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B-23

Dr.ロバート  

作者: あQ

 1999年の暮れ。世間がノストラダムスの予言やら、千年に一度のミレニアムだ、と騒乱していた頃、僕は高校2年生だった。僕はその年の夏にセックスと隠れタバコを覚え、Dr.ロバートのことを噂で知った。

 彼は市外の眼科クリニックの院長として勤めていた。Dr.ロバートの名前の由来はビートルズの曲「DOCTOR ROBERT」から来ていた。曲中の人物は実在した人物で、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンにLSDをコーヒーに入れて飲ませたとんでも無い男だった。偽者のDr.ロバートは曲中の詩同様、気分をハイにさせる薬をよく若いクレイジーな連中に売り渡していた。他にも、実は医師免許を持っていない、だとか夜な夜な乱交パーティを開いている、とか、実は暴力団と関わりがあり、敵に回したら怖い、といった伝説、噂を学内で度々耳にした。とにかく校内では彼のことを、特に男子は畏敬の念で話し合った。


 ノートも執らずに寝ながら聞いていた授業が終わると後ろの席のIがつついてきた。

 「なぁ、今日の放課後ヒマか?」

 Iは僕を試すような目つきで聞いた。

 「暇だけどなに?」

 僕は少々相手を警戒して答えた。Iとは高校1年の頃から同じクラスで、入学当初はレッド・ツェッペリンやクイーンなど、お互い好きなロックバンドの話で良く盛り上がる程の仲だった。しかし、Iは夏休み明けから髪の色も服の格好も派手になり、付き合う連中も、授業が始まっても廊下でたむろしているような不良達に変わっていき、最近では学校をよく休むようになっていた。同じクラスに居ながら全く疎遠になっていたIに話しかけられた事と、不良グループのひとりである彼に、警戒しない訳がなかった。

 「Dr.ロバートの事知ってるだろ?」

 その人物名が出た時、僕の好奇心の目が開いた。

 「Dr.ロバートってあの千人の女とやったっていう?」

 「そうそう、そいつのこと」

 Iの顔がニヤケだした。

 「実は今日そいつの家に行くことになってんだけど、一緒に行かねえ?」

 「え…、」

 僕は狼狽した。

 「え、何で急に?」

Iは鼻を軽くすすった。

 「行く予定だった奴が来れなくなって。替わりに誘ったんだけど。暇ならどう?」

 僕はすぐに返事が出来ず、曖昧な接続詞で言葉を繋ぎ考えた。噂になっていた男に高い興味を抱いていたが、聞いた限りではとても怪しく、ましてやドラッグなんて犯罪絡みのものも危ないし、怖かった。恐喝や暴行だってあり得るのだ。

 「嫌なら別にいいんだけど」

 「いや、行ってもいいよ」

 僕を奮い立たせたのは性欲だった。千人の女とセックスした男に興味があった。それに折角の機会を逃したくなかった。

 「じゃあ、放課後な」

そう微笑するとIは教室の時計を眺め、面倒臭そうな顔をして机に上半身を寝かせた。僕は体を前に戻しながら廊下側の席をチラッと見た。A子と目が合い彼女は頬笑んだ。僕は彼女とのひどく味気のないセックスを思い出した。


 放課後、僕等は帰りのホームルームが終わると、掃除当番をふけて足早に外へ出た。玄関を出て、駐輪場から自転車に乗って校門を出るまで僕等は何一つ話さなかった。僕が緊張していたせいもあるが、久しぶりに一緒になったIとは気まずさが消えなかった。

 「じゃあ連いてきて」

 やっとIが話したが、その表情にも緊張があった。しかし僕が持っていた初めてのものを受け入れる緊張とは違い、未来への破滅を仄めかすような危なげな緊張が感じられた。Iのその表情は、まるでシンナーのやりすぎで、脳が溶けているような奴に見えた。いや、実際そうだったのかも知れない。

 Iの割と漕ぐスピードが速い自転車の後を追い掛けていったが、僕が帰る道とは正反対の方向だったので、見慣れない風景だった。最初は道順を頭に入れようとしたが、住宅街を複雑に曲がり、とうとう高校の方角さえ分からなくなった。Iは時々後ろを振り返り僕がちゃんと連いて来れるか確認していた。その度に僕はIに目で合図をした。Iは僕の事をどう思っているのか、どう意識しているのか気になった。

 Dr.ロバートとはどんな男なのだろうか。考えると恐怖に似た緊張をぶり返しそうになり、遠くの風景を眺め、気を紛らわせた。

 自転車を漕いでから三十分程して漸く例の眼科クリニックが見えた。それは大きな通りの裏側に、静かにそびえるビルだった。古く、ヒビの入ったビルで看板も所々剥がれていた。

 Iはビルに自転車を寄せるように止め、僕もそれに従った。

 「どこから入るの?」

 僕は緊張が募ってIに話さずにはいられなかった。

 「そこの外階段を上って二階から入ろう。いつも開いてる筈だから」

 僕はその台詞から、IはDr.とどれくらい親しいのだろうという根本的な疑問を今になって考えた。僕等はカンカンと音が響く焦げ茶色に錆びた階段を上り、Iは最初の扉を開け、中に入った。

 中は六畳ほどの広さで、ソファが小さなホテルの待合室のように並べられていた。

 「五時頃行くって言ってあるから、もう少ししたら来るかな。それまで待とう」

 Iは荷物をその場に下ろし、躊躇無くソファに寝転んだ。僕は腕時計を見て、五時過ぎである事を確認し、ソファに腰掛けた。周りを見渡すと壁に掛けられた額に入った風景画や大きく歪んだ壺が目に付き、これが上流階級の趣味なのだろうかと考えた。真ん中の壁には書き割りのような扉があり、そこからDr.が来るのだろうかと思案していると、奥からスリッパを擦るような大きな足音が聞こえてきた。と、同時に書き割りの扉が開いた。

 「よお、」

 ドアを開けて出てきたのは長めの白衣を羽織り黒縁眼鏡を掛けた40歳前後の目つきの悪い男だった。口はへの字に曲がっていて、嫌味なインテリを連想させた。

 (これがDr.ロバートか…)

 彼がどんな容姿の男か、あえて予想していなかっただけに、出てきた人物をあっさりそれと受け止める事ができた。

 「いや、待たせたかな?ちょっと患者が来るのが遅くてね」

 少し笑った時の片頬だけ歪める表情が皮肉った感じに見えた。

 「そんな待ってないっすよ、俺たちも今来たところだったから」

Iは上半身を起こしながら、親しげに話した。

 「隣にいるのはお友達かい?」

 急に話の矛先が僕に振られ、身体が強張った。

 「Tと来るはずだったんですけど、急に無理になったらしくて、代わりに同じクラスの友達を連れてきたんですよ」

 「そうなんだ、よろしく。まぁ仲良くやろうや」

 Dr.ロバートは腋をきつく絞めた姿勢で右手を差し出した。どうやら僕に対して悪くない印象を抱いてくれたようだ。僕は軽く愛想笑いをしながら、自分の名を告げ手を交わした。相手の手の感覚は生ぬるく、揚げ出し豆腐のような感触だった。

「何か持ってこようか?喉渇いたろ」

 Dr.はIと僕を交互に眺め聞いた。

 「じゃあお願いします」

 Iは迷うことなく答えた。遠慮した方がかえって悪いといった感じだった。Dr.が消えるとIが楽しげに話してきた。

 「どうだ、面白そうな人だろ?」

 「そうだね、頭の良さそうな人だよ」

 会ったばかりで何とも言えないが、取り敢えずIに同調するような事を言った。しかし、第一印象としては割りとそれに近かった。

 「医者は頭がいいし、エロイって言うからな」

 その後は特に話が弾む事もなく、僕等はまた沈黙した。またスリッパの音がして扉が開いた。

 「はいお待ちどうさまー」

 Dr.は両手にコップを持ちながら、相向かいになっているソファに腰掛け、

 「どうぞ、飲んで」

 と言いながらコップを目の前のテーブルに置いた。僕はありがとうございます、と会釈を交えて小声で言い、手を伸ばした。しかし、コップの輪っかを持った瞬間、僕ははっとした。

 コーヒーだった。

 僕の脳裏に本物のDr.ロバートが蘇り、目の前の男とオーバーラップし、思わず手が止まった。

 「どうした?」

 Dr.が僕の目を見ている。僕はどうしたものかと無言で考え込んでいると、Dr.が聞いた。

 「ミルクか砂糖入れる?」

 「あ、お願いします」

 「オーケー」

 Dr.は笑って、席を立った。僕がIを横目で盗むと、彼は特にこのやりとりに興味を示さず、コーヒーを啜っていた。僕は早くコーヒーが蒸発する事を願った。

 

 Dr.の話は確かに知的で面白く、僕達の年代の最大の関心である性的な話題が主な軸だった。また、その影にはいつも誰かを小馬鹿にしたような黒い笑いが含まれていた。

 「女とやりたい時は、顔やファッションも大事だが、やっぱり喋りだ。動物学的に見たって、雌はよく鳴く雄に惚れる傾向がある。それに難しい単語や冗談を間に挟んだシリアスな話で相手に対する尊敬の念を植え付けなきゃ駄目だ。そうすれば女はぼーっとして男とやりたくなってくる。この前も路上で極上の女を見つけて喋りで落としたよ。バーに行って飲んだ頃には俺を恍惚の眼差しで見つめてよ、スカートの中に手を入れたら、もう濡れてるんだよ。こういう淫乱に当たると骨の髄までしゃぶられて、ぐったりするから参るぜ」

 Iは笑いながら、時に彼の話を遮り、質問や自分の意見を交え、Dr.の話を聞いた。僕もなるべく笑い顔を使い、彼の話を傍聴した。最初は首を縦に振りながら、うんうんと聞いていたが、僕は時が経つにつれて、彼の話にどうも腑に落ちない点がいくつかある事に気付きだした。それは、彼の話には矛盾している点が存在する事であった。例えば、彼は、さっきまで話していた女友達の事が、いつしかDr.の彼女という設定に変化したり、Dr.が大学生の頃の話をしていた筈なのに、それが高校生になり、果ては、「中学生だったかな、」と言った具合に曖昧模糊に化けるのである。兎に角、話の展開を面白く、辻褄を合わせ、フィクションを、コントを話しているように聞こえるのである。まるで子供が怒られた時に、しどろもどもに嘘をつくように。彼も薬のやりすぎで頭がおかしくなってしまったのだろうか。

 「そういえばDr.って、M・Tとやったんでしょ?」

 Iが唐突に話し出した。

 「あー、あのコか」

 Dr.の眼が一瞬曇った。Iは僕の方を見て、ほら、三組のM・Tだよ、と言った。僕の記憶が正しければ、彼女は顔はそれなりに可愛いいが、化粧の濃い頭の軽そうな女で、不良グループのリーダーと付き合っていた、という噂を聞いたことがあった。

 「あのコとはこの前一回やったきりだな。それ以来会ってないよ」

 僕はその言葉に妙な違和感を感じて、とうとう自分から初めて訊ねてしまった。

 「この前って、いつ頃ですか?」

 Dr.は狼狽し、急に僕と目を合わすのを避け、天を仰いで腕を組んだ。

 「えーと…二、三ヶ月位前かな」

 僕はその、彼の返答が間違っている事を確信した。そしてそれは、彼が嘘吐きであることを証明する証拠であった。彼女はもう半年も前に他の地方に転校していたのである。それを、学校を休みがちだったIは知らないのである。Iは話を真に受けているようだった。

 「Dr.すごいっすねー。やっぱ喋りのテクがないとダメかー」

 Iの自然な反応に、Dr.も安堵したのか笑っていた。僕は表面こそ彼らに合わせていたが、腹の中はこの男への懐疑心で一杯だった。

 

 Dr.とIのお喋りが一段落して、音のない世界が漂うようになった。

 「そろそろアレやるか?」

 Dr.がタバコを灰皿に崩して言った。Iもいよいよといった感じで賛同した。

「そうっすね。早いとこやりましょう」

 僕はなんの事か訳が分からず、とりあえず誰かが教えてくれるのを待った。しかし、Dr.はテキパキと白衣を脱いで、カップを扉の奥に片付けに行って、そのまま消えてしまった。Iは、うーっ、と叫び、手を高く挙げて背中を伸ばした。

 「何をするの?」

 僕は不安げに訊ねた。Iは目を細め笑い、

 「楽しいこと」

 と一言言った。僕はそろそろやばいことが起こるような気がしてきた。Dr.がペテン師であると分かった以上、何をするのか、されるのか分からない。ましてや、Iは知っていて、僕だけ無知なのである。僕はここにいても、もはや何のメリットもないような気がしていたので、逃げるなら今だと思っていた。この機会を逃したら、もう逃げられないと予感した。

 「悪いんだけど、もう帰ってもいいかな?」

 「えっ、何でだよ。別にまだ居てもいいじゃん」

 Iが思った以上に強く僕を制したので、僕は益々やばい予感が募ってきた。

 「ちょっと用事があってさ」

 「用事って?」

 「他の友達と遊ぶ予定があったのを忘れててー」

 Iは黙って、僕を睨んでいた。しかし、力無く肩を落とした。

 「そうか…」

 僕は、僕の嘘はIに見破られていると悟った。それでもIは「じゃあまたな」と優しく言ってくれた。Dr.が戻って来ると、Iは僕がもう帰る旨を彼に伝えた。

 「えっ、もう帰っちゃうの?」

 彼は驚き、意外そうに言った。まるで、ここに来る人間全てが、例の儀式をするのが当然といった感じだった。

 「友達と会う予定があったもので、すいません」

 僕は自分の非を伝えるために低く構えた。

 「いや、別にいいんだよ。長居させて悪かったかな。まあ、またおいでよ」

 Dr.はしみじみと語ると、Iに近づき、

 「用意できたから、早く行こう」

 とIを急かせた。Iは僕にもう一度、じゃあね、と告げた。Dr.も気を付けて帰りなよ、さよなら、と言うと、二人はそそくさと僕の目の前を通り、書き割り扉の中に消えて行った。扉がきちんと閉ざされ、足音も消えると僕も早くこの巣を出ようと、荷物を手に取った。

 帰りの扉を開ける前に、一人であることと、彼らへ怪しい好奇心が僕に募って近くにあった引き出しを思い切って開けてしまった。ドラッグか医療道具でも入ってるのかと想像したが、中にあるのは古びたポルノ雑誌だった。その中の幾つかは児童ポルノだった。

 

 僕は家に帰る途中、道がよく分からなかったが、とりあえず無難に直進して行くと、国道に出た。遠いが、よく見慣れた国道だったので、やっと安心して自転車を漕いだ。思考が落ち着きを見せると、僕は考え込んだ。今頃、Dr.とIは何をしているのだろうか。ドラッグの吸引か、それとも乱交でもしているのか。

 国道は帰宅時間だというのに、車の数は数える程しか走っていなかった。



 それから暫くして、Iは高校を辞めた。もしかしたら、Iは最初から僕を誘うつもりであの時声を掛けたのではないだろうか。

 Dr.ロバートはといえば、新聞で、○○クリニック院長××逮捕の記事を見た。女子児童を買春した容疑だった。また、医大にも裏口入学していたことが発覚し、医師免許を剥奪され、医界を追放されたという記事も後日見つけた。

 それ以来、学校では誰も彼の事を口にしなくなった。僕だけはいつまでも彼のことを憶えていた。

 

                                    (完)


 

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