交渉
1501年(明応10年) 1月上旬 楠城 川俣楠十郎
ドンドンと足音が廊下から響いてくる。足音が近い。そろそろ、足音を出している主がやって来るだろう。
「楠十郎、話とはなんだ?」
「はい、父上。話とは_______」
(この男は俺の一族である楠木家が南朝の崩壊と共に一族郎党バラバラになった後で伊勢に土着した俺の血を引く楠木家の嫡流 伊勢楠木家の第5代目当主 川俣十郎左衛門だ。まぁ、正確には…前世の俺であって今世の俺にとっては父にあたるのだがな)
「母上と共に皇大神宮の祖父に会いたいと思うのですが…宜しいでしょうか?」
「皇大神宮?」
「はい。それに、一度伊勢街道を自分の目で歩いて見たいのです。」
「しかしなぁ…仮にも、お前は武家の人間だぞ?隣国の関氏の所領を通る事になるのだぞ?」
「ですが…関氏とは関係が悪くは無いのでは?」
「そうではない。お前の身分の都合上…商人か何かに偽って行かねばならんのだ…。そうなると、護衛をそこまで向かわせられぬのだ」
「野盗程度に、襲われませぬ」
「しかしなぁ…」
(この男…普段は蛮勇をひけらかす癖に、なぜこういう時に限って子煩悩なんだ……。使えん。だが、ここで諦める訳にはいかんのだ。猶予は長兄が元服するであろうおよそ9年後…それまでに、何としても家中での俺の立ち位置を確固たるものにせねばならんのだ!今日はその大事な一歩目なのだ。故に、ここは退けん)
「では…父上が育てた川俣の精兵が野盗如きに負けると?」
「プッ……ハハハ!言うではないか、楠十郎!」
「某とて、3歳にもなって未だに祖父に会えぬのは…寂しゅう御座いまする故」
「その割には、歳に似合わぬ口調の童子よ」
「そうでこざいましょうか?」
「お前の長兄とまるで違うぞ?」
「はぁ…?」
(他人と比べて何になる。自分が誰かと比較したい気持ちは分かる。だが、比較したところでその人間にはなれぬし、それによってどんな感情が生じようが無意味では…?まぁ良い、適当におだてて言質を取れば良いだろう。この男は考える事などまるで出来ぬからな)
「まぁ、良いわ。許す!」
「有難う御座いまする、父上」
「正し、護衛に20人は連れていけよ?」
「ははっ!」
(ようやくか。実のないつまらぬ時間がようやく終わったか。さて、始めるとしようか)
1501年(明応10年) 1月上旬 楠城 川俣正充
軽快な足音がこの部屋から段々と遠ざかって行くのが聞こえる。
「そうか、あの楠十郎が…」
(我が三男は何とも他の二人の男とはまるで違う。困ったものだ。次男坊は幼くして板倉の養子に行ったので何とも言えぬが…長男の内丸と楠十郎が明らかに違う。)
「あの落ち着きよう…一体誰に似たのだろうか?亡き父上や母上とも違う…まるで、全てを見透かしているような……それでいて、時折…物悲しげな…。アレは、一体…」
(一言で言えば…不気味に尽きる。決して悪い子では無い。だが…子供らしさが全く見えない。祖父に会いたいという気持ち…それは、確かだろう。だが、幼子が言う寂しいの感情があの子の顔から見る事が出来たか?)
「……」
(ついこの間…佐渡守が興奮して楠十郎は神童だと言っておったが……。神童かどうかは分からぬが…明らかに普通ではない。僅か3歳の幼子が税収について口を出すのか?)
「…末恐ろしい我が子よ。だが、頼もしくもある。」
(さて、この里帰り…どうなる事やら…。)
「殿、少々宜しいでしょうか?」
「なんだ、安房介」
(河辺安房介賢秀か…川俣家譜代の重臣にして軍事を一任させているこの者が来るとは……非常時か?)
「はっ…この家中で良くない噂が立っていると倅より聞き及びました故、確認をと…」
「噂?何の噂なのだ」
(一先ず、戦では無いか…少し残念だな。)
「はっ…されば、ご子息の若殿と楠十郎様の間が不仲であるというものに御座いまする」
「内丸と楠十郎が不仲?」
「噂によりますれば…度々若殿が楠十郎様に理不尽を申されると…女中の間で専ら評判だとか」
「ふむ…その真偽はともかく…そのような噂が出るからには、何かしらの確執に見えるものが存在しているはずだな」
「仰る通りに御座いまする」
「それに、内丸からか…理由が分からぬな」
「倅が耳にした女中の話では…この前、佐渡守殿がとのに対して大層楠十郎様をお褒めにした事が妬いので御座ったとか…」
「……あぁ、あの時のか。しかし、それだけでここまでの噂になるのか…?」
「…もしかしたら、我らが知らぬところで火種が落とされている可能性がありまする」
「兄弟相克など、笑えぬ話だ…。そう思わぬか、安房介よ」
「全くに御座いまする…今、この川俣に兄弟喧嘩をしている余裕はありませぬ」
「さればこそ…敵に付け入られる前に片付けねばなるまい」
「はっ」
「では、引き続き…その倅を通じて情報を集めて欲しい」
「御意」
(…面倒な事だ。兄弟相克など起こって欲しくないものよ。)
1501年(明応10年) 1月 川俣楠十郎
どこからか、人の声が聞こえた気がした。
「…おい」
「……」
「無視するな、楠十郎!」
「…ん?あぁ、すみませぬ…兄上。物思いにふけっていて、気付いておりませなんだ。」
(…面倒な男に絡まれたな。川俣内丸か…こいつは本当に俺の子孫なのか?俺は子供達に蛮族になれと教育した覚えは無いのだが…まさか、どこかで口伝を間違えたのか?ここ最近、この男に目を付けられている気がしてならんな)
「父上と何を話していたのだ?」
「祖父に会いに行って良いかという話をしたまでで御座いまするが…それが何か?」
「何故、お前が爺様のところに行くのだ?答えよ」
「はぁ…?何故、それを兄上に申さねばならぬので御座いますか?」
「そ、それは…俺がこの家の次期当主だからだ!」
(また始まった…。本当に面倒な男だ。適当なところで切り上げて離れよう。あまり同じ空間に居ると…俺も蛮族に感化されそうだ。)
「父上がいつ、ご自分の嫡男をお決めになられたので御座いまするか?」
「それはだな…その……」
(こいつ…人の話を聞かない部類の人間だな。絶対、覚えていないな。結局、嫡男云々や父上との会話云々は俺に突っかかる口実作りか…安っぽい男だな。いや、そもそも、7歳の童子ならば当たり前なのか?)
「お言葉ですが、兄上。今年の年始の挨拶にて、父上が後10年後に嫡男に相応しい者を選び…次期当主とすると申しておりませんでしたか?それが、変わって居らぬのでしたら…未だ、嫡男の席は空白なのでは?」
「なにっ?!俺に嫡男の座は務まらぬと申すか!」
「兄上、誰もそのような事は申しておりませぬ。私が言いたいのは勝手に"嫡男"や"次期当主"を名乗るのは父上の方針に背くと申しておるのです」
(なぜ、こうも…この男と俺は会話が成立しないのだ……。いや、こう考えるか…3歳と7歳では会話が成立しないのは当たり前…そう、当たり前だな。なら…仕方がない。)
「それとも、兄上は父上の方針に背いて処罰されても良いと?」
「うっ…それは……」
「では、そのような言は今後はお控えなさるが宜しいかと。」
「くっ……」
「それでは、急いでおります故…また」
「……」
(全く…疲れるな。これは…。早く、母上のところに行こう。これなら、父と話している方が気が楽だ)
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「母上、入っても宜しいでしょうか?」
「良いですよ…どうしたのですか?」
「母上、父上にお願いして皇大神宮に行く事が叶いました故…一緒に行きとう御座います」
「まぁ…父上がよく許しましたね」
「かなり渋っておいででしたが…何とか説得して参りました!」
「それは、良かったですね」
母上がコロコロと笑う。
(母上はよく俺の話を聞いてくれるので気が楽だな。しかし、仮とは言え…笑顔を取り繕うというのは頬が疲れる)
「それで、日取りなのですが_______」
1501年(明応10年) 1月 川俣雪
(目の前の子供…息子の楠十郎が懸命に喋っている。この子は、同年代のこと比べて…大人び過ぎている。私とも、殿とも違う……一体、誰に似たのかしら…)
「母上、聞いておりますか?」
「…母は聞いておりますよ?」
「そうですか?では、手紙の返信次第には御座いまするが…1週間後に出発の心積りでお願い致しまする」
「分かりました…では、日取りは任せますね?」
「お任せ下さい、母上!では、某はこれにて」
(…それに、最近……内丸と楠十郎の仲が悪いとの噂も耳にしますが…どうなのでしょう?噂によると、どうやらどの噂も一貫して…内丸が楠十郎に食ってかかっているらしいのですが…赤子返りというものなのかしら?喧嘩にならなければ良いのだけど…)
「はぁ…難しいのね」
(この乱世では兄弟が殺し合いをする事も少なくないと聞きます…それでも、お腹を痛めて産んだ母からすれば……両方とも愛すべき我が子。本来ならば次男も手放したくは無かった…でも、そうしないとこの家が生きていけないのも事実…。泣く泣く生まれたばかりの我が子を他家に預けました…それでも、今もあの時の悲しみは…忘れられない……)
「天照大神様…どうか、我が息子達が平穏な日々を送れるよう…見守って下さい」
(願う事なら…兄弟で争わずに家族団欒で日々を送りたい…。…そう願うばかり)
1501年(明応10年) 2月 川俣内丸
「父上!どうして、楠十郎がお爺様のもとに行くので御座いますか?」
「ん?ただの里帰りのようなものだ。それが、どうしたのだ」
「何故、お許しになったので御座いますか!」
「何故って…逆に反対する理由があるのか?」
「そ、それは…」
(どうして、弟ばかり贔屓されるのだ。俺は兄なのに…なぜ、弟ばかり褒められるのだ。前だって…佐渡守が弟を神童だと褒めていた。俺にはそんな事父上に言った事が無いのに…!)
「それより、どうしたのだ…内丸。そんなに血走った目で詰め寄って来て」
「某は…父上の長男であります」
「…そうだな」
「では、何故…弟の方が贔屓されているので御座いまするか!」
「待て、内丸。先ず…内丸を贔屓などしておらぬぞ?」
(嘘だ!なら…何故、俺は外出がまともに出来なくて…弟は出来るのだ!どうして…あいつは良くて、俺は駄目なんだ!何時もそうだ!)
「どこが、贔屓していると思ったのだ?」
「……」
(外出だけではない。俺の方が歳上で出来る事も多いはずなのに…事あるごとに弟ばかり褒めて…。俺には何も無い。算術を勉強した程度で弟を褒める連中だっている。俺達は武士なのだ…ならば、剣術の腕が絶対なはずだ!なのに…何故、誰も褒めてくれぬのだ。父上に至っては、俺の得意な剣術の鍛錬をするなと言ってくる…。皆揃って…俺を苛めてくる)
「どうした?言葉にせねば、分からぬぞ?」
「…うぅ……」
(嫌だ…嫌だ……誰か、俺を見てくれ。誰か…俺に「良くやった」と言ってくれ。それだけなんだ……それだけ、その言葉が……)
「……」
気付いたら、無言で父の部屋を走って出ていた。覚えているのは視界がボヤけて見えなかったくらいだ。その後はどれくらい走ったか分からないが…とにかく暗いところを、誰もいないところを目指して走った気がする。
1501年(明応10年) 2月 和田佐渡守充信
「アレは…?」
「如何なさいましたか、佐渡守殿?」
「いや、若殿があちらを走っていたような気がして…」
「まさか、先程…殿とお話していたではありませぬか」
「それは…そうなのだが……」
「第一、殿のお部屋とここでは若殿の部屋と方向が逆に御座いまするぞ?」
「……まぁ、そうだな」
(しかし、なんだ…この胸騒ぎは……。何と言うか、取り返しがつかないというか…嫌な予感がする。何か…不味い事が起こりそうに思えてならん…。こんな感覚は初めてだ…杞憂ならば良いのだが…)
「それはそうと、先程の話の続きだが…最近の若殿の様子はどうだ?」
「うむ、元気な侍大将になっているぞ。だが…少しだけ算盤などにも興味を持ってくれると嬉しいのだが…」
「そうなのか、算盤は苦手なのか?」
「苦手では無いのだが…何分じっとしておられるのが好まぬらしいのだ」
「殿に似ているな」
「全くだ、野田殿」
お互い笑いあった。
(杞憂ならばよいのだがな…。30年前のような兄弟相克の戦乱など、家中の誰も望んでおらぬのだ。我らが望むのはただただ若殿も楠十郎様もよき大将に育って欲しい、それだけなのだ)