第5話・血の聖戦
僕の平穏な日常は、完全に崩壊を始めた。
理想の天使さんが現れて、手を握ってくれる。
『二人の場所へ一緒に行こう』と誘ってくれる。
空にはこの世の終わりを告げるかのような、漆黒のピラミッド。
白いまつ毛に覆われた、透き通る赤い瞳、慈愛に満ちたその眼差しが僕の不安を全て包み込んでくれそうだ。
―――僕は現実が嫌いだ。
ずっと逃げ出したいと願っていた。
自分の部屋に帰っても、ベッドで寝ころんでも、帰りたい、もっとどこまでも帰りたいと願っていたんだ。
この天使さんについて行ったら、どうなるんだろう。ピラミッドに連れてかれて改造されるのか。知らない世界で冒険が始まるのか。
「物語」「玉」「アルハちゃん」
……天使さんは何も説明してくれない。
不気味な存在だけど、嘘をついているようには見えないし、僕を見るその瞳は、確かに純粋な慈愛に満ちていた。
この現実から抜け出せるなら、僕は──
スゴミは引いていた体を一歩進め、天使さんに歩み寄った。
「天使さん、僕はいったい、どうなるんですか?」
その時だった。
「待ちなさい。」
鋭い女の声が、天使さんの後ろから聞こえた。
その白い肩越しに覗いて見ると、同じ高校の夏制服を着た女子が立っている。黒いショートボブに、低めの身長。鋭く赤い目は、血に濡れたナイフのように攻撃的だった。
「あんたアホなの?今、天使について行こうとしてなかった?」
突然の登場と、いきなりの罵倒。
もちろん、この女子のことも全く知らない。
目の前の天使さんがぴょこんと跳ねて、振り返る。
「アルハちゃんだ!良かったねスゴミ君!アルハちゃんが来てくれたね!」
「アルハちゃん……この子が?」
「だるいわね、アホすぎて嫌気がさすわ。いいから、さっさとこっちに来なさい。」
アルハと呼ばれた少女は、罵倒と命令ばかりで、説明は一切ない。もはやストレスは限界に達していた。
「いきなり出てきて、なんですか!? あなたの方こそ誰なんですか!」
アルハは僕を睨みつけ、舌打ちをしてから答えた。
「……アルハ。」
「はい。」
その答えに息を飲む。この混沌を解決する糸口が……
「答えたでしょ、さっさと来なさい。」
何も進まなかった。
「名前だけじゃないっすか!違うんですよ!あなたは僕の何で、何をしに来たのかって、聞いてるんです!この天使さんは何?二人はお友達なんですか!?」
困惑で衝動的に感情が爆発した。それでもアルハは、抑揚なく不機嫌な態度を崩さない。
「私は味方で、天使は敵よ。見れば分かるでしょ、本物のアホね。」
「分からないっすよ!二人とも初対面で、敵も味方もないでしょ!?」
僕の目には、アルハだけが映っていた。非現実を受け入れそうになっていた自分に対し、学生服のアルハはあまりに現実的。不思議な夢を見てる最中の、寝耳に水、酷く不快な寝覚めだ。
天使さんについて行くのが、アホな選択だってのは、そんなことは分かっていた。分かっていたつもりだった。ただなにか変わるかもって……
アルハに注目していると、握っていた天使さんの手の感覚がなくなっていた。顔を引くと、目の前にいた天使さんが消えている。振り向くと、彼女は最初にいたあたり、後方数メートルの位置に移動していた。
「天使さんはね!もっとスゴミ君とお話したかったなあ!でも、アルハちゃんが来てくれたから、始めるね!!」
「始めるって何を……」
その瞬間───
彼女を中心に空気が弾けた。風とは違う。何か圧倒的な体積が空間に割り込み、世界が一歩、押し出されたような感覚がする。その足元のアスファルトが円形に吹き飛び、地面が砂利になっていた。
スゴミは半歩身を引いたが、硬直してそれ以上は動けなかった。
天使さんは襟元から、医療用のメスを取り出し、両手でそっとすくい上げるように掲げる。メスはふわりと宙に浮き、白銀の光を帯び始めた。まるで意志を持ったかのように。
そして彼女は詠唱する。
「紅に染みて堕ちたる羽よ、砕けし夢に錆びたる盾よ。
今、重なりし愛の咎、誓いの標となりたまえ」
その余韻を断ち切るように、メスは持ち主の心臓に向き返り、一直線にその胸元へ突き刺さった。
「ええ!何やってんすか!!」
紅い飛沫が舞う。だが血は地に落ちず、空中に浮かんで震え、螺旋を描いた。粒子が集まり収束し、ひとつの光になる。
───それは、剣。
本人の血液でできた、ガラスのような深紅の刃。
中には銀色の筋が、血管のように広がっている。
それは明確な殺意の結晶。
彼女ははそれを軽やかに振るうと、ブォン、と空を裂く音と共に風が吹き抜けた。一帯の砂利と砂ぼこりが吹き飛び、触れてもいないアスファルトが切断される。
「さあ、スゴミ君!天使さんとの聖戦の、始まりだよ!」
「聖戦!!?まさか本当戦いの意味……? 勝手に始めないでくれますか!?」
剣の軌道の空気が歪んで光が拡散し、割れた空気が虹のようになっている。その剣の軌道に触れるだけで、体に重篤な何かが起きそうなのは明らかだった。
「スゴミ!早く下がりなさい!!」
後ろでアルハが叫んでいる。
逃げないと行けないのは、頭では分かってる。しかし、足は溶けたアスファルトに沈んだかのように、ぴくりとも動かなかった。