2-4 AM:9:00/見える奇跡、見えざる奇跡
振袖合うも多生の縁。
そうは言っても、これほどまでに奇妙でわけの分からない縁もあったものではない。
B区の路地裏を飛び出し、奇跡を司る少女の願いを聞き届けたエヴァは、その願いの内容の荒唐無稽さに呆れると同時、激しく驚愕したものだった。
やっぱりこの話は聞かなかったことにしよう。ニコラの願いを聞いた直後、そんな後ろ向きな考えが過ったのは事実だ。
いくらなんでも『そんな場所に』彼女を連れて行くことは不可能に思えたし、果たして無事に傷一つ負わずに、彼女の願いを達成できるというのか。正直なところ、自信があると言えば嘘になる。
エヴァがプロメテウスに住み始めてから、もう三年近くが経過する。その間、彼女は出来得る限り、このバベル型積層都市の構図を頭に叩き込んでいた。命を繋いでいくために、必要に迫られて学んできた。
だから、これから向かう場所がどういった警備システムを敷いているのかも、おおよそであるが把握できた。しかし、それでさえもニコラの願いを叶えるための通過点に過ぎないのだ。
最終的な目標を達成するまでの間に、数多くの障害が待ち受けているだろうことは容易に想像できた。困難という名の壁。それを打ち壊すことに怯んでいる訳ではないが、不安でないと言ったら嘘になる。
それでも最終的にはこうしてD区方面へ向かって走るバスに乗り込んでいるあたり、エヴァは、もう二度と胸の奥底に沈める事の出来ない、自らの願望の重さを自覚した。
一か八かの賭けに乗る。そして好機を掴む。ニコラの願いを叶えた見返りに、自分の願いを現実のものとしてやる。
エヴァンジェリンはバスの最後部座席に座ったまま、もう自分が後戻りのできない地点にいることを、まざまざと思い知った。こうなったら、あらゆる手を尽くしてとことんやってのけるだけだと、意識を更新する。
決意を固めるエヴァの隣でニコラはどうしているのかというと、じつに呑気なものだった。初めて外出した幼児よろしく、土足のまま座席に膝立ちになって、旺盛な眼差しを外の風景へ向けている。
「うおー! ヤバイ迫力! スゴい! ビンビンくるぅ~!」
公共の場でのエチケットなどお構いなしなはしゃぎっぷりである。窓の外を通り過ぎていく違法建築された異形の高層アパートメントや、黒々とそびえ立つ《支柱》の稠密ぶりを目にするたびに、驚きの声を遠慮なく上げるニコラの姿を見て、さすがのエヴァも眉をひそめて小声で叱らざるを得ない。
「あのさ、お前うるさいよ。もうちょっと静かにしろって」
「私も色々な都市を旅してきましたけど、ここまで発展した光景を見るのはプロメテウスが初めてですよー! あ~たまらん!」
「オイこら、聞いてんのかよ」
見かねた様子で顔を近づけ、耳元できつめに囁く。
「なんです? エヴァさん、何をそんなに気にされてるんです?」
振り返ったニコラの丸っこい顔が、ずいとエヴァに迫った。まったく悪びれていない、どこか開き直った態度。咄嗟にむかっ腹が立ったが、それでもエヴァは気分のハンドルをなんとかコントールすると、聞き分けのない園児を諭すように注意する。
「感動するのは勝手だけど、そんなにうるさくするなよ。頼むからさ」
「どうしてです?」
「どうしてって……迷惑になるし、人目を引くだろうが」
「……エヴァさんって」
ニコラが、小さな唇を意地悪そうに歪めてみせた。そうして間髪入れずに、車内に響き渡るほどの大声で、エヴァにとって致命傷になりかねない一言を大声で口にした。
「エヴァさんって鬼血人のくせに、人間みたいなこと言うんですねー!」
「ばっ……!?」
馬鹿野郎、なんてことを口にするのだ――そんな罵声の一つでも浴びせてやりたい衝動が全身を駆け巡った。
それでもエヴァはニコラを叱るより先に、慌てて車内の様子を伺うのを優先した。疑わしい目を向けてくるであろう乗客たちにどう言い繕うか、必死になってアイデアを絞り出そうとした。
しかし奇妙なことに、あれだけの大声をニコラが出したにも関わらず、乗客たちの誰一人として振り返ることはなかった。耳をそばだてる者すら皆無だった。
あり得ないことだった。まるで最初からニコラの存在になど気づいていないかのような。
「お前、また何かしたのか?」
裏路地で見せつけられた超現象の数々を思い出しながら小声で尋ねるエヴァに対して、ニコラは「いまさら気づいたのか」と小馬鹿にするように、胸を張って得意げに小鼻を鳴らした。
「言ったはずですよ。私は『奇跡の体現者』だって。奇跡を信じない人には私の声は届きませんし、姿を見る事すら叶いません」
「なんだと? じゃあ、ここにいる奴ら、全員『奇跡を信じていない』ってのか?」
「そういうことになりますね。ついでに言うと、エヴァさんが私に向かって語る言葉も、彼らには聞こえていませんよ。奇跡を信じない人は、奇跡を信じる人の声に、耳を傾けようとはしませんから」
あまりにも現実離れした答えに、エヴァも閉口せざるを得なかった。だが、ニコラの声に乗客がまったく反応しなかったのは事実だ。
その事実を噛み締めているうちに、あることに気づいた。
B区の裏路地から出てバスに乗り込むまでの道のり。その途中で多くの住人とすれ違ったが、この奇特な服装の少女に対して、誰一人として関心を寄せるような目を向けてこなかった。
むしろ注目を集めていたのは、ショッキングピンク柄の猫耳パーカーに際どいホットパンツ姿といった、ガーリッシュな恰好をした自分のほうだったと気づかされた。
たしかにニコラの声も姿も、奇跡を信じない者にとっては、それこそ『夢のような』存在でしかないのだろう。そう結論を下した時、エヴァの中で更なる『気付き』が生まれた。
ニコラを見る事が出来たということは、間違いなく自分自身が、奇跡を信じていることを意味しているに他ならない。
奇跡。現実的に考えてあり得ないことが現実のものとなって、誰かの世界を改変する神秘的現象。それをずっと意識の深層で願っていたことに気づかされ、エヴァはむずがゆい気分になった。そんなにロマンチストな面を、こんな穢れた身で抱えていたのか?
エヴァはニコラから視線を外すと、改めて一連の流れで受けた印象を丹念に整理しはじめた。そこでまた、別の観点が生まれた。
視点の逆転。奇跡を信じたからニコラを見る事ができた。それは言い方を変えるなら、ニコラに選ばれたということにならないだろうか。奇跡が、それを叶えるに相応しい者を選び抜こうとしてこの都市にやってきたなら、自分はその眼鏡にかなったことを意味しているのではないだろうか。
エヴァンジェリンの胸に、背中に羽が生えたかのような心地の良さが芽生えた。優越感――コロニーに在籍していた頃にすら感じた事のなかった、これまでにない特別な存在になりうる可能性に近づいていることの喜び。自然と、笑みがこぼれた。
「まったく、お前には驚かされてばかりだな」
シートに背中を預けて言った。声が弾んでいた。
「それを言うなら、エヴァさんの方にこそ驚かされます。人間社会に完璧に溶け込んでいる鬼血人なんて、はじめて見ましたよ」
「日向を歩む者の特権だな。おかげで同胞からは、一歩距離を置かれていたよ。みんな奇妙な目でアタシを見てた。関わり合いになるのを拒む奴らばかりだったな」
いつになく、すらすらと言葉が出た。ニコラが好奇心を隠さずにさらに尋ねた。
「鬼血人のコロニーって、昔はいくつもあったんですよね? 一つのコロニーにつき、どれくらいの日向を歩む者がいたんですか?」
「んなもん、滅多にいねぇよ。一族にしてみりゃあ、突然変異体だからな。コロニーの永い歴史の中でも、日向を歩む者はアタシ一人だけだった」
「一歩距離を取られていたって言いましたけど、本当は憧れの的だったんじゃないですか? 太陽光が弱点の鬼血人にしてみたら、夢のようなことですもんね」
「別に。太陽を克服したって点だけ見れば、実は珍しくもなんともねぇよ。ある方法を使えば、かなりのリスクを伴うが、鬼血人は陽の光の中だって活動できる……っと、そういえば、ニコラ」
「なんですか?」
「お前、アタシが食った男にやたらとしつこく声をかけられていたけれど、なにを話していたんだ? 知り合い……とかじゃないよな」
「あんなデブでハゲで汗っかきの知り合いなんていませんよ」
「それでも、お前に話しかけたってことは、お前の事が見えていた。つまり、あの男も『奇跡』を信じるタイプだったってことだよな」
「あの人が元からそういう性格の持ち主だったって言うよりも、あの男性の背後にいる存在の影響が強いのかもしれません」
「なに?」
「どうも、私が『こういう力』を持っているって、最初から知っていて近づいてきたようでした」
エヴァが息を呑んだ。それまで全身に満ち足りていた優越感が、足下から地面へ吸い取られていくような感覚に襲われた。
「おい、それって、つまり」
「多分、私の存在をすでに感知して動いている人が、この都市にいるのかもしれません。あの男の人、自分はギュスターヴ・ナイルの使いだって言ってました。ご存じですか?」
「ニュースで何度か耳にしたことはある。確か、中層に住んでいる金持ちだ」
「そうですか。お金持ちの方でしたか」
ニコラが黙った。いやな黙り方だと感じて、エヴァは反射的に訊いた。
「鞍替えするつもりか?」
「なんですか?」
「だから、アタシが今こうしてお前の願いを叶えようって頑張っている時に、お前はアタシを置いて、そのギュスターヴなんとかって奴に、鞍替えするつもりなのか?」
「エヴァさん」
声の調子に深みがあった。ニコラは、あの路地裏で見せた時と同じように、氷のような落ち着き払った態度に直ると、真摯な眼差しで伝えた。己のルールについてだ。
「私は『奇跡の体現者』です。人間でも鬼血人でもありません。だから、情けなんて感情は持ち合わせていませんし、どっちについた方が得か、なんてことは考えません。ただ、私は聞かれたら答えるようにはしていますし、なるたけチャンスは多い方がいいと思っています。奇跡は、誰に対しても平等でありますから、誰の目の前にもぶら下がります。あなたが私を『見ることができた』から、あなたに協力をお願いしただけなのです。そして、私の願いを叶えようとする人が複数人いた場合、その中から誰かについていくことを、私自ら選んだりはしません。複数人の間で私を巡る争いが発生した場合、私はその場の流れに身を任せます。私の方から誰かを優先的に選択するなんてことはありません」
なんともシビアで、それでいてどこか受動的な言い分だった。奇跡という神秘的な事象を司る者にしては、地に足が付き過ぎているとでも言おうか。競争原理の体現者と言った方がしっくりくる。
途端に、エヴァは空恐ろしくなった。ますます、このニコラという少女の根源的な部分が不明瞭となっていった。
一体、どのような距離感で接していけばいいのかすら判然としなかった。人として扱えばいいのか、それとも便利な道具として見なせば良いのか。
事態は複雑化の様相を見せている。それでも、賭けから降りるという選択肢だけは、決して浮かんではこなかった。
エヴァは気持ちを落ち着かせるために何度か深呼吸を繰り返すと、神経を研ぎ澄ませ、頭を整理し始めた。
「なるほどな。分かり易くて結構だ。要するに、力づくで突破しろってことだな」
「単純明快、ですよね」
「確認するが、お前がこの都市にきて、最初に自分から声をかけたのはアタシか? それくらいのことは教えてくれるんだろ」
「まず間違いなく、エヴァさんにしか声をかけていません。嘘ではありません。奇跡は嘘をついたりしません」
「そうなると、アタシが邪魔者を退け続ければ、アタシはお前の願いを叶える『権利』をずっと保持していられるってことだな。それで、お前の願いを叶えたら、今度は代わりにアタシの願いを叶えてもらう、と」
「仰る通りです」
奇跡発現に関するルールを慎重に再確認するエヴァに向かって、ニコラは快活に笑って答えた。
一気に現実感に引き戻されたエヴァだったが、それでも気が暗澹とするほどではなかった。
自分だけが選ばれたという特権意識はすでに捨て去った。ただ、目的のために邁進するのみだった。
二人を乗せたバスは、やがてネザー・リバーを越えた。
そうしていよいよ、中層の岩盤を支える無機的な《支柱》の大群に混じって、偉大なるモニュメントのようにそびえ立つそれが近づいてきた。
最下層から中層の岩盤までを縦断する階層間エレベーター。威容さ十分なそれを睨み付けるようにして、エヴァは自らがやるべきことを何度も脳裏で反芻した。
ニコラの願い。その成就。
ひいては自身の願いを叶えるために。
悪徳と欲望にまみれたバベル型積層都市プロメテウスの頂き――最上層への到達にエヴァは意気込んだ。




