2-27 PM13:55/VS.ナックル・ザ・ビッグスタンプ
上空数百メートル。
コックピット席から見上げた先に浮かんでいるのは、飛び石のように広がる雲という雲だ。
「(さて、いかにして突破するか……)」
ベルハザードの目が周囲に注がれる。コックピット席の四方は、上下からスライドしてきた頑丈な鉄格子に囲まれ、鉄枠に沿ってびっしりと鉄条網が這っている。網目のわずかな隙間からプロメテウスの中層を見下ろしつつ、太陽の祝福を浴びた鬼血人は思考に耽る。
仇敵・エヴァンジェリンとの邂逅。あの裏切り者を取り逃がしてから、すでに三時間近く経過していた。それでもまだ、ベルハザードが奪い、しかし逆に彼を閉じ込める機能を発現させた有人式重警備ドローン《ガルグイユ》は、管制塔からのオートドライブ制御を受けているものの、第一緊急離着陸場へは辿りついていない。ドローンの速度は欠伸が出るほどに遅滞していた。ほとんどホバリングしながら飛行している、といった表現が似合うほどだ。その理由については、考えるまでもなかった。
五年前に鬼禍殲滅作戦で絶滅に追いやったはずの鬼血人。それが再び舞い戻ってきたというニュースは、すでに都市の有力者たち、および治安維持を担う組織にも通達済みである。葬り去ったはずの悪夢が蘇った事実を前に、いかなる対策を取るべきか――意思決定を下すまでの時間稼ぎとして、電子的工作を働きかけてドローンのエンジン出力を抑えているのだと見て、まず間違いはない。
家畜たちの慌てふためいている様が、ベルハザードには容易に想像できた。だからと言って、決して良い流れに乗っているとは断言できなかった。『時は金なり』とは人の世界の常にして、鬼血人にも当てはまる普遍の真理だ。家畜の分際である彼らに、迎撃態勢を整えるだけの時間を与えてしまっているというのは虫唾が奔る。それに、計画が当初の予定から大きく狂ってしまった。これがひどくベルハザードを暗澹たる気分にさせていた。出来る限り人目に触れず、エヴァンジェリンを発見次第、手早くその首を取る。そのつもりでいたからだ。
数時間前――アルコールを補給した後、たまたま最下層で目にした街頭ビジョン。階層間エレベーター《十二番》襲撃の緊急ニュースが流れた際――そこで追い続けていた敵の存在を見止めて、心臓が撃ち抜かれたかのような衝撃を覚えたのは、記憶に新しい。
どれだけ服装を変えていようとも、髪の色を変えて誤魔化そうとも、カラーコンタクトをはめて瞳の色を偽装したとしても,、ベルハザードには分かった。分かってしまった。街頭ビジョンが映し出す映像。フィルターが一枚かまされた世界の向こうで、彼は確かにエヴァの息遣いを聞いた気がした。
エレベーターの壁を懸命に登ろうとする、その一挙手一投足。ただの肉の運動にすぎないそこに、ベルハザードは癖を見出していた。腕や足を伸ばす際に、関節がどう曲がるか、どんな要領で体を操るか。その全てをインプットしていた。毎日、毎晩、毎朝……心に誓った本懐を成し遂げるために、エヴァのことを考えてきた。エヴァを殺すことだけを。
その狂気めいた圧倒的執念のセンサーが、あらゆる偽装を打ち破り、真実を掴み取った。
己の行動選択が誤っているとは思えなかった。あのまま指を噛んで街頭ビジョンを観察し続けるなどという、愚劣にも過ぎる道を仮に選んでいたら、接近することすら叶わなかったろう。
だからこの状況は、悪手ゆえに生まれたものではない。むしろ、出来得る限り最良の選択をしたはずだと、ベルハザードは自身に言い聞かせた。その結果として新たな障害が立ち上がってきたのなら、ただ打ち破るだけだ。
そう、ただ打ち破るだけのこと。
いかなる障害も、いかなる難行も、いかなる壁も、己の心に秘めた誓いを達成するためなら容易にクリアして当然のはずである――意識を更新し、焦る衝動を掻き消して、ベルハザードは自らに言い聞かせた。これは試練なのだと。目的を達成するために乗り越えなければならない、そして乗り越えて当然の試練であると。試練を前に敗北するようでは、到底、太母の敵討など成し得るはずもない。
聖戦に臨むのであれば、聖戦士に相応しくあれ。
辛酸を舐め尽くして、なお鋭き爪牙を保っていられるようでなければ、なにが鬼血人か。なにが『戎律』か。
太母の無念。信じていた同胞の手で命を奪われたという、筆舌に尽くしがたい悲劇――その暗き冥府の中心へ深く潜り、想像の中で彼女の辛苦を追体験すればするほど、ベルハザードの中で悲哀の想いは肥大化し、怒りの炎がますます燃え上がる。
「(この身はもはや、風前の灯火の到来が約束された身。しかしそれゆえに――)」
なおのこと、活力に満ちるというものだ。試練を克服するための活力が。だからこそ、ベルハザードは事ここに至って、あえて何もしないという選択を取った。
家畜どもがどのような策を練ろうが関係ない。こちらは泰然自若としてあるべきだ。その強者然とした姿勢を以て障害を突破し、エヴァンジェリンの首を取ってこそ意義がある。そのように方針を改めた。
何も考えなかった、というわけではない。その証拠に数分前、ベルハザードの視線がドローンに搭載されているトランスポンダへ向けられたのは事実だ。そもそも鬼血人は、飛空艇を駆り、都市を襲っていた一族だ。当然、航空技術に関する知識は持ち合わせているし、トランスポンダが接続されている機器も容易に見当がついた。コックピットに座っている今の位置から見て、やや左斜め下。ダイヤルが四つ並んだパネルがそれだ。四方八方を鉄格子に囲われ、鉄条網が張り巡らされているとはいえ、血騰呪術の精密なコントロールを以てすれば、破壊することはたやすい。
トランスポンダを破壊すれば、ドローンに搭載されている二次レーダーは機能不全に陥る。そうなると、管制側ではドローンの位置を知ることはできても、高度までは掴めなくなる。これは大きなアドバンテージになり得るように思える。位置が分かっても、ドローンの高度が不明であるなら、それはすなわち、着陸時の侵入角度が不明であることに繋がる。
着陸所で待機しているであろう市警の面々にとっては、恐るべきことだ。一時ではあるが、現場では混乱が生まれるだろう。管制側で一次レーダーを引っ張り出し、定規と鉛筆でおおよその高度を割り出すことは可能かもしれないが、それなりに時間を要するはずだ。
ベルハザードはそこまで考えて、しかしあえて、トランスポンダを破壊しない道を選んだ。操縦桿の制御が手元にある時ならともかく、オートドライブに移行しているこの状況では、得られるアドバンテージは薄い。手綱が握られている状況をどうにかしない限りは。
たとえば、自動運転を強制解除する違法プログラムを注入し、管制側からの割り込みをブロックすれば話は変わってくる。だが言うまでもなく、ベルハザードにそこまでの電子的準備はない。
動きは封じられ、有効な手立てを打てる可能性もゼロに近い。ならば待つ。己のやるべきことを脳裡で反芻しながら、臨機応変に目まぐるしく展開する状況へ対処するだけだ。
ベルハザードが覚悟を整えた矢先のことだった。
下界を見下ろす視線の先、不意にそれの輪郭が迫ってきた。
自己主張の強すぎる巨大なHのマーク。分厚い格子状の鉄骨で十重二十重に編まれた超高層ビル。その最上階屋上。他と比較しても一回り大きな第一緊急離着陸場。
れっきとした企業連合体が保有する施設だ。普段は緊急の消防活動として利用されるくらいで、こういったケースで利用されるのは極めて稀である。おそらくは利用客の安全面を考慮して、運送会社の提供する公的なドローン用ヘリポートへ怪物を乗せたそれを着陸させるわけにはいかなかったのだろう。
しかし、だとすると、眼下に見える第一緊急離着陸場の様相は――不自然極まる。
なぜ離着陸場に迎撃部隊が一つとしてないのか?
漠然とした、それでも確かな不穏を予感した拍子に。
【天国だよ! 天国だよ! キヒヒヒヒィイイイイイイ!!】
突如として、無線を通じて轟く、奇怪な哄笑。
【天国! 天国に! 天国が! 連れてって……連れて! 行く! 行くので! キヒ! キヒヒヒヒィイイイイイイ!!】
躁めいた叫びの意味を考える余地も無いままに、ぐん、と、体にかかる重力の方向が変わった。
予断を許さない状況へ突入していくその最中、ベルハザードは機敏な動作で腰に下げ佩いた斧を手に取ると、眼にも止まらぬ速度で斬閃を走らせた。
夕焼け色に染まる扁平にして鋭利な刃で、鉄造りの檻を瞬く間に寸断。自由になった身で、窓越しに外の様子を伺い、瞬時に理解する。
ドローンの飛行速度が急激に増している。急降下だ。まず間違いなく、着陸場へ落下している。オートドライブに異常が発生したのか? 否、原因は恐らく、先ほどの不気味な哄笑。機体の変調から察するに、電子的ハッキングによる操作を受けたと見て違いない。やり手の電子戦担当者が警備についているのか? だが、いま優先すべきは、姿の見えない敵を想像することではなく、状況の好転である。
このままビルへ激突するのを許せば、いくら驚異的な再生力を誇る鬼血人といえども、ひとたまりもない。ただでさえ、まじり物の身体であるのだ。ベルハザードの鬼血人としての肉体的特質性は著しく低下している。要らぬダメージを負って無駄な血を流している暇などなかった。
落下速度を増していく機体。それに構わず、ベルハザードはコックピット側のドアを勢いよくスライド。不規則に吹き荒れるビル風が流れ込む。荒々しく襲い掛かる風の渦が、真っ黒なコートをめちゃくちゃに翻す。
常人なら目も開けられぬほどの風圧の中、ベルハザードは――右こめかみ付近に、あばたのように広がる黄濁した大小八つの目はともかくとして――二つの赤き眼差しをカッと見開き続け、瞬時に着地点を割り出す。
天国の垂木を揺らすかのような強烈な振動が機体を蝕む。並の者なら立つこともままならず、焦燥の末に理性を失い、脱出などままならない火急の事態。だが、数々の死線を潜り抜いてきたベルハザードは決して臆しない。ドローンがビル屋上へ接近するギリギリの頃合いを見計らって、軽やかにコンリートへ跳躍。瞬時に体を丸めると毬のように転がり、着地の衝撃を分散。転がる勢いを殺しきる前に右膝を立て、左手を床について半身を起こしたところで、ドローンが離着陸場へ頭から突っ込んだ光景がベルハザードの視界に飛び込んだ。爆発と炎上を何度か繰り返した挙句、ドローンは過脊燃料由来の黒煙を噴き上げ、残骸を辺り一片へ撒き散らす。
脳の活動状態をデフォルト・モード・ネットワークへ切り替える。自律神経を超活性化。全環境下での生命活動適応状態へ移行。素早く周囲に視線を巡らせつつ、物陰に隠れ潜んだ。
屋上へ唯一通じる出入り口。その分厚い鋼鉄の扉が、何の前触れもなく蝶番ごと豪快に吹き飛んだ。驚いて顔を上げると、入口の向こうから馬鹿みたいに大きな腕が伸び、異様に盛り上がった肩が現れたのが見えた。
そして、腕がさらに伸びた拍子に、ごばっと音を立てて、入口の壁が粉々に崩れた。辺り一帯に重く立ち込める粉塵が、風に浚われる。
陽の下で露わになった怪物としか言いようのない男を、ベルハザードは物陰からじっくりと見上げた。何から何までがキングサイズの男だった。二つの拳は余裕で床につくほどに大きく、腕も電柱を二本束ねたような太さをしていた。あまつさえ両の肩は、小山のように盛り上がっている。
背中の筋肉は笠のように逞しく広がっており、そこから扇形に十三本の排気用パイプが外側へ生えている。なぜそんなものが必要なのか。答えは男の下半身の構造にあった。通常の足の代わりに、小型のエンジンと分厚いオフロード・タイヤが一輪だけ備わっているのだ。
山を擬人化させたような男は、大猩々を彷彿とさせるナックルウォーキングで床を踏みしめ、キョロキョロと辺りを伺っている。獲物を探しているのだろう。
壁に身をひそめながらわずかに顔を覗かせたベルハザードは、思わずぎょっとなった。盛り上がった肩に挟まれた男の顔が目に入ったためだ。ともすれば愛らしさを覚えかねないくらいに小さく、そして童顔。
だがそれ以上に、ベルハザードの意識を強く引き付けるものがあった。男が無理くり着込んでいる、明らかにサイズが合っていない赤色のタンクトップがそれだ。腹と背中の部分が、銀色のボタンで留められている。ただのタンクトップではなく、元々はジャケットを改良して造られたものだ。タンクトップの襟付近に刺繍された紋章から、ベルハザードはそのことをただちに察した。
十字架の形をした剣に貫かれる竜。そのマークが意味するところ。
家畜の中から現れた、突然変異の狩人であることの印に他ならない。
「(あの忌まわしき戦士の、生き残りか!)」
その出現を想定していたとはいえ、目の前に堂々と姿を現したそれは、ベルハザードの記憶に残っている姿からは、あまりにもかけ離れていた。
何らかの疾病にかかったのか? それとも、この日を想定して更なる肉体強化の手術を重ねた末に、精神が崩壊したとでも言うのか。一見したところ、理性すらも失われているように思える。鬼血人を絶滅させるという、たった一念だけを残して、他の全てを捨て去ったのだろうか。
疑念と共に脳裡を掠める呪文――これは『試練』なのだという囁き。
いかにして先手を打ち、状況を打破するか。そんな思考の上澄みが、恐らく殺気となって洩れてしまったのだろう。物陰に潜んでから足音一つとして立てていないというのに、さっと怪物の表情が変わった。小さな小さな童顔。青々と光る眼差しが、喜色に歪んでこちらを捉える。
――接敵。
「ボクとケッコンしてくだサァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!」
要領を得ない雄叫びを上げて、《緋色の十字軍》改め《天嵐》が一人――ナックル・ザ・ビッグスタンプの下半身が加速。エンジンが獰猛な唸りを上げ、背中の排気パイプが轟音を奏でる。
爆速――オフロード・タイヤの急回転。異名通りの馬鹿でかい両拳 で床を踏みしめ、加速をつけて突進を敢行。
直線的な動き――まともに喰らえば粉微塵になるのは必至。
「ちぃっ!」
すかさず空いた左のスペースへ跳躍。飛来する巨拳とすれ違いざまに、素早く手斧を振るう。
裂傷――ナックルの右拳。
血飛沫が舞い、陽の光に煌めく。
肉を斬った感触が手元に残るも、ベルハザードは距離を取って舌打ち。
「(硬い……やはり身体の機械化による強化!)」
鋼鉄製の檻を易々と寸断してみせた斧刃を以てしても、軽傷しか与えられないという驚愕の事実=外科的・科学的処置により強化されたナックル自慢の充実した筋骨。圧倒的な防御力の証明。
「ボクとケッコンしてくだサァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!」
童顔の怪物は手斧でつけられた傷を省みることなく、おぞましい叫喚を撒き散らしながら、極太の右拳をコンクリートの床へ打ち放った。
超震動発生――七十階建ての超高層ビル全体を縦に貫く衝撃音。
拳が床にめり込んだ瞬間、爆発に次ぐ爆発が生じる。ロケット砲に匹敵する拳の一撃が生み出した爆炎は、蛇のごときうねりを見せてベルハザードを追撃。
リズミカルにステップを踏んで迅速にこれを躱しつつ、ベルハザードは手斧を持つ右手はそのままに、空いた左手を高く掲げると、指をかぎ爪のように曲げて思い切り前方へ突き出した。
途端、ベルハザードの左手で赤黒い霧がはげしく渦巻き、たちまちのうちにサッカーボール大の正六面体へと形状を変え、手の平から分離した。
血騰呪術発現――《僥倖なる命の運び手》。階層間エレベーターでの一戦では主に移動手段として活用した己の能力を、今度は武器として操ろうというのだ。
仕手の意気込みに応じるかのように、赤黒い正六面体の全ての面部から、凄まじい速度で触腕が伸び起こる。かつて大陸中の都市を襲い、人界を震撼させてきた魔性の幾何。ベルハザードをベルハザードたらしめている力の結晶だ。それがもたらす触腕の乱舞は、ときに鞭のようにしなやかに、ときに刃のように鋭く、これまで数多くの獲物を締め上げ、千切り飛ばし、叩き潰してきた。
一見すると、触腕は正多面体の引き延ばしや成形によって生じたものに見えるが、実際は違う。図形の中に最初から閉じ込めてあったのを解放してやっているだけの話。血霧に染まる正多面体の内部は、亜空間のように分割されており、外見に似合つかわしくない大量の触腕を収納できるだけの大規模な空間が内包されている。図形の各面が亜空間と現実空間を結ぶ『門』の役割を果たしており、面の数が増えれば増えるほど、現界する触腕の数も増加する。つまりベルハザードの触腕は、その基部から末端に至るまでが一個の生命体としてある。圧力や流体の物理法則に沿って動いているわけではないのだ。
加えて、触腕はベルハザードの意志ひとつで、その強度を自在に調整可能という特徴を有している。彼は戦時において、この触腕の強度を『励起』と称し、状況に応じて段階を調整して闘い抜いてきた。それは純然たる鬼血人であった昔であろうと、自ら進んで混じり物の身体となった今でも変わっていない。
いま、ナックルへ襲い掛かる六本の触腕。そのうちの四本は、五段階に分けている強度レベルのうち、最もベルハザードが好んで使用する『第二励起段階』へ移行している。一方で、左右から大きく弧を描いて伸長する残り二本の触腕は初期段階である『第一励起段階』に留まっていた。それは刺突を目的としているというよりは、拘束を狙いとした動きに近い。この場における、最も的確な攻撃手段と言って良かった。直線的な動きを得意とするナックルにとって、のたうつ蛇のように乱舞する触手の軌道は、変幻自在に映ったことだろう。
躱す暇も無かった。あっという間に左右からの触手に両腕を絡め取られ、さながら十字架にかけられたかのような無様な格好を晒してしまう。そこに遅れて、四本の触腕が先端をドリル状に搾り、標的を貫通せしめんと俊敏にナックルの土手っ腹へ食い込んだ。
だが貫くには至らなかった。血がほんの少しだけ滲み、わずかに筋繊維を断裂させただけ。
ベルハザードからしてみれば、ありえない話だった。血騰呪術の攻撃である。人外の術理である。第二励起段階の状態でも、厚さ二十ミリの鉄板を容易く貫通し、四トントラックを軽々と引き上げる張力を誇る代物である。
並大抵の武装でどうこうできる能力ではない。相手がいくら肉体を機械化させたサイボーグとはいえ、防御力には限界があるはずだ。
若干の戸惑いを覚えながら、ベルハザードは触腕の攻撃感覚を自身の意識と共有させ、衝撃音の分布をただちに解析。確度の高い予想を打ち立てた。
もたらされた情報に、思わず頬が強張る。
ここまでやるかという呆れを抱く一方、これほどの人体実験に手を出してまで異種族を滅ぼさんとする、人間たちの必死の大願を直に突きつけられて、気味の悪さを覚えてしまった。
情報の仔細が明らかにした事柄――ナックル・ザ・ビッグスタンプには、内臓が存在しない。そういった手術を過去に受けている痕跡がある。そう、常人とは異なり、腹の中に臓器がないという意味だ。体のどこかに――背中か肩かは分からないが――戦時中に発展した医療技術が生み出した、一つの臓器でヒト本来が持つ全ての臓器の役割をまかなう『統合臓器』とも呼ぶべき人工臓器が代替移植されているのだ。
臓器の物理的な節約術。それにより生じた体内スペースに、さながら梱包材でも詰めるかのように、みっちりと、人為的に強化された筋骨や筋繊維が大量に移植されているに違いなかった。しかも触腕が受けた衝撃分布の解析結果から考察するに、ただ外皮が硬いという訳でもなさそうだった。ナックルの全身は、柔らかな筋肉と硬い筋肉がミルフィーユのように何重層も重なっており、それによって受けた威力を効率的に分散しているらしかった。
だがそうだとしても、先ほど見せたあの爆撃のような威力の拳打や、インパクトの際に生じた爆炎を操る力の理屈を説明するには、力不足である。とすると、それはサイボーグにより強化された肉体とは別個の能力……すなわち、それこそがナックルに与えられた『異能』の正体という見立てで、まず間違いはなさそうだ。
「ボク、ボ、ボクとケッコン! ケッコンしてくだサァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!」
ナックルが腹に刺さったままの四本の触手を、むんずと巨大な右手でまとめて一掴みし、ぶちぶちと左手で引き千切った。鬼血人にも匹敵するであろう凄まじい膂力だ。
形勢不利と見るや、ベルハザードはすかさず能力を解いた。宙に浮かぶ赤黒い正六面体が霧散。消費された血液の名残には目もくれず、彼は手斧を引っ提げて低姿勢の恰好を取ると、床を蹴り、眼前の怪物へ襲い掛かった。
ナックルの巨拳が猛烈な打撃を次々に見舞う中、ベルハザードは紙一重のところで拳の連打を躱していく。
非情な腕力によって突風が巻き上がり、白髪の先が千切れ飛ぶ。顔面すれすれを拳が掠め、摩擦熱を帯びた大気が頬を焦がす。
それでもベルハザードはいささかも怯むことなく、ほとんど身を投げ出すようにして手斧を振るい続け、極太の腕へ目がけて斬撃を放っていく。懐へ入り過ぎないように、攻撃圏内を見誤らないように意識を集中させ、斬撃を浴びせては距離を取り、また隙を見ては駆け出して斬撃を食らわせ、離脱。
大したダメージにはなっていない。それでもベルハザードは、しつこくしつこく、この泥臭いヒット・アンド・アウェイ戦法に拘った。
「ボクゥゥゥゥ……ッ! ボクとケッコン! ケッコンしてくだサァアアアアアア!!」
そのうち、ナックルの解読不能な雄叫びの端々に、苛立ちにも似た感情が混じり始めた。
戦況からして、有利なのは攻撃一辺倒な己のはず。
そのはずであるのに、黒衣の鬼血人は軽やかなステップで決定打を避け続けている。
自慢の拳が命中しないという現実。
虫が好かないのも当然。
ナックルは癇癪を起こし始めていた。
なりふり構わず拳を叩き込む。攻撃精度など、もはや関係なかった。子供が飽きたおもちゃをその辺に放り投げる。そんな乱雑さに満ちた拳撃の嵐。それゆえに恐ろしい。
ベルハザードの周囲で、コンクリートの床が派手に捲り上がり、鉄骨が飴細工のようにひしゃげていく。災害めいた暴力の数々。まるで、大空襲の真っ只中に置き去りにされたような感覚。
危機的な状況――しかしそれこそ、ベルハザードの策略だった。
「(そこ――だ!)」
拳の嵐。爆撃の猛火を辛くも凌ぎながら、ベルハザードは大きく前方へ突進。
「ケッコン! ケッコン!」
こちらの攻撃圏内に踏み込んできた――そう判断するやいなや、ナックルが好機とばかりに巨腕を振り上げる。
しかして、それこそが彼の油断に他ならない。
ナックルの隕石めいた拳が襲来してくる刹那、ベルハザードは左斜め後ろへ滑るように跳躍すると一段と姿勢を低くして、ナックルの拳が床に刻んだ陥没孔のひとつへ、素早く潜り込んだ。
拳の一撃が空振りに終わった直後、慌てて好敵手が飛び込んだ穴を覗き込んで階下の様子を探ろうとするナックルだったが、その巨大すぎる体躯ゆえに、彼は屈むという行為をひどく不得手としていた。ボディの拡張に特化したサイボーグ技術の弊害だ。この角度からでは、いくら青々しい視線をしつこく動かそうとも、ベルハザードの位置が掴めない。
「ボクゥゥゥゥ……ッ! ボクとケッコン! ケッコンしてくだサァアアアアアア!!」
ナックルは吼えた。吼えて、滅茶苦茶に屋上の床を叩き壊し始めた。怒りと屈辱が込められた乱打の嵐だ。
鬼血人。人の亜種にして、人を食らう正真正銘の怪物。人類の歴史の裏で、闇に潜み、月夜を寝床としてきた魔物。人には理解不能な、超常の力を操る化生。そんな怪物にして戦士である鬼血人が、まさかその身に巣食うはずの戦闘本能を振り切ってまで、敵前逃亡を選択するとは――思考の埒外とも言うべき急展開に、驚きよりも、ナックルにとっては怒りと屈辱の方が勝っていたに違いない。侮辱されたと感じるのも、無理ない話だ。
戦闘の放棄。鬼血人は、それを選んだ。これが自身に課せられた試練であると知りながら、その試練を真正面から破るような、蛮勇とも取れる選択をするには至らなかった。
試練を乗り越える――そんな大口を叩いていながら、敵を討滅せずに背中を見せた己を、どこかで嘲るもう一人の自分がいる。
だが、ベルハザードは心を鉄に変えて、それで良いと開き直る。
臆病者と詰られても構わない。どれだけの恥辱を被ることになっても、一向に構わない軽んじられ、馬鹿にされようとも、心は折れない。これは、逃げるための戦いではない。辿り着くための戦いだ。
黒き冠のエヴァンジェリンを殺し、太母の無念を晴らす。
手段に拘っている場合ではないのだ。
もし迎え撃ってきたのが、あの悍ましい身なりに変貌した戦士一体であるなら、後のやりやすさを考えて、この場で撃滅するという道を選んでいたことだろう。
だが戦いの最中、ベルハザードは感じ取っていた。
鬼血人に特有の、優れた聴覚と嗅覚を更に鋭敏化。
二つの研ぎ澄まされた感覚が拾い集めた情報片を、デフォルト・モード・ネットワークへ移行した脳活動が集積し、解析し、一つの予測を導き得た。
当初は推測に過ぎなかったその予測は、しかし今、こうして屋上から下の階へ逃げ込み、眼前の光景を視認したことで決定的なものとなった。
廊下へうつ伏せになって倒れる死体。壁に寄りかかったまま事切れた死体。
その全てが、防刃プロテクターや携行装備品ごと、縦や斜めや横にすっぱりと切断されている。
ざっと数えても、十は超える屍。
ヘルメットの消防紋章が、その身元を明らかにする。
殺されていたのは市警の面々に相違ない。ベルハザードの相手をするはずだった者達だ。
結論――ビルには複数の敵が潜んでおり、そいつらは、標的を殺すためならあらゆる暴力を辞さず、全ての他人を障害物としか見なさない。
なおさら、まともに相手をしている場合ではなかった。
上階からナックルの怒号と共に降り注いでくるコンクリートの塊。灰色の大礫の落下地点を背中越しに感覚しながら、避けに避け、まっすぐ前を見据えて、ベルハザードは目測にして五十メートル先にある、突き当りの窓ガラスへ向かって駆け出した。




