第5話・血の聖戦の宣誓
平穏な日常は、終了した。
理想の天使さんが空から降りて来て、僕の手を握って見つめてくれる。
『天使さんと一緒に帰ろうね』と誘ってくれている。
空には世界の終わりを告げるような、漆黒のピラミッド。
それがどこまでも続く島のように、太陽を覆い隠している。
天使さんの瞳は純白のまつ毛に覆われた真紅の瞳。
その慈愛に満ちた眼差しが、ここまで溜め込んでいた僕の不安を全て包み込んでくれそうだった。
僕はずっとずっと、帰りたいと願っていた。
この暑い中、遠出の買い物をしてきたからでは無い。
ヒメガミさんと会話して、学校に誘われたからでも無い。
天使さんが現れて、帰してくれないからでもない。
ずっとだった。
自分の部屋に帰って鍵をかけた時も、ベッドで寝ころんでスマホをいじっている時もずっとだ。
もっと帰りたい。
どこまでも帰りたいと願っていたんだ。
今日は最高の日なんかじゃなかった。
今日が何かの変わる日でもなかった。
僕の心は帰りたい。それだけだ。
どこへ帰るのか?
分からない。
覚えていない。
僕を特別な場所へ誘う天使さん。
彼女について行ったらどうなるんだろうか。
ピラミッドに連れてかれて改造手術をされるのか。
知らない世界で天使さんを連れて魔法の冒険が始まるのか。
もしかして、イチャイチャしてくれるだけなのか。
「物語」「聖戦」「玉」「アルハちゃん」
天使さんは何も説明してくれない。
存在も行動も不気味だけど、嘘をついているようには見えない。
正直に本気だと宣言して僕を見つめる笑顔には、確かに純粋な愛情だけが満ちていた。
だから僕は足を一歩進め、天使さんに近寄った。
それを女の声が引き止めた。
「待ちなさい」
天使さんの後ろから聞こえてきた、鋭く切り裂くような声。
僕は天使さんの白い肩越しに首を伸ばし、向こう側を覗いて見る。
そこに居たのは僕と同じ高校の夏制服を着た女子だった。
黒いショートボブに、赤い髪留め、低めの身長。
その瞳は血に濡れたナイフのように攻撃的で、こちらを睨んでいる。
「あんたアホなの? いま、天使について行こうとしたわよね?」
突然の登場と、突然の罵倒。
もちろん僕はこの女子のことも全く知らない。
すると天使さんがぴょこんと跳ねて振り返った。
「アルハちゃんだ! アルハちゃんが来てくれたよ! 良かったねスゴミ君!」
「アルハちゃん……この子が?」
アルハと呼ばれた女子、天使さんの口から名前だけ出てきて、前情報は『とっても可愛いんだよ』のみ。
確かに顔立ちは整ってるが。
「だるいわね、あんたアホすぎて嫌気がさすわ。いいから、さっさとこっちに来なさい。」
そのストレートな罵倒と命令。
怒りと倦怠感以外の感情を感じさせない冷酷な表情。
それは僕の思う『可愛い』とは程遠い態度だった。
しかも説明は一切してくれない。
もはや僕のストレスは限界に達していた。
「いきなり出てきて、なんですか!? あなたの方こそ誰なんですか!!」
僕の怒りの質問に対して、アルハは僕を睨みつけ、腰に手をあてて、舌打ちをしてから答えた。
「チッ……アルハよ」
「はい」
その答えに息を飲む。
天使さんが言ってた意味不明な言葉の数々。
アルハちゃんが説明してくれるよと言う言葉。
この混沌を解決する糸口が……
「答えたでしょ、さっさと来なさい」
何も進まなかった。
「名前だけじゃないっすか! そういう事じゃ無いんすよね! あなたは僕の何で、何をしに来たのかって、そういうのを聞いてるんです! この天使さんは何? 二人はお友達なんですか!?」
困惑で衝動的に感情が爆発した。
それでもアルハは不機嫌な態度を崩さない。
「私が味方で、天使は敵よ。どう見てもそいつ普通じゃないでしょ、そんな事も分からないなんて、本物のアホね」
もっともだ、ピラミッドから来て、いきなりフェンスの上に立ってて、今だって天使さんの翼は陽光を乱反射している。
しかし……
「いや、全然分からないっすよ!! 二人とも初対面で敵も味方もないでしょ!?」
正直なところ、超巨大ピラミッドという超常現象をみて、天使さんという小さな非現実を受け入れそうになっていた。
それに対して学生服のアルハはあまりに現実的。
不思議な夢を見てる最中に、蚊の羽音で起こされたような、酷く不快な寝覚めだ。
天使さんについて行くのがアホの判断。
そんなことは分かっていた。
だから必死に帰ろうとしていた。
分かっていたつもりだった。
ただ、帰れなかった。
願いが叶って天使が降りて来て、追い詰められていた。
それしかないかもって、思ってしまったんだ。
僕がアルハに注目していると、握っていた天使さんの手の感覚がなくなっていた。
顔を引くと目の前にいた天使さんが消えている。
振り向くと彼女は最初にいたあたり、後方4メートル先に瞬間移動して戻っていた。
「天使さんはね! スゴミ君とたくさんお話し出来て、嬉しかったなあ。それじゃあ、アルハちゃんが来てくれたから、始めるね!!」
「始めるって、なにを……」
「天使さんはね、君の物語の聖戦を始めに来たんだよ!!」
その瞬間───
彼女を中心に空気が弾けた。
風とは違う。何か圧倒的な体積が空間に割り込み、風呂から水が溢れるように、世界が一歩押し出されたような感覚がした。
天使さんの足元のアスファルトが、隕石でも落ちたように円形に吹き飛び、地面が砂利になっていた。
僕は反射的に半歩だけ身を引いたが、緊張で硬直して、それ以上は動けなかった。
天使さんは襟元から、医療用のメスを取り出して、両手でそっとすくい上げるように差し出した。
メスはふわりと宙に浮き、白銀の光を帯び始める。
まるでそれ自体が意志を持ったかのように見えた。
そして彼女は詠唱を開始する。
「紅に染みて堕ちたる羽よ。
砕けし夢に錆びたる盾よ。
いま重なりし愛の咎。
誓いの標となりたまえ」
その言葉の終わりとともに、手の上のメスは磁力を得たかのように彼女の心臓を指し示し、レールガンのように宙を滑り……
その胸元へ突き刺さった。
「ええ!? 何やってんすか!!」
血飛沫が糸のように噴き出した。
天使さんの胸から弧を描き、血液はそのまま空中に浮かんで震え、螺旋を描いた。粒子が集まり収束し、ひとつの光になる。
それは、剣。
血液でできた、ガラスのような深紅の刃が完成していた。
中には銀色の筋が血管のように広がっている。
彼女がそれを軽やかに振るうと、ブォン、と空を裂く音と共に風が吹き抜けた。
一帯の砂利と砂ぼこりが吹き飛び、触れてもいないアスファルトが切断され、天使さんの足元にスタートラインのような直線の傷跡を残した。
「さあスゴミ君! 天使さんとの聖戦の、始まりだよ!」
「聖戦って、まさか本当に戦いの意味だったんすか……!? 勝手に始めないでくれますか!?」
天使さんは、正直に真面目に本気と言っていた。
その上で聖戦って言って剣を出したんだとすると、この天使は狂ってる。
しかしその表情は変わらず、愛情を持つ者の微笑みでしかなかった。
剣の軌道の空気が歪んで光が拡散して、割れた空気が虹のようになっている。その剣の軌道に触れたら最後、体に重篤な何かが起きそうなのは明らかだった。
「スゴミ!! 来るわよ、早く下がりなさい!!」
後ろでアルハが叫びあげた。
これから起こる事は戦闘。
それなら逃げないといけない。
それは頭では分かってる。
「スゴミ君。天使さんはスゴミ君の事を、信じているからね!!」
足が動かなかった。
まるで溶けたアスファルトに沈んで固められたかのように、ぴくりとも動かなかった。




