黒の中の絆
第二章 黒の中の絆
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真は、暗い天井をぼんやりと見上げていた。
黒いタイツに包まれた体――
女の姿に変えられた現実は、いまだに受け入れられずにいた。
けれど、今はそれ以上に、胸の奥に巣食った別の感情が重たかった。
(……俺が、救うはずだった人たちを……)
かつての人質たちも、今や真と同じ女戦闘員となり、番号を与えられた存在だ。
無機質なタイツに全身を覆われ、顔の大半を黒い布に隠され、同じ制服をまとい、同じ声を持っていた。
「……」
真はそっと立ち上がった。
狭い個室を出ると、同じ制服姿の仲間たちが、広い共用エリアに集まっているのが見えた。
女戦闘員たちは、みな成人女性の均整の取れた体型をしていた。
制服のタイツはぴたりと体のラインに沿い、曲線を浮かび上がらせる。
その誰もが、機械のような沈黙を保っていた。
(……違う。みんな……まだ人間だ)
真は知っている。
外見こそ無個性にされても、心までは完全に消されたわけではない。
かつての仲間たち――人質だった彼らも、改造されてもなお、自我を保っている。
だから、声をかけることができた。
「……あの……」
ぎこちなく声を発すると、数人が振り向いた。
全員、同じく黒いタイツに包まれた顔、同じ声。
それでも、わずかに首を傾げたり、瞬きの仕方に違いがあった。
(俺だけじゃない……!)
小さな希望が胸に灯る。
真は、彼らの中の一人にそっと近づいた。
「……ごめん」
ふいに、言葉がこぼれた。
「……俺のせいで、こんなことに……」
制服の下、唇をかみ締める。
人質を救うはずだったのに、結局は誰も救えなかった。
それどころか、皆をこんな姿にしてしまった。
沈黙が落ちた。
だが次の瞬間、小さな声が返ってきた。
「……あなたのせいじゃない」
振り向いた女戦闘員は、優しく言った。
「どちらにしても、私たちは……こうなっていた。あなたは、最後まで戦った」
真は、はっと顔を上げた。
同じ顔、同じ声――けれど、確かにそこに、彼女たち自身の温かさがあった。
(俺は……独りじゃないんだ)
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それから少しずつ、他の女戦闘員たちとも会話ができるようになった。
制服の中での生活は過酷だった。
タイツは洗濯の必要すらない特殊素材で、四六時中脱ぐことも許されない。
息苦しく、肌に吸い付く感触に神経をすり減らしながら、彼らは黙々と任務や訓練に従事していた。
けれど、心まで機械にはなっていなかった。
「今日は、軽めの訓練だったな」
「こんな日は、ちょっとだけ、楽だよね……」
無表情の仮面の下で、互いに小さく笑い合う。
声はすべて同じだから、誰が誰だか区別するのは難しい。
それでも、ふとした仕草や、間の取り方で、わずかな個性が見えた。
そんなある日。
真は、ある女戦闘員に声をかけられた。
「ねえ、あなた……どんな人だったの?」
突然の質問に、真は戸惑った。
(どんな……って)
答えに詰まっていると、彼女はタイツ越しに小さく笑った。
「私は……普通の学生だったの。たまたま巻き込まれて……」
話しながら、ふと間が空いた。
彼女の声色が、わずかに震えた。
「……あなたの名前、教えてもらってもいい?」
一瞬、躊躇った。
けれど、目の前の彼女は――敵ではない。
共に戦う、仲間だ。
「……渋谷、真」
名乗った瞬間、彼女がびくりと反応した。
「……まさか……真、って……」
彼女は一歩、近づいてきた。
「……私、正岡雫。覚えてる……?」
胸を突くような感情が、真を打った。
(まさか……!)
正岡雫――かつて、高校時代の恋人だった。
制服の下で、真は思わず息を呑んだ。
(あの雫が……)
驚きと、喜びと、悲しみと――様々な感情がないまぜになって、胸が苦しくなる。
雫もまた、同じタイツ姿で、同じ女戦闘員として立っていた。
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「……何だよ、それ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
「こんな……こんな形で、再会するなんて……」
雫も、タイツ越しに苦笑した。
「ね……お互い、ずいぶん……変わっちゃったね」
女にされた体。
隠された顔。
同じ声。
同じ制服。
それでも――互いを見れば、心は自然に昔のように近づいた。
「……元は、俺たち……」
「うん。恋人だった」
雫がぽつりと言った。
二人の間に、沈黙が落ちた。
(本当に、何て皮肉なんだ)
真は胸の奥で呟いた。
かつて愛した人と、同じ姿で、同じ組織の歯車にされてしまった現実。
だけど――
「……でも、嬉しい」
雫が静かに言った。
「あなたが、ここにいてくれて」
タイツ越しの声は、優しく震えていた。
真も、小さく頷いた。
「俺もだ……雫」
たとえどんな姿になっても、心は、つながっていた。
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それからというもの、真と雫は、少しずつ言葉を交わすようになった。
訓練の合間に、壁にもたれて休むとき。
黙々と歩哨任務に就くとき。
黒いタイツに包まれ、仮面を被りながらも、心の中では確かな絆を育んでいった。
時には、無邪気な話題も交わした。
「こんなタイツ、着続けるなんて、思ってもみなかったよな」
「しかも、破れないし……洗わなくてもいいって、逆に気持ち悪い」
「でも、……似合ってるよ」
「……そんなこと、言うなよ、恥ずかしい……」
タイツ越しでも、頬が熱くなるのが分かった。
雫も、仮面の下で恥ずかしそうに俯いた。
「真も、……すごく、綺麗だよ」
その一言に、心臓が跳ねた。
(こんな状況で、こんな気持ちになるなんて……)
だが、それが人間としての証だった。
屈辱に満ちた環境でも、心だけは、機械になどなっていなかった。
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真と雫以外の仲間たちは、まだ素性を明かしていない。
それぞれに過去があるのだろう。
けれど今は、急かすべきではないと真は思っていた。
誰もが、自分自身と必死に向き合っている。
急に過去を問うのは、ナイフを突きつけるようなものだった。
(少しずつ、だ)
信頼は、時間をかけて育むものだ。
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夜。
無機質な個室で、タイツに包まれたまま、真はベッドに横たわっていた。
視界に映るのは、同じ制服、同じ仮面を被った自分自身。
けれど、心は確かに、昨日よりも前に進んでいる気がした。
(俺たちは……)
心の中で、呟く。
(絶対に……このまま終わったりしない)
仲間たちとの絆。
雫との再会。
そして、まだ見ぬ希望。
それらを胸に、真は静かに目を閉じた。
――黒の中でも、希望は、確かに息づいている。