかって?
恐怖を持たない生物は、すぐ死ぬからだ。
怖がるとは危険に敏感という事。だから危険を避けられる。
脳を持たない生物には無い、最悪の未来を感知して事前に回避する為の特殊能力。それが恐怖。
だから怖がる事は生物としては強い。
怖がって逃げる選択を取れた生物だけが遺伝子を残せた。
だから子孫も闇を怖がる。怖がりの遺伝子を受け継いでいく。
でも時には、恐怖を越えて命を差し出すことに、躊躇を感じなくなる時がある。
大切な者を守る時だ。
命を賭して妻を守る。子供を守る。
その勇気は淘汰されない。
次世代の命を守るのは、生物として強い行動って事だ。
ノリコは僕のかわりに死んだ。
僕はマンホールの暗闇の中を落下している。
怖かった。でも迷いなく飛び込んだ。
腕の中にはノリコの遺体。守る命は既に無い。
連れてること自体がリスク、生物的に間違えた危険行動。
それでも、彼女を抱えて恐怖に向かうはずの僕の心の中に、恐怖が湧き出せる隙間など微塵も無かった。
「どこまで落ちるんすか……これ!!」
マンホールは縦一直線に続く、一秒が何十秒にも感じる深い穴だ。
だがやがて緩やかにカーブを描きはじめた。尻がつき滑り台になりはじめ、土管の壁面についた水滴がズボンや下着にまで染み込んで来る。
まるでウォータースライダーのようだった。
「うわっ!!」
そして真横になるところで、体が空中に投げ出されて、柔らかいマットの上に背中からめり込み、ホコリのくすんだ白が爆煙のように広がった。
ノリコの身体が僕の上に折り重なって、肺の空気が全て絞り出される。
「ケホッ、ケホッ」
広いマットだけがある部屋だった。頭に乾いたマットの感触。ズボンはビチャビチャ。目を細めると薄暗い裸電球一個に照らされて、ホコリがキラキラと不規則に動いている。
上体を起こした。
壁には他にも穴が空いており、チョロチョロと細く水が流れ出て、その通り道に黒いカビが生えている。とにかくかび臭くて埃っぽい部屋だった。
「相当緊急じゃないと、使わない部屋ってことっすかね」
僕はすぐにノリコの身体を確認する。
足と髪に白いホコリが着いていたので手で軽く払い、アゴを突き出す形になった頭を、自分の肩に寄りかからせる。
「すみませんっす、ノリコちゃん。今の自分はネオさんの指示に従うだけで、精一杯だったっすよ」
返事はない。
でも安らかに目を閉じたまま動かなくなったその顔が「よくやったぞ」と許しの言葉をかけてくれているような気がした。
マンホールの脱出口からは、遠く響くように爆発音や金属音が響いていた。僕はそっとノリコに貰ったゴーグルをはずし、頭にずらした。
「ネオさん、ありがとうございます。無事でいてくれるって、信じてますから……」
小さくつぶやく。
「E4ポッドで脱出っすよね」
マットから降りるとすぐに薄暗い通路がある。
その天井の低い通路を抜けると、大きめの部屋に出た。
そこには卵型の脱出ポッドがいくつも並び、むき出しのポッドとモノレールが、色々な天井の穴へと向かっていく、ターミナルのような構造だった。
その中に大きく、E4と書かれた案内板が張られており、ネオさんの指定したものがそれだとすぐに分かった。
「あ、あそこから……」
その時気付いた。そのポッドの目の前に人影がある。
「誰……!!」
僕は一瞬、身がすくんだ。
しかし僕の声に反応して人影が振り向いた瞬間、その目つきの悪さで、すぐに誰か分かった。
低い身長に、緑髪に、メイド服。
「デフィーナさんじゃないっすか!! よかった、無事だったんですね!!」
彼女は僕たちが逃げる際に、基地に残ってジャスティスの足止めをしてくれた。
僕が助かったのは彼女のおかげに他ならない。無事を安心して駆け寄ろうとすると、デフィーナは冷たい視線を静かに向けた。
「だるいわね、ゴミクズ。まだ生きてたの?」
僕は素直に感謝を口にしようとしていた。『助かりました。危険なジャスティスとの引き受け、ありがとうございます』と言おうと思っていたが、そのあまりに冷たい一言の前に唖然としていた。
「まだ生きてたって、なんすか……」
デフィーナは目を反らしてモノレールを見つめると、独り言の吐き捨てのように言い始めた。
「そのままの意味でしょ、ジャスティスが私を無視して追っていったから、あれで死んだと思ってたのに」
「なんでそんなこと言うんすか、デフィーナさん、助けてくれたじゃないっすか……」
「見えてる範囲で起きてる事は対処しろって、命令を受けてただけよ」そう言って今度は首だけ曲げて僕の目を直線で睨んだ。
「見えない範囲で死んでくれていればね。面倒が減ったわ」
「ああ……?」
マジで言ってんのかコイツ。という感情しか湧いて来なかった。
しかしそんな毒舌を吐きながらも、視線は一切ずらさないしブレが無い。本心で言ってると思わざるを得ない発言に絶句していた。
僕が歪んだ顔のまま沈黙していると、デフィーナはノリコを指さして言ってきた。
「それは何?」
「それじゃないです。ノリコさんです。ジャスティスに追われて逃げる途中で、後ろから撃たれて」
「死体なのは見ればわかるわよ。なんで死体を持ち歩いているのか? って聞いてんのよ」
「ノリコさんは、大事な人なんです」
そう言うと、露骨にデフィーナの顔が苛立ちの顔に歪んでいき、歯茎を見せるほどに歪んだ口から憎悪の言葉が染み出して来た。
「それがアルハの代わりって事? 彼女がいないと戦えもしないゴミクズだから、女の死体を持ち歩いてるって事? まったく、どうしようもなく気持ち悪いわね」
「……はあ?」
それはあまりにも冷たい言葉だった。
冷凍庫から取り出して冷気を纏った包丁のような、殺人的な瞳で僕の視線を振るわせて、少ない口の動きから放たれた、人の心を一切感じない一言だった。
「お前ちょっと、いい加減にしてくださいっすよね?」
正直、我慢ならなかった。
デフィーナは僕の事を侮辱したんだろう。しかし、それ以上にノリコの死を侮辱されたように感じてしまったからだ。
あまりの怒りに、僕は踏み出していた。背の低いデフィーナを、ほぼ上から見下ろしていた。
手が空いていたら、手を出していただろう。それほどに憎たらしかった。
ただ僕の両手はノリコで塞がっているし、デフィーナのブーツに靴が当たるかという所で、ノリコの頭が僕の頬にぶつかった。
その温度の無い頭髪が『やめなよ』と言ってる気がして、一歩下がった。
一歩下がってデフィーナの全身が視界に入ると、デフィーナは既にトランクを使って人を殺すときの構えに入っていた。
「なに、いい加減にして欲しいんでしょ、かかってくれば?」 デフィーナが挑発するように睨んでいる。
彼女が言っていた言葉を思い出した。『かかってくれば、八つ裂きにしてあげるわよ』
コイツは挑発して僕を殺す為の大義名分を作ろうとしてるんだ。
デフィーナが僕を殺さないのは、サザナさんから停止を受けているから。本当にそれだけ。
今ここで彼女のドグマ開放、メスの触手を振り回すシスターズネイル。あれを使う口実を与えていたら、僕の命はここで終わっていた。それをその視線だけで思い知らされる。
シューン、キン。
その火花に蓋をするかのように、ポッドが降りてきてハッチがひらいた。
デフィーナは視線を僕からポッドの座席へと移し、しばらく黙って眺めていた。
その姿を見て、ネオさんに同じ退路を指示されたんだと気付く。
するとデフィーナはポッドの正面から左にずれて、操作ボタンの脇に立ちなおした。
そして再度僕へと冷めた目線を送って来る。
「E4行きなんでしょ、さっさと乗りなさい」
デフィーナは抑揚なくそう告げた。
譲られた?
寸前まで死ねだの、ガチ殺しをしようとしていたくせに? この女に席を譲られた。その行動の変化は僕が理解できる常識から飛び出していた。素直に譲って貰おうと思わなかった。
「デフィーナさんの方が、先に待ってたんじゃないんすか」
彼女は構えていたトランクを片手でチラッと持ち上げて見せてきた。
「そっちの方が荷物が重いでしょ、私のはこれだけだし」
「でも順番……」
「だるいわね、早くしてくれる? 待ってんだから」
追うようにデフィーナの催促。
言いたい事はあったが、今は意地を張ってる時間もない。大人しく順番を譲ってもらうことにした。
僕はノリコに衝撃を与えないように、ゆっくりとポッドのシートに腰を下ろした。そしてノリコの足をたたむように支えなおす。
そして深く息を吐いてから、デフィーナを見上げた。
「落ちついたら教えてくださいっすよ、なんで僕に死んで欲しいのかとか、なんでアルハの事知ってんのかとか……」
「どうでもいいでしょ、どうせ死ぬゴミクズに教えるの、だるいのよね」
デフィーナは迷わずポッドの起動スイッチを押した。ポッドの扉が閉まりかける。
その瞬間、ノリコの身体が扉に引っかからないように、右腕を前に出してノリコの身体に重ねた。ちゃぶ台と化したドグマ、秘密の食卓の盾がノリコの背中を覆うように被さる。
その時、デフィーナが食卓の存在に気がついた。
ポッドが閉まり切る最後の一瞬だけ、無表情に凍っていた彼女の唇が一瞬だけ溶けた。笑うでもなく、驚愕するでもなく、ただ小さく開いて反応をしていた。
「ドグマ動いたんだ。へぇ」
ガシャン。
僕はその顔を見上げていた。デフィーナが初めて僕に関心を見せたような表情だ。二人の間を遮断するようにポッドが閉まり、一瞬だけ見えたその顔は、扉の向こうに消えて行った。
ノリコの背にかぶさる食卓は、ノリコと二人で夜食を食べ、語り合い、おにぎりを分けたあの夜の再現。誰にも汚されたくなかった僕たちの絶対の聖域。
この変形はデフィーナのドグマ開放をヒントにしたから発現することが出来た。
彼女はドグマを変形させて武器に出来る物だって知っていた。最初からずっと知っていて使いこなしていた。その上で僕には何も教えなかった。
知ってるなら、戦えないクズだなんて罵るよりも、ドグマの使い方を教えてくれたら良かったのに。僕が戦えたら、もっと違う結果があったかもしれないのに。
アルハもそうだった。『すぐ死ぬセミに教えるのがだるい』とか言ってた。
だるいってなんだ? 『どうせ死ぬゴミクズ』ってなんだ?
デフィーナの中では僕が死ぬのは決定事項なのか?
人が死ぬというのに、それを知ってて全部が手遅れになってから説明をしだす。
腹の中では渦巻く謎と怒り。胸の中には冷えたノリコの身体。
その背中に腕を回しながら、静かにポッドは上昇していった。




