1-1 アヴィニヨンの娘たち
プロメテウスで暮らす。
そのことが何を意味しているのか、人々はいま一度よく考える必要がある。彼の地にて一生を過ごすということは、甘い汁を吸う側に回るか、苦い汁を飲まされ続けるかのどちらかに帰属することを意味している。そして、たいていの住民は後者に回らざるを得ないからだ。
ごく稀に、野心を備えた何者かが、この三日月形の湾岸に寄り添うようにして建造された巨大な積層都市経済のゲームに参加し、制圧しかけることはある。しかし、それも一過性のものに過ぎない。すぐに旧来の権力者によって、席を奪い返されてしまう。それと言うのも、都市の法律によって規定された厳格な階級制度のおかげで。
最上層、上層、中層、最下層と、上から順ぐりに分厚く横に走る岩盤で断絶された四つの居住区。同じ都市、同じ文化を持ちながら、そこには圧倒的な格差が生じていた。
都市の永い歴史の中で、この階層の順番が覆った試しは一度も無かった。現に、上層や最上層で悠々自適に暮らす上級都民たちのほとんどは、進んで最下層の住民と触れ合おうとはしなかったし、最下層民が最上層へ引っ越すことは、都市の法律で固く禁じられていた。どれだけ金を積んでも、それだけは叶わなかった。上層には優れた人間性を持つ者のみが居住を許され、それは生まれ持った資質と、豊かな環境によってのみ育まれるという極端な論調が大勢を占めており、それが最下層民の立場をより悪くしていた。
傲慢を極めた権力集団の暴走が、都市を混迷極まる状況に落とし込んでいる――少女には、そんな風に思えてしょうがなかった。だからこそ、自分達の行いは、やっぱり正しいのだとも自覚できた。
都市の顔役を自称する、都市公安委員会と企業連合体の面々――グローバリズムにかこつけ、他都市と経済交流を結んで莫大な財を成し、都市中のエネルギー利益を独占する彼らを打倒しない限り、この都市の人々は『本当の意味での豊かさ』を勝ち取れない……と、少女は教えられてきた。
本当の意味での豊かさ――精神的豊饒性――それを旗印に活動を続けるとある組織に、少女は生まれた時から身を置いていた。
少女の創造主=組織の首魁を担う老人=異世界転移者/基本世界追放者の末裔にして再来と謳われる男=ディエゴ・ホセ・フランシスコ。彼は、常に子飼いの少女らへ教え込んでいた。物質的な快楽にだけ価値を求めてはならない。そこには虚無しかないのだ――と。
物質的な快楽――少女も、それの意味するところは、なんとなくではあるが理解できた。
ニュースが伝える最下層の現状を、少女は普段から有機メモリに焼き付けていた。暗黒街を寝床にする医療従事者たちの手で量産された違法義体者や異能力者たちは地を跋扈し、薬物は年月の経過と共に、種類と流通経路を暗闇の底で拡大し続けている。結果として最下層の人々は、人生の理想とする地点からはほど遠い場所に立たされている。
だが、それらの悲愴な現実の数々も、都市の支配者にとっては対岸の火事に過ぎないのだ。自らが幸福を享受できさえすればそれで良しとする、その図太いまでの傲慢さが、都市の根幹を後戻り出来ないほどに腐らせている。
そうディエゴから教え込まされるたびに、少女の赤い瞳の奥で、怒りの炎が吹き上がった。許してなるものかと、矮躯に収まりきらぬほどの純粋な正義心が、日に日に膨張を続けていった。
ディエゴは――少女を造ったその老人は、この幼い被造者が理想に燃える性格なのを良く知っていた。だからこそ、膨れ上がる熱を発散させる場を用意してやった。すなわち、企業連合体への奇襲攻撃である。
老人から下知を与えられた少女には自信があった。敵を制圧する自信が。この身に与えられた力を発揮すれば、都市の経済を牛耳る企業連合体が相手だろうと、奴らの思惑を粉砕できると息巻いていた。
だが、別の問題があった。予期せぬ問題が――それが、今の少女の立場を瀬戸際に追い込んでいた。
真夜中の最下層域上空、地上からおよそ三十キロ地点。その赤い瞳を持つ、人形めいた容貌の少女は、空飛ぶ箒に跨って蒸し暑い夜空を駆け、逃走ならぬ逃飛に徹していた。
鋼鉄製の箒の柄を、こげ茶色のブーツに覆われた細い足でがっしりと挟んで離さない。柄の先端付近を握る手に汗が滲んでいるその姿からは、焦慮の度合いがどれほどのものか、はっきりと伺える。
地上から剣山のように連なり生える、中層以上の岩盤を支える支柱や、物資運搬用に建設された階層間エレベーター。それらの隙間を縫うように避けながら、少女は何度も忙しなく後方を見やった。そのつど、苦虫を噛み潰すように眉間に皺を寄せる。
恐怖を噛み殺す。
少女が操る空飛ぶ箒――黒杖彗星の後部に、ドレスの裾のように設置された小型ブースターの出力は、既に臨界点に差し掛かっている。だというのに、追手を振り切ることができない。
そう、追手である。
赤い瞳の少女は、追われる立場にあった。
あろうことか、彼女が所属する組織の者たちから。
追う者と追われる者。空飛ぶ双方を、岩盤の端々にビーズのように設置された人工月が、キラキラと蒼く照らしつけ、その姿を闇の下に露わにする。
追われる側の少女が、紫灰色のロングヘアをなびかせ、血の塊めいた赤い眼差しを宿し、黒い耐環境コートを纏っているのに対し、追手側の少女三人は黄金の瞳をフードの奥で輝かせ、緋色に燃える耐魔ローブを翻していた。
双方の出で立ちは相反しているが、出自だけは同じだった。人の手で造られし魔導機械人形である。頭部に内蔵された有機メモリにニューラル・チューリング・システムを搭載し、肉と骨の代わりに金属繊維と炭素鋼材を組み込み、導脈回路を神経・血管とする被造物。業務用スーパーコンピューター十三台分の費用が形を成した存在。それは彼女たちが、人や獣の領域から逸脱した生命体であることを意味していた。
「くっそっ!」
追われる少女は鋭く角度をつけると、矢を放つように一気に上昇。真っ黒な叢雲へ果敢にも突っ込み、敵の目を欺こうとする。
だが、追手たる三人組は冷静だった。電子の眼で、逃げ去る少女の背を捕捉。幼い顔立ちに似合わない冷酷な表情を浮かべると、魔力変性増幅杖をそれぞれに振りかざした。冷たい光沢と身の丈を越える長さを持つそれこそが、魔導機械人形を魔導機械人形たらしめている、権威と力の象徴だった。
追手の、プラスチックのように乾いた唇が静かに開く。その数瞬のうちに、呪文の高速圧縮詠唱を完了。もはや言語とも呼べぬ音の連なりを呼び水に、魔杖にセットされている魔導式の一つが起動――選択したのは、低威力ながら最も出が速いタイプの術式だった。
魔杖の先端から、火炎弾が勢い良くほとばしる。
粘ついた熱帯夜の大気を焦がして飛翔、飛翔、さらに飛翔。
分厚い雲を突き破り、標的へと迫る魔導の弾丸。
追われる側の少女は、反射条件の下に動いた。すぐさま同様の方法で対抗しようと、コートの裾に隠し持っていた魔力変性増幅杖を取り出しかける。
しかし、すんでのところで行動にブレーキがかかる。もし、今の状態で魔導式を打てばどうなるか――暗い予感が少女の脳裡を過った。うなじが、妙な熱さに侵される感触があった。
方針を変更。もう片方の袖口から魔導具を取り出して、宙へ放り投げる。
薄緑色の光沢色をした楕円型のそれ。内部にパッケージ化された魔導式が炸裂。眩い光線の乱舞は周囲を金色に照らしながら強力な斥力を放ち、背後から迫りくる火球の軌道を弄んだ。弾かれた衝撃で、火球を構成していた魔力格子が結合崩壊を迎え、赤い光鱗となって都市の闇夜に霧散していく。
それでも、追手は追撃の手を緩めない。
《ガーラーテイア》
生暖かい大気を切り裂くように飛行している最中、追われる側の少女の脳内に声が届いた。追手側の一人からの呼びかけだった。脳内にセットされた有機メモリへ向けて放たれた電子脳声には、驚くほどに抑揚が全くなかった。さながら、それは死人の声だった。
《これ以上の逃走を続ければ、僭主様への反抗的行為とみなす。速やかに我らの下へ参じ、レーヴァトール社襲撃に関する一切の経緯を報告せよ》
「出来ませんって、さっきから言っているじゃないですか!」
同じ魔導機械人形でありながら、逃げ去る少女は絹を裂くように地声で叫んだ。しかしその必死の訴えかけも、真上で馬鹿でかく広がる中層の地盤にぶつかり、風に揉まれてあっけなく消える。
《お願いだから時間を! 時間をください!》
電子の音が刻む少女の逼迫した声に、無情にも追跡者たちは応じない。追撃者たちの黄金に光る六つの瞳。そのどれもが、昆虫のような冷酷さを滲ませていた。
《ガーラーテイア。保衛魔導官の言葉を軽んじるな。二度はない。貴殿の部隊はなぜに全滅し、そしてなぜ、貴殿だけが生き残っているのか。その理由の一切をつまびらかに報告せよ》
《だから出来ないんですよ!》
《理由を述べよ》
《それも……あるんですけれど、すいません! 言えません! でも信じて! あなたたちに敵対するつもりも、僭主様を裏切るつもりも、全くないんです! 本当なんです!》
追っ手側の三人が痺れを切らしたように、ほとんど同時に魔力変性増幅杖を粛々と振りかざして、宣告。
《貴殿の言動を検証した結果、三統神局への叛心を宿しているとの推論を掲示》
《そんなっ!》
《これより、高確度推論に基づいての強制拘束へ移行する》
三つの唇が、凍てつく呼気を吐いた。三重の詠唱が力の波動を生み出す。それぞれの魔杖の先端に、闇より黒き輝きが灯る――と、次の瞬間には、漆黒の閃光が鋭い勢いで杖先から放たれた。三条の軌跡を見る漆黒は空中のある一点で交差。黒輝の波動はみるみるうちに浸食範囲を広げ、雲の向こうに奇怪な代物を降誕せしめた。
邪龍――そう例えるに相応しい。逆巻く鱗から紫色の霧をたなびかせ、大翼を生やし、漆黒に輝く空飛ぶ大蛇。魔力が生み出す暴威の渦が、長大な牙を剥き出しに、螺旋を描いて宙を飛び、逃げ去る少女へ絡みつかんとする。
あっという間に距離を縮めてしまうほどの、それは凄まじい速度であった。
いよいよ捕らえられる。誰もが思ったに違いないその拍子に、少女を中心に途轍もない閃光が生じた。
辺りを昼間のように照らす《《それ》》の正体は定かではない。だが、閃光が生じるほんの数瞬前、少女の左手がカプセル状の何かを懐から取り出して放り投げるさまを、三人組は確かに見た。
先ほどのとは異なる魔導具――そこまでは判別できたが、防ぐ手立てを実行できるだけの時間がなかった。
閃光は、まるで灼熱の太陽のように宙空の一点で燃え滾り、邪龍に末期の叫喚を上げさせた。獰猛な生気を放っていたはずの巨大な空飛ぶ蛇体が、灼熱の光にあっけなく焼き尽くされていく。
障害を破壊し終えると、閃光は瞬く間に小さくなって、闇夜のいずこかへ消滅していった。その時、追われていたはずの少女の姿は、空のどこにも、その存在の痕跡の一切を残してはいなかったのである。
《今のは?》
標的を取り逃がしたにも関わらず、動揺や焦りといったものを、これっぽっちも滲ませることなく、追手側の一人が電子回線で傍の仲間へ呼びかけた。すぐに応答があった。
《観測した魔力の散布スペクトルから察するに、おそらくは相殺型の魔導具だ》
《つまり、ガーラーテイアに負傷の痕跡は見られない》
《いや、魔杖に記録された戦闘情報では、黒杖彗星のブースターが全損している可能性が九十六パーセントと出ている》
《制御しきれずに墜落したか。無様な》
《だが、地上三十キロ高度からの落下とはいえ、物理衝撃を吸収するタイプの魔導具を使えば機能停止は免れるはずだ。エコー、墜落の予想地点を導け》
《ただいま座標演算を実行中》
エコー、と呼ばれた追手の一人。その黄金の瞳の奥で、0と1が神懸かり的速度で反復を繰り返す。
《座標演算終了。墜落予測地点は……最下層域D区》
《エコー=エル=エンドレス、アレトゥサ=エル=アウェイク》
リーダー格とおぼしき少女が、氷結の眼差しをはるか下方へと向けて、傍らに佇む二人の同胞へ今後の方針を電子脳声で告げる。
《追跡を続行せよ。ガーラーテイアを何としても捕らえ、レーヴァトール社襲撃時に何があったか、証言を引き出せ。生け捕りが難しいなら、ボディパーツを破壊しても構わない。頭部さえ残っていれば情報の抽出は可能だ。手加減する必要はない》
《了解。僭主様への報告は?》
《現状を維持。情報不足は否めない。ガーラーテイアがなぜ証言を拒否しているのか。その要因を迅速に明らかにし、且つ証言の検証による妥当性の確認を最優先事項とする》
《了解》
《捜索範囲の広さを鑑みて、行動単位は単独を推奨する。視界共有を展開後、追撃を再開する》
三人の魔導機構人形は、機械人形らしい無慈悲さをその矮躯に纏わせると、音もなく、積層都市の最貧民が蔓延る下界へと、墨汁めいた雲間を割いて突入していった。
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