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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
2nd Story フェイト・オブ・ジ・イノセンス・ギア
37/130

2-3 AM:7:32/ベルハザード、来訪す

 プロメテウス最下層の南西方面。歓楽街として知られるC区の早朝は、木枯らしが吹きすさぶ、穏やかな静けさのただ中にあった。


 C区は、最下層の東方面にある湾港工業地帯とは、南北を縦断するネザー・リバーを隔てて真反対に位置する区画である。そういう地理的な理由で、早朝の道路には通勤用バスや車両の姿は一台もなかった。街に漂う空気感の著しいギャップ、というものがC区にはあった。夜の歓楽街で言葉巧みな誘惑に絡め取られる人々の心に付け入るのは、暴力的なまでに膨れ上がった悦楽をもたらす道具の数々だ。それは夜の濃さが深まれば深まるほど、街や人々を狂気めいた娯楽の沼にのめり込ませる。しかしその一方で、人工の太陽が一日の始まりを告げる時間帯になると、歓楽街は墓場めいた静寂のカーテンで覆われる。まるで、昨晩の出来事すべてが夢であったかのように。


 全てはその繰り返しだった。都市が魅せる街の二面性がこれほどくっきり分かれているのは、最下層の中でもC区くらいのものだった。煤けた電柱のそばに撒き散らされた吐瀉物。違反駐車されたままのオイル・カー。ゴミ箱を漁る痩せた野良犬。店のシャッターのすぐ下を素早く横切る薄汚いドブネズミ。あられもない恰好で酩酊し、歩道に横たわる若者も何人かいた。


 そんな彼らには目もくれずに、一人の男が車道の真ん中を歩いている。


 長身の男だった。靴底でアスファルトをじっとりと舐めるようなその足運びには、わずかに疲労の念が込められていた。黒いブーツに包まれた足でゴミの散らばる道路を歩く度に、腰の辺りに巻きつけた銀色のチェーンが軽い音を響かせている。


 その音が、とある店の前まで来たところで、不意に鳴り止んだ。


《チャンピオン》――無料案内所とラブホテルの間に挟まれた二階建てのスポーツバー。レンガ造りの壁には光合成による発電機能を備えた人工植物として知られるバイオプラントの蔦が、のたうつ蛇のように絡み付いている。


 都市上層からの家庭用エネルギー供給が制限されている最下層ではあるが、歓楽街と湾港工業地帯(ベイ・ファクトリー)に限り、バイオプラントに代表されるような発電設備を置くことが許可されていた。設置費用はそれなりにかかるが、自由に自家発電を賄えるメリットは大きかったし、なにより市政に対してのアピールにもなる点を考えれば、安い買い物だ。自分達はただ闇雲に金を稼いでいるのではなく、健康的でエコロジカルな暮らしへの投資も重要視しているという姿勢は、翻って、やましいことには一切手を出していないという予防線を張る事に繋がるのだ。それは、最下層で安全に生きる上での防衛策と言えるだろう。万が一にもギャングたちの抗争に店が巻き込まれてしまった際に、市警の連中や世間に肩入れしてもらうための方便として役立つ。


 そんな社会的良心を匂わせる設備を構えた店を、男はじっと睨みつけていた。まだ真新しさの残る『営業中』と書かれた札が真鍮製のドアノブに括りつけられているのを確認すると、石階段を上って無造作にドアを押し開ける。


 カランコロンと、カウベルが来客の合図を寄こす。


 店内に客は一人もいなかった。右手には木目調のバーカウンター。左手には立ち飲み用のテーブル。壁には鑑賞用の巨大モニターが設置されていたが、それも今は電源を落とされていた。店の営業時間は既に一時間も前に終わっていたのだ。それなのに「営業中」の看板を下げたままにしていたのは、店主のアーリィ・アスターのミスだ。そのアーリィと言えば、調理場に立って洗い物をしていたわけだが、男の来店に気付いた瞬間、自らが犯した初歩的なミスに思いが至るよりも先に、妙な緊張感に襲われた。


 それというのも、男の風体のせいだ。頭からつま先までを、真っ黒なフード付きの耐環境ロングコートですっぽりと覆っているため、表情は伺い知れない。入り口付近からまったく動こうとせず、視線を泳がすことも、呼びかけることもせず、店主自らの案内を待つように、彫像のようにじっとしている。


 長い事、プロメテウスの歓楽街に住んでいれば、自ずと人の本性を見分ける力がついてくる。

 危険とは無縁の者なのか、そうでないのか。

 男は圧倒的に後者だった。


 この黒づくめの客は、もしかすると墓場からやってきたのか――男の全身から放たれる異様な雰囲気に気圧されて、アーリィは思わず、非常識な妄想に憑り付かれそうになった。それでも、視界の隅でカウベルを捉えるやいなや、アーリィは今自分がやるべき振る舞いについて思い至った。腕時計で時刻を確かめ、洗い場の蛇口の水を止め、それから、実に申し訳なさそうな表情を頑張って作りながら、おそるおそる告げた。


「お客さん、申し訳ございません。営業時間、もう終わってしまっているんですよ」


「表に営業中と書かれてあったが」


 間を置くことなく、男が呟くように言った。もう何日も水を飲んでいない砂漠の旅人のような声だった。


 調理場から出て男に近づくと、アーリィは何度も頭を下げながら口にした。


「本当にすみません。その、言い訳がましいかもしれないんですが、この店、オープンしてからまだ三週間しか経っていないんですよ。慣れない仕事で。私のミスです」


 アーリィは、客への詫び入れを進んで行う献身的な店主を演じ続けた。内心ではさっさと引き下がってくれない男に対する不満が燻っていたが、それを表に出すことはなかった。


「本当に申し訳ございません。本日はお引き取りいただけると――」


「関係ない。酒を出せ」


 有無を言わさぬ口調だった。アーリィは思わず眉をひそめた。男に対して抱いていた不気味さはどこかへ去り、常識のない変人だという印象が強まっていく。加えて、別の感情が湧き上がっていた。こちらが下手に出ていることをいいことに、失礼な態度を取り続ける男への怒りだった。


「ちょっと、お客さん」


 男へ更に一歩近づこうとした時だった。


 アーリィの視界の外で男の右手が素早く動き、完全に無防備だったアーリィのたくましい左手を掴むと、手首を捻り上げた。突然の痛みに声を上げるアーリィ。男は顔を近づけると、彼の耳元で囁いた。これが最後の『忠告』だと言い聞かせるかのように。


「酒を出せ。二度も同じことを言わせるな」


 そして折った。アーリィの左手首を。躊躇なく。

 まるで小枝のように。親指の力だけで。 


 たまらぬ痛みにアーリィは低い呻きを漏らし、右手で左手首をかばった。

 反射的に体を丸めて、その場に膝をつく。肌が粟立ち、脂汗が背筋と額を流れ落ちた。自分の身に何が起こったか、すぐには理解できなかった。


 アーリィ・アスターは、この仕事を始める前は最下層にいくつかあるラグビーチームのひとつに所属していた。


 スター選手でもなく、ベンチ・ウォーマーとしての役割がほとんどだった。それでも、膝の怪我で引退するまでは毎日の鍛錬を欠かさず行い、その時に培った筋肉の貯蓄は、今でも十分なほどにある。


 屈強な体躯。それは自他共に認めるところだった。どんな暴漢相手にもそれなりに上手く立ち回れる自信があった。

 その自信を、意外なかたちで完全にへし折られたと認識するやいなや、狼狽し、次に烈しい恐怖が襲ってきた。


 説明しきれない感情の渦に揉まれながら、自分をこんな酷い目に合わせた正体不明の男の顔を恨みがましく見上げた。


 その時アーリィは、心の底からぞっとしたのだ。


 フードに隠された男の表情は相変わらず伺い知れないが、それでも、やや灰色味を帯びた赤い二つの眼があることには、嫌でも気づかされた。その目が普通でないことにも。


 アーリィの理性が男の素性を推測しかけたが、そんなことよりも先に、もっと重要な、やるべきことがあると本能が怒鳴った。痛みをこらえてそそくさと立ち上がると、苦悶の表情を浮かべたまま、調理場へ戻った。


 それを見届けてから、男は引きずるような足取りでバーカウンターへ近づき、ちょうどアーリィから見て正面の位置を陣取った。


「いちばん度数の高い酒を寄こせ。グラスはいらん。ボトルごとだ。栓も開けるな」


 矢を放つような命令口調。ほとんど脅迫だった。この調子だと、(ゼニル)も支払わない気なのかもしれない。


 それでもアーリィは素直に従わざるを得なかった。震える右手で、背後の酒棚から一本の酒瓶を取り出し、怯えた様子を隠さずにカウンターに置いた。


 受け取って当然の権利がある、という堂々した手つきで、男は酒瓶を手にした。ラベルには『リンデスファーン』とある。


「ウォッカか。好きな酒だ」


 男は特に喜んだふうでもなく言った。会話しようとする積極的な意志はそこにはなく、かと言って独り言にしては、口調は外側へ向けられていた。


 男は人差し指から小指までの四本の指で酒瓶の首を包むように持ち、親指に力を込めて瓶の先端を折って、飲み口をつくった。先ほど、アーリィの手首を折ったときのように。それが自分の流儀なのだと見せつけているようだった。


 尋常ならざる握力をまざまざと見せつけられ、更にうろたえるアーリィをよそに、男は酒をあおった。たった一口で700ミリのボトルの半分以上を飲み干していた。


 男は肩をゆっくりと上下させ、吐息を漏らした。体の中に溜まった疲労を全て吐き出そうかというような、それは実に長い調息だった。くすんでいた瞳の色が徐々にクリアになっていき、ルビーのような純粋な赤を取り戻した。


 その一連の所作を見届ける中で、アーリィは自分の眼を思わず疑った。男の、酒豪という言葉では括りきれない飲みっぷりに驚いたからではない。 


 男の口。四本の犬歯。それが常人のそれよりもずっと長く、鋭いことに気づいたせいだった。


 鬼血人(ヴァンパイア)――アーリィはほとんど確信していた。


 にわかには信じがたかったが、しかし常人を遥かに超える握力や、真っ赤に燃えるような瞳を見せつけられては、もはや疑いようがなかった。真っ黒いフードも、太陽光から身を守るためと思えば合点がいった。


 かつて、プロメテウスを含めた数々の都市を襲撃しつつも、都市公安委員会が立案した鬼禍殲滅作戦(オウガ・バニッシュ)で一掃されたはずの怪物たち。彼らが都市に刻みつけた爪痕は今なお、多くの都民の心の片隅に『忘れがたい悪夢』というかたちで巣食っていた。


 あれだけの力を誇った闇の眷属たちが、本当に絶滅したのか――取り戻した平穏を貪りつつ、一抹の不安を心に抱える者は一定数存在した。それとは反対に、もし鬼血人(ヴァンパイア)がまたこの都市にやってきたら、その時は返り討ちにしてやると息巻く者もいた。アーリィもそのうちの一人だった。


 鬼禍殲滅作戦(オウガ・バニッシュ)の実行に際し、委員会は他都市との協力体制を進める中で、市警の精鋭たちや、各都市から流れついた傭兵集団だけでなく、一般都民からも作戦要員を募集した。それだけ、当時のプロメテウスは鬼血人(ヴァンパイア)を相手に苦戦を強いられていた。


 アーリィも参加しようとしたが、チームメイトやコーチらの必死の説得を受け、渋々あきらめた。彼らは親切心でアーリィの勇み足を止めたのだが、それが当の本人にとっては屈辱的な仕打ち以外の何物でもないということを、彼らは最後まで知らなかった。


 それから数年が経過した今になっても、アーリィは心のどこかで……おかしなことかもしれないが……期待していた。いつか目の前に、絶滅したはずの鬼血人(ヴァンパイア)が何かの拍子に現れたら、その時には撃ち殺してやろう。そう決めていた。


 万年ベンチでチームに居場所を見いだせず、鬱憤を晴らすためにも別のコミュニティで活躍を掴み取る。叶わなかったそんな願いを、愚かなことに未だに捨てきれずにいた。  


 来るべきはずだった未来に巡り会える時を、ときおり思い出しては夢想したものだ。そして夢想の最後には、そんな『奇跡』は万に一つもないのだという、シビアな現実に落ち着くのだ。


 だが、今の状況は違う。その万に一つの未来が現実のものとなって、浮き上がってきていた。それは確かなことだった。

 

 もはや、折られた手首の痛みなど、どうでもよかった。


 男が酒をぐいぐい運んでいく姿を見ていくうちに、アーリィの中で様々な感情と思惑が生まれて、争いを始めた。さながら思考の蟲毒とも言うべき現象だ。その決着は、意外なことに早く着いた。


 名誉欲――それが最後に残り、アーリィの細胞の隅々に至るまでを支配した。


 緊張を顔に出さないよう用心しつつ、アーリィはちらりと視線を下に向けた。調理場の棚の一つ。そこに長い事収められているものについて想像を巡らせる。


 輝灼弾(・・・)が装填された、六連発式のリボルバー拳銃。いつかやってくるかもしれない、こんな日のために隠し持っていたとっておきの武器。


 ここでこの男を討ち取れば、店の評判も上がる。かつてのチームメイトたちだって、見直してくれるかもしれない。

 市から賞状が贈られるかもしれない。ギャングたちからも一目置かれるかもしれない。最下層のヒーローになれるかもしれない……


 欲望が段階的に加速し、アーリィを突き動かす。


 洗い物の続きをする振りをして腰を屈め、彼は静かに棚の扉を開けた。そこに眠っていた黒く重みのある凶器の安全装置を外し、ジーンズの右ポケットにそっと忍ばせた。


 あとはタイミングを見計らうだけだった。酒をたんまりと出し続け、酩酊させれば簡単に殺せる。そう算段をつけると、さらにもう一本、同じ銘柄のボトルを渡してやった。


「リンデスファーンの名は知っている」


 二本目のウォッカに口をつけたところで、フードの男が出し抜けに銘柄の名を呟いた。度数が90を超える酒を立て続けに摂取していながら、呂律はしっかりしていた。


「ここよりも北にあった島だ。俺の祖先が凍てつく北風を守護神とする部族(ヴァイキング)に混じり、最初に襲撃した島でもある」


 男は二本目のウォッカを空にすると、カウンターに視線を落とした。勝手に喋ることを止めようとはしなかった。


「数千年以上も昔に、北方のどこかである部族が生まれた。ヴァイキングと呼ばれた部族だ。その中に俺の祖先たちもいた。彼ら(・・)はヴァイキングに混じって、島を制覇し、海岸線を脅かし、大陸に侵攻した。西から東へ、北から南へ。襲撃者としての誇りを捨てる事なく、手に入れるべきものを手に入れ続けてきた」


 男は淡々と喋り続けた。語り聞かせるという風ではない。口に出すことで、改めて自分が何者であるかを再確認しているかのようだった。


「祖先たちは大陸に入植すると、いくつもの部族に分かれて世界各地に散っていった。彼らは勇敢な戦士たちだった。剣や槍で貫かれても死なず、長命を誇り、呪術を駆使して、部族の『母』のために牙を奮った。互助と信奉を社会の規範とし、最小限の法を敷き、最大限の秩序を保っていた。そうして生き続けた。家畜を食らいつつ、しかし家畜たちの住む世界の陰に隠れて……なぜそうしたのか」


 男が不意に顔を上げた。表情は相変わらずなかった。


「くだらないと感じたからだ。家畜たちの築き上げる文化も、技術も、なにもかも。尊敬するに値しないと知っていたからだ。なにより、家畜たちの社会が敷く矛盾だらけのルールに束縛されることを嫌った。だから地下に隠れ潜み、楽園を築き上げた……あの戦争が起こるまでは、そこは確かに楽園だったのだろう」


 男の瞳が僅かに動いた。こちらの心の在処を掘り当てようとするようなその挙動に、アーリィは思わず息を呑んだ。


「十年にも及ぶ大陸間戦争……家畜たちが勝手に起こした殺し合いに、彼らも巻き込まれる羽目になった。家畜たちの骸の山が築かれるに従い、森は枯れ、大地は痩せ、海は死んだ。住処を捨てて、地上に出ざるを得なくなった。その選択が間違っていたとは思えない。部族(コロニー)に降りかかる困難を、強き心で受け止める勇敢さが彼らにはあった。しかし、家畜の中でもとりわけ狂暴な種類の者達に生活を脅かされ、ひとつ、またひとつと部族は崩壊した。ひどく屈辱的だ。思い出すだけでも、はらわたが煮えくり返るほどだ。だがそれ以上に怒りを感じるのは、『母』を守るために命を懸けた勇敢なる戦士たちの(うた)を台無しにする、ひどい『雑音(ノイズ)』が、いつまでも消えてなくならないということだ」


 そこで言葉を区切ると、男は真っ黒なコートの内側へと手を伸ばした。てっきり銃か何かが飛び出してくるのではと咄嗟に考え、アーリィは身を硬くしつつ、ズボンの右ポケットに手を伸ばしかけた。


 しかし杞憂だった。男が取り出したのは一枚のホロ・ディスクだった。

 立体的に立ち上がるタイプの、小型のデジタル・フォトフレーム。

 男の指先が軽くその表面をなぞると、重い電子音が鳴り、写真が三次元的にあらわれた。


「こいつが、俺を苦しめる『雑音(ノイズ)』の元凶だ。名前はエヴァンジェリン。こいつを探し出すのに随分と苦労している。色々と無茶もやったが、そのことについて後悔はしていない。今この場で話したいのはそんなことではなく、貴様がこいつを知っているかどうかだ」


 写真に写っているのは女だった。首から上が拡大されていた。ブルーのヘアマニキュア。オレンジがかった猫のような眼つき。ショッキングピンク・カラーの猫耳つきパーカー……でたらめな派手さを持つ少女。アーリィの視線が思わず釘付けになる。


「この画像データは、ここより南にある《ヘパイストス》と呼ばれる都市で入手したものだ。モデル雑誌のスカウトが、偶然にも撮った写真だ。だが奴は、もうそこにはいない。今は、悪徳と支配にまみれたこのプロメテウスにいると聞いている。これだけ派手な格好だ。目の端に捉えただけで嫌でも脳裡にこびりつく」


 アーリィは真剣な目つきで首を横にふった。相手を油断させて注意を引き付けるために、それらしい目撃証拠をでっちあげるような度胸も知恵も、彼にはなかった。


 男は、真偽を確かめるかのように、じっとアーリィを見つめた。まるで鋼の糸で全身を縫い留めるようなプレッシャーがあった。火口のマグマを思わせる燃え滾るような赤い瞳で睨みつけられるうち、アーリィはたまらぬ息苦しさを覚えはじめた。


「し、知らない……俺は何も……見たことない。そんな女。店に来たことだってない」


 アーリィの必死の釈明を受けて、男はつまらなさそうに鼻息を漏らした。


「模範的な回答だな。それに……嘘もついていないようだ」


 男はデジタル・フォトフレームをコートの懐に戻した。その様子を見届けたアーリィは内心で安堵した。どうにかして緊迫した状況を上手く切り抜けられたことに、何の疑いも持たなかった。


「しかし解せないな」


 獲物に食らいつく蛇のような身のこなしを彷彿とさせるように、男がアーリィへまたもや視線を戻し、そして決定的な一言を告げた。


「こちらの質問に従順に答えてくれたのなら、なぜ貴様は、右のポケットに()を入れたままなんだ?」


 稲妻のような衝撃がアーリィを貫いた。決定的な一言だった。あまりにも決定的過ぎて、アーリィは当初、言葉の意味を掴み損ねた。

 それでも次第に、こちらの動きの全てが読まれているのだと悟った瞬間、アーリィは自らの巨体をみっともないほどがたがた震わせていた。


「態度は言葉よりも雄弁である時がある。今がまさに、その時だな」


 恵まれた体格に不釣り合いなアーリィの怯え様を見て、男がくすくすと笑った。ここにきて初めて覗かせたその笑みは獰猛そのものだった。手負いの小動物へ銃の照準を正確に当てる狩人が、不意に見せる笑みに近いものがあった。


「俺を殺して、名を上げようとしたのか? 手首を折られているにも関わらず。家畜にしては珍しいほどの名誉欲の持ち主だ。だがそれは、技能や経験や知識が伴ってこそ満たされる欲だ。貴様のように、ただ図体がでかいだけの俗物には無理な願いというものだ」


 俗物――無理な願い――自身の心を抉る禁句を立て続けにくらって、アーリィの表情が、あからさまに憤怒の色を帯びた。

 だがそれも、すべては男の巧みな誘導で喚起された感情に過ぎなかった。手玉に取られていることに当の本人が気づいていないのだ。


 釣り針に引っ掛かったのに、それを自覚せず無茶な闘いに臨むことを、さも当然のことだとアーリィは勘違いした。

 そうさせるだけの、心を嫌でも引き寄せる力が、黒づくめの男――鬼血人(ヴァンパイア)の生き残りたる『戎律(じゅうりつ)のベルハザード』の声色にはあった。


 アーリィは、自ら進んで釣り針を更に奥へ咥え込んでいった。それこそ全存在を投げ打つ蛮勇を抱えて。

 右のポケットに素早く手を突っ込み、銃を取り出し、撃鉄を起こし、構え、店内に銃声を轟かせた。


 調理場とカウンター。距離にしてそう遠くはない。

 それでも、銃口から飛び出した輝灼弾は大きく目標を逸れた。

 興奮と緊張のあまり、銃身がわずかにぶれたせいだった。


 銃弾は、銃弾それ自体に備わった機能である、鬼血人(ヴァンパイア)の血中成分に対する強い溶血作用を発揮することなく、壁に掛けられていたモニターを撃ち抜くに終わった。 


 ベルハザードは平然とカウンターの椅子に腰かけたままだった。男が初弾を外すのをあらかじめ分かっていたかのように。物事を成すには、冷静な激情こそが必要なのだと説き伏せるような視線を、アーリィへ送っていた。


 構わず、アーリィが何事かを叫びながら、再度引き金を引きかけた。

 目の前から、ベルハザードの姿が消えた。


 慌てて店内を見渡したが、どこにも姿は見えない。

 どこへ消えたのか――激しい困惑に襲われつつ、アーリィはカウンターに視線を落とした。

 そこに影が浮き出ていた。自分のものとは違う、もう一つの影が。


「(――まさか!?)」


 恐慌。


 混乱に飲まれながらも、すかさず頭上を見上げた時、すでにベルハザードは跳躍の頂点に差し掛かり、天井すれすれにその体躯を投げ出していた。まるで水面から跳び上がるイルカを彷彿とさせる、驚異的な速度による垂直飛びのなせるわざ。


 滞空時間を存分に使って体勢を整えたベルハザード。爛々と光る赤い瞳。迫る両脚。

 上昇速度と下降速度がどちらにもゼロになった瞬間、静かに、だが力強く、ブーツの底がアーリィの顔面を踏み抜いた。

 衝撃で、調理場の棚に陳列されていた酒瓶のいくつかが落下し、ガラスと中身を調理場の床に飛び散らせた。


 ベルハザードが足をどけた。ぬちゃ……という音と共に、足の裏が糸をひいた。


 アーリィの陥没しきった顔面や、後頭部から飛び出して潰れたピンク色の肉片には気にも留めず、ベルハザードはその鋭い犬歯を剥き出しにして、アーリィの喉元へ深く食らいついた。


 ベルハザードにとって、街の酒場は食糧庫以外の何物でもなかった。肉体を維持するための、血とアルコールの補充にはうってつけだった。

 鬼血人(ヴァンパイア)として必須の栄養素となる前者と、鬼血人(ヴァンパイア)を越えた者として摂取せざるを得なくなった後者。どちらも容易く手に入るからだ。


 だがそれでも、いまだに彼が最も欲しているものは、手に入らないままだった。


 エヴァンジェリンの首――偉大なる太母の仇――


 必ず仕留めてみせるという覚悟を抱いて、ベルハザードは一心不乱に血を啜り続けた。

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