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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
2nd Story フェイト・オブ・ジ・イノセンス・ギア
43/130

2-9 AM:9:40/階層間エレベーター《十二番》

「あの、これはちょっとした興味本位の質問なんですけれど」


 プロメテウス最下層D区。階層間エレベーター《第十二番》の最寄りのバス停に降りたニコラは、さっさと先を行こうとするエヴァを呼び止めた。


「なんだ?」


「どうしてわざわざ、B区じゃなくてD区にまで行く必要があるんですか? 階層間エレベーターなんて、あちこちに沢山あるじゃないですか」


 エヴァは質問に答える代わりに、ホットパンツのポケットに手を突っ込むと、ファミレスから拝借してきた丸めた電子ペーパーを取り出した。画面を起動すると、トップページに飾られたタイトルをニコラに見せつける。


「ちょうどこの時間、A区だとエレベーターの落成式がやってる頃合いだ。役人がぞろぞろ出張ってるのさ。すると当然、A区近辺の警備はいつにもまして厳重になるだろ? さすがのアタシでも、そんなところにノコノコ出向こうとは思わない」


「だから、A区から地理的に最も離れたD区を選んだってわけですか。でも、ここの警備だって結構しっかりしてるんじゃないですか?」


「そりゃあな」


 視線を産業道路へ映す。歩道に佇む二人のそばを、休む暇も見せずに大型トラックが次々に通り過ぎていった。


 全ての荷台に最下層の《農場》で収穫された赤や緑や黄色といった原色に彩られた遺伝子組み換え作物がぎっしりと詰め込まれているだろうことは、わざわざ目を凝らさなくても把握できた。


「記念式典をやっていようが、ここは平常運転。人の出入りは激しい。それでも、ここよりもっとガチガチに固められているA区に行くよりはマシだろ?」


「それは、そうですけど」


「安心しろって。上手くやるから」


 意気揚々とエヴァは歩き出した。百メートルもしないうちに、それは見えてきた。


 遥か頭上に佇む中層岩盤へ接続された階層間エレベーター《第十二番》。食料輸送専用の都市が誇る高機能の塔建築物。D区では最大規模の積載量と運搬力で知られている。


 建築されてから八年が経過するが、勤勉なインフラエンジニアによるメンテナンスのおかげで、建築当時の外観を今でも保っていた。


 エレベーターの外側を覆うコンクリート素材は白一色に塗り固められ、人工の太陽光を受けてきらきらと輝いていた。あらゆる悪徳を寄せ付けないかのように。


 しかしそれこそ、箱庭を階層化させ、強者と弱者、富める者と貧する者とを冷酷に区別している都市機能の象徴に他ならない。


 エレベーターのエントランス・メイン・ゲートに辿り着く頃には、すでにあたりは大渋滞となっていた。まさに予想通りの光景だったから、エヴァは特に思うところもなかった。


 反対に、怪物の唸り声のようなエンジン音の合唱と、視界に薄い膜を張るほどの排ガスを平然と撒き散らすトラックの大集団を間近で見たニコラは、声にならない声を上げるしかなかった。


 エントランスを構成するメイン・ゲートは全部で十門存在しており、有料道路の料金所よりもずっと横に大きく広がっていた。正面から見て右側の五門に並ぶトラックには大量の作物が積まれている一方、左側の五門、つまり荷積みを終えて去っていくトラックの運転は、心なしか軽やかに見える。


 エヴァはメイン・ゲートの少し手前に設置された業者向けの休憩所の柱に寄りかかると、たまたま近くに寄っただけの善良な都民を演じるような態度を心掛けつつ、つま先立ちでゲートの向こうを観察しだした。


「こりゃあ正面突破は厳しいな」


 運転手の説明を聞きながら、業務用タブレットを片手に荷積みの内容を丹念にチェックする検査官たちの他に、警備員たちが物々しい足取りで周囲を警戒している姿が目に入った。全員、中層の民間警備会社から送られてきた者達である。肩からライフルをぶら下げているだけでなく、胸部の膨らみ具合から察するに防弾プロテクターも着込んでいるらしい。


 整った武装だが、鬼血人(ヴァンパイア)の総合能力と比較すれば紙くずのようなものだ。だが数的な不利を鑑みれば、正面から乗り込むのはあまりにも無謀過ぎた。


 身元がばれないように、人の目をうまく誤魔化して階層間エレベーターを使う以外に方法はない。それが、己の願いを叶えるための第一歩。奇跡を希求する心が慎重さを生み出し、普段は力づくで障害を排除しようとするエヴァの野蛮さを抑え込んでいた。


「それにしても、とてつもない大きさですねぇ」


 溜息を吐くかのように零れ出たニコラの感想は、初めてメイン・ゲートを訪れた者が口にするものとしては、ごく自然なものだった。なにせ、地上からおよそ八百メートルもの高さがあるのだ。こうしてエントランス側に立って見上げてみると、エレベーターとしての機能を喪失した一本の馬鹿でかい塔にしか見えない。


「よく風で倒れたりしませんね。どうやって支えてるんでしょうかね」


「中層の岩盤を支える役割はコイツにはない。それは《支柱》の仕事だ」


「はぁ、支柱ですか」


「ビリオンウォールナノチューブで構成された代物さ。道中で散々目にしてきただろ? あの真っ黒な柱の事だよ」


「あ、そうなんですね。しかしそれにしても、荷重がもの凄そうですね」


「こっからじゃ見えないが、中層へ伸びていくにつれて細い形状になっているんだ。テーパーって言うらしい。ネジの構造と同じで、先端が細いと強度が上がるんだと。おまけに等間隔にショック・アブソーバーが取り付けられていて、それで風圧のエネルギーを減衰させているから、倒壊する心配もないんだそうだ」


「ずいぶんと詳しいんですね」


「三年も住んでりゃあ、嫌ってくらいに思い知らされるよ。まったく人間ってのは、餌のわりになかなか面白い事やってくれるな。けれどもアタシたち鬼血人(ヴァンパイア)の方が、技術的にはずっと上だったんだぜ?」


「でも、滅んでしまったじゃないですか。技術的な面で人間に負けてしまっていたから、滅びの道を辿ったんじゃないですか?」


 起こった事実をありのままに告げるニコラの物言いに、しかしエヴァが鬼血人(ヴァンパイア)としての誇りにあぐらをかいて、憤慨することはなかった。


 自分の中で、それなりに答えを導き出せていると主張するように、エヴァは軽く肩をすくめてみせた。


「どれだけ凄い力を持っていたって滅びる時は滅びるものさ。種族ってのはそういうものだろ。そこに生物としての優劣は関係ない。かつて地上を支配していた恐竜は、哺乳類より劣っていたから絶滅したのか? ネアンデルタール人はクロマニヨン人より知能が低かったから滅びたのか? 答えはアタシの中では全てノーだ」


「外敵がもたらす脅威に対応できるよう進化できなかったから、滅んだということですか?」


「進化は種族全体の意識で操作できるようなものじゃない。ある特定の個体が、たまたま当時の環境に適応可能な形質を持っていたから、生き延びた。それだけだ。生命の繁栄は偶然の連続性によって成り立っているって、アタシは考えている。滅びる運命だから滅びた。生き残る運命だから生き残った。全ては、些細な運の巡り合わせさ」


 コロニーを失ってから現在に至るまで、エヴァはそうやって己を納得させていた。無理矢理にではなく、起こった事実に己を上手く適用させ、自然とそのように受け入れていた。


 鬼血人(ヴァンパイア)は滅んだ。だからと言って、人間に敬意を払うことはない。家畜というカテゴリーから昇格させる気も、さらさらない。彼らの生き方に理解を示す事だって。


 コロニーを崩壊へ導いた『ある特殊な人間達』を除いて、大部分は無力な餌に過ぎない。その身に栄養たっぷりの血液を宿した、ただの血袋であることに変わりはない。


 ぐぐぅ……と、エヴァの体の中心から奇妙な音色が流れた。思わず苦笑を零した。


「餌の話をしてたら、腹が減ってきちまったよ」


「えぇ……さっき路地裏で食べたばかりじゃないですか」


「しょーがねーだろ。元からこういう体質なんだよ」


 全身の細胞がゆっくりと縮んでいくような感覚と共にぼやきが出た。ニコラの言う通り、B区で朝食(・・)を済ませてから、まだ二時間と少ししか経過していない。燃費の悪さは今に始まった話ではないが、それにしても『空腹』とは難儀なものだった。特に今のような、他に優先すべき事柄を前にした状況では。


 ひとたび血を吸いたいと意識の片隅が小さく叫んだら、どれほど気を紛らわそうとあくせくしたところで、欲望が肥大化するのを止めることはできない。それが鬼血人(ヴァンパイア)の、持って生まれた逃れられぬ(さが)だった。


 体の内側で反響し続ける飢えの叫びを放っておいた結果、視野狭窄に陥って自我を喪失。そして死ぬ。自己管理を怠った結果、そんな目に遭う同胞たちは珍しくなかった。


 身を焦がす吸血衝動を解消する。エレベーターにも無事に乗り込む。二つの欲望を同時に達成するために、エヴァはニコラを連れて一旦その場を離れた。この状況を打破するのに利用できる者の存在に心当たりがあるのだ。


 来た道を少し戻ってから、産業道路を渡り、東側の歩道へ出る。道なりに沿ってエレベーターが立つ広大な敷地を反時計回りに歩いていくと、やがて東側のサブ・ゲートが見えてきた。


 先ほどのメイン・ゲートとは異なり、サブ・ゲートの門は一つしかなかった。それでも、守衛室の警備システムは健在であるし、武装した警備員もちゃんといた。


 そこは主に、エレベーターのメンテナンス業務を委託された、独立系民間会社の出入り口として機能していた。


 遠隔知的診断装置によるリモートメンテナンスが主流となった今でも、電装部品や消耗品、ワイヤーの交換といった作業は、人的な部分に依るところが大きい。しかも一日に数十トンクラスの物資の運搬。それもほとんど毎日二十四時間休みなく稼働し続けるとあっては、定期検査の頻度が比例して多くなるのは当然の話である。


 サブ・ゲートへ続く道路。その路肩に駐車しているこの日のメンテナンス会社の車は一台のみだった。真っ白なワンボックス・タイプのオイル・カー。ドアの側面に会社のロゴが刻印されている。


 エヴァは警備員の視界に収まらないよう周囲を警戒しつつ、オイル・カーへゆっくり近づきながら、しげしげと中を観察した。業務命令が来るまで手持ちの携帯端末を弄って暇を潰している、ヘルメットを被った若手の男性エンジニアが運転席にいた。助手席には誰も乗ってはいなかった。後部座席には運転手の上司と見られる髭面のエンジニアが一人と、こういった業務にはつきものの工業規格の作業用アンドロイドが乗り込んでいた。


 必要な情報を頭に叩き込むと、エヴァは素早く行動に出た。身を屈めつつ運転席側へ近づき、ごく自然な調子で声をかける。


「おはようございます。遅くなってしまってすいません」


 B区でジュラス・オグランを誘い出した時とは真逆の、しおらしい態度で接する。運転席の男が携帯端末を弄る手を止め、窓ガラス越しに怪訝な表情を見せた。後ろに乗っている髭面のエンジニアも、困惑と警戒の入り混じった眼差しでエヴァを睨んだ。最下層に生きる者としての心構えだ。人畜無害を装った強盗か何かの類だと勘繰ったのである。


 しかし、そんな反応を維持できたのもコンマ数秒のことだった。


 二人の精神が展開した『警戒』という名の殻は、エヴァの、カラーコンタクトでも隠し切れないほどに真っ赤に輝く瞳から放たれる『不可視の魔力』とも言うべき力によって、あっという間に砕かれてしまい、たやすく侵入を許した。


 同僚の異変に気付いてエヴァと眼を合わせたアンドロイドまでもが同じ状況に陥り、瞳のハイライトを強制的に消さざるを得なかった。人工の網膜神経を経由して有機メモリへアクセスし、駆動系の権限を簒奪したのだ。セキュリティは何の意味もなさなかった。


 血染めの魔眼――全ての鬼血人(ヴァンパイア)が生まれながらにして瞳に宿す血眼(フレンジィ)の中で、エヴァのそれは特筆に値する効力があった。


 目を合わせた意志ある者の意識へ軽やかに干渉し、見えざるコマンドの力で誘導し、自我を保たせたまま従属させる。社会の目から逃れて生き延びる上で、これほど便利な力もないと、エヴァは内心で自画自賛した。


「助手席と、それから後部座席のドアを開けて」


「はい」


 運転席の男は言われるがまま、ドア・ロックを解除した。普段と変わらない様子で。そうなるようにエヴァが調整したのだ。


 事情を知らぬ者が運転手の顔を見たら、鬼血人(ヴァンパイア)の意のままに操られていると看過することは難しい。彼女の身に備わった魅了(チャーム)血眼(フレンジィ)の本領が、いかんなく発揮されていた。


 エヴァは広めの後部座席にその身を滑り込ませると、機能を喪失したアンドロイドをトランクスペースにどけて、無機的な表情を浮かべたままの髭面男の作業着を脱がし始めた。それらを乱雑にたたむと、一連の様子をカーの外で興味深そうに眺めていたニコラに預け、自らは口腔内に生える鋭い四本の牙を、静かに男の首筋へ突き立てた。


 後部座席で残虐な光景が繰り広げられているのにも関わらず、運転席の男は、声一つとして挙げることはなく、バックミラーをじっと眺めているだけだった。


 車内に血が飛び散らないよう配慮した静けさに満ちた吸血。それでも、エヴァの体内は煮えたぎるような歓喜のただ中にあった。


 送り込まれる人間の血液を、諸手を挙げて迎え入れる鬼血人(ヴァンパイア)のヘモグロビンたち。貴重なエネルギー源として大量に送り込まれる髭面男の血液に対して、存分に細胞的凌辱を加えて無理やり同化させる。恐るべき生命の冒涜行為が、ミクロの世界で繰り広げられた。


「――ぷはっ!」


 数分後、無事に腹を満たしたエヴァは、血と唾液で汚れた口元を右手の甲で拭って、カラカラに干からびた下着姿の獲物の首から牙を抜き取り、それもまた口の中に放り込んだ。生え変わったばかりの牙でしっかり噛み砕いて血肉の一つとしながら、ミイラ化した遺体をトランクスペースへどける。


 その時、こげ茶色の大きなバッグがエヴァの目に留まった。引っ張り出して中を開けてみると、充電器にラップトップなど、エレベーターの通信設備メンテナンス用と思しき電子機器が大量に詰め込まれていた。


「おいニコラ、いい隠れ家を見つけたぞ」


 にやつきながら、中身をトランクスペースへぶちまけて言うエヴァに対し、ニコラは相手の考えを読もうとするかのように、少し小首を傾げてみせた。


「おまえ、この中に入れ」


 大きく口を開けるバッグを見せつけながら、強制的に提案する。ニコラが、あからさまに嫌そうな顔になった。


「えー……なんか臭そうじゃないですか、そのバッグ」


「我慢しろって。お前の姿がこの都市の全員に見えないとは限らないだろ? 警備員の中に、奇跡を信じる奴だっているかもしれない。見られると面倒なんだよ」


「でしたら譲歩策として、この作業着に着替えます」


「そりゃあアタシが着るんだよ。だいたい、ちんまいお前じゃ丈が合わないじゃねぇか。ほら、早く入れって」


「あっ! ちょっと! 腕を引っ張らないでくださいよ!」


 まるで誘拐現場のワンシーンのように、エヴァは無理やりにニコラの手を取ると、その矮躯をバッグの中へ目一杯に押し込めた。人としてではなく、あくまで道具として扱おうと決めたのだ。願望を叶えるのに必須な『よく喋る道具』として。


「お、なんだお前、随分とぴったりじゃねぇか」


 膝を抱え込むようにして、ギリギリのところで入り込んだニコラの様を見て、愉快そうにエヴァが笑った。だがニコラとしてはかなり不満なようで、その証拠に、柔らかそうな頬っぺたをぷっくりと膨らませている。


「ううー、背中の辺りがザワザワするー」


「あーホコリだホコリ。まぁ気にすんなよ。しばらくその中に入っておけ。中層に到着したら出してやるからよ」


 ポンポンと宥めるようにバッグを叩いてから、エヴァはチャックを閉めた。それから助手席に乗り込むと、ガーリーな衣装の上から、さきほど奪った作業着を上下ともに着込んだ。時節が本格的な冬へ向かっているから、暑苦しさを感じることはなかった。


「ヘルメットを」


「はい」


 言われるがまま、運転席の男が自らのヘルメットを外し、エヴァに差し出した。サイズ的にやや大きいが、それでも被ってみると、傍目には違和感がなかった。新人研修でやってきた、若手の女性エンジニアに見えないこともない。


「作業開始まであと何分?」


「はい。三十分ほどしたら、連絡が入るようになっています」


「もう今から行っちゃいましょう。車を出して」


「はい」


 ホストたるエヴァの言葉に従い、車はサブ・ゲートへと向かった。門の手前まで来たところで、警備員が不可解なものを見るような目つきで、運転席側へ小走りに近づいてきた。


「ちょとちょっと、もう作業する気かい? 困るなぁ。あと三十分したら二次配送が終わるから、しばらく待ってくれって言ったはずだけど?」


「別に構わないですよね」


 助手席側から、エヴァがひょいと顔を突き出して言った。血眼(フレンジィ)の効果をより浸透させるための演技めいた口調。エヴァの赤い瞳と一瞬でも視線を合わせてしまったのが、警備員の許されざる失態としてカウントされた。


「え、あ、ああ、うん」


「メンテが早く終わることに、越したことはないですものね」


 たおやかに、だが有無を言わさぬ声色で、さらに精神を誘導させる。あからさまに不自然な言い回しにならないよう注意しながら。違和感が根付き、従属の鎖が自然にほどけてしまうようになっては、元も子もなかった。


「そうだね。うん、そうだと思う」


『業務に真面目な新人メンテナンス作業員』として認識されたエヴァの言葉に従い、精神を目隠しされた警備員は守衛室に戻ると、普段と変わらない声音で配送オペレーター室へ連絡を取った。


 何回かのやり取りを終えると、警備員は入場カードを手に助手席側へ駆け寄った。


「そうじゃないですよね」


 差し出されたカードを右手で押し返しながら、エヴァが微笑んだ。誘導の強化。


「あなたの入場カードが必要なんです。あなたの会社に連絡を取らなきゃいけない。なぜなら、メンテナンスの報告をしなければいけませんから。忘れてしまった(・・・・・・・)んですか(・・・・)?」


「あ、ああ、そうだった」


 警備員は慌てた様子で手を引っ込めると、自身が首から下げていたICチップ入りのカードを差し出した。民間警備会社のロゴが刻まれている。中層で待機している同僚たちと交代する際に必要となるもの。中層へ行くために、欠かせないアイテムだった。


「どうぞ。いま空いているのはB-1のエレベーターです。調速機(ガバナー)が摩耗していると思いますので、交換をお願いします」


 手渡されたカードを首からぶら下げると、エヴァは更にいくつかの事を質問した。


 エレベーター・ホールへの行き方。ホール内における警備員の数。現在の配送状況。箱内部の監視カメラの位置。中層のメイン・ゲートの出口。


 聞き出した種々の情報を集中して頭に叩き込むと、車を発進させる前に、最後に一言付け加えた。表情に、普段は決して見せる事のない花を咲かせながら。


「メンテナンスは無事に終えますから、ご心配なく。大丈夫、いつも通りに(・・・・・・)仕上げます。そうそう、私、今日からこの会社に入ったんです。今度、また改めてご挨拶(・・・)させていただきますね」

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