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4.頑張り

 



 チクチクチクチク……


 テントで1人、レイチェルは布に糸を通し続けていた。

 そして、夜通し続けられた作業に朝焼けが辺りを照らし、鳥の囀りが聞こえ始めていた。

 そんな様子を感じ取ったレイチェルはテントの窓を開け、大きく伸びをした。


(うーん、もう朝かあ。今日中に半分くらいまでは進めたかったのになあ。なかなかこれは大変な作業だ)


 先程まで自分が座っていた椅子の上に置かれたドレスを見ながら、レイチェルはそんなことを思った。

 そのドレスには、綺麗な花の刺繍が途中まで施されていた。




 あの日、シェリルはレイチェルにこんなお願いをした。

 次の劇に使う衣装の刺繍をして欲しい、と。

 シェリルの次の役は精霊の国の姫らしい。主要人物ではないけれど、恭しい特別な存在として舞台に現れるのだという。

 だが、衣装として用意できたのはいつも貴族の娘役として使われているものの1つの白いドレス。脇役にまで使う予算は残っていないのだという。

 シェリルはどちらかというと男が多いこの劇団では、そういったことに無頓着すぎると怒っていたけれど。

 どちらにしても、どうにも出来ない難しい問題のようだ。

 だから、自分達で色々と工夫しなければならず、そこにレイチェルの刺繍という素晴らしい技術を見出したのだ。


 レイチェルはシェリルからその後、もう一押しももう二押しもされて結局、ドレスの刺繍を引き受けることにした。

 しかし、刺繍の得意なレイチェルにとってもこれは大仕事だった。

 あの2年間で刺繍の腕は上がったものの、せいぜいハンカチや帽子程度にしかしたことはなく、こんなにも大きな物を扱うのは初めてのことだった。

 思っていたよりもデザインの作成やドレスの生地に針を通すことに手間取り、気が付けば公演の日は刻一刻と迫っていた。

 それに加え、慣れてきたとはいえいつも通りに稽古や体力作り、下っ端としての雑用は変わらずある。

 演技もまだまだなので自主練も欠かさなかった。


 こんなに忙しい日々を過ごしたのは、レイチェルにとって初めてのことだった。

 忙しい日々は意味のなかった日々も何倍も楽しい。

 だが、そんな初めてのことであったので、レイチェルは自分の限界がどの程度なのかをまだ知らなかった。




 ***




「よいしょっと……」


 今日も良く晴れた洗濯日和。

 レイチェルは団員達の服を川辺で洗濯していた。

 タライに水を汲んで洗剤を入れてごしごしと洗う。今、洗っているのは衣装ではなく普段着であるから多少力を込めても問題ない。

 無心で出来るこの作業がレイチェルにはそれほど苦には感じていなかった。

 それでも量は多く、労力は大きい。

 特に濁った水を流して新しい水に入れ替える作業は力を使った。


 今日何度目かになるその作業を行おうと、レイチェルは川の縁にしゃがんで汚れた水が入ったタライを傾けた。

 水を流し終え立ち上がろうとした時、キラリと降り注ぐ太陽がまぶしいと思った。


 ―――あ


 そう思った時には、目の前が真っ暗になり平衡感覚を失っていた。

 自分が今、真っ直ぐ立っているのか、傾いているのかも分からない。これは多分貧血だ。

 レイチェルは倒れること、そして運が悪ければ川の中に落ちることを覚悟した。


「レイ!」


 暗闇の中で自分のことを呼ぶ、そんな声が聞こえた気がした。




 ***




 頭がひんやりとして気持ちよい。

 まだはっきりとしない意識の中、目を開けると視界の先では太陽の光に透ける青々とした葉っぱが風に揺れていた。

 レイチェルは木陰で横になっていた。

 頭に手をやると水で濡らされた冷たいタオルが乗せられていた。

 誰かがレイチェルをここに運んで介抱してくれたのだろう。

 倒れる直前、声が聞こえたけどあれは誰の声だったっけ……

 そんなことをぼーっと考えていたレイチェルは自分のしていたことを思い出し、ばっと起き上がった。


「そうだ!洗濯の続きをしないと!」


 いくら天気が良いといってもあまりに干すのが遅くなってしまうと、今日中に乾かない。

 そうしたら、皆、着る物がなくなって困ってしまう。そう思った。


「洗濯は終わった。そんな身体で飛び起きようとなんてするんじゃない。あまり無理をするな」


 起き上がった弾みで再びくらりとしたレイチェルの横からそんな声がした。

 さっきも聞いた声。そうだ、この声は……

 レイチェルは恐る恐るといったようにその声の主に振り向いた。


「団長……」

「少しは楽になったか?」


 そこには、この劇団の団長であるギルが座っていた。

 ということは、倒れたレイチェルを助けてくれたのはギルで、レイチェルを介抱してくれたのもギルだということだ。

 さすがに洗濯は他の人がやってくれたのだろうと思いかけたが、ギルの服の袖が捲られた後があって、少し濡れているのにレイチェルは気が付いてしまった。


「はい………あの、団長。もしかして、団長が洗濯をして下さったんですか?」


 レイチェルは他のことをおいて、気が付いたらそのことをギルに尋ねていた。

 他にもっと言うことがあっただろうと、言ってしまってからはっとしたが。

 ギルもいきなりそんなことを聞かれるとは思っていなかったようで、若干、目を彷徨わせたように見えたが、それを取り繕うかのようにいつも通りの口調で答えた。


「いや、他の団員に頼んだ。だから、お前は気にしなくていい」

「でも、団長の袖が濡れて……」


 レイチェルの視線を追って、ギルははっとしたように自分の袖を見た。

 その反応から、きっと自分には気を遣わせないようにそんな嘘を付いたのだろう、とレイチェルはギルが洗濯をしてくれたのだと確信した。


「すみません………団長にご迷惑をおかけしてしまって。倒れた時に助けて頂いて、介抱して頂いて、その上洗濯まで。団長には、この劇団への入団を認めて頂いただけでも感謝してもしきれないのに。嫌いな私にここまでのことをしてくれて……」


 俯いて、暗い表情のレイチェルからは次々とそんな言葉が飛び出してきた。

 ギルにこれ以上嫌われないように、少しでも好きになってもらえるように、迷惑だけはかけないようにしようと思っていたのに。

 そう思うと、この失態を悔やんでも悔やみきれなかった。

 そんなレイチェルの言葉を遮るように、ギルが声を上げた。


「ちょ、ちょっと待て!嫌いとは何のことだ!?」

「え?団長は貴族のことが嫌いなんですよね。だから貴族だった私のことを睨んでいましたし」

「貴族……そうか、そのことか。いや、それは俺の個人的な理由によるもので……確かに俺の貴族嫌いはほとんどの団員が知っていることではあるが……」

「やっぱり」


 ギルは焦ったように言葉を並べ始めたが、その言葉の端からも嫌いだということが分かった。

 多分、ギルは優しいからレイチェルをどうしようもなく嫌いだとしても、それをレイチェルには知られないようにしようとしてくれている。レイチェルが傷つかないように。

 レイチェルが劇団員であるから、他の劇団員と変わらずに同じ態度で接してくれている。

 やっぱり本当に良い団長だなあという思いと、やっぱり自分は嫌われているんだと思いを含めて、レイチェルはそう呟いた。


 ギルはその呟きに、レイチェルの方をばっと見た。

 そして、眉を下げて悲しそうな表情を浮かべると、勢いよく頭を下げた。


「誤解させてしまってすまなかった。俺は貴族嫌いではあるが、レイチェルのことは嫌いではない。うちの劇団に入った時点で他の何者でもない大切な仲間だ。出会いが最悪だったからな。レイのことを何も知らなかったとはいえ、色眼鏡で見て酷い言葉を浴びせた。あの時もすまなかった」

「え……じゃあ、団長は私のことを嫌ってはいないんですか?」


 レイチェルは思ってもいなかったギルの行動に驚きながらも、そう聞いた。

 頭の理解が追いつかない。自分が聞いているのは幻聴かもしれない。

 すると、ギルは下げていた頭を上げ、今度はレイチェルの目をしっかりと見つめ、真正面から向き合った。


「そう言っている。辛い練習にも耐え、毎日自主練を欠かさないような努力家で、下っ端としての扱いにも文句の1つも言わない。

 演劇を、それに関わる全てのことを本当に楽しそうに取り組んで、見ているだけでレイが演劇を好きなことがありありと分かる。そんなお前を団長として、劇団員として、同じ演劇好きとして好ましく思っているよ」


 そして、ギルはレイチェルに優しく笑った。

 鋭い目つきではあるが目尻が少しだけ下がり、強面の内面に隠れた優しさが表れているようだった。


「そっかあ……良かった」


 レイチェルは心から安堵してそんな言葉が口から漏れ出していた。

 ギルはレイチェルのことを嫌っていない。

 それどころか、こんなにもレイチェルのことを見ていてくれたということが嬉しかった。


「……ところで、もう体調は大丈夫か?」

「はい。団長に看てもらっていたので、大分良くなってきました。ありがとうございました」


 心配そうにレイチェルを覗き込んでいたギルは、安心出来そうなそんな回答に眉を寄せた。


「顔色もさっきより良くなっているし、病気ではなさそうで良かった。疲れによるものか……悪い、俺がお前に無理させすぎていたか?つい、演劇に熱心でどんどん色々なことを吸収していくお前と稽古するのが楽しくてな。お前はそこらの男よりもよっぽど根性はあるが女の子だからなあ。今度から少し稽古を減らすか」

「いえ!そんなことはありません!私も団長との稽古は楽しくて、もっと増やして頂きたいくらいです。これは自分の管理能力がなっていなかったせいで。全部、私のせいなんですから、謝らないで下さい!」


 謝るギルに、レイチェルは焦って否定した。

 本当に全く少しもギルのせいではない。

 レイチェルが自分の限界を知らなかったせいだ。

 それでも、団員の許容量を測れなかった自分の責任だと引き下がらないギルに、レイチェルは全てを話した。

 ギルに隠れて遅くまで自主練していたことも、衣装を作っていたことも。

 それを聞いたギルは呆れたように、はぁ……と大きくため息を付き、表情を緩めた。

 そして、レイチェルへと手を伸ばした。


「わあ」

「レイ、お前は本当によく頑張っている。頑張りすぎなくらいだ。俺はそれをよく分かっている。お前のことをもうとっくに認めている。今まで、偉かったなあ」


 そう言って、レイチェルの髪を掻き乱すように、それでいて優しい手つきで頭を撫でた。

 そして、だんだんと柔らかく、ゆっくりゆっくりと撫で続けた。

 レイチェルはその自分の存在をしっかりと認めてくれているような温かい手の平に、泣きたくなるような優しい手つきに、今まで蓋をしていた感情が溢れ出した。


 こうやって、誰かに認められたかった。

 自分のことを見て欲しかった。

 今までずっと辛かった。でもそれを辛いと思っても泣くことはなかった。

 それが普通だと思っていたから。

 でも、こんなにも暖かな世界を知って、欲しかった言葉をもらって、レイチェルは泣き出さずにはいられなかった。


 レイチェルの瞳からは次から次へと涙が溢れ出す。

 止め方なんて分からない。分かっていても止められなかっただろう。

 何年分も蓄積された涙が今、ようやく流れ出したのだから。


 そんなレイチェルをギルはぎゅっと抱きしめてくれた。

 レイチェルはその腕の中でさらに涙を流した。

 温かいギルの腕の中でひとしきり泣いたレイチェルは、疲れ果てて瞼が重かった。

 泣くということが、こんなにも体力をつかうことで、だけど泣いた後こんなにもすっきりした気持ちになれることを初めて知った。


 重い瞼を必死に押し上げようとしているレイチェルの目が、大きな手の平に覆われた。

 そして、ゆっくりと横に倒されると、レイチェルはもう眠気に抗うことはできなかった。


「たまにはゆっくり休め」


 温かい手の感覚と、そんな優しい囁きが、まどろんでいく意識の中で聞こえた。




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