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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
2nd Story フェイト・オブ・ジ・イノセンス・ギア
49/130

2-14 AM11:20/みにくいヴァンパイアの子①

 暗闇。

 エヴァの心と視界をどこまでも覆うのは、それだった。


 睫毛を震わせてどうにか瞼を開いてみようとしても、闇はほんの僅かに光を取り戻すに留まって、周囲を探るなど不可能な有様だった。視野狭窄である。体中の血液が、取り返しがつかないくらいに不足していた。


 己の身に何が起こったか、エヴァはそれなりに把握していた。


 間近に迫りくる中層の地盤を目いっぱいに視認したところで、記憶は途切れてしまっていた。だが自分の身に何が起こったのか、おおよそのところは把握できた。


 四肢がバラバラに砕け散って、あたりに肉片と血のスープをぶちまけているであろうことは、感覚で理解できた。こうして意識だけが保たれているのは、頭部のみが辛うじて再生を完了しているからだ。


 最悪なのは、その散らばった肉や血を回収できずにいることだ。再生能力の著しい低下。それを招いた原因が血騰呪術(アスペルギルム)の酷使にあるのは、言うまでもない。


 何らかのかたちで大量の血を消費したのちに五体を破壊されれば、再生能力を呪われた血に依存している鬼血人(ヴァンパイア)は、死にはせずとも手も足も出ない状態になる。今のエヴァンジェリンも、まさにそれと同じ状況に陥っていた。


――ベル、なんで信じてくれないんだ。


 脳の再生時に記憶の一部が混濁したせいで、思い出したくもない過去の片鱗が蘇っていた。まさに悪夢だった。エヴァは、ますます暗鬱な気分に囚われてしまっていた。


――お前、ずっとアタシの味方でいてくれるんじゃなかったのか。


 コロニーに居場所を見いだせない異端者。そんな自分に気兼ねなく接してくるベルハザードに、心のどこかで救われていた。無駄に高いプライドのせいでそれを認められなかったが、今になってようやく理解できた。一族の裏切り者として、当のベルハザードに憎悪され、命を狙われる境遇に堕ちた、今になってようやく。


――穢れているなんて、そんなこと、お前の口から、まさか。


 拭い切ることのできない絶望。黒々と燃える憎悪に駆られたベルハザードの姿が脳裡に浮かぶ。自分を殺す為に、彼は何もかも変わってしまった。その責任はお前にあるのだと批難するような、あの侮蔑の眼差しが忘れられない。


 思い出す度に、焼きごてを押し付けられるような気分に陥る。心に二度と消えない焦げ付きを刻むための。


――太母殺しなんて、そんな恐ろしい事、絶対にやってない。なのに、どうして、誰も。


 四肢の感覚が喪失した分、意識の矛先が限定化されていくようだった。渦巻く感情が種子となってばら撒かれていく。言葉にするのも悍ましい昏い情念が、たちどころに花を咲かせ、腐臭めいた匂いを放った刹那、エヴァの脳裡で世界に対する呪詛が木霊した。


――なんで誰も、アタシを理解してくれないんだ。


 そのフレーズだけを残して、彼女の意識は泥のように暗闇の中へ沈んでいった。







♛♛♛







 覚醒は呆気ないくらいに唐突に訪れた。奥底に沈んでいた意識が、何の予兆もなく強制的に引き上げられた。そう例えるのがしっくりくるほどの突然の目覚めだった。


 容赦なく差し込んでくる自然の(・・・)太陽光に目を瞬かせながら、エヴァは自分が横になっているのを認識した。上体を起こそうとした拍子に、喪われたはずの感覚が地面を掴んだ。二度と取り戻せないと思い込んでいた感覚だった。


 エヴァは飛び上がらんばかりに驚愕し、まじまじと己の肉体を観察し、眼を見開いて呟きを落とした。


「体が……元通りになってる?」


 そう思わず声に出したのは、なにも驚きのせいだけではなかった。この光景が現実のものなのか、それともまだ夢幻の世界にいるのかを確認するためでもあった。


 しかし口に出してみても、復元した手足が消失することはなかった。


 変装のための作業着も、その下に着こんだ服もところどころが擦り切れていたが、五体はしっかりエヴァの肉体の一部として現実の世界に根差していた。あたかも、最初からそこにあったかのように。


 では、さっきの四肢を喪失した感覚は一体何だと言うのか。


 もう一つ、エヴァは奇妙なことに気づいた。飢餓感が到来してこないのだ。あれだけ能力を駆使したのなら、それ相応の反動に襲われるはずだ。だがしばらく待ってみても、体の中心に巨大な空洞が生じるような違和感や、はげしい喉の渇きが生じることも、視野狭窄に陥ることもなかった。


 それどころか、気力も体力も驚くほどに充実して、まるで生まれ変わったかのような気分だった。


 その一方で、自らの肉体に対する疑念や言い知れぬ不安感が、澱のように溜まっていった。なぜこんなことになっているのか。客観的に判断しようにも、そもそも何も手がかりがなかった。


「エヴァさん、エヴァさん」


 すぐ近くで、聞き慣れた声がした。赤い毛皮で編まれたロングコートの裾が、エヴァの視界の隅で風に煽られて翻った。


「大丈夫ですか?」


 その身を奪い尽そうとする者達を逆に引き寄せ、闘いの渦へ巻きこむ奇跡の少女が、少し心配げな表情で、倒れ込むエヴァを覗き込むようにして訊いてきた。


「まぁ、なんとかな」


 なぜ無事であるのか。その原因も判然としないまま、曖昧にエヴァは答えた。事実を考察する余地などなかった。


「お前、自力でバッグから出たのか?」


 復元したばかりの両足に力を込めて立ち上がり、まだ少し朦朧とする頭を掻きむしりながら尋ねると、ニコラがげんなりとした調子で言った。


「なんかとてつもないことが起こっているなって感じて、こりゃあマズいと力づくで脱出したんです。ほら、あれなんて、いつ爆発するか分からないじゃないですか。私たち、どうやら墜落の衝撃で、あそこから放り出されたみたいですよ」


 ニコラがそういって、少し離れたところを指差した。エヴァもそちらに視線を送り、その身に起こった事実を噛み締めた。


 エヴァが敢行した無茶苦茶な搭乗の末に、ドローンは少しばかり原型を留めつつも、飛行機能の一切を失う姿に成り果てていた。四つのローターはすっかりひしゃげて残骸と化し、あべこべに地面に転がっていた。耳をすませば、火種が燻る様な音が鼓膜を揺らした。火花がエンジンタンクに引火していないだけ幸運と言えるだろう。


 フロントガラスに、夥しいほどの血と肉がへばりついている。ドライバーの生死を考えるだけ、無駄というものだった。


 そして、こんな光景を観察できる立場にあるということが、エヴァとニコラがいま存在している地点を、正確に表現していた。


 バベル型積層都市・プロメテウス。その中層にいるのだということを。


「こっから上層に行って、そっから更に最上層へ……か」


 口にするだけでも、これがどれほどハードルの高いものか嫌と言うほど思い知らされた。こうして中層にやってくるだけでも予想外の事態に翻弄され続けたのだ。今後、ニコラを狙う者が増えれば、ますます逼迫した状況に晒されるのは目に見えている。


「ところで、私たち中層のどのあたりにいるんでしょうか」


 ニコラが不意に呟いた当然の疑問が、エヴァに周囲を確認するだけの余裕を取り戻させた。見ると、なんとも味気ない土地へやってきたものだった。住宅街や商店街といった印象からはほど遠く、人の姿はおろか影すらも見当たらない。


 代わりに目につくのは、ダクトやパイプを剥き出しにして骨組みのまま放置された、なんらかの建造物ばかりだ。重金属酸性雨に長期間晒されたせいだろう。鉄骨のあちこちには、べっとりと赤錆が生じている。


 建物は、一番高いものだと目測にして三百メートルはゆうに超えている。見上げてみると、工事用に誂えられた紅白色のクレーンも錆で化粧され、完全に野鳥たちの住処となっていた。


 視線を真正面に戻すと、奥に鬱蒼と覆い茂った林が密集しているのが分かる。目線をもう少し上にやると、上層を形成していると思しき岩盤の一部と、立ち並ぶ高層ビルの数々が、豆粒のように目に入った。


 プロメテウスの都市構造の外観は実にシンプルだ。最下層と中層は同心円状になるよう円柱を模した形状に建造された一方、中層から最上層にかけては円錐状に収束している。つまり土地面積が最も小さいのが、最上層の区域となる。


 それでも、これだけの広大な都市であるから、いま豆粒のように見えている上層、ひいては最上層の岩盤も、それなりの大きさを持つと見てしかるべきだった。だがここからでは、巨大感も距離感もうまく掴めない。


「どうやら、けっこうな『端』の部分に墜落したみてーだな」


 エヴァは頭上を仰ぎ見た。太陽の位置から自分達のいる場所を推測する。方角からして、南南西あたりであろうことは直ぐに分かった。


 常に大勢の人でごった返していると報道されている西部方面のヤーパーグリーン都立公園や、東部方面に密集する住宅街でないことが、せめてもの救いだ。そう前向きに思考を切り替え、無人の地へ足を向ける。


 ニコラを連れ立って、舗装が途切れた道なき道をしばらく歩いていると、塗装の剥がれかけた大型重機が、点々と物々しく鎮座しているのに気付いた。


 水道管の工事途中で放り出されたのか、あちこちの地面が長方形型にくり抜かれていた。そういったところには決まってブルーシートが敷かれていて、先日降り注いだ重金属を含んだ雨の残渣が、真っ黒な水溜まりとなってある。


 最も目に留まったのは、建物の周辺をくるくると巡回する、銀色の球形状の物体だった。その、二枚の羽をハチドリのようにしきりに羽ばたかせて空中態勢を維持する銀色の球体の中央には、カメラ・アイに酷似したレンズが取り付けられていた。


 なんとなく嫌な予感を覚えて、エヴァは銀球体の視界に収まらないよう注意を払いながら、建物の影から影へと、ニコラの手を引いて俊敏に移動していった。さながら、市街戦に挑む兵士のような感じだ。


 エヴァの鼻腔へ、嗅ぎ慣れた匂いが入り込んできた。


「血の匂い……?」 


 しかし周囲をどれだけ確認してみても、死体らしきものはない。痩せこけた野良犬が時折目の前を横切るだけで、人の姿はない。


 それでも匂いがする。プールに一滴の血を垂らした程度の微かな量だが、それでもエヴァの優れた嗅覚は、硫黄と灼けた鉄を混ぜ合わせたような匂いを確かに捉えていた。それも一か所からではなく、まるで土地全体がそのような――極低濃度の血臭を放っているようだった。


「そうか。これは血騰能力(アスペルギルム)の匂いだ」


血騰能力(アスペルギルム)の匂い?」


 合点がいったエヴァが漏らした独り言に、ニコラが興味深そうに食いついた。


鬼血人(ヴァンパイア)の能力だよ。お前と出会ったばかりの時、見せただろ?」


「あの、赤黒い霧みたいなものですか?」


「そうだ。アレを使うと、どういうわけか血の匂いがするんだ」


「でも、私は何も感じませんけど」


鬼血人(ヴァンパイア)にしか追えない匂いだ。それが、ここら一帯に充満している」


「ということは、近くに?」


「いや……濃度からいって、コイツはかなり古い。たぶん、十年ぐらい前のものだ」


「つまりここは、その昔に鬼血人(ヴァンパイア)に襲われたってことですか?」


「そう見るのが妥当だろうな。で、混乱が収まってから再開発に着手してみたが、何らかの要因で放棄されたってところか」


 エヴァの推測は、おおむね当たっていた。たしかにエヴァたちのいる『旧ミドル・サウス・ストリート』は、十年前に鬼血人(ヴァンパイア)たちの強襲を食らった土地だった。


 彼らは飛空艇を操って夜空を駆け、闇夜を目くらまし代わりに都市へ降り立ち、人という人を文字通り搾取――血を次々と『搾り取って』いった。


 襲撃を受けた他の区画が再生の道を歩んだのに少し遅れて、鬼禍殲滅作戦(オウガ・バニッシュ)の遂行の後、ここも都市公安委員会の主導の下、再開発工事の受け皿となった。


 だが、多額の公的補助が見込める状況にあってなお、旧ミドル・サウス・ストリートは、その名を『ニュー・ミドル・サウス・ストリート』と改める機会を喪失した。


 理由は単純だった。誰も再開発に協力的ではなかったせいだ。


 都市公安委員会が入札をかけた時にはすでに、比較的被害の少なかったミドル・セントラルとミドル・ウエスト・サイドは復興を成し遂げ、大型ショッピングモールやテーマ・パークが立ち並び、中層都民の日々の暮らしの隙間を補充していた後だった。


 それでも、旧ミドル・サウス・ストリートの開発は当初の予定どおり着工された。実際に工事が始まれば、人々の意識も変わると見越したのだろう。しかしながら、有力な店舗や不動産会社は協力の姿勢を最後まで見せなかった。


 必要な分だけの娯楽と、必要な分だけの物質的快楽があれば、それ以上は求めたくても求めてはならないという思想。『聞き分けの良い無関心さ』とでも言うべき主義は、鬼血人(ヴァンパイア)の暴虐ぶりをトラウマとして刻まれた中流階級の大部分に浸透していた。もう二度と、苦労して拡大した財産を蹂躙される事態は御免だと、多くの都民がノーを突き付けたのだ。


 しかし、要因は鬼血人(ヴァンパイア)の存在だけにあるのではなかった。先の大戦も、少なからず影響していると考察する論客は根強くいる。


 過熱する市場競争原理が連邦と大陸の貿易摩擦を加速させ、それが結果として戦争に繋がったのだという一つの結論が、戦争体験者の多くの心に刷り込まれていた。


 だが、これらの世の中の主流に背を向ける存在がいた。それがギャングだ。彼らは競争原理を野蛮且つ肯定的に受け止めていた。


 人間が社会性ある生き物としての(さが)から逃れられない前提に立ち、たとえ鬼血人(ヴァンパイア)に匹敵する存在が今後現れる可能性があるとしても、より大きく成長し、より影響力を与える存在に成り上がることが、人生における成功だと信じて疑わなかった。


 事実、ギャングらは入札に関わった建築会社の背後へ、ダミー会社を通じて巧みに潜むことで、旨味を吸い上げようと画策した。


 都市公安委員会は調査の末にギャングらの動向を察知するやいなや、再開発区域が組織的犯罪集団の温床になることを避ける意味も込めて、直ちに土地開発を半永久的に凍結させた。着工から、すでに二年の月日が経過していた。


 そういうわけで、旧ミドル・サウス・ストリートは、暗く、汚く、殺風景な死んだ土地となった。それでも、廃ビルを拷問施設として買い取るようなギャングたちの格好の根城として機能していないのは、都市公安員会の治安維持局が組み上げたシステムのおかげと言わざるを得ない。


 そのシステムというのが、先ほどから建物の周囲を巡回している、二枚のナノレイヤー製の羽が生えた銀球体。自動探査飛翔体(ウォッチ・ガン)だ。


 無線入出力を有するそれは、旧ミドル・サウス・ストリートのいたるところにばら撒かれていた。不審者の侵入を熱式センサー搭載のカメラで感知すると、中層の市警本部へすぐさま情報が通達され、もれなく合法的施術を受けた市警サイボーグと、ドローン部隊が急行する仕組みになっている。


 そうとは知らないエヴァだったが、野生のカンという奴が働いたおかげだろうか。ウォッチ・ガンの危険性を察知できたのは、あるいは鬼禍殲滅作戦(オウガ・バニッシュ)で散々人間達の怒濤の攻撃を迎え討ってきた末に会得した、生きるための嗅覚によるものかもしれなかった。


 今のところ、ウォッチ・ガンはエヴァとニコラの存在に気づいていない。もっとも、市警が『奇跡を信じない者達ばかり』ならば、ウォッチ・ガンのカメラ越しでもニコラの存在どころか気配すら見いだせないわけだが。


「ねぇねぇエヴァさん。これからどうするんです? またエレベーター使って昇っていくんですよね?」


 建物の影から影へ移動を続けてストリートを北へ向かっている最中、ニコラが甘えるような声を出した。危機感が欠如した、実に能天気な声色だった。


「その手はもう使えねぇだろうな」


 たまらず、エヴァはうんざりした様子で応えた。


「あれだけの騒ぎを起こしちまったんだぞ。都市のお偉方が気づかないわけがない。階層間エレベーターは当分、全層で使用禁止になっているはずだ」


「あれだけって、私は目撃したわけでもないし耳にしていただけで何とも言えませんけど、そんなにヤバかったんですか」


「ああ、ヤバかったよ。いきなり訳の分からない二人組に襲われるしな」


「二人組だったんですか? あまり声が聞こえませんでしたけど、二人いたんですか?」


「電脳回線でやりとりしてたみたいだからな。脳の中枢神経に無線通信入りの電子チップを埋め込んでいやがるんだ。ノーマルの電子チップなら最下層にもごまんと流通してるが、回線付きってなると値が張る。つまり金があるってことから考えて、ありゃあ多分、ギュスターヴの手先だろ。でなけりゃ、そいつに雇われたハンターだ。それも、かなりの腕前だ」


「ハンターって、お金さえいただければ何でもやるっている豪気な人たちのことですか。でも、なんでギュスターヴが関わっているって断言できるんです?」


「お前に接触してきたのがギュスターヴの使いだってんなら、奴が噛んでいると考えるのは当然のことだろ。ていうか」


 エヴァはニコラを見返すと、赤い毛皮のコートに覆われた彼女の小さな体を、やや乱暴にまさぐりはじめた。

 何かを探す行為に似ていたが、くすぐったくてしょうがいないのか、ニコラは引き攣った笑い声混じりに困惑した。


「なにするんですかエヴァさん」


「お前、位置を知らせる発信機が仕掛けられたりしてるんじゃないのか? え? ギュスターヴの使いに話しかけられた時に、何か付けられたりしてないか?」


「そんな、考え過ぎじゃないですか?」


「何が考え過ぎなもんかよ。じゃあ、どうやって奴らは、エレベーターにアタシたちが乗り込んだ事実を掴んだんだ。辻褄が合わないじゃないか」


 エヴァの右手が、ニコラの襟元付近を素早く払った。カランと音を立てて、何かが地面に転がった。その音を、エヴァもニコラも確かに耳にした。けれども、転がったはずの『何か』は、目視では確認できなかった。


 エヴァはしらみつぶしに、建物の影にかくれたまま、音がした辺りに狙いを定めて地面を徹底して踏み続けた。ガキンと、足裏に硬いものを砕く感触が広がった。足をどけてみると、極めて小さくデザインされた基盤と、半透明に光る砂粒サイズの結晶らしきものが、一緒くたになって砕け散っていた。


 メタマテリアルと、それに覆われていた発信機のなれの果てだ。


「なんだよ。やっぱり付けられてたんじゃねぇか」


 投げやりな口調だが、内心では心配の種が一つ消えたことに安堵しきりだった。これで少なくとも、奴らにこちらの足取りを知られなくて済む。そう考えた。


「おお、エヴァさん凄い。予想的中って奴ですね」


「お前が能天気すぎるだけだ」


「そりゃあ、私は奇跡の――」


「体現者。だから常に前向きな姿勢を崩さず、マイナスなことは考えないんですってか?」


「そうです。そうです」


「そうかい。そいつは良かった。お前、犬の糞を踏んでもあっけらかんとしてそうだな。得な性格してると思うよ」


「流石に犬の糞は避けて歩きますよ。ところでエヴァさん、もう一つお聞きしたいことがあるんですけど」


「あぁ? 今度は何だよ」


「いや、ちょっとした好奇心で聞くんですけどね。バッグの中にいても嫌ってくらいに聞こえてきたんですけど、ベルって方とはお知り合いなんですか?」


「……」


「何やら一悶着あったみたいですけど、昔のお仲間なんですか?」


「片手間に話せるような事じゃないんだ」


 ぶっきらぼうだったが、エヴァの口ぶりから話す気はあると察知したのか。ニコラはそれ以上、余計な追及を止めた。


 エヴァとしては、適当な事を言ってその場をやり過ごすこともできたはずだが、いまは『話してもいい』という気分の方が勝っていた。


 ベルハザードとの関係性について喋ることは、『太母殺し』という、身に覚えのない罪について語るのも同じだ。それは、居心地の悪さを反芻する行為に他ならない。

 けれどもニコラ相手なら、話しても別にいいと思えた。


 こちらの生き方を否定したり、特定の主義主張や考えを無理やり押し付けてくるタイプではないニコラに対してなら、己の懊悩とした心の有様について、洗いざらい吐き出してもいいように感じられた。


 かつての、よき理解者(・・・)であったベルハザードに対して、剥き出しの心情を曝け出していた時のことが、フィルムのように、思考の狭間に差し込まれてきた。


 張り裂けそうな胸の昂りを必死に堪えると、エヴァはニコラの小さな手を取り、決して相手が痛がらない程度の力で握り締めた。


「いいか。あの林に向かって突っ切るぞ。絶対に手を離すなよ」


 足を少しだけ広げ、建物から慎重に半身を出す。林までの距離は目算で百メートルほど。途中に、七体のウォッチ・ガンが、互いの死角を補うようにして忙しなくカメラのレンズ角度を変えていた。一見して隙が無さそうに見えるが、注意深く観察すれば、それがある一定のパターンを踏襲したプログラム・ソフトによる制御であることが分かる。


 実際に、エヴァはそれを掴んでいた。五体のウォッチ・ガンの数理的な規則性を。ランダムに見えて、その実、全てが計算された動きに支配された、物言わぬ警告者たち。決まった手順に則った動きの中に、それは確かに存在していた。


 人の可聴域を超えた、ほとんど無音ともとれる羽ばたきのひずみを、鬼血人(ヴァンパイア)に特有の優秀な聴覚でキャッチする。それが一つの指標となった。ウォッチ・ガン七体全ての視界が、ほんのわずかに外れる瞬間。呼吸一拍に相当する、わずかな隙間へ辿り着く指標に。


 その隙間を、いまなら掻い潜る自信があった。これまでにないくらい、体の調子が良かった。あの奇妙な復活劇を経たせいだろうか。


 鬼血人(ヴァンパイア)として授かった身体機能をいかんなく発揮するのに、腕をどのように振り、腰をどのように捻り、足をどのように運べば良いか、感覚で把握できた。

 今までそんなことを意識して、肉体を動かしてきたことはなかった。だがこの時は、そうせざるを得ないように、他ならぬエヴァ自身が自覚していた。


 調息に意識を集中させる。大きく息を吸い、吐き出す動作を繰り返す。心を落ち着かせるだけでなく、周囲の環境とその身を同調させるように。


 ウォッチ・ガンたちの機械的な仕草から決して目を離さず、何度も呼吸を整えているうちに、その時はふいに訪れた。肺に溜まった息を全て吐き終えた直後と、七体の銀球体らが垣間見せた隙間とが、ぴたりと一致した。


【奔れ】


 体の奥底で、何者かが囁いた気がした刹那、エヴァはニコラの手を引っ張って飛び出していた。それはもはや、駆ける、という行為ですらなかった。


 力強く地面を踏み抜いて、爆薬が炸裂したかのような音を置き去りに、エヴァは地面と平行に宙を一直線に飛び抜いた。さながら、力強く引き絞った弓から放たれる、矢の如き勢いだった。


 時間にして、およそ二秒程度。


 たったそれだけの時の流れの間に、エヴァとニコラは百メートル先の林の中に体を滑り込ませるのに成功していた。

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