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3.お願い

 



「うーん。なかなか落ちないなあ」


 レイチェルはたらいに水を張り、頑固に汚れた服をごしごしとこすっていた。

 今まで家事なんてしてきたことのないレイチェルにとって、そんな洗濯一つ取っても大変な仕事だ。

 それでも、レイチェルは目をきらきらさせながら服をこすっていた。


 レイチェルが入団してからすぐに劇団はレイチェルがいた街、グデータを去った。

 元々ここは移動劇団であるので、フェスティバルが終わったら去るのが当たり前だからだ。

 でも、そのことはレイチェルにとっても有り難いことだった。

 レイチェルが屋敷からいなくなったと大騒ぎになる前に、この街を無事に抜け出すことが出来たのだから。


 それからは、本格的にレイチェルの役者としての人生が始まった。

 そして、レイチェルがギルにしごかれる日々の始まりでもあった。

 まず、レイチェルは体力を付けるところから始まった。

 ほとんど外に出たことのなかったレイチェルは圧倒的に体力が少ない。

 役を演じるどころか旅について行くこともやっとだった。

 それでも、ギルはそんなレイチェルを甘やかすことはせずに普通の劇団員と同じように扱った。

 腹筋、腕立てなどの体力作りに加えて、新人役者としての発声、表現などの練習、下っ端としての家事などの雑用もレイチェルにやらせていた。

 レイチェルは夜が来ると倒れるように眠り込み、その疲弊ぶりは他の団員達が同情の目で見るほどだった。


 それでも、レイチェルはそんな忙しい日々がとても嬉しかった。

 今まで何もさせてもらうことは出来ずに時間をただ無駄に過ごすだけだった。

 だから、こんなふうに役者の稽古をすることはもちろん、動けなくなるまで身体を使うことも、料理、洗濯などの仕事をすることもレイチェルにとっては全部新鮮で楽しかった。




「レイ、頑固汚れにはこの粉を使うと良いわよ」


「シェリル!そうなんだね、ありがとう!」


「いえいえ。でも、ほんとレイは頑張り屋さんだね」


 レイチェルが汚れと格闘していると、後ろからそう言って女の子が白い粉を渡してきた。

 その子はレイチェルと同じ劇団員のシェリルだ。

 シェリルはレイチェルの一つ年上と劇団の中で一番年齢が近く、何かとレイチェルのことを気に掛けてくれていた。

 レイチェルに劇団のルールや慣れない家事のコツなんかをいつも教えてくれる。

 そして、“レイ”というのがここでのレイチェルの名前であった。

 劇団に入るときには劇団名というものを付ける。

 それは本名でも自分で付けたものでも他の人に付けてもらったものでもなんでも良いのだという。

 レイチェルには特にこだわりもなく、本名以外だったらどんな名前でも良いと思っていたから団長に直前まで付けてもらうつもりでいた。

 団員の中には団長に劇団名を付けてもらった人が多いというのも聞いたから。

 だけれど……


 ―――レイ


 団長に名前はどうするかと聞かれたとき、レイチェルの頭の中にそんな風に自分のことを呼ぶ声が聞こえた気がした。

 それはとても懐かしく温かい響きだった。

 頭の中に二つの人影が浮かぶ。

 ああこれは幸せだったあの頃の記憶だ。

 レイチェルの大切な家族、本当の父と母にそう呼ばれていたことを思い出したのだった。

 またそんな風に自分の事を呼んで貰えたら。

 そう思い、レイチェルは劇団名を“レイ”に決めた。




「あとね、レイ、そういう普段の服なら良いんだけど、衣装とかは痛みやすいから優しく洗うように注意してね。今度、洗い方を教えるわ」


「うん、わかった。気を付けるね。ありがとう!」


 庶民であれば常識であることもレイチェルにとっては聞いたこともないことで知らなかったりする。

 でも、シェリルはそんなレイチェルに呆れることなく優しく教えてくれていた。

 そんなシェリルにレイチェルは感謝してもしきれない気持ちでいた。


「あ、シェリル。上着の背中、裾のとこ破れちゃってるよ」


「え、嫌だわ。どこかに引っかけちゃったのね。これお気に入りだったのに」


 レイチェルに指摘されて上着の穴をみたシェリルはとても残念そうな顔をした。

 その上着はシェリルがよく来ているもので手入れも丁寧にしており本当に大事にしていることをレイチェルも知っていた。

 だから、何とかしてあげたいとそう思った。


「あのさ、もしよかったら、私に繕わせて貰えないかな?」


「レイ、お裁縫できるの?じゃあ、お願いしちゃおうかしら」


 レイチェルは自分で提案してから思ったことであったが、家事もろくにできない自分が裁縫を出来るなんて信じる方が難しいことだろう。

 出来たとしても下手だと思うのが普通だ。

 でも、シェリルはレイチェルに対して嫌な顔一つすることもなく、それどころか嬉しそうにレイチェルに上着を渡した。

 本当にいい子だなあとレイチェルは頬を緩ませた。

 そんなシェリルの態度にレイチェルはますます彼女のことが好きになり、こんな仲間のいる劇団に入れたことに改めて幸せを感じたのだった。




 残りの洗濯を終えてから、二人はテントに戻りレイチェルの裁縫が終わるまでの間、たわいもない世間話をした。

 今まで、レイチェルは日々の稽古や仕事をして旅について行くのがやっとで他の団員達とあまりゆっくりと話すことは出来ていなかった。

 ようやくこの生活にも慣れ少しは余裕が出来て、こうして話せる時間が出来たことが嬉しかった。


「そういえば、団長、今日とっても機嫌が悪かったわね。次の公演場所の契約に行くって言ってたから、貴族とでも何かあったのかしら」


「え?契約はうまくいったって他の人から聞いたよ。なんで機嫌が悪いのかな?」


「うーん、契約を結べたのは嬉しいことなんだけどね、団長って根本的に貴族っていうのが嫌いみたいなのよね。昔、何かあったのかしら?」


 ―――貴族が嫌い

 シェリルのその言葉を聞いたとき、レイチェルは頭を鈍器で強く殴られたような衝撃を受けた。


 ああ、そうか。

 だから団長はあの時、自分をあんな目で睨んでいたのか。

 自分で働きもせずに遊んで暮らしているような典型的な貴族だった自分のことも嫌いなはずだ。


 そう思ったレイの胸にズキリと痛みが走った。

 その事実が自分にとって大きな痛みとなっていることに驚く。


 でも……と、レイチェルは今の自分の状況を振り返ってみた。

 ギルはたとえレイのことをどう思っていたとしても、レイチェルの入団を認めてくれた。

 レイチェルに劇団の力となるような見所を見つけてくれたのかも知れない。

 レイチェルに仕事を与えてくれた。

 レイチェルに居場所を与えてくれた。

 ギルのしごきでさえ、レイチェルにとってはギルが与えてくれる大切なものだった。


 だから、ギルにこれ以上嫌われないように、少しでも好きになって貰えるように、見捨てられないように頑張ろう。

 密かに、レイチェルは強くそう決意した。


「……レイ?」


 少しの間、黙り込んで俯いていたレイチェルにシェリルが心配そうに声を掛けてきた。


「……よし、完成。お待たせ、ちゃんと直ったよ」


 レイチェルは悟られないように努めて明るく振る舞った。

 そして、本当に完成していた上着をシェリルに手渡した。


「え、なにこれ!前より可愛くなってるじゃない!レイ、すごい才能があったのね!」


 上着の補修部分を見たシェリルはぱあっと顔を明るくして喜んだ。

 その部分はただ繕っただけでなく、綺麗に花の刺繍をしていたから。

 レイチェルがあの一人ぼっちの屋敷での2年間で無駄に上がってしまった刺繍の腕をこういった形で活かすことができるのが嬉しかった。

 あの時間が無駄なことだけではなかったと、錯覚させてくれるような気がするから。


 シェリルは本当に嬉しそうに花の刺繍を見つめていた。

 また穴が空いてしまうんじゃないかというほどじっくりと。

 そして、少し何かを考えるような仕草をした後、急に顔を上げ、ばっとレイチェルの両手を掴んだ。


「ねえ、レイ!あなたの腕を見込んでお願いがあるんだけど………」




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