2-15 PM12:10/みにくいヴァンパイアの子②
「上手くいったな」
草木を掻き分けて、右手を――さっきまで自分達が隠れ潜んでいた建物の方角を見やった。ウォッチ・ガンたちは、まさか侵入者がすぐ近くにいたことになど一切気づかず、呑気に無駄な巡回を続けている。
「こっちに出ると、市街地に続くみたいですよ」
髪に絡み付いた葉を両手で振り落としながら、ニコラが左手に視線を向けて言った。
エヴァたちが突っ込んだ林は台地になっていて、傾斜がついた坂を下ったところにガードレール沿いに流れる四車線の道路が見えた。放棄された再開発区域が近いせいだろうか。電動カーが一台通ったきりで後続の車は全く無い。不気味なくらいに静かだった。
道路の先には、ニコラが口にした通りの光景が広がっていた。太陽パネルがずらりと取り付けられた、個性を捨てた住宅街。パネルが自然の太陽光を反射して、エヴァの眼に眩しく映った。最下層によくある類の、ボロボロのトタン小屋といったものは皆無だった。
「ようやく一息つけそうだ」
後ろの木に背中を預けてエヴァは心のままに大きく伸びをした。緊張感からの解放。すっかり弛緩したその心に、するりとニコラが入り込んできた。
「それで、ベルって方とはどういう関係なんですか? なんで命を狙われてるんです?」
「うん? うん……そうだな」
腕をゆっくりと下げながら、さて何から話したものだろうかと少し迷った。それでも一旦話そうと決めたからには、やっぱりそれは語るべき言葉を以て語られる一つのちっぽけな物語に過ぎないのだ。そう意識すると、驚くほどすんなりと言葉が出た。
「アタシとベル……ベルハザードは同じコロニーに属していたんだ。《斜陽の冠》ってコロニーだ。そこでアタシとベルは、今から十七年前の、ある夏の日に生まれた。人間の感覚で言えば兄弟みたいなもんだな」
「斜陽なんて、なんだか縁起の悪い響きですね」
「人間の価値観だとそうかもしれないが、鬼血人にとっちゃ逆さ。陽が傾けば夜がくる。夜はアタシたちの世界だ。人が生きるに適さない世界で、《斜陽の冠》は栄華を極めた。偉大なる太母を一族の頂点に据えて。その太母が産み落とした最高傑作のひとつが、ベルだった」
「強かったんですか?」
「そりゃあもう、向かうところ敵なしって感じさ。乱獲士としてのアイツに並ぶヤツなんて、誰もいなかった」
「乱獲士?」
「太母から与えられる、鬼血人の役職だ。乱獲士と検分士と護衛士、全部で三つある」
「なんで役職なんてのがあるんですか」
「子孫繁栄を効率よくするためだ。乱獲士に抜擢された鬼血人は都市を襲って人間を狩り、牙に血を溜め込んでコロニーへ持ち帰る。その持ち帰ってきた人間の血を検分士が装置にかけて太母の妊娠に適する血に『改良』する。改良された血を体内に取り込むことで、太母は子孫を増やす準備を整える。鬼血人は人間と比較して長命で、老化とも無縁だから、一度に沢山の子を産みはしない。それでも十分に繁栄を維持してこれた。そういう形質を歴史の中で受け次いできたんだ」
「はー……鬼血人って、なんだか随分と変わった生態をしてるんですね。人間の血を使って子孫を増やしていたんですか」
「そうだ。だから姿形が人間と大差ないらしい。一族で『子』を生めるのは太母だけ。しかも『産み分け』可能ってところが、人間より優れている点だ。体内に取り込んだ血を使って受精卵を分化して増殖させるんだが、この時に使う血液量で、それぞれの役職に適した鬼血人を意識的に選択できる。各役割に相応しい血騰能力も、この時に与えられる。オスかメスかまで決める事だって出来る。くだらない恋愛感情とは無関係な種族なのに、どうして『性別』なんてものが必要なのか、アタシにもよくわからないんだけどな」
「エヴァさんは?」
「なに?」
「エヴァさんの役職は何だったんです? 乱獲士ですか? それとも検分士?」
一呼吸おいてからエヴァは口をきった。
「どれも違う。アタシに与えられた役職は護衛士だ。コロニーの防衛に徹したり、太母の身の回りの世話をするのが仕事だ。乱獲士の補佐に就いたりするのもな。って言っても、アタシ自身は都市を襲う機会には一度も恵まれなかったけれど」
「聞いている限りですと、かなり重要な仕事じゃないですか。やっぱり優遇されていたんですね」
「そんなんじゃねぇよ」
務めて冷静に話を展開していこうと意識していたはずが、まるで吐き捨てるような物言いになった。
「さっき、太母は『子』の鬼血人を産み分けできるって言ったが、アタシみたいな日向を歩む者は、一族にとっちゃ完全な突然変異体なんだ。要するに、エラーみたいなもんさ。だからみんな取り扱いに困っていた。本当に、コイツに太母の世話を任せていいのか、何度か議論にもなった」
「でも、太母さんがそういう風に……護衛士の役職を与える形に生んだんですから、別に文句を言われる筋合いはないんじゃないですか?」
「前例がないから、みんな不安で、なにより恐ろしかったんだろ。どこのコロニーでも同じだが、鬼血人には、その身を焼き焦がす太陽を怨敵と定める文化が強く根付いている。その怨敵に見初められたアタシを、果たして同族として受け入れていいのかどうか、微妙なところだろ。太母としても、アタシみたいな存在を産んだこと自体、予想外のことだったのかもしれない」
エヴァが、遠くを見つめる眼差しになった。
あの広大な地底の王国にたまらないほどの窮屈さを覚え始めたのは、生まれてから二年後のことだった。肉体成長の驚異的なスピードが鬼血人の生態特徴の一つであり、その時すでにエヴァは今とさほど変わらない体格を備えていた。
けれども。
肉体は立派でも、たった二年しか物事を経験していない精神は未熟なままで、さながら剥き立てのゆで卵のようだった。そのせいで、心ない言葉の刃を向けられて傷つく毎日を送った。
仲間として迎え入れてくれるはずの同胞たちから、やっかまれ、疎んじられた。太陽に見初められた穢れた存在の癖に太母に近づくなと、いわれのない暴力を振るわれたこともあった。
その原因が己の特殊体質にあると分かって、ますます陰鬱な気分に落ち込んだ。
だから、次第に、殻に閉じこもるようになった。どこにもいけないのなら、自分から壁を作ってしまえばいいと、決めつけたのだ。
周囲から距離を置いて、どんなに陰口を叩かれようとも厄介者扱いされようとも、気にしない素振りを続けた。何事に対しても無関心を貫くこと。それが、エヴァの世界に対する向き合い方だった。
「でも、ベルだけは違った」
ぽつりと呟いた。その呟きが引き金となって、後悔と哀しみが激しく渦巻き始めた。
「アイツは、アタシの殻を破ろうとしてきた。しつこいくらい絡んできた。みんな距離を置くのに、やたらと話したがってきてさ。最初のうちはあまりにもウザくて、遠ざけたくて、ひどい言葉も沢山吐いた。それでもアイツは、アタシを放っておかなかった」
だんだんと声が震えを帯びていくが、それでもエヴァは話を続けた。瞳から熱い滴がこぼれ落ちそうになるのを、意地だけでどうにか堪えていた。
「どこかで、アイツの存在に助けられていたんだ。会話してくれる相手がいるってのは、精神衛生上、効果てきめんらしい。感謝の言葉の一つくらい、寄こしてやればよかったなぁって思うよ」
自嘲的な笑みを悲し気に浮かべて言った。その笑みを受け取ってくれる存在と、もうかつてのような関係性を構築するのは不可能に近いと分かっていても、それは紛れもなくエヴァの本心であるから、ごまかしようがなかった。
「そんなにエヴァさんのことを気遣っていたのに、どうしてベルさんは、エヴァさんの命を狙うようになってしまったんですか?」
「アタシが、殺したからだ」
「誰を?」
「太母を」
「え?」
「って、アイツは一方的に主張してる。でも勘違いに決まってるんだ。だって、アタシにそんな覚えは、これっぽっちもないんだから」
エヴァが、身の潔白を主張するように意気込んで言った。ニコラはしばらくの間、腕を組んで黙っていたが、やがて、恐る恐るといった調子で尋ねた。
「エヴァさんを疑うつもりじゃないんですけど、本当にそうだと、確証をもって言い切れるんですか?」
「お前、なんかアレだな、犯人を追いつめる刑事? とかいうのか? そんな態度に見えるな」
「はぐらかさないでくださいよ」
「別に、はぐらかしてるわけじゃねぇよ。覚えがないのは事実だ。なにしろ記憶がねぇんだ。太母が殺された時、アタシは確かにあのお方のそばにいた。でも……本当に、何も覚えていないんだ」
正確には、太母の住処である《夜奏宮》が、いよいよ人間達の手で陥落しかけた、その前後の記憶が欠落していた。
何とか思い出そうとしても、こめかみの辺りがずきずきと疼くばかりで、具体的な出来事の連鎖というものが思い浮かんでこない。
解離性健忘というのがある。日常の行動様式から外れた突飛な行動に及んだ結果、普段の意識から切り離されてしまい、記憶に残らないという精神的な病だ。人間の世界では、特に戦争体験者などに散見される症状らしい。
自分もそうなのだろうかと一時期考えたことがある。だが仮にそうだとしても、太母殺害に至る動機がないと、エヴァは小さく頭を振った。
少なくとも、エヴァは太母を尊敬していた。尊敬しようと意識的に務めていた。他の同胞たちと同じように。自分を産んでくれた唯一絶対の存在に対して、心からの敬意を払おうとしていた。
どうして自分のような異端者を産んだのかと、きつく問い質すことはしなかった。それは太母の力でも制御できない、運命の悪戯とも呼ぶべき不可思議な過程によるものだからだ。
産んだ事実に対する責任の度合いを明らかにしようとする行為は、自己中心的なわがままに過ぎない。ベルとの会話の中で、そのような考えを身につけるに至った。
「だから、アタシが太母を殺す理由なんて、どこにもない。あの方は自分の意見ってのをほとんど口にしなかった。でもそれで、アタシは満足だった。象徴としての女王。一族の結束を強めるシンボル。それが太母の役目だからな」
永きに渡って人類史の狭間で不連続的に姿の一端を垣間見せつつも、人類圏の陰に潜むことを貫き、夜を支配する古の怪物。その頂点に君臨する各コロニーの太母は、まさに人類にとっての太陽そのもの。
権利を強硬的に行使することはなく、しかして一族の生命活動の根幹を担う、不可欠にして侵し難い存在。人間の亜種にして魔性なる力を司る鬼血人の行く末を見定める、静謐なる指導者にして揺るがぬシンボル。それが太母だ。
そのシンボルが崩壊したのは、拠点を地上へ移してから五年の月日が経過した、あの日のことだった。それまで退けていた人類の軍団に数多くのコロニーが完膚なきまでに駆逐された。その中には当然、《斜陽の冠》も含まれていた。
タイミングが悪かった――その一言であっさり片付けるにしては、鬼血人たちが味わった苦痛と絶望は壮絶にして筆舌に尽くしがたい。
「コロニーが崩壊する数日前から、太母は《宮入の儀》に……つまり、『次世代の太母』を産む準備に取り掛かっていたんだ。自分の全存在を賭けて、次に生まれる太母に力と記憶を引き継がせる。その間、乱獲士も検分士も太母への謁見は叶わない。こういう時に色々と頑張るのが護衛士って訳だ」
「なんだか、ずいぶんと壮大ですね」
「お前の言う通り、壮大な、ある種の儀式さ。子を産むのとはスケールが違う。新たなる太母の誕生には、より大量の血が必要になる。だから乱獲士たちの狩りにも熱が入った。護衛士たちも、狩りの補助に出た。その隙を、人間達は突いてきたんだ。肉を切らせて骨を断つっつうのかな。都市の防衛をあえて手薄にして、選りすぐりの部隊を次々にこっちの拠点に投入してきやがった」
淡々と話しながら、頬が軽く硬直していくのが感覚された。あの時ばかりはエヴァも、普段はただの餌だと侮っていた人間達の底知れぬ悪意と狡猾さに、肝を冷やしたものだった。
数え切れぬほどの襲撃を受け続ける中、人類は敵の習性を分析し、その原始的な価値観と最先端の技術に支えられた文化的背景を解明したのである。敵を知り、己を知れば百戦危うからずという論法だ。
コロニーにおける鬼血人の各種役割。太母の特異な生体機能。加えて、太母の世代交代に端を発する大量の吸血行動。
それが闇の眷属たちにとっての最大のウィークポイントであると判断するや否や、都市上層部は迅速に作戦を練った。
プロメテウスが中心となり、他都市と協力するかたちで立案した、鬼禍殲滅作戦という名の一世一代の反撃作戦。
それは見事に凄惨に花開き、数多の鬼血人を葬り去った。
「カウンター作戦って奴だよ。単純だけど、効き目は抜群だった。アタシらが都市を攻めている一方で、人間達はそれまで以上の大軍でコロニーを襲撃した。都市の警備が手薄なことに疑問を感じ、まさかと思って慌てて引き返した乱獲士たちだったが、その背後から、隠れ潜んでいた人間軍の第二陣が迫る。それで挟み撃ちにあって乱獲士は壊滅状態に陥った。あの作戦について語った本には、大体そんなことが書かれている」
「ずっと今まで人間達を退けていたのに、どうしてその時は負けちゃったんですか」
「色々な要因が重なったせいだろうな。地下から地上へ拠点を移設したから索敵にかかりやすくなったってのも大きいだろうが、最もデカかったのは、人間達の力がこっちの予想を遥かに上回るくらい『強大』に成長していたってことだ」
鬼血人にとって人間は餌である。しかして、その個体数は有限だ。特定の草食動物が草木を食い尽くしてしまった結果、土地一体が砂漠地帯と化した例に始まり、捕食者側のコントロールが効かなくなった結果として招かれる環境バランスの崩壊は枚挙に暇がない。
それゆえに反面教師として、鬼血人たちも熟慮の下に行動していた。大量の収穫を控えつつ、生かさず殺さず、じわじわと真綿で首を絞めるように人類を脅かす存在であり続ける。そのスタンスは、彼らが地底から地上へ生活拠点を移した時から更に顕著になった。
だが奇しくも、その生存戦略が与えることになってしまった。
猶予と覚悟を。
家畜の中から恐るべき狩人を生み出す機会を創出してしまった。
「無人爆撃機や機動戦車隊なんかはまだいい。問題は、家畜であるはずの人間の中に『個体』としての力を凌駕した奴らが出てきたってことだ。奴らが作戦の中核を担っていた。《緋色の十字軍》。忘れることが難しい組織名だ」
「サイボーグ部隊のことですか?」
「いや、サイボーグは大陸間戦争の時代から存在していたし、鬼血人の方が総合的な力は上だ。奴らは、確かに機械仕掛けの人間たちだったけど、それに加えて、なにか不思議な力を操っていた。アタシたちの力に近い術だった。必死に応戦したけど、あえなく蹂躙された。拠点は破壊されて、あちこで煙が上がって、火の手が迫って……」
話しているうちに、あの日の夜の出来事がエヴァの脳裡にまざまざと蘇ってきた。
輝灼弾を叩き込まれて肉体が灰と化して崩壊していく同胞たち。絶叫と騒乱。莫大なマズルフラッシュ。目に沁みる硝煙。《緋色の十字軍》の戦闘乱舞。
途切れぬことのない地獄を必死になって掻い潜り、太母を逃がそうと《夜奏宮》の脱出口へ足を踏み入れた。
「そこで、アタシの記憶は途切れた。気づいたら、目の前に血まみれの太母が倒れていた。腹に大きな穴が開いていて、そっから血が流れて、アタシの足下を汚して……何がなんだか分からなくて混乱している時、最悪な事に、ベルが命からがら前線から戻ってきて……それでアタシが太母を殺したと、勘違いしたんだ」
「それで、追われる身になったということですか」
「ああ。アタシはここに来る一年ほど前に《ヘパイストス》で暮らしていたんだが、そこでベルと四年ぶりに遭遇したんだ。再会なんて、そんな穏やかなものじゃないぜ。真っ黒いフードで顔を隠して、いきなり襲い掛かってきやがった。それも真っ昼間にな。声ですぐにベルだって分かったけど、驚愕したし、なにより奇妙だった。なんで日向を歩く者でもないベルが、日中に活動できるんだって。確かにフードで陽光を遮りゃ動くことはできる。だからと言って、戦闘のような激しい運動となると話は別だ。でも今日で、その謎も解けた」
「あのう、こういう事を言うと怒るかもしれませんけど」
遠慮がちに保険をかけるようなことを言ってから、ニコラはおずおずと訊いた。
「そのベルって方は、エヴァさんのことを心の奥底ではやっかんでいたんじゃないですか? 具体的な証拠も何もないのに、一方的にエヴァさんが犯人だって決めつけるということは、本当はエヴァさんが一族にとって害を成すものだと思い込んでいたからじゃないですか?」
「そうじゃない。アイツは、純粋過ぎたんだよ。だから、周りが見えなくなってんだろうな」
勝手なことを言うなと怒鳴りつけることもなく、エヴァは静かにそう答えた。とても寂し気な表情を浮かべて。
純粋。
まさに戎律のベルハザードの心を一言で表現していた。
「アイツは……ベルは、とても純粋な奴だった。太母を絶対的に信奉していた。それは他の鬼血人もそうだけど、でもベルは抜きん出ていた。ああ、そうだ。こんな話があったのを思い出した」
「どんな話です?」
「アタシたち鬼血人は、生まれた時に太母から名前を与えられる。アタシの場合は『黒き冠のエヴァンジェリン』で、ベルは『戦律のベルハザード』だ。でも、ベルの活躍っぷりが凄まじくて、超特例の勲章として、一族の中で秘字とされている字を与えたんだ」
「はぁ、秘字ですか」
「遠い遠いご先祖様が使っていた字だ。『戎』って字でな」
説明しながら、エヴァは近くに落ちていた小枝を拾って地面にその字をぎこちなく書いてみせた。
「なんだか絵みたいな文字ですね」
「漢字と言うんだ。『戎』とも呼ぶらしい。大陸の東の島に住んでいたアタシたちの祖先が、人間達からそういう符丁で呼ばれていたみたいで、その名残りなんだとよ。もともと鬼血人の大本は北方で誕生したんだが、そこから世界各地に広がって、いくつものコロニーが生まれたんだ。大陸の東の島に移り住んだのが、アタシのご先祖様ってわけだ。まあとにかく、そういうわけでアタシも同胞たちもベルのことを『戎律のベルハザード』って呼ぶようになった。でも、ベル自身は、決してその名を口にすることはなかった」
「あまりにも畏れ多くて、だから名乗ろうとしなかった?」
「その通り。謙遜していたんだ。自分には勿体ない名前だと言って、アタシたちがその名を口にするのも、少し嫌そうにしてたよ。自分はそんなに大した器じゃないって。それでも太母の想いには報いたかったんだろう。その一心が、ベルを突き動かしていた。アイツの命は、太母と共にあった」
そして太母亡き今、ベルハザードは強く求めていた。己の怒りの矛先を向ける場を。それがエヴァだった。かつての昔に寄り添ったはずの仲間だった。
理解してくれていたはずの相手から向けられる獰猛な殺意。身に覚えのない罪業を一方的に断罪しようと襲い掛かる刃。それを強く意識したことで、エヴァは己の『願い』が、より具体的な輪郭を象っていくのを確信した。
願望は、たしかにニコラとの出会いを経て意識の表層へ顔を出していた。それをどうにかして叶えたいと奔走し、だからこそ、ここまでやってこれた。
そうして今、改めて願いの強さを自覚した。
自分に欠けていたものを取り戻そうと、あるいは芽生えさせてやろうと尽力してくれていた無二の同胞が、因果の末に爪牙を突き付けている。その悲痛でやるせない事実を噛み締め、やっぱりそうだと胸に刻んだ。
やっぱり自分には『それが必要なのだ』と。
「ニコラ、話すよ。話さなきゃいけない時がきた」
「何をですか?」
「この、黒き冠のエヴァンジェリンの願いをだ。アタシは、自分を理解してくれる存在が欲しい。それがアタシの願いだ」
実際に言葉に出したことで、鼓動は熱く脈を打ち、体温がわずかに上昇したようだった。
穢れのない存在に生まれ変わる――漠然とした雰囲気に包まれた当初の願いは、より具体的なかたちを獲得していた。
純粋で無垢なる存在との繋がりで生まれる濃密な関係性。あのファミレスで見た親子の仲睦まじい姿や、かつてのベルハザードとの交流が、エヴァの脳裡で淡い泡沫となって弾き、夢幻の彼方に消えていく。
心をさらけ出せる相手が欲しい。こんな中途半端で弱い自分を受け入れて欲しい。ありのままの自分を許容してくれる居場所を用意してくれたら、きっと新しい生き方が開けるのではないか。
どこか陳腐で、それでいて切実な欲望。しかしエヴァが欲しているのは、ただそれだけだった。
ただ実際に口にしてみると、強まっていく願望への希求とは裏腹に先行きの見えない不安感に襲われたのも事実だった。
言葉にしてみたことで、それがどれだけ奇跡的な事か改めて自覚しただけでなく、輪郭を象りつつも依然として漫然とした領域から抜け出せていないように感じた。
願望をより詳細に伝えようとすればするほど、表現しきれないもどかしさ。より多くの言葉で装飾しようとすればするほど、肝要な部分を取りこぼしてしまいそうで焦りが生じる。そのくせ、妙な現実感がまとわりついていた。
「ちょっと曖昧な願いかなとは思うし、こんな状況になって確認するのもおかしい話だが、どうだ、叶えられるか?」
確固たる保証を望むようにエヴァは言った。こちらの意図がしっかり相手に伝わっているかどうか。漠然とした確かな予感にかたちを与えられるかどうか。それを知りたかった。
「問題ありませんよ。願望を祈願する方の心も汲んで望みを実現するのが、奇跡というものですから」
けろりとした表情でニコラが言ってのけた。あまりにも呆気ない口調だったのもあって、エヴァが虚を突かれたように口をぽかんと開けた。
「意外でしたか?」
「いや……」
「でも、お話を聞いて納得しました」
「納得?」
「納得というか、理解したと言うべきですかね。正直、ちょっと心配だったんですよ。まだそうと決まった訳じゃないですが、私はこれまで人間の価値観に則った願いばかり叶えてきました。鬼血人のそれを叶える可能性なんて、私もこれまで体験したことのないことですから。でも、エヴァさん」
「なんだよ」
「欲望にも様々な種類があるのを、どうか忘れないでいただきたいんです」
話しながら、ニコラのどこか穏やかでいた顔つきが少しずつ鉄皮面に覆われていった。あの路地裏で、あのバスの中で見せた時と同じように。世の理の全てを冷徹に客観視するかのような眼差しへ変貌していった。
木に身を預けていたエヴァの背筋が自然と弦を張ったように伸びた。路地裏の時もバスの中でもそうだったが、この状態のニコラを前にすると勝手に肉体が反応してしまう。
それはかつて、太母を前に説法をこんこんと耳にしたのとは、また何か違っていた。もっと深く容赦なく、一切の都合良さを排した現実という名の剣を、まざまざと突きつけられているようだった。
そこから逃れたいという臆病さと、逃れてはならないという粘り強さが鍔迫り合っていた。エヴァに出来ることは、
「どういう意味だよ」
会話の先を促しつつ、奇跡の体現者から紡がれる言葉に耳を傾けることのみだ。
「あまり祈願者の内心には干渉したくないんですけれども、それでも時々、これでいいのかなと思う時があるんです。すなわち、願望を胸に抱いて生きている者が、その実、願いを履き違えているんじゃないかと」
「願いを履き違える?」
「例えば、両親の期待を背負って、医者になるために勉学に励む学生がいたとします。その人が、ふとした拍子に私と出会って、医者になれるよう願いを託したとします。でも、それは本当にその人の願いなのかなと。何か別に叶えたい願いがあるんじゃないかなと、首を傾げたくなる時があります」
「そういう経験が過去にあったのか?」
「まぁ、何度か」
「それで、どうしたんだ」
「私から自主的に質すようなことはしませんでしたよ。それは私のポリシーに反しますからね。どんな願いも広く受け入れるのが奇跡の役割です。でも、それでも時々、ほんのちょっぴり思うんです。この人、願いを何か、履き違えていやしないかと。それが本当に叶えたい願いなのかと。それで本当に、幸せになれるのかなって」
話を聞いているうちに、エヴァの眉間に少しずつ皺が寄っていった。そういう話をわざわざ聞かせているということは、つまりあなたもそうではないかと、詰め寄られているように感じた。
全身から陽炎のように湧き上がる雰囲気が物語っていた。エヴァはあきらかに苛立っていた。無遠慮に投じられたニコラの言葉は、少なからずともエヴァのガラスのような心を傷つけた。割れはしなくとも、衝突の痕はくっきりと残った。
「お前には関係ないだろ。誰が何を望むかなんてよ」
余計なお節介だと、お前に何が分かるのだと暗に告げると、ふいに右手へ――捨てられ、都市からも忘れ去られつつある、かつての再開発区域へ、ぼんやりと視線を向けた。
どん、と爆発音が辺りを駆け抜けた。
エヴァの視線の彼方で、太い煙が急速に伸びていった。真南に登りかけた太陽へ目がけて、空中に闇色の階段を生やしていく。
ウォッチ・ガンの群れが爆音に反応して、一斉にそちらを向いた。
「ドローンだ」
「え?」
「引火したんだよ。あーくそ!」
エヴァは起き上がりざまにニコラの手を引っ張ると、草木を掻き分け、都道に通じる未舗装の坂を、ほとんど転げるような勢いで駆け下りた。異常を感知したウォッチ・ガンが、巡回範囲を広げる可能性を疑ったのだ。
「さっさと上層に行く方法を考えなきゃな」
独り言り、エヴァはそういえば、と思った。
そういえば、まだニコラが最上層を目指す理由を聞いてはいなかったなと。




