第202話・伝説の始まり。
小学生一年の時のクラスは、三組だった。
伝説を耳にした。
一組には、悪魔が居る。
「シゲル君のランドセルはね、教科書じゃなくてエロ本が入ってるんだよ」
「シゲル君の筆箱の中ってね、全部盗んだ物らしいよ」
「シゲル君がね、六年生の首を絞めて泣かせたんだって」
別に僕が聞いたわけでも、聞きたかったワケでもない。
狭い教室の中で誰かが噂すれば、勝手に耳に入ってくる。
「一組か。一組って怖いんだなぁ」
僕が持ったのは、その程度の感想だった。
小学二年の春、新しい教室になった。
二年生は校舎の二階。
一年生の時は登ることが出来なかった階段を登り、高い景色から校庭が見える。それは新しい世界に飛び込んだようで、成長を実感して、僕はただ浮かれていた。
クラス替えは無かったのに、クラスのメンバーが一人増えた。
シゲル君だった。
初めて見た彼は、鼻をガーゼで覆っていた。
一組で喧嘩をして、学年で唯一クラス替えになったらしい。
まさしく伝説の男だった。
クラスメイトのミーハーは、シゲル君を囲ってはやし立てていた。
でも僕には関係なかったし、関わろうとも思わなかった。
男子は男子とサッカーしたり、箒を振り回して遊んでいた。
女子は女子とノートを囲んだり、可愛いものを比べて遊んでいた。
僕はそういう輪には入らず、一人の友達だけと遊んでいた。
幼稚園の頃からずっと遊んでいて、一年中黒いパーカーとジャージを履いた女の子だった。
誕生日も、クリスマスも、バレンタインも、彼女は僕にプレゼントをくれた。
顔は、パーカーのフードに隠れて思い出せない。
名前も……思い出せない。
小学二年生の五月に、僕は七歳になった。
誕生日の朝は、無敵の一日の始まりだ。
僕が意気揚々と教室に向かっていると、廊下で名前も知らない女子が笑いながら近寄って来た。
「ねぇねぇ!! 黒板にねー、君の名前が書かれてるよっ!!」
なんでだろう、誕生日だから?
そう思いながら入った教室の黒板に、確かに大きく、僕の名前が書かれていた。
『久塚 凄巳』
汚い文字だ。塚の棒の数も一本少ない。
書き慣れない漢字を、無理して見よう見まねで書いた文字。
しかしそんな事より目を引いたのは、僕の名前の横にハート付きの矢印が立っていて、その隣に女子の名前が書かれていた事だった。
相合傘いじり。
相手は僕の唯一の友達のパーカー女子。
小学校で男女が仲良くしてると、ネタにされるアレだった。
でもそんなイタズラも、僕には効果覿面だった。
「な、なんだよ、コレ……!!」
僕は大声を出して黒板消しを持ち、相合傘を消し始めた。
手を伸ばして黒板消しを必死に動かす僕に、横から飛び蹴りしてくる男子がいた。
「本当の事だろーっ! 気持ち悪ぃんだよ、お前らなぁ!!」
シゲル君に初めて話しかけられた、第一声がそれだった。
吹っ飛ばされて転んだ僕を、クラス中が笑っていた。
転んだ視界の端で、パーカー女子がうずくまって泣いていた。
頬に昨日まで無かった、赤い跡がついていた。
蹴飛ばされて転んだ僕は、すぐに立ち上がって両手を突っぱってシゲル君に突撃した。
「お前……てんしさんに、何するんだ!!」
生まれて初めて、他人に暴力を振るった。
パーカー女子としか遊ばなかった僕は、敗北と言うものを知らなかった。
パーカー女子は何をやっても僕より弱くて、ノロマだったからだ。
でもシゲル君は違った。
腕は長いし、蹴りは鉄棒のような痛さだった。
僕は床に押さえつけられて、教室の床に何度も頭を叩きつけられた。
「痛い、痛いよ……なんで、こんな事するんだよ!」
「お前が絡んで来たんだろ、バーカ!! 弱いくせに出過ぎた真似してんじゃねえよ!!」
シゲル君は僕の顔で黒板消しをパンパンとはたいて、顔をチョークの粉まみれにした。
「お前の名前教えろよ! お前は今日から奴隷、俺が王だからな!!」
「やめて、やめてよ、シゲル君……!」
シゲルの取り巻きの褐色男子が、消し掛けの黒板の『久塚 凄巳』をコンコンと叩いた。
「コイツの名前、コレだよ。スゴミって読むんだよ」
「……二番目の漢字、知らねぇやつ」
「ヅカだよ」
「じゃあ……ク……ヅカ、スゴミ……?」
シゲル君はポカンとして考えたのち、僕の顔を黒板消しで床に押し付けた。
「ギャハハ! クヅカ・スゴミぃ? クズ・カス・ゴミじゃねぇーか!!」
僕は「ヒサヅカ」だと言いたかったが、やめた。
既に勝てないことは分かったし、頭は痛いし、口の中はチョークだらけだったからだ。
あの奴隷に生まれ変わった誕生日の記憶が、さっきの事のように蘇る。
ヒグツワに殴られて気を失った僕の意識が覚醒を始めていた。
─── 景色が見えた。
今の僕が教室に立っていて、教壇を前にしている。
クラスメイトは全員居なくて僕一人だけだ。
あの頃目線の高さだった黒板のレールが、腰の高さにある。
巨大に見えていたあの日の黒板が、やけに小さい。
黒板には、あの日に書かれた相合傘があった。
『久塚 凄巳』と、その横に書かれた名前。
♡
/ │ \
白 │ 久
羽 │ 塚
歩 │ 凄
波 │ 巳
『白羽 歩波』
知らない名前だ。
だが、読んでみた。
「シロハネ・アルハ……?」
僕は黒板に両手を着いていた。
「アルハ……って、アルハさんじゃないのか!?」
思い浮かんだのは、ドグマの物語の始まりの日、僕の替わりに天使さんに殺された、黒髪で赤い瞳の支持者だった。
デフィーナと記憶を共有して、今も僕の事をデフィーナの目の中から見ているハズの、あのアルハさんだ。
「アルハ……? 君が、てんしさん!?」
僕は黒板に手形を付けながら、震えていた。
『白羽 歩波』の四文字を、目に焼き付けていた。
その時、教室の扉がガラリと開いた。
「わあ! スゴミ君が呼んでくれたからね、天使さんはね、ピューンってやって来たよ!!」
立っていたのは、毒舌で殺意剥き出しのアルハとはかけ離れた存在。
物語の始まりであり、世界を終わらせる天使さんだった。
白く輝くツインテールを揺らし、ぱっちりとした赤い瞳が僕を見つめる。
マジカルエンジェル、セイントハートの神聖なローブに身を包んだ、最高の姿だ。
「天使さん……!? 呼んでないっすけど……どうして出てきたんすか?」
天使さんは両手を後ろに組んで、黒インナーの胸を張り、ニコニコと揺れながら近寄ってきた。
そして黒板の相合傘を指でなぞる。
「スゴミ君がね、ここまで帰ってきてくれて、天使さんは、とっても嬉しいからね……来ちゃった!!」
「帰る……僕が帰る? 帰れるんすか、もう帰っても良いんすか……!?」
天使さんは両手を広げ、僕の身体を受け入れるポーズを取った。
「おいで……っ!!」
その救済の姿に、僕の口角は不自然に緩んだ。
僕の足が一歩目を踏み出した瞬間。
背中側、教室の窓の外から、窓を叩き割るガラスの音と共に、キテレツなダミ声が侵入してきた。
「ラァーブたぁーん!! 死んどる場合かー!!」
振り向くと、教室のカーテンでターザンごっこのように飛び込んで来るバイクウェアの空色女子、ノリコの顔が目の前まで迫ってきていた。
ノリコは黒板のレールから赤いチョークを取って、僕の胸にグリグリと押し付けてシャツを汚してきた。
「ノリコちゃんを置いて、先立つ不幸をお許し下さいってかあ!? そうは問屋が下ろさないってんだ!!」
「え、先立つ……? 僕がっすか……?」
僕の背後から、天使さんの手が僕の左頬を撫でた。
その柔らかな感触にゾワッとして、気付く。
左目が、無い。
ヒグツワ・シゲルに殴られたダメージが、しっかりと今の僕にフィードバックされていた。
僕は思わず顔に手を当てる。
「僕って、もしかして今、死ぬ所っすか……?」
ノリコは両手を大袈裟に広げて頭を押さえた。
「オーマイガッ!! ラブたん死んだらウチ未亡人!? いやノリコちゃんは死んでるから、生き別れでは無いな!? むしろウェルカム冥土でお死に会いってやつなのかぁ!?」
ノリコは僕の両肩を掴んで頭を揺らした。
「有りか!? コレって、無し寄りだけど、有りか!?」
「いやっ、死ぬなら……無し寄りの無しっすけど……!!」
僕の背中で天使さんが微笑んだ。
「ふふふ、とっても賑やかで、楽しいね。スゴミ君はね、今は行きたい所を決める時なんだよ」
「行きたい所を決める……?」
天使さんが僕の胸を指でなぞった。
ノリコがつけた赤いチョークが、天使さんの白い指を赤く汚す。
「ドグマがね、スゴミ君の信念に答えてくれるから……信念を貫くスゴミ君がね、天使さんは大好きなんだよ!!」
僕は触れられた天使さんの指に手を重ねた。
その時、僕の心臓に『トクン、トクン』と小さな鼓動が重なった。
僕はふと気づき、教室の後ろの端を見た。
長い髪を丁寧にカールさせた、瞳の大きいクラスメイトの女子が、掃除用具のロッカーの中に座って、窓の外を眺めていた。
「ブリアン……いや、ヒメガミさん……!?」
空間的には僕の過去なので、ヒメガミさんのハズだけど、子供のブリアンも全く同じ見た目をしているハズだ。
僕がその女子に注目していると、ノリコが僕の背をバシバシと叩いた。
「やっぱりラブたんさぁ、死んでる場合じゃないって!!」
天使さんの指も、僕の胸をそっと撫でた。
「やっぱりスゴミ君はね、帰る前にやりたい事があるんだよね!」
「僕の……やりたい事……」
僕がつぶやいたその時、今度は黒板の『白羽 歩波』から、手が生えて来て握手の形で止まった。
僕は気づいた。
これはデフィーナの手で、これを取ると現実に戻るんだと。
天使さんはニコッと笑顔で顔を傾けた。
「天使さんはね、ずっとずっとスゴミ君を応援する、スゴミ君だけの応援団だからねっ! スゴミ君の行きたい所へ……行ってきて!」
ノリコはそれに乗っかった。
「たっはー!! ラブたん応援団ってか、それならノリコちゃんも応援団入らないとなぁ!」
ノリコはフラダンスのような奇怪な踊りを始めた。
「フレー! フレー! ラ・ブ・たんっ!!」
それに呼応するように、天使さんもフラダンスを始めた。
「フレー! フレー! スゴミ君っ!!」
僕はそのなんとも言えない空気に息を吹き出し、後頭部に手を当てた。
「いや……その、はい。行ってくるっすよ……」
チラリとロッカーを見ると、子供のブリアンの怖がる瞳と目が合って、窓からの風がロッカーの扉をガチャリと閉めた。
僕の左目の奥が、ズシリと痛んだ。
「助けないと……」
僕は黒板から出て来ている手に、手を重ねた。
その手は僕を乱暴に引っ張り、僕は僕の名前が書かれた黒板の中へと吸い込まれて行った。
後ろではノリコと天使さんが、腕を組んで軽快なタップダンスを踊って応援していた。
変な夢だ。
でも僕がやるべき事をハッキリと教えてくれた。
そんな夢だった。
「天使さん、僕はナラクの世界で伝説を刻んで、満足したら帰ります」
身体が引き上げられると思ったその時、保健室の風景が浮かんできた。
医学誌と筆記用具の立ち並ぶ教卓に、白衣姿の女教師として、サザナさんが座っている。
その向かいのベッドでは、三つ編みの黒髪少女と、ポニーテールの黒髪少女が一緒に、足をパタつかせていた。
子供だけど、元の世界でのメイアさんとネオさんだと分かった。
サザナさんはボールペンを回しながら、紙パックのトマトジュースをぶら下げて、二人に話しかける。
「ジュース、飲む? 一本しかないけど」
ネオさんは元気に返事した。
「うん、飲むー!!」
メイアさんは遠慮がちに手を振った。
「あたしはその……大丈夫です」
ネオさんはサザナさんからジュースを受け取り、すぐにストローを挿して飲み始めた。
メイアさんはふと上を見上げ、室内を見下ろす僕と目が合って、悲しげに微笑んだ。
その光景だけを見て消える記憶の世界。
身体が重くなり、左目の奥にジンジンとリアルな痛みが戻ってくる。
暗闇で目を閉じていた僕のまぶたの向う側が、赤く明るくなっていった。
背中には、柔らかい感触とこもる熱。
ベッドの上のようだ。
右手に体温。
手を握られている。
デフィーナの声がした。
「ああ、起きたのね」
僕はゆっくりと目を開けた。
視力が極端に落ちている。
だが静かな部屋の中だった。
視界がぼやけていて、茶色の天井があるっぽい事だけが分かる。
顔の左半分は、包帯でグルグル巻きで、綿が詰められている。
左目が、無い。
喉から詰まるような声が出てきた。
「僕の事……診てて、くれたんすか……」
一応喋れるし、聞こえる。
「ずっと見てろとか言われたのよね。それに、他にすることが無いだけよ」
「ありがとう……ございます……」
デフィーナは何も答えず、沈黙が続いた。
「僕、どれくらい寝てたんすか……?」
ボヤけて首も動かない視界の端で、デフィーナの髪の緑色が揺れた。
コチ、コチ、コチ……と針時計の音が聴こえる。
「二十七時間」
デフィーナの回答は、短かった。




