1-31 The Prayer~彼女の祈り~
時計の針が昼間の十二時を指した頃、彼女はふと頭上を見上げた。遥か上空。貧しさに身を縮こまらせる住民たちを閉じ込めるように広がる中層の岩盤が、嫌でも目に入った。
鋼鉄の巨大な天蓋めいたそれは、下層に生まれ落ちた者達の社会性を規定し、どれだけ努力しても、卑しい身分の者は断じて豊かな文化的生活の階段を上がってはならないと、無言で告げていた。
きっと、社会の仕組みはどこまでも変わらない。今、上層で贅の限りを貪る者達を打倒したところで、空いた権力の座に別の誰かが座るだけだ。
世界は変わらない。
それでも、生きる価値がある。彼女は、心の底からそう思えた。
生きていける自信が、いまならあった。なぜなら、帰る場所が用意されているからだ。
番外地の岸壁に立つ彼女は目線を戻すと、水平線の先を見た。湾にせり出したそこからは、都市最下層の終端が一望できた。
鉄竜のように横たわるウエストサイド湾港工業地帯が遠くに見える。ドーム型の精密機械群に作業用大型クレーン、陸上大型リグがところ狭しと並び、絶え間なく白煙を吐き出している。
彼女は自然と、切れ長の瞳を懐かしさに細めた。
あの工業地帯で、彼と初めて出会った時のことを、ごく最近の出来事のように思い出すことが出来た。
不思議な感覚だった。もうあの時から、それなりの年月が流れたというのに。
「もうそろそろ、時間じゃないのかい?」
後ろから聞こえてきた師匠の言葉に、彼女は振り返って微笑んだ。不意に吹付ける海風が、彼女の長く伸びた紫灰色の毛先を優しく揺らした。
五年の歳月が、少女を、一人の大人びた女性へ成長させていた。
数えきれないほどの哀しみと喜びを糧にして、少女は生きる為に育つのを止めなかった。
「あと三分だけ待ってくださいよ師匠。お祈り、まだ済ませてないんですから」
「はいはい、分かったよ……ああ、それと、これ」
師匠と呼ばれた、その褐色肌に銀細工の衣装をまとったオッドアイの若女は、車椅子に乗ったまま近づくと、持っていた皮製のチケットホルダーを差し出した。
「試験の受講料。失くさないように気をつけな。それに、ほれ」膝に乗せていた、水色と桃色の斑点模様のランチクロスを渡す。「あんたの大好きなスクランブル・エッグ入りだ」
「わぁ……ありがとうございます。師匠」
「いいのさ。あたしがあんたにしてやれるのは、もうこれぐらいしか残っていないからね」
教え子たる彼女が、肩から下げたバッグにいそいそとランチクロスとチケットホルダーをしまう様子を見届けてから、ゆっくりと、彼女の後ろに小さく建つそれに――剥き出しの岩石に寄り添うように在る、柱型の鍛鉄性の墓石に目を向けて、感慨深そうに吐息を漏らした。
「しかし、あんたがハンターになりたいって言った時は、どうなることかと思ったけど……まぁ、刺激的な毎日を送れたもんだなと思うよ。これからも、しっかりとおやり」
「師匠、試験はこれからです。まだ受かってもないのに、気が早いですよ」
「何を言ってんだい」
困ったような顔を浮かべる弟子に向かって、師匠は自信たっぷりに言った。
「この五年間、あたしは自分の持てる全ての知識をあんたに教え込んできたつもりさ。あんたはそれにめげることなく、逃げ出す事なく、ちゃんとついてきたじゃないか。自信を持ちな。あんたは、キュリオス・ラーンゲージ・モージョーの、最初で最後の、最高の弟子さ」
そう言ってから、旅立つ者へエールを送るように、慣れないウインクを決めてみせる。
「師匠……ありがとうございます」
夕焼けのように赤い瞳をわずかに潤ませて、彼女は少しだけ腰をかがめると、師匠の肩に両手を回して抱きしめた。弟子が抱く感謝の念に応えるように、キュリオスも同じように抱きしめた。
血も繋がっていない、赤の他人同士であった二人の間には、確かな絆が生まれていた。それが、五年という長そうで短い月日の結晶だった。
「もしも逃げ出したくなったら、いつでも帰ってきな。ここはあんたの居場所だ。あいつが用意してくれた、あんたの帰る場所なんだ」
「はい」
「それじゃ、お祈りを済ませてやりな」
「はい……!」
彼女は溢れ出る想いを堪えるように、小さく唇を噛むと、墓標へ向き直って腰を屈め、両手を合わせて静かに目を瞑った。
――ラスティさん、私、絶対にハンターになるから。
頭の中で、いずこかに旅立った恩人に向かって、彼女は語った。
――ハンターになって、私も誰かを助けたい。あなたが私を助けてくれたように。
だから、どうか。
――私のことを、ずっと見守っていてください。私が私でいられるように。
永遠とも思える三分間だった。その間、彼女はただひたすらに祈ることに集中した。
祈り。それこそ、人間となった彼女が新たに獲得した、世界と向き合うための武器だった。
心が一つのあるべき形に定まるのを感覚してから、彼女はゆっくりと眼を見開いた。
意志の強さを表したかのような赤い眼差しが、ちょうど、柱型の墓標に掛けられたネックレスを射止めた。
十字型のネックレス。女神像のペンダントが直付けされたネックレス。
彼の遺品。
丁度真ん中の辺りから二つに割れてしまっていて、そこに刻まれた文字の姿も、今では目で見る事は叶わない。
それでも彼女は、そこにかつて刻印されていた、人が人へ向ける普遍の愛の存在を、たしかに意識できた。
God Bless You――あなたに幸あれ。
彼が遺してくれた言葉を確かに受け取り、彼女は立ち上がった。
この都市で、力の限り、生きるために。
1st Story オルタナティブ・サイボーグ・ウィズ・ヒューマニティ・アンドロイド ~End~
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