第28話・それが及第点
無数に重なる、蜘蛛の足のような漆黒の爪が
ヒクヒクと痙攣しながら傾いていく。
赤の血液と、黒の粘液を噴き出しながら
病院の天井に届く程の大きさのバケモノが倒れていく。
その胴体、人間の遺体を晒し上げにした
爪の広がる支点の部分が大きく削り取られ、月光に照らされていた。
それを見て僕は驚愕した。
「これ、僕がやったんすか……?」
アルハは腕の中でお姫様だっこの姿のまま無防備だった。
気怠そうな顔をしたままで、無感情で答えた。
「まあ、及第点って所かしらね。」
バケモノが床に倒れ、散ったガラス片を踏み割り、埃をまき散らした。
「これって僕のドグマが覚醒したみたいな感じですか……?」
「玉が無いじゃない、あなたのドグマじゃないわ
ドグマはこの病院の上の階にあるのよ。」
「そうっすか…」
どうやって倒したのか、僕は幻覚の中にいて見てなかった。
詳しく聞いておきたいが、今は……
「ヒメガミさんだ! ヒメガミさんを探さないと……!」
一階へ降りてくると、そこは広い待機ロビーだった。
あたりを見渡して痕跡を探していると、アルハが口をはさんだ。
「ねえ、済んだから降ろしてもらえるかしら。」
「あ、すみません、ありがとうございます。」
アルハを抱っこ状態から床に立たせると
乱れた服や髪を整え始めながら言った。
「気を付けなさい、説明すると長くなるけど
さっきのは特定条件よ。ドグマが無ければ
私達は一般人と変わらないわ。」
「分かりました、それについては
また後で詳しく教えてください。」
僕は前に出てさらに注意深く周囲を観察する。
すると病院玄関へと向かう途中の天井に、丸い穴が空いていた。
おそらくは、ネオンさんが刈り取られた穴。
この敵は動く時に音がしない。敵に気づいた時には死んでる。
しかし僕には明確に一つ力があった、それは確認したい。
「そういえば僕、死ぬときに未来予知みたいなのが見えて……」
それを聞こうとアルハの方へと振り返ろうとした瞬間だった。
後ろから強い蹴りが飛んできた。
それを受けて思い切りのけ反り、尻もちをついた。
「痛っ! って、いったい何が……!!」
振り向いて正面を見て、戦慄が走った。
さっきまで立っていた場所に、黒い爪のバケモノが音も無く出現していた。
真上の天井に丸い穴が空いている、そこから出てきたようだった。
そして数本の足が地面を支え、数本の爪が絡まるようにして人を摘まんでいる。
その敵は既に、爪の中にアルハを捕獲していた。
アルハは頭から血を流し、腕の骨が折れている。
視線を向け掠れた声でしゃべった。
「うぐっ......油断したわ……逃げなさいスゴミ。」
その一瞬で、僕の感情は恐怖と怒りと混乱がぐちゃぐちゃになった。
「アルハさん!? 今の蹴り、僕をかばって!?」
「さっさと行けって言ってんのよ
あんたが死んだら、私が無駄死にじゃない」
「うわああああ!!なにしてくれてんだよ!このおおおお!!」
僕は立ち上がり、バケモノに向かっていた。
勝算なんてものは無い、衝動だった。
そしてその時に更に気付いてしまった。
バケモノの中心である遺体の晒し上げの箇所に視線を奪われる。
それを見て、更に心がギシギシとひび割れていく。
そこに晒し上げられていたのは、女子生徒。
顔は既に鼻から上が切り取られ、女子の魅力的なはずの肉体を
四方八方からの杭や釣り針の爪で固定して晒し、無惨な姿に変えていた。
「ネオンさん……!! じゃない……」
女子生徒は二階のネオンさんの遺体とポーズが違った。
胸元で拳を握りしめている。
その拳でネックレスを掴んでいるようだった。
―――やめて、やめて、やめて……脳内で否定が繰り返される。
「ネックレスを付けてる......ヒメガミさん……?
え、でも…だって、無いですよ、ノコギリの音一回で……
だって! 他の生徒が来てたとか! ありますよね!
だってそんなの……あったらいけないって…」
バケモノの全体が少し傾き、こちらを向いた。
その動きで握っていたネックレスの鎖がちぎれ
ネックレスを握っていた腕が垂れ下がる。
その拳を目で追った。白く細い指だった。
そこに握られていたものは……
ウサギのシンボルのネックレスだった。
それは僕が夕方に購入して、ヒメガミさんにプレゼントした物
野球部員に潰され、すぐに廃棄されたハズのネックレス。
記憶の糸が繋がるたびに、感情の壺を締め付けて
中身が溢れかえって来る。
「なんでそれ…持ってるんですか……!!」
―――んんっ、いらない......のかなぁ?
「いらないって、いらないって言ったじゃないですか!」
―――ありがとう、スゴミ君……私ね……
ここから逃げる寸前、ヒメガミさんはそう言いかけた。
つけたネックレスを出して、僕に見せようとしていた。
「なんでそれ捨てたのに、拾って付けてくれてるんすか……!!」
涙がこぼれた、あふれ出して止まらなかった。
きっと、あの時、こう言おうとしてくれていた。
―――ありがとう、スゴミ君……私ね……これ貰ったの嬉しかったのよ。
彼女は部室前での一件の後、箱と共に潰されて捨てられた僕の気持ちを
ゴミ箱からそっと救い上げてくれていた。
彼女がそれを見せてくれようとした時、僕は高級ネックレスだと思った。
自分であげたネックレスのチェーンの造形を覚えていなかったんだ。
ネックレスは、ウサギのシンボルが可愛いと思ったから選んだ。
そこ以外なんて見ていない。だから気付かなかった。
「僕、君を疑って……なんにも分かって無くて……!」
ギチギチに締め上げられた感情の壺にヒビが入っていく。
もう感情の制御は止めることが出来なかった。
彼女が何故それを握った状態で殺されたのか……
きっとネオンさんが先に音も無く捕まって
訳が分からず、怖くて祈るようにしてネックレスを掴んでいた。
垂れ下がった彼女の手から、ネックレスが力なく滑り落ちる。
僕はそれを掴みとった。
その一瞬だけヒメガミさんの声が耳の中に響いた。
―――スゴミ君、ごめんなさい。無事に帰って来てね……
僕へのすがりでも依存でもない。その声は祈りだった。
ヒメガミさんを逃がす為に一人で囮として残った僕への祈り。
それを聞いて僕の感情の壺は、バキバキに砕け散った。
溢れ出る涙を受け止める器はもう存在しない。
「あああああああああああああああ!」
「ちくしょう!ちくしょう、このバケモノがああああ!!」
アルハが捕まっている爪にしがみつき、思い切り引っ張った。
「くっそおお! 離せ、離せよアルハさんを!! 守るって!
記憶の誰かも、守るって言ってたのに!!
こんな、こんなのって理不尽過ぎないっすか!!」
しかし、無情にも爪は僕の力ではも全く動かない。
アルハが掠れた声で僕に告げた。
「スゴミ、ダメ、無理よ、私は助からない、あなたまで死んでしまうわ」
「アルハさんだって、自分の事を殺そうとしてたじゃないっすか!!
だったらさっさと、なんかのパワーで出てきてくださいよっ!!」
アルハの目から涙がこぼれ落ち、流れる血に交じっていく。
「ねえ、全てが無駄になってしまうのよ、逃げて。
ドグマの力も無いわ、この敵には絶対に勝てない」
「だってアルハさん、僕が逃げたら殺すんでしょ!
僕は今、逃げてないですよ!!
だからちゃんと逃げないところ見張っててくださいよ!!」
「ダメなのよ……もう……死なないで、死んだら終わってしまう……」
アルハは拘束されたまま、足をねじって僕に蹴りを入れ、突き飛ばした。
ガシャン! 割れたガラスの上に背中から倒れて込んだ。
「アルハさん! 僕は君が死ぬのだって許さ……っ!」
「…………っ!」
そこからの景色は最悪だった。 その光景に言葉が詰まった。
無惨に顔を切り取られたヒメガミさんの遺体と
その脇で捕まり、腕も足も折れた瀕死のアルハ。
「なんで、僕から全てを奪う……! この敵は……!
許せない! ふざけるなっ!!」
「ねえ、スゴミ、あなたは彼女の言う事は聞くんでしょ
私からの最後の指示よ、遂行しなさい。」
そう言ってアルハは目だけをこちらに向けた。