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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
2nd Story フェイト・オブ・ジ・イノセンス・ギア
36/130

2-2 AM:7:20/路地裏の奇蹟

 表通りに立つ何者かが、こちらを覗くように注視している。


 想定外の事態を前にしたエヴァンジェリンの反応は、じつに素早かった。血に陶酔していた意識を叩き起こすやいなや、腰を落として両手を構え、警戒姿勢へ。表通りへ、際立った視線を投げかける。


 一人の少女がこちらを伺っていた。つい先ほどまで男に絡まれていた、あの少女だ。


「(まさか見られた? あのガキに? さっきの光景を?――いや)」


 落ち着いて観察してみれば、少女はエヴァンジェリンの存在に気付いていないようだった。というのも、周囲が建物に囲まれているおかげで、路地裏は陰に満たされていたからだ。


「(どうする? こいつも喰っちまうか?)」


 胸の内に生じた若干の余裕に思考を流し込んでいると、ゆっくりと少女がこちらに接近してきた。袖口から覗く腕が、エヴァンジェリンの視界に入る。


「(ずいぶんと細いな。食ってもマズそうだし……()っちまおうか)」


 今後の方針を定めかけたところだった。少女が予想外の行動に出た。まるで洞窟へ潜り込む探検者のように、壁に手をつきながら、ゆっくりと薄暗い路地裏へと歩みを進めてきたのだ。


「(へぇ……なかなかの怖いもの知らずなことで)」


 慎重且つ迷いない行動を取る少女に得体の知れなさを感じつつも、エヴァンジェリンの腹の底から湧き上がってきたのは、緊張感ではなくおかしさだった。思わず舌なめずりをしてしまう。

 好奇心は猫も殺すという言葉を、どうやらこの少女は知らないらしい。壁際のゴミ箱付近に横たわる、生乾きのミイラじみた遺体に目が奪われようものなら、こっちのものだ。


 エヴァンジェリンの右手の五指に、ぎりぎりと力が込められる。


 不用意に近づいてきたところを殺す――エヴァンジェリンの頭の中に「逃げる」という選択肢はない。相手はたかが人間。それも幼年期の姿だ。背を向けて遁走するなど、プライドが許さなかった。


「(ガキを殺すのは気分が進まないが……やるしかねぇよなっ!)」


 生きるために殺す。一度肚が決まったら、もう迷わない。


 少女が驚いたように目を見開き、歩みを止めた。男の亡骸が壁際に横たわっている事実に、やっと気が付いた様子だった。その時にはもう、エヴァンジェリンの痛恨の一手が放たれたあとだった。


 色鮮やかに着飾った爪が、弾丸の如き勢いで薄闇を切り裂く。エヴァンジェリンの細く、鋭い右の貫手が、少女の胸元を貫かんとした――


 その時だった。


「――――!?」


 何かが大きく爆発したかのような衝撃が、爪先から肘下へかけて駆け抜けた。

 

 もんどりうって地面に尻を打ち付ける。慌てて自身の右手へ視線をやって、エヴァンジェリンは戦慄に身を震わせた。まるで鋭利な刃物を揃えた回転ミキサーの中に突っ込んだように、右手の指がぐしゃぐしゃに潰れていたのだ。真っ赤な血がぼたぼたと滴り落ちていく。()()()()()()()。じわじわと、屈辱感だけが広がっていった。


「ち……ちくしょう! なんなんだテメーはッ!」


 激しい怒りと困惑がないまぜになった感情のままに、エヴァンジェリンは声を荒げた。


 沈黙――少女はなにも答えなかった。男の死体をしばらく見つめていたかと思いきや――まるで今初めてその存在に気付いたかのように――ゆっくりと視線を動かし、地面にへたり込むエヴァンジェリンを見下ろした。


 少女は、赤い毛皮のようなコートと、おそろいのブーツを履いていた。冬に差し掛かりつつある今の時期にはぴったりの厚着。真っ黒なベルトが細い腰を締め付けている。頭には、なぜかトゲトゲとした葉っぱで造った髪飾りが、ちょこんと乗っかっていた。肩まで伸びる髪と瞳は薄茶色で、独特なカラーコンビネーションや小物に目を瞑れば、いかにも普通の少女という具合だ。


 しかしながら、先ほど食らった不可解な攻撃からして、目の前に立つ少女が何か形容しがたい存在であることは、エヴァンジェリンも薄々気づきはじめていた。


「これ、あなたがやったんですか?」


 少女が首なし遺体を指差しながら、エヴァンジェリンに尋ねた。


「あ? な、なにが!?」


 エヴァンジェリンは口ごもった。得体の知れない力を見せつけてきた少女から、目が離せなかった。


「なにがって、だから聞いているじゃないですか。質問に質問で返したり、疑問文に疑問文で応えるのは、めちゃくちゃ失礼なことなんですよ」


 鈴の鳴るような声。十代前半くらいの外見であるのに、思春期に特有の定まらない声ではない。刑事が犯人を問い詰めるような厳しい口調でもなかった。あくまで事実を確認しようとするその落ち着き払った態度は、どこか大人びてすらいた。


「そ、そうだ! アタシがやった! だからなんだ!?」


「あ、そうなんですね」


「そ、そうなんですねって……」


「あたし、ニコラって言います。あなたのお名前は?」


 答えてやる義理がどこにあるのだと言わんばかりに、エヴァンジェリンは小さく鼻息を鳴らした。あからさまに反抗的な姿勢を見せることで、相手の気を削ごうというのだ。


「むぅううう……ここでもダンマリを決め込みますか」


 ニコラと名乗るその少女は、エヴァンジェリンの不遜ともとれる態度を受けて軽く頬を膨らませると、あることに気付いたようで、目を大きく見開いて、大袈裟なくらいに驚いた。


「あぁ、なるほど、もしかして」


 ニコラの視線が、エヴァンジェリンの破壊されたはずの右手へ向く。()()()()()()()()()()()()()()()――それから、後ろを振り返って男の遺体の状況を改めて確認すると、再びエヴァンジェリンの右手へ視線を投げ、今度こそ納得がいったように何度も頷き、確信めいた口調で問い質した。


「あなた、鬼血人(ヴァンパイア)ですか? そうですよね?」


 正鵠を得た指摘を前に動揺を隠せない。エヴァンジェリンの肩が小さく震えた。秘密を知られたことに対する深いショックが、銃弾のように心を撃ち抜いてきた。と同時に危惧した。最もあってはならないケースが現実のものとなる可能性について。


 プロメテウスの治安維持機構。都市警察(ガーディアン)――市警への通報。もし、この少女にそんなことをされたら、今以上に限定された活動を送る羽目になる。最悪の場合、プロメテウスを出ていかざるを得なくなるかもしれない。そんな事態はごめんだ。ようやく見つけた生活拠点なのだ。


 今すぐに少女へ襲い掛かり、口封じすべきだった。だが、先ほど受けた不可解な攻撃が脳裡を過るせいか、頭では分かっていても体が動かなかった。


「大丈夫ですよ。通報なんてしません」


 真っ白な歯を覗かせ、ニコラは軽く微笑んでそう口にした。こちらの考えを読み取って先回りしたかのような台詞。エヴァンジェリンにしてみれば、予想外の囁きに等しかった。そのせいで、少女の意図がより掴みにくくなった。一方で、この場を適当に取り繕う発言にも思えなかった。


鬼血人(ヴァンパイア)は事実上絶滅したと聞いています。それを考えると、あなたとプロメテウスでこうして出会えたこと自体が、幸運そのものと言ってもいいでしょうねぇ……しかもしかも! 陽が出ているのに外をうろつけるなんて、あなた、かなりの希少種ですよ。うん! 運が向いてきたって感じがします!」


「……なに言ってんだお前」


 要領を掴めないニコラの発言に、どう反応したら正解なのかが見えてこなかった。それでもエヴァンジェリンは、ニコラの声に感じ入ってしまっていた。そんな反応を見せていることに、なによりエヴァンジェリン自身が一番驚いていた。


 そういえば――と、彼女は今更ながら、この奇特な存在感を発する少女が男に絡まれていた際の、不自然な態度を思い出していた。好みの獲物にありつこうと夢中なあまり意識から外れていたが、思い出してみれば、あの時点ですでに異様だった。


 あの時、怪しげな男に絡まれているというのに、ニコラは迷惑そうな素振りを何一つとして見せず、周囲に助けを求めるような視線すら投げかけていなかった。というか、道行く人たちも彼女の存在にまるで気づいてなかったかのように通り過ぎていた。それだけ薄情な者たちがこの最下層には多くいるのだと言ってしまえばそれまでだが、それにしては奇妙だ。

 

 それに、ニコラは言い寄ってきた男を強く拒絶するのではなく、どこか相手の様子を観察するような態度をしていたようにも思う。この人は何を欲しているのか――そんなことを見定めようとしている目つきをしていたはずだ。


 そこで、連鎖的に感じ取れたことがもう一つあった。鬼血人(ヴァンパイア)を目撃した一般人が思わず見せてしまう恐怖や畏れといった人間の原始的反応を、ここに至るまでの間にニコラが少しも示していないということだ。その不自然な反応が意味することについてエヴァンジェリンは思索したが、ますます混乱するばかりだった。


「(こいつ、一体何モンだ?)」


 エヴァンジェリンの胸の内に、それまでとは全く意味の異なる戸惑いが生まれた。相手の正体やその背景を探ろうにも、手掛かりは無きに等しかった。


「いきなり出会って言うのもなんですが、あなた、ちょっと私に協力していただけませんか?」


 思案に耽っていると、だしぬけにニコラがそんな事を口にしてきた。


「ねぇねぇねぇ。お願いです。私の願いを叶えてくれたら、あなたの願いを何でも一つだけ叶えると約束しますから」


 エヴァンジェリンは咄嗟に眉をひそめた。そんな宗教的な文句を枕詞に言い寄ってくる輩はこれまでに何人もいたし、真面目に話を聞くのもばかばかしいと経験で知っていた。そもそも人間は餌だ。豚の声から意志を読み取ろうと耳を傾ける人間などいない。


「詐欺師の真似事か? お嬢ちゃん」


 エヴァンジェリンはおもむろに立ち上がると、今度は逆にニコラを見下ろして突き放すように言った。


「アタシみたいな怪物相手に詐欺話を持ち掛けてくるその勇気は大したもんだが、あんまり社会ってものを舐め過ぎた態度を取っていると、そのうち痛い目をみることになるぜ」


「信用してくださらないんですか?」


「本当に詐欺師みたいな台詞だな……いいか? 不意打ちが成功したからって、あんまり調子に乗るんじゃねぇぞ。少なくともアタシみたいなやつを騙そうって自体で、お門違いなんだ」


「別に私はお金を欲しているわけじゃないんです。ただ、私を『とある場所』にさえ連れていってくださればいいんです。それが私の願いです」


「なるほど観光か。道が知りたいなら警官にでも聞きな」


「見返りに、あなたの願いを一つだけ叶えて差し上げます」


「だから、話を聞け………………って、いまなんつった?」


「ですから、私をある場所に連れていってくれたら、あなたの願いを、なんでもひとつだけ叶えてあげますと言っているんです」


 大真面目にニコラがそう口にするものだから、ますますエヴァンジェリンの警戒心は高まった。


「それだけで私は満足するのです。そういうことになっているんです」


「とある場所だと? どこだそこは」


「協力してくださったら教えますけど」


「……興味ねぇな」


 これ以上付き合っていられないと、暗にそう言い含めた時だ。ニコラが素っ頓狂な声で、エヴァンジェリンにとって決定的な一言を(そら)んじた。


「ふーん。そーですかー。あ〜〜〜〜〜〜あ! やっぱり、通報、しちゃおっかなー」


「あ?」


 ぎろりと睨みつける。ニコラはそそくさと視線を外すと、口元を少し楽しそうに歪めて懲りずに繰り返した。


「協力してくれないなら、通報、しちゃいますよ〜〜〜〜?」


「……そういうの、人間たちの言葉でなんて言うか知ってるか? 嬢ちゃん。脅迫って言うらしいぜ」


「へえ。家畜さんの文化に詳しいなんて、そーとー変わり者な鬼血人(ヴァンパイア)なんですね!」


「……殺されてぇのか?」


「そう睨まないでくださいよぉ。もっと冷静に考えられないんですか? この状況、あなたにとっては、かなーり不利なはずですよね? ここに証拠もあるんですから」


 男の遺体を指差してニコラはにんまりと、得意げに言った。主導権がどちらにあるか、言外に匂わせるような物言い。その生意気な態度が、エヴァンジェリンを激しく刺激したのは言うでもない。


「いや〜、もし知られたら大変なことになりますよねぇ。なにせ、絶滅したはずの鬼血人(ヴァンパイア)の生き残りが、それも『日向を歩む者(デイライト・ウォーカー)』が都市をうろついてるって知られたら、マジに大変なことになっちゃいますねぇ。逃げ出そうとしても、あっという間に囲まれて、ゴキブリみたいにぷしゅ〜〜〜〜って駆除されちゃうかもしれませんねぇ」


「軽く見るのもいい加減にしろよ、ガキが」


 口汚く煽られて、エヴァンジェリンの喉元が怒りと興奮で熱くなった。オレンジのカラーコンタクトでは隠しきれないくらいに、赫灼と燃え上がる瞳。両手にメリメリと力が入る。


「本気で痛い目みせてやるよ」


 宣言するや否や、エヴァンジェリンのポップで明るい衣服から浮き出るように、赤黒い何かが溢れ出した。


「おお、凄い。分身? 分身ですか?それ」


 思わずニコラが驚きに満ちた声を出してしまうくらい、それは本当に突然の異常現象だった。まるでフィルムが唐突に切り替わったかのように、赤黒い濃霧がエヴァンジェリンの全身を深く包み込んだのだ。瞬きも許さないうちの出来事だった。その尋常ではない拡散力が物語るように、濃霧はただの濃霧ではなかった。粘土細工でも捏ねるように、あっという間に人の姿を象ったのだ。


 ニコラがそのおぼろげな輪郭を視認するより先に、その人形姿の『なにか』は、摩訶不思議な物理干渉力を披露した。すさまじい速度で壁を蹴り、路地裏を駆け抜け、赤黒い軌跡を後に残し、真上からニコラ目がけて襲い掛かったのだ。


「アタシにこの力を使わせたこと、後悔させてやるよ」


 数年前に、都市を震撼させた闇の血族・鬼血人(ヴァンパイア)。その力の象徴にして、血族に代々伝わる特殊技能――血騰呪術(アスペルギルム)。この魔性の力をエヴァンジェリンが披露したということは、少なくとも彼女は言葉通り『本気』の覚悟で、ニコラの殺害に踏み切ったということだ。


 だがそれでも、致命傷はおろか傷一つつけることすら叶わなかった。


 先ほどの貫手の一撃を放った時と同じだった。『なにか』の攻撃が届くより先に、稲妻めいた光がニコラの全身から放射されたのである。さきほどの衝撃の正体はそれだった。 

 

 死の匂いを漂わせていた『なにか』は、突風にあおられたように形を崩して、あっけなく霧散した。


 路地裏に、しばしの静けさが満ちる。


「お前……マジでなんなんだよ」


 エヴァンジェリンの表情がみるみるうちに強張っていく。信じられない事実に心を砕かれそうになりながら、呻くようにして訊くことしかできなかった。


 ふふん、と小さな胸を張って、少女は腰に両手を当てて堂々と、まるでヒーローの勝ち名乗りのような姿勢で言った。


「私はニコラ。これまでに数々の都市を渡り歩き、人々の願いを叶える代わりに自分の願いを叶えてもらってきた、それはそれはとてもとても図々しい存在です」


「自覚があるようでなによりだ。あんた、不死身なのか?」


鬼血人(ヴァンパイア)さんにそんなことを言われるとは、思ってもみなかったです」


「アタシらは不死身じゃない。長く血に飢えていたり、一度にたくさん血を失ったりしたら死んじまう。人間だって飯を食わなかったら飢えるし、大量に出血したら失血死するだろーが。それと同じだ」


「なるほど。一つ勉強になりました。ところで話をもとに戻しますけど」


 ずいっ、とニコラが、そのまんまるな顔をエヴァンジェリンへ突き出して言った。


「協力、してくださいますよね?」


「……拒否したら通報するんだろ?」


「しますねぇ。ちょっと興奮した感じで通報しますね。珍しい鬼血人(ヴァンパイア)を見つけましたよぉー!って」


「……で、アタシの力じゃ、あんたを殺せないときた」


「殺せないですねぇ。私は誰にも殺せません」


 大胆不敵な物言いだが、出まかせとは考えづらい。エヴァンジェリンは大きく溜息をついて肩の力を落とした。美味なる獲物を味わっていた幸福な時間を返して欲しい気分だった。


 だがどちらにせよ、選択すべき道は一つしか残されていない。協力を拒否して、取り返しのつかない結果になるのだけは勘弁してほしかった。市警の連中に居場所を知られて、プロメテウスから逃げ出す羽目になるのはご迷惑だ。ここには、実に彼女好みの餌で――貧乏太りをして、年中汗臭い匂いを撒き散らしている輩で――溢れている。今朝のように探すのに手間取ることはあっても、それでもこれまで訪れた他の都市と比較すれば、かなり良い狩場だった。ご馳走に囲まれているのに、運の悪さに脅かされて指をくわえて立ち去らねばならないなんて、彼女の性格からして耐え難いことだった。


「わかった。協力するよ」


 諦めがついたように口にすると、ニコラは飛び上がらんばかりに喜びの声を上げた。


「やっぱり、あなたに頼んで正解のようでした。よろしくお願いしますね」


 エヴァンジェリンの表情が曇る。なかば脅しにも近い形で迫ってきたのに『よろしくお願いします』などと良くも言えたものだ。だが、愚痴を漏らすのはひとまず後回しだ。早急に確認しておくべきことがある。


「さっき、なんでも願いを一つだけ叶えられるって言ってたな」


「はい。ただし、先に私の願いを叶える事が前提ですけど」


「あんたが普通じゃないってのは良く分かった。その真っ赤で派手な服装といい、アタシの能力も効かない事といい、殺されることもないときた。たしかに変わってる。でも、それとこれとは話が別だ」


「……? 結局なにが言いたいんです……?」


「いま、ここで証明してみせろってことだ。願いを叶える力があるってことをな。片鱗みたいなものを、見せてくれさえすればいい」


「うーん……こんなのとか?」


 ニコラが握ったままの右手をエヴァンジェリンの胸元へ差し出し、パッと指を広げてみせた。小さな手の平の中心から水道の蛇口をひねったように、勢いよく音を立てて何かが零れ落ち始めた。


 人工の太陽光が路地裏に差し込み、その何かを照らした。

 黄金に輝く細かな粒子。すなわち『砂金』だった。


「なんだって?」


 エヴァンジェリンは思わず目を剥いた。砂金は流れ落ち続け、ニコラの足元に小さな山を作り始めたところで、ようやく止まった。


「出そうと思えばもっと出せますよ」


「待てよ、なんだよそれ。おい、どっかになにか仕掛けてんだろ?」


 エヴァンジェリンは慌てた様子でニコラの右手を手に取ると、手相占いでもするかのように隈なく見た。種や仕掛けの類は無さそうだった。


「手品だ。マジックだろ、どうせ」


「あなた、疑り深いですねぇ。まぁ警戒するに越したことはないでしょうけど。だったら、これならどうですか?」


 ニコラは少し悪戯な調子で笑みを浮かべると、地面に転がっていた男の首を平然と手にとった。自分の手が血で濡れることを、全然気にしてないという風に。

 そうして遺体へ臆面もなく近づいた。屈んで、千切れた男の首を胴体に繋げた瞬間だった。萎んだ浮き輪に空気が注入されていくかのように、ミイラ状態だった男の肉体が厚みを取り戻し始めた。


 浅黒く変色して皺が刻まれた肌が、色味と張りを取り戻していく。首と胴体の境目が、画像処理でもされていくかのように瞬く間に消えていった。

 そういった目に見えて分かる変化の中で、神経や細胞と言った、肉眼では目視不可能な生命要素も同時に蘇っている。そのことがエヴァンジェリンにもはっきりと感覚できた。


 どれもこれも、にわかには信じられない光景だった。


 いまや完全に人としての姿を取り戻した男が、あろうことか息を吹き返す兆候を見せた刹那だった。ぱっとニコラが手を離した。

 その途端、蘇りかけていた男の肉体はまたもや萎れて、見た目にもはっきりと分かるぐらいの、二度と目覚める事のない奈落へ突き落されていった。


「生死すら操れるっていうのか……?」


 驚きのあまりに目を見開き、ごくりと小さく喉を鳴らした。


 ニコラが披露した超常的な力の片鱗は、たしかにエヴァンジェリンの精神に大きな影響を及ぼしていた。その証拠に、彼女の心の底に沈んでいた願望が大きく空気を吐いて、浮上の準備を整えていた。


 ニコラは男から離れてエヴァンジェリンに向き直ると、それまでどこかお気楽調子だった態度を控え、真摯な眼差しで口をきった。


「先ほど見せた砂金の噴水も、いま見せた死者復活の現象も、全て『奇跡』が織り成せる技です」


「なに?」


「私は『奇跡』の体現者。『奇跡』というものは、誰もが求めて良いものです。人間であろうと機械であろうと獣であろうと、そう、あなたであろうと。生きとし生けるもの全てが、平等にそれを求める権利があります。」


 そう言って指を差してくるニコラを、エヴァンジェリンは黙って見つめた。心の水底の奥で願望が次々に泡を吹き出して、目覚めの時を迎えつつあった。


「奇跡の象徴たる私の願いを叶えてくれる『何者か』と出会い、その者が真に心の底から欲する願いを叶えてやること。それが私の責務であり、この世界に留まり続けていられるのに必要なことなのです。私という存在。奇跡という存在。主義や主張に関わらず、全ての生命にとって中立である概念。奇跡。それを強く希求する者がこの世にいる限り、私が消えることは決してありません。だから不死身なんです」


「つまりあんたは、おとぎ話に出てくる妖精とか、聖霊みたいな存在だとでも言うのか?」


「あるいは『物語』や『神話』のような立ち位置なのかもしれませんね。物語や神話も、人がそれを望み続けるからいつまでも世界に残り続けるわけですから……さて」


 ニコラは話を仕切り直すと、小さく咳払いをした。


「お名前を聞かせてください。あなたのお名前を」


「エヴァンジェリンだ。エヴァでいい」


「エヴァさん、振袖合うも多生の縁とはよく言ったものです。これからよろしくお願いしますね。それじゃあ、歩きながら私の叶えて欲しい願いについてお話します」


「あ、いや、ちょっと待てよ」


 表通りに向けて歩き出したニコラを、思わずエヴァは呼び止めた。


「なんですか?」


「聞かないのか? アタシが叶えたい願いを、今ここで」


 振り返ったニコラは、しばらくの間エヴァの目をじっと見つめて、それからゆっくりと微笑んで告げた。


「別に無理をすることはありません。あなたが喋りたくなった時に教えていただければ構いませんよ。胸に秘めている願いというものは、それが叶えられそうな好機に巡り会えたとしても、すぐに言葉に出すのは、なかなか勇気がいる事だと思いますから」


 ニコラの端的且つ淀みない言葉を前に、エヴァはそれ以上喋ることをやめた。心の真ん中に放り込まれた少女の言葉を、今はただ受け止めるしかなかった。


 脳裡に浮かんでいるのは、先ほどのファミレスで見かけた親子の姿だった。自分にはない清らかさや無垢さを、あの親子は持っていた。それは間違いのないことだった。


 エヴァは自問した。もしも、それが手に入るのだとしたら? 


 あの親子のように。母が娘を、娘が母を、互いにかけがえのない存在として必要としているように。清らかで無垢な関係性を築けるような『誰か』が、己の身近なところに現れてくれたとしたら?


 その時に初めて、自分は穢れのない存在に生まれ変わることができるのではないだろうか。


 意識の奥底に沈んでいた願望は、いまや完全に心の表層にまで浮上していた。自制という名の(おもり)をいくら取り付けたところで、もう一度沈めることは不可能だった。完璧に意識できるレベルまで浮き上がってきた以上は、それをどうにかして処理する必要があった。しかるべき手段を以て。


 それはすなわち、一か八かの賭けに乗ることを意味していた。ニコラの言葉が戯言や妄言などではなく、価値ある誘い文句であると判断したがゆえに、それは魅力的な賭けとしての側面を獲得したのだ。


 エヴァは、急に自分の体温が上がったような気がした。思いがけないかたちで転がり込んできた好機を前に、遠慮を盾にして隠れる必要など、これっぽっちもないのだ。


 意欲的な飢えを自覚して、今はひたすらに求めるべきだ。これからの自分自身の生き方を変える為に。

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