2.野生の鳥
レイチェルは屋敷の倉庫にあった侍女の服に着替えると、以前見つけていた壊れた柵の隙間から屋敷の外へ抜け出した。
大人しく聞き分けの良い婚約者であるレイチェルがこんなことをするなどとは考えていなかったようで、門番はいるもののそれほど厳重な監視はされていなかったので、脱走はあっけないほどにうまくいった。
今日はフェスティバルの最終日。
町中が最後の盛り上がりを見せる中、レイチェルは真っ直ぐにある場所を目指した。
かごの鳥だったレイチェルは“野生の鳥”の集まるところへと。
最終公演の席に着いたレイチェルは安堵したように息を吐き、舞台を見上げた。
またこの舞台が見られることに喜びを感じると共に、これから自分がしようとしていることに緊張も感じていた。
でも、まずは思い切りこの舞台を楽しもうと上がり始めた幕に胸を躍らせた。
(今回も、素晴らしかったなあ……)
最終公演ということで、観客達がぞくぞくと劇場から帰っていった。
レイチェルも舞台の余韻に浸りながら劇場を後にした。
が、そのまま屋敷には帰らずに近くの茂みに身を潜めた。
そして、全ての観客がいなくなり劇団員たちが打ち上げの宴会を始めた頃、レイチェルは行動を起こした。
新しい世界へと飛び込んで行くように、思いっきり劇団の扉を開いたのだった。
「私をこの劇団“Wild Bird”に入団させて下さい!!」
人生で一番というくらいの大声でレイチェルはそう言い切った。
ご馳走や酒やと騒がしかった宴の席は、そんなレイの声に静けさが訪れた。
酒や摘まみを食べていた人達の視線がレイに集まる。
レイチェルを驚いたような目で見る人や、怪訝な表情で見る人、嬉しそうな笑顔の人、面白そうに口の端を上げる人など、その反応は様々ではあったが。
そんな風に大勢の視線に晒されたことなどないレイチェルが怯みそうになっていると、1人の人物が彼女に近づいて来た。
大柄でさっぱりとした髪型のその男は豪快に笑いながら、レイの背中を押して宴会の席に引き入れた。
「おーおー、良いじゃねえか。お嬢ちゃん、威勢が良いなあ。お嬢ちゃんならきっとすぐに大人気のヒロインになれるぜ。お姫様役とか似合いそうだなあ」
調子良くそんなことを言った男の顔は赤く、息も酒臭かった。
酔っ払っていることがありありと分かる。
そんな男の態度に、レイチェルは相当の覚悟を持って言った言葉が軽く見られているようで、内心顔をしかめそうになった。
それに、そんな役じゃなくてもっと自分とかけ離れた活発な役をやりたいだなんて、分不相応なことも考えていたから。
でも、どんな形であっても自分を入団させてくれるというのであれば、レイチェルは諸手を挙げて喜ばずにはいられなかった。
ここに入団しないことには、何も始まらないのだから。
「ありがとうございます。では、私の入団を認めて……」
「駄目だ。入団は認めない」
レイチェルが、入団を認めていただけるのですね、と言葉を続ける前に、その言葉を遮るように厳格な声が響いた。
決して張り上げた声というわけではないのに、ここにいる全員の耳に届く張りのある声。
これが、これこそが役者の声か。
レイチェルは自分自身に向けられた威圧感に怯みながらも、意識の一端でそんなことを思った。
その声の主はレイチェルが入ってきた扉から現れたようで、その場にいた全員の視線がその人物に移動する。
背が高く、整った顔立ちをした男で街に出れば女性がすぐにでも寄って来そうな見た目のようにも思えるが、鋭い目つきがその全てを打ち消していた。
切れ長の目は男らしく魅力的だと捉えることも出来るが、その強い眼光に刺されたレイチェルは居すくまずにはいられない。
レイチェルは思わず、その瞳から逃げるように目を反らした。
「団長、早いお帰りで。つーかなんで駄目なんだ?1人くらい増えたところで何の問題も無いだろう。入りたいって言ってるんだから、入れてやれば良いじゃねえか」
先ほどまでレイチェルと話していた大柄な男が目つきの鋭い男……団長と呼ばれたその男にそんな風に意見した。
そんな横やりに団長が大柄な男をギロりと睨むが、それほどこたえていないようだ。
団長ははー、と深くため息をつくと再び口を開いた。
「ゴードン。お前、相当酔っているようだな。劇団の入団条件を忘れたのか?ひとつ、自分ではない別の何かになりたいと望む者。ひとつ、努力を惜しまず、常に高見を目指せる者。ひとつ、強い覚悟を持った者」
団長は大柄な男、ゴードンにも、レイチェルにも言い聞かせるように力強く条件を伝えると、レイチェルに視線を送った。
「そこにいるお嬢さんをよく見てみな。艶のあるよく手入れされた綺麗な髪にあかぎれ一つない水仕事をしたこともないような滑らかな手、移動は馬車が当たり前の長く歩いたこともないようなやわな細い足。どこぞのお貴族様かは知らないが、この世界はそんなに甘いもんじゃないんだよ。何の苦労もせずに暮らしてきたお嬢さんのこのフェスティバルに浮かされた覚悟なんてたかが知れている。それに、女役はもう必要ない。分かったらさっさと何不自由ない、きれいなお嬢さんのいるべき世界に帰りな」
団長は吐き捨てるようにレイチェルにそう言った。
団長が認めないのであれば、どうあってもレイチェルは入団できないのだろう。
レイチェルは自分に投げつけられた言葉を黙って聞いて受け入れていた。
侍女の服で身を取り繕ったところでレイチェルはレイチェルのままなのだから。
見る人が見れば分かってしまう。
レイチェルが今まで何の仕事もしてこなかったことを。
そして、団長に言われたことは全て真実であり、レイチェルには何も言い返すことはできなかった。
この劇団に入団できないのであれば、レイチェルにはあの屋敷に帰るしか選択肢はない。
それに屋敷を抜け出したことは恐らくまだ気が付かれてはいないだろう。
今なら簡単に引き返せる。
今までと同じように安全に守られた何不自由ない意味の無い暮らしに。
そんな代わり映えのしない未来を想像したとき、突然レイチェルの中で何かが弾けた。
それは今までレイチェルが自分の中に閉じ込めて、押し込めて、ずっと押し殺し続けていた気持ちだった。
嫌だ。嫌だ。
もう一人ぼっちのあの家になんて帰りたくない。
このまま変わらない人生を送るくらいだったら、いっそのこと………
「「キャアア!!!」」
ガシャンッ!と響いたガラスの割れる音に女性達の悲鳴がかぶさる。
そして、その場にいる人達はその音の先……落ちていた酒ビンを机に叩きつけて割り、大きな音を立てたレイチェルに目を向けていた。
自分を侮辱した団長に怒り狂って報復でもしようというのか。
底が割れ、先が凶器のように尖ったビンを持ったままのレイチェルに警戒し、距離を置く。
しかし、レイチェルはそのビンを持ち上げたかと思うと、自分の首元に持って行った。
まさか、ここで自殺する気か!?
レイチェルの予想外の行動に、皆一様に酷く驚き、焦るも止めるのも間に合わない。
あわや血濡れた現場になるかと周囲の人々が目を覆ったとき、レイチェルはそのまま腰まであった長く清らかな髪を、そのビンの先でばっさりと切り落としたのだった。
そして、顔を上げたレイチェルは団長に負けないほどに強い眼光で彼を睨んだ。
今度は決して目を反らしたりしない、というようにしっかりと前だけを、彼だけど見据えていた。
「……覚悟が足りないって言うんだったら認めて貰えるまで、何だってしてみせる。何不自由ないけれど、あんな見せかけだけの空っぽの家に帰って一人きりの寂しい人生を送るくらいなら………こんな髪も人のために何もしていないような手も、どんな枠すら全部いらない!男役だって獣役だって何だって演じてみせる!私は自由に生きたい!」
かごの鳥だなんてくそくらえ。
かごの中から飛び出して野生の鳥になりたい。
大空を自由に羽ばたきたい。
レイチェルは興奮して、ふーふーと肩で息をしながら、仁王立ちでぎっと団長を睨み続ける。
睨まれている団長もレイチェルから視線を逸らすことなく、この二人の間に一触即発の空気が流れていた。
そんな中、ゆっくりとレイチェルに近づく団長の足音だけがこだまする。
レイチェルまであと一歩、というところまで近づいた団長はなおも威嚇するレイチェルに対して、ふっと小さく息を吐き、相好を崩した。
レイチェルは思ってもみなかった団長の態度に呆気にとられる。
そしてその綺麗な笑顔に思わず見とれてしまっていた。
その隙に、団長はレイチェルの手の中から彼女の手には似合わない物騒なものを引き抜いたのだった。
「役者は指先の繊細な動きでさえ、全てを使って表現する。そんな危ない物を持って、怪我でもしたらどうするつもりだ。意識が足りないぞ。それに、声。気持ちを乗せることは出来ているが、全然腹から出せていない。まずは発生練習からだな。自由に役を演じるのはそれからだ」
一度口を開いたかと思うと、彼の口からするするとそんな言葉は飛び出してきた。
予想外の彼の言葉にレイチェルはさらに呆気にとられた。
彼の言葉はまるで劇団員にかけるようなものに聞こえたのだから。
「え……じゃあ……」
混乱しながらもそう呟いたレイチェルは、瞳に希望の光を浮かばせていた。
そんなきらきらとした光りにみせられたように、団長はさらに優しく笑いレイチェルの頭を撫でた。
「見た目だけで決めつけて悪かった。お前はなかなかに見所のある奴だ。きっと良い役者になれる。ようこそ、我が劇団“Wild Bird”へ!俺は団長のギルだ。お前を劇団の一員として歓迎する」
ギルがレイチェルにそう告げた途端、大きな歓声があがった。
ことの成り行きをじっと見守っていた団員達の喜びの声だ。
皆、レイチェルの心の叫びのような覚悟に胸を打たれていた。
こうしてレイチェルは新しい仲間達に歓迎されながら、劇団“Wild Bird”の一員として、役者としての人生を歩み始めた。