1-2 ハンター・ラスティ①
ラスティ・アンダーライトが、その築三十年以上に渡る五階建てアパートの一室に戻ってきてまずやったことは、硝煙の残り香漂うジーパンを脱ぎ去り、使い古したドラム式洗濯機へ突っ込むことだった。
蒸した夜。熱の滞留する室内。
欠伸を噛み殺しながら浴室へ入る。バスタブの縁を見ると、黒々としたカビが斑模様に生えていた。それをどうするでもなく、ラスティは冷たいシャワーを浴びた。夏場だから、という訳ではない。ガスが止められている為だ。ついでに言うなら、電気さえも通っていない。
バベル型積層都市プロメテウスの最下層域では――工業地帯や歓楽街を除いて――夜の八時から翌朝の九時にかけて、施設からの電気・ガス供給が自動的にシャットアウトされる取り決めになっている。
最上層に君臨する都市の支配者たちが、そういう風に決めたのだ。限られたエネルギー資源をより効率的に運用するため、などと建前を述べた末に。
そういった事情から、最下層域の家庭では液体燃料を自費購入し、オイルランプを電灯代わりに暮らしているケースがほとんどだ。ラスティの部屋にも、それはあった。だが点けない。オイルもここ最近値上げが続いているのだ。無駄遣いは出来なかった。
金は節約しなければいけなかった。自身の未来のために。
ラスティは穴だらけの網タオルで、短く切り揃えた金髪と、掘りの深い精悍な顔、それに太い首周りを重点的に洗いはじめた。
泡と水滴が、耐環境コーティングされた灰色の四肢を撫でるようにして伝い、排水溝へと吸い込まれていく。立派な鋼に挿げ替えられた、その逞しい四肢を流れていく。
ラスティ・アンダーライトは、全身義体者である。
都市独自の、合法にして非道の職業――金さえ払えばなんでもこなす『ハンター稼業』に身をやつす者として、肉体の義肢化は推奨されて当然のプランである。
この手の手術を請け負う医療従事者が、最下層には腐るほどいる。都市が定めた規定通りの仕様に則って施術する者もいれば、そうでない者もいる。危険な依頼を山ほど片付けるハンターにとって、需要があるのは後者の施術だった。
それでも、肉体をまるごと金属に替える行為には『人間らしさを喪いかねない』という理由で、強い抵抗感を覚える者がほとんどだ。ラスティのようなタイプは、実に珍しい。
ラスティは浴室から上がった。バスタオルで体を拭いて、洗濯機に放り込む。洗うのは明日の朝でいいだろうと決めながら、狭いキッチンを通り過ぎ、全裸のままベッドに腰かける。
部屋は四畳半ほどの広さしかなく、最低限の生活品しか置かれていない。驚くほど静かだ。加えて、カーテンは閉め切られてランプも点いていないせいで、地底かと錯覚するほどに暗い。
しかし、ラスティにしてみれば別段変わったことでもない。生まれも育ちも最下層で、オイルも満足に買えなかった極貧家庭に生まれた彼にしてみれば、この、どこまでも先行きの見えない暗黒こそが世界そのものだった。
ラスティは脳内に移植した電子チップを介して、鋼の肉体を操作した。右手の人差し指がライトのように青白く灯る。
ベッド脇の背の低いタンスへそれを近づけながら引き出しを空け、アンフェタミン・シガーがぎゅうぎゅうに詰め込まれた皮製の箱を探り当てた。
一本だけ引き抜くと、慣れた手つきで火を点ける。甘い煙が鼻腔を刺激する。餌に飢えた野犬のように、ラスティはシガーをしゃぶりはじめた。
快楽を呼び出す成分が血中へ入り込みかけたその時、奇妙な現実感が彼を襲った。
ちょうど、眠りに就く二分前に悪夢を見てしまう子供のように――そうだ。それはまさに、彼が子供時代に味わった古い悪夢が、むくりと鎌首をもたげてきたことの証だった。
優しかった母――運転中の事故――遺体安置屋――裁判所からの請求――多額の賠償金――撮影所――狂った父――卑しい笑み――体内に知らない異物感。
ラスティは咄嗟に、目一杯にシガーを吸い込んだ。蘇りかけた忌まわしい記憶を、遠くへ追いやるために。
慌てて煙を吸ったせいで人工肺が驚き、少しだけむせる。その肉体反応が意識を逸らすきっかけを作ってくれた。
悪夢は何時の間にか鎮まり、どこかへ隠れ潜んだ。消滅したわけではない。ただ、気配を消しただけ。いつまた、何かの弾みで脳裡に湧かないとも限らない。
――……ゆっくりと、落ち着きを取り戻す。
「目標金額まで、あと三百万ゼニル……」
ラスティは、口座残高の具合と今後の仕事のペースを考えながら、ぼんやりと煙をくゆらせ続けた。
何度もそうしているうちに、煙に含まれる刺激成分が脳の中枢を激しく攪拌。
薄い半透明の膜が降りてきたかのように、とろりと視界が歪みはじめる。蒸した室内に、甘美な香りが広まっていく。
恍惚とした夢の世界へ誘われようとした時だった。
ベッドの上に放り投げていた、ギミック仕込みの携帯端末が、けたたましく鳴り響いた。
ラスティは無視を決め込もうとした。だがいつまで経っても鳴り止まなかったので、シガーを咥えたまま、仕方なく電話に出た。
『ラスティ、仕事の方は上手くいったのか? 依頼を受諾してから、もう三時間以上経つが……』
低いながらも良く通る声―ラスティが所属するハンターズ・ギルドのマネージャー。フェンディ・ヴェルサーチ。通称・フェヴの声だった。
「とっくに完了済だ。報酬金も受領済。ちょうど今、自宅でバニッシュを愉しんでいたところだ」
バニッシュ―非合法の嗜好品たる、アンフェタミン・シガーの通り名を耳にしたフェヴが、電話の向こうでわざとらしく溜息をついた。
『仕事が完了したら、メールなり電話なり寄こせと、いつも言っているだろう。五年もハンターをやっているなら、もうそろそろ身についていい常識だと思うが?』
「あんたの口から常識なんて言葉が飛び出てくるとは思わなかった。俺がスタンド・プレーに走ることで、そちらに何か不利益があるのか? ないはずだ。今までだって、ずっと一人で仕事をこなしてきた。これからもそうするつもりだ」
『お前の働きぶりには感心しか覚えないな、ラスティ。金銭至上主義者であることを咎めるほど、俺も耄碌しちゃいない。銭はあるに越したことはない。しかしだ。お前がスタンド・プレーに走ることと、報告・連絡・相談を怠るなという俺の忠告は、別次元のものと考えるべきだと思うがな』
「相談」
鉄のような声音で鸚鵡返しに言ってから、ラスティは喉奥で低く嗤った。
「毎日毎日、椅子に座ってパソコンと睨めっこしているあんたに、何を相談しろと?」
『……とにかく、俺の方からいちいち電話をかけさせるな。こっちは今、猫の手も借りたいくらいの忙しさなんだ』
「現場で命のやり取りをしている俺よりもか? あんたも、凶悪な面構えをした刑務所出の更新強化人や、ボディーガード用に調整されたサイボーグの前に立って、啖呵の一つでも吐いてみるといい。凝り固まった頭がほぐれるぞ」
『精神的な忙しさではこっちのほうが上に決まっている。くそ、委員会の豚共め。法人税率を三十五パーセントまで上げるとは……脳みそが沸騰してやがるのか? 三十五だと? ふざけるなよ馬鹿が。決算月になってあたふたする中小零細企業でも眺めながら、一杯ひっかけるつもりなのか知らんが、こっちとしちゃたまったもんじゃない。これじゃオイル・カーはおろか、良質の封言呪符だって中々揃えられん』
「他区画へ事業拠点を移せば、事業税はともかく住民税は下がるはずだ。雀の涙ぐらいの効果しかないだろうが」
『たった数パーセントの差でも、より多くの金を手元に置けるなら、それに飛びつかないマネージャーなどおらん。お前の言う通り、いまC区への移転を検討中だ。向こうのギャングや役所の奴らに根回ししておく必要があるが……おい、ラスティ』
「なんだ」
『お前、まさかとは思うが、仕事以外でC区の奴らとドンパチした過去なんかないだろうな? 特にウェッジ・ファミリーの奴らと。あるいは、ギャングの女と寝たなんてことも。むしろそっちの方が最悪だが』
「身辺を綺麗にしておけと、そう言いたいのか?」
『アイツらは面子を大事にするからな。プライドの問題だ。金にもならん話だが、奴らはそれを重んじる。俺には皆目、理解できない文化だが……それでも、万が一のことがあって移転計画が潰れたら……くそ』
「睡眠導入剤でも接種したほうが良さそうだな、フェヴ」
鼻で笑いながら、ラスティは言い切った。
「力は必要な時に必要なだけ使う。それが俺の生き方だ。加えて、相手が女だろうと男だろうと、俺が性生活に関する話を嫌っているのは、あんたもよく知っているはずだが」
『自分の立場を理解してくれているようで、なによりだ、ラスティ。ガキをこさえて家庭を抱え込んだところで、ロクなことはないからな。ただ同じ家に住んでいるというだけで金を湯水のように浪費する奴らなんぞ、迷惑以外の何者でもない』
「……それで、一体どうした」
『何がだ?』
「とぼけるな。業務連絡以外のお喋りを好まないあんたが、これだけ長話をするということは、また依頼が舞い込んできたということだ。そうなんだろう?」
ラスティが指摘すると、フェヴは電話の向こうで、宝箱の在処を言い当てられた少年のように――実際はタイヤを横に積み重ねたような腹の中年親父だが――少しぎこちなく笑った。
『さすがは我がハンターズ・ギルドの稼ぎ頭。金に対する嗅覚は野良犬以上だな』
フェヴは咳払いをしてから、口火を切った。