霧のような数唱のまにまに
昨日眠れなくて、久しぶりだったんです。
日々は積み重ねるごとに死んでいく。鮮やかな死体を振り返る度に、私じゃなくてよかった、と心底思う。
私がここにいることを確認して、眠りにつく夜は一番怖い。死にゆく年月に脚を絡めとられてしまいそうで――私が私で、無くなってしまいそうで。
その代わりに、私は朝が好きだった。世界が音を立てて始まっていく朝が。
「なに止まってんだ。さっさと歩け」
「きゃっ。あ、あの、私っ」
「お前の意見は聞いてなどいない。私は歩け、とそう言ったんだ。従うのが嫌というのなら言い方を変えよう――歩いて死ぬか、今ここで死ぬかを選べ」
「……すみません」
後ろを振り返ると、私に苛立たしげな目線を送る多くの同胞たちが見えた。どうしてそんな顔が出来るんだろう、と自問する時間もないまま、無理やり歩かされる。
静かなぬくもりの中で安穏と育ってきた私には、想像もつかないような場所というものがある。それがここであるのなら、私は大きな勘違いをしていた。
怖いのは死に倒れていく日々でも、眠りにつく前の夜でもない――。
燦燦と照り付ける陽光に、時間さえ切り取ってしまいそうな神秘的な月光が絡まる光のヴェールが降り注ぐ、あの柵の向こう。
そこにある、数唱だ。
「よし、止まれ。いいか、お前ら。繰り返しになるが、ここに来たその時を以て、お前らには一切の自由はないもとのと思え。無論私もそうだ。お前ら全員を柵の向こうに向かわせたら、私も行く。それまではお前らを統制する役割に従ずる機械も同然だ」
厳めしい顔つきでそう私たちに言い放つ彼の脚を見て、私は愕然とした。
結局、彼が言うように、私たちを支配する彼自身もまた、何かに支配される身に過ぎないのだ――カタカタと小刻みに震える、その脚を見た。
もともとは綺麗な綿のような白だったのだろう、血か、あるいは土や泥かで汚れてくすんだ灰色になったその色は、けれど彼自身の怯えを隠す鎧のようだった。私たち以前にも、彼は大勢の同胞たちを柵の向こうへ送り届けてきたのだろう。
純白の私たちとは、大違いだ。
「あっ、あの、すみません……」
「なんだ、お前は。質問を許可した覚えはないが」
重厚な雰囲気を破ったのは、それとは正反対のか細く華奢な声だった。彼を注視せねばと思う傍ら、その美しい声が気になってちら、と後ろを振り返ってしまった。はじめに目に飛び込んで来たのは、私と同じように後ろを見ている同胞たちの姿で、場違いにも苦笑してしまった。
後ろを向いていてよかった――彼に見られでもしたら何と言われるか分かったものではない。
「許可なんて、い、いりません。じ、自由だってな、ないんだから。ぼくは今ここで死んでもかま、かまわない。だっ、だけど――おかしいとはおも、おもいませんか?皆だってそ、そうでしょう!?こっ、こんな、あんな、柵一つで――りっ、ふ、理不尽に、ぼくたちが殺されなきゃいけないなんてっ!」
緊張から声が上ずっているのだろう、衆目を一点に浴びることになったのはまだ幼い子どもだった。あんな子どもまで、とざわつく同胞たちに喝を入れたところで収まりそうもない騒ぎに、彼は放置を選んだのか、子どもが続きを言うのを待っていた。
理不尽――その言葉を呑んだのは、もう随分と前のことだ。
哀れみの声以外に怒りや賛同が湧かなかったところを見ると――他の同胞も似たようなものだろう。
「ぼくたちは、生きているっ。あなただって、本当はこんなことしたくないんじゃないですか?だっておかしいでしょうっ。ねぇっ、みんなもなんとかいって下さいよ……!」
冷たい静寂が子どもを満たした。
私も何かを言おうとして、けれどその何かを思い出すことが出来ずに冷たさを食む。自分の一部になっていくその温度で埋めた身体は、もうすぐ消えてなくなるのだ。
子どもは、それが理解できないという。
私は、どうだろう。理解しているとは到底言い難い。それでも吞み込んではいる。理解せずとも呑み込むことは出来る。諦観と時間とを以て、理解を閉ざす、それが私だった。
否、私たちだった。ここにいる、あの子を除いて。
「――お前は、私たちが今この瞬間に生きていると言いたいのか?」
「えっ、だ、だってそうでしょう。ほら、身体も動くし、言葉だって使える」
「私には、ずっと――ずっと、死んでいるように見えていた。ところでお前のその心臓は、今日一日で何度拍動した?」
「何度って――そんなのいちいち数えて、ないですよ」
「そうだ。私も、もはや数えることをしなくなった。見ろ、この醜い身体を。自分を押し殺して従い続けてきた呪われた身体を。この身体に奔った傷と汚れの数の何倍もの数の同胞を、私はこの手で――この手で、葬ってきた。その死神の目には、皆、死んで見えていた」
彼の告白に目を見開いたのは、子どもだけではなかった。いまや同胞たちは、子どもに注ぐ視線の一切を、泡沫のような声色で自らを語る厳格な統制者の元へ一斉に傾けていた。それは私も例外ではなく、むろん子どもであってもだ。
視線を浴びることに慣れているのか、彼は全く動じる事無く、他者をして決して覗くことが出来ない彼の昏い過去を回顧し続けた。
「私に逆らえば死ぬ。従っても柵の向こうで消える。それを受け入れてなお異を唱える者は今まで一人として居なかった。お前のように、理解できない者こそ、居はしたが――」
仰々しく言葉を切ってから、彼は肩をすくめ、手刀を首の前で水平に滑らせた。
「柵を越えることすら出来なかったよ。私には、だから死んでいったお前らと、そして私の同胞たちはもう、ここへ来たその時には――いや、あるいは、受け入れたその瞬間から、死んでいるように……見えたんだ」
「でっ、でもっ。だって、ぼくはまだ――まだ生きている!あなたがぼくを殺すのは勝手だし、それはぼくの、自分のせいかもしれない。でも、それで奪うのはぼくの生だ。だからぼくはまだ、生きている」
揺蕩いはどこへ、音程の低さこそ彼に及ばないものの、彼を上回る声量で叫ぶ子どもの声は強かに私たちを打つ。全身に響く言葉の一端一端が、けれど、肉や骨にまで届くことは無い。
無垢な白の言葉は、明日を諦めた白の深くまでを震わせることはなかった。
「お前は理解は出来ずとも、受け止めてはいるようだな。私に従わなければ死に、柵を越えれば無くなると」
「そっ、そうです。でもぼくは、ぼくたちはまだ――」
「だが、生きようとはしていない」
「……っ」
本当に、そうか?
「何故何も言い出さない?何故逃げ出そうとしない?何故抵抗しない?答えは単純だ。それが無駄だと分かっているからだ。どうせ何をしても死ぬと分かっているからだ」
「それが、理不尽でも、ですか」
「そうだ。理不尽だからと言って抵抗する者は私や他の者が死を以て答える。たとえ大挙して、徒党を組んで、計画を練って、無謀無策で、全員で――どんな手段を取ったとしても、それは無駄だ」
「――それは、あなたがそう思っているだけだ」
今や、ここにいる全ての同胞たちは一切の音を発しまいと彼と子どものやり取りを聞いていた。いつの間にか子どもと彼の間には誰も立っておらず、自然と空けられた道の両端で、厳然たる統制者に小さな、小さな子どもが立ち向かっていた。
私は――私はただ、見ていることしか出来なかった。
「何?」
「あなたが生きようとしていないから、そう見えているだけだ。ぼくは生きたい。まだ死にたくない。事実は受け止めている。でも理解はしたくない。いや、しちゃいけないと思う。どんなに理不尽でも、ぼくはまだ生きていると、そう確信する」
「そんなことをして、何になる?何も変えられない。お前には見えないのか?私のこの姿が。生きようとしてきた、私の痕跡が。でも、無駄だった。だから――死神になった」
「だったらまだ、足りなかったんだ。ぼくの方が、あなたよりも生に縋る。だからぼくは死なない」
「――ふん、いいだろう。お前には飽きる程の死を見せてやる。そのあとでも同じことが言えるか、見ものだ」
行け、と先頭の同胞の背中を蹴った彼は、子どもに一瞥をくれてから、冷徹に、柵まで追い込んだ。
「ほら、いちだ」
「……っ。くそっ、俺は――」
光る雫を置き去りに、先頭の同胞はもたつく足取りで無理やり身体をねじ込むようにして柵を越え、陽光と月光のヴェールの下に身をさらした。
そこから先は、初めてみる光景だった。
言葉で表そうとした私の脳裏に最初に浮かんだのは――音楽、だった。
「――」
こちらを振り返ることなく、遅々とした足取りで遠ざかる先頭の同胞が一歩、若草の地面を踏むたびに、非現実的な音が――結晶を讃美歌で震わせるような音が――踊りだす。風も吹いていない柵の向こうに音が駆けだす度に、さわさわとまるで談笑するかのように植物たちが揺れる。
その中で浮かび、滑るような先頭の同胞の光を吸収した白は、緑と光が溶けあった温かさそうな向こう側へと、消えていく。しゃらん、しゃらん、と消えていく。
――やがて姿が見えなくなると、音はやみ、植物は静止した。
「次だ。に」
「……はい」
背後で歯ぎしりの音が聞こえる。振り返らずとも、それがあの子どものものだと分かった。
だが、他の同胞はその子に何もかける言葉が無かった。自分に割り当てられた順番を待つこと以外に、時間を使う体力も気力もなかった。
それは、かつて自分が通った道でもあったからだ。理不尽に、そのおかしさに声を上げた瞬間を思い出したところで、今更何をできようものでもない。
「じゅうご」
だから黙っていた。目を合わせなかった。
「みんなっ、いいのか!このままでは死んでしまうんだっ」
数唱のまにまに、子どもが問いかけてきても、なお、まるで聞こえていないかのように俯いて、ただ彼の声を待った。同胞と同じことをしていた私は、確かに彼の言う通りだと思った。
生きようとしている者はここにはなく、ただ死者だけが柵の前に並んでいる。
順番を待ち、飛び越えたその先を知らされる事もない運命の前に。
「さあ、次はお前だ。ん、お前はさっき止まっていた者だな。そうだな、せっかくだ、聞いてやろう。お前は選んだのか?」
何を、と思って私ははっとした。
気が付くと私の番が来ていて、私は今彼に問いかけられている。
暗澹たる運命を前に淡々とした時間の中、意識を手放しかけていた私を殴りつけた問いを、けれどすぐには理解できなかった。選択、選択――それは思い出せば、選択ではなく、宣告に似ていた。
「歩いて死ぬか、逆らって死ぬか」
「そうだ。で、どうだ?」
そんなの、
「選ぶ必要もありませんよ。私の背中は、押さなくても大丈夫ですから」
「――ほう、そうか。なあ、聞いたか?お前以外は皆、死者も同然だ」
「くっ――」
もはや、言葉を失いかけている子どもの絞り出すような吐息を背後に、私は歩調を早めて柵に近づいた。
もう、どうでもよかった。
子どものことも、彼との些細な問答の事も、だ。私がこの脚であの音楽を奏でるとき、私は終わる。それはあと数十秒後かもしれないし、数分後かもしれないが、一時間もかかることはないだろう。
だからもう、どうでもいいのだ。
「よし、行け――さんじゅうさん」
「……」
本当、に?
漠然とした疑問が死の目の前に身体を動かした刹那に浮かび上がる。それはほんの小さな疑問で、何が、も含んでいないなりそこないだった。
でもどうしてだろう、私の心はそれを掴んで離すところを知らず、彼の声、子どもの声も、私自身の鼓動のリズムさえも聴覚を震わすことは無くなった。
「――、……!」
きっと、どうした、歩くのを選んだのだろう、とでも言っている彼の声。
「――」
たぶん、今歩きますとでも言っている私の声。
私の声――それは随分小さくて脆い気泡。
なのにどんどんと数を増やし、数瞬の間に私の疑問を喉元までせりあげてきた。
びくん、と身体が震える。口の中で暴れる言葉、意味を持たない言葉、何かを叫ぼうとしている言葉。
私はそれら全部をねじ伏せて、眼光を鋭くして柵を睨んだ。
「……分かるよ。理不尽だ。死にたくない。生きようとしてみたい。でもどうすればいいか分からない。私も同じだった。でもさっきまでは違った――今の私は、」
誰にも聞こえないように、口の中で零す言葉たちに背中を押され、私は柵を――越えた。
それと同時に、言葉や感覚を通り越して、すん、と「死んだな」という理解だけが私の身体を覆いつくしたが、私は諦観も、恐怖も、何もなかった。
そこには、せめてあの子にとっての嚆矢にでもなってやろうという、私に似つかわしくない決意があった。
なんでこんなこと、しようなんて考えたんだろう。
私一人では、おとなしく柵の向こうへ走っていた。これは全部、あの子のおかげだ。あの子が最後に、私に、私たちに、思い出させてくれるきっかけを与えた。
それを思い出したか、どうか、私の前の32の同胞たちの事を知ることはもう出来ない。けれど33番目の事を知るのは容易だ。
私は、思い出したのだから。
「聞こえるかっ、死神気取りの同胞よ!私は選ぶぞ!!あんたの手が及ばぬここで、初めての抵抗をする!」
「お前っ、気でも触れたのか……!さっきまでのお前は、今までの死者たちと何ら、変わらない……」
「そうだ、さっきまでは。だけど、気が変わった。ああそうだ、私だって死にたくない。こんな理不尽、受け入れたくないよ。でもやり方が分からなかった。やりようが無かった。それが何もしないことの理由にはならないんだってことから、私は顔をそむけた」
自分でも、よくこんなことするな、と思う。
遠くで同胞たちとあの子と、彼が私を見つめている。
異端者を見るような、賛同者を見るような、理解できない何かを見るような、そんな目で。
柵の向こうに行けば、確かに消える。消えてなくなる。
けれど、見ていて浮かんだのは、あの緑と光の霧の向こう側まで進まなければ――つまり、柵を越えてそう進んでいないここでなら、私はまだ死ぬことはないはずだ。そんな、推論だった。
だから私はまだ消えないと、頼りない確信を味方に、格好つけた啖呵を切った。
「そこで見てて。私の最期を」
「……ふん、どうせ直ぐに死ぬ。お前には何も出来ない。分かり切っていることだ。せいぜい無駄に足掻くことだ」
「そうさせてもらいます。でも、何もしずに死ぬよりかは幾分かは、無駄ではないと思います」
言って、私は目を閉じた。
思い出したのだ。私は、大きなステージで沢山の観客を前にして、大好きなダンスを披露したかった。それが叶わぬと分かった日から諦めていたその願いを、今なら果たせる気がした。
観客になってくれそうなのはあの子くらいだったけれど、立派な批判家もいる。それに舞台も申し分ない。ただのステージじゃ、陽光と月光を撚ったスポットライトなど浴びれないし、ステップを踏むたびに踊りだす音楽と手を取り合うことも出来ないだろう。
だから目をさえ瞑れば、そこは立派なステージだった。
「すぅ……っ。うん、よし。じゃあ、生きている間、最期の踊りを」
と、たん。
洗練とは程遠いポージングから、私は滑りだすように脚を動かし、身体を捻った。全身に感じるスポットライトの冷たい熱を搔き分けるように手を振り腰を回して、踊りだしは目いっぱい激しく躍動する。
リズムを整えてから、次に水面を歩くような静かな足取りのステップに切り替え、統制の取れた四肢の動きを一拍ずつずらしていく事で、踊りに緩急を付けていく。一つの歓声もない観客に我ここにありと見せつけるように大胆に舞って、死の淵のステージを縦横無尽に跳んでいく。
心地よかった。嬉しかった。
ただ死ぬよりも、最期にこうして全力で踊ることが出来て、願った通りのステージと観客とは似ないかもしれないけれど、それに近い舞台があって。何よりも、諦めや恐れといった、ステップを鈍くしかねない想いの一切を今や捨て、心の底から湧き上がる衝動のまま、自由に踊ることができている幸福に、私は笑顔した。
少し前には、こんな表情が出来るだなんて思わなかった。
全部、あの子のおかげだ。
だから、せめてあの子にだけは届けと――。
私は最期まで、踊った。
霧のような数唱の、まにまに。
※※※
なんてこった。
卒業と人生がかかった大事な時期の大事な授業の欠席回数を一日ぶんずらして計算してしまっていた。今日、久々に恋人に誘われたから授業を蹴ってデートに行った――そんなこと、しなきゃよかった。二重の意味で。
授業の方は、試験を五段階の最高評価を取れば何とかなる。それは何とかすればいいけど、じゃあ、恋人の方はどうすりゃいいってんだ。
だって、別れ話だなんて、思いもしなかった。
「はぁ……しかも明日は朝から研修だし」
こんな状況で、安眠なんて出来っこないし、そもそも、眠れるかどうかすら怪しかった。
でもしょうがない、どうしようもなく時間は過ぎていくのだから、どうしようもなくとも寝るしかあるまい。
そう思って向かったベッドに横たわって一時間半、深夜25時を回った。
「睡眠薬……はないしな。一回ヌく……と明日の朝がキツイし。あー、くそっ、どうしたら」
ふと、思い出した。
そうだ、眠れない人のカルテには、羊を数えるという処方箋が付されるのだ。
自分自身、子どものころにやったったきりだったからすっかり忘れていたけれど、案外、効くかもしれない。素数を数えて落ち着くという話もあるから、数唱に夢中になっていればそのうちに眠れるかもしれないし、余計なことを考えずにも済む。
まさに一石二鳥だと思った。
「よし、タイマーも確認したし、今度こそ寝るぞ……」
勢い勇んで数え始める一匹目、二匹目――頭か、としばらく悩んでからどっちでもいいやと数だけに切り替えて、想像する。
柵の前に沢山の羊が並んでいる。雄の羊、雌の羊、子どもの羊、老いた羊。それを自分が、意味もなく数唱と共に柵を越させ、次から次へと羊を数える。
無心になって数えれば、なるほど確かに眠れそうだった。
なのに、今日は色々あったからか、変なことを考えだしてしまった。
――柵を越えたら羊たちはどこへ?
乏しい想像力では、柵の向こうがどうなっているか、まるで霧でもかかっているみたいに、見せてくれない。でもそこに羊たちがいないことは確かだ。30を数える前にとらわれた疑問を考えながら、なんとなく32まで数えて、ふと、自分が今眠っていることに気が付いた。
というより、さっきまで羊が柵を飛び越す想像をしていたのに、今はそれをこの目で見ている。直感が夢だと囁き、夢なら寝ているのだと自分の中のどこかで声がした。だから、気が付いた。
気が付いて、柵を覗くと、一頭の羊がようやく柵を越えたところだった。奇しくも夢が疑問に答えてくれる、と夢半ば想像半ばのようなあやふやな視界でその羊を観察する。
だが、期待に反して、その羊は柵を乗り越えるとしばらくその場で制止し、そうかと思うと突然、駆けまわりだしたのだ。
自分の目からは駆けているようにしか見えないけれど、まるでその羊は踊っているようだった。きらびやかなステージの上で、大勢の観客を前に踊る姿さえ、浮かんだ。
率直に、綺麗だ、と思った。
恋人と初めて交わしたハートの言葉に感じたときめきとは、また別種のときめきに胸を掴まれる。永遠に見ていたいような、そんな光景に見えた。
夢中になってダンスを見ていると、どれくらい経っただろう――これが夢であると忘れてしまうくらいの時間は、経った気がする。羊は唐突にダンスをやめ、何か、柵の向こう側に鳴き声を投げると、こちらにゆっくりと、ゆっくりと歩いてきた。
もっと、見たかったのに。
そう思う自分の目の前に現れた、純白の羊。困惑しているのか、数歩後ずさった羊の首を抱き、身体を撫で、自分はその毛並みを涙で濡らしていた。
何がそんなに悲しいのか、あるいは嬉しいのか――ともかく、狂おしいほどに流れ出た涙を、羊はただじっと、じっと受け止めてくれた。やがて涙が止まると、羊は何も言わずに立ち去ろうとしたから、反射的に体毛を鷲掴んで、無理やり引き戻していた。
そして、そのままずるずると引っ張って、羊をステージまで戻す。
そのステージは、まるで太陽の光と月明りを同時に浴びているような非現実的な温かさのあるステージで、柵の向こうの観客は皆、自分に数えられることを待っている羊たちだった。
「さあ、君たちも一緒に、こっちへ来て踊ろう」
涙の理由は分からなかったが、自分が今何をしたいのかははっきりわかった。
だから、踊った。沢山の羊たちと一緒に、踊った。
――その夢のことを、起きた後ももう何年も覚えているのに、結末だけが覚束ない。
「あれから、どうなったんだっけな……」
何度も羊を数えてみて、同じ夢を見ようとするのだが、結局いつもただの想像で終わってしまう。一つの夢について、こんなに長く考えたことは無かったし、周りでそんな話も聞かないから、いつも夢についてうんうん唸っていることを、この前同僚にからかわれた。
それでも、思い出したかった。
覚えている限り一番最後の夢のシーンで、笑っていた彼らが、どうなったのかを。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。