1-17 錆びついた男③
「身の上話をする柄じゃないんだが、すまないな。変な空気にしてしまって」
「ううん。いいの……ねぇ、一つだけ聞いていい?」
「なんだ」
「そこまで酷い目に遭って、死にたいと思った事はないの?」
「自殺か」
ずいぶんなことを訊いてくるなと鼻白んだが、しかしラスティは押し黙るしかなかった。これまで過ごしてきた二十六年間の人生において、不思議と考えたことのない、それは心の数式とも呼べる難題だった。
自らの命を自らの手で永遠に断ち切るという行為。客観的に見ても、十分にそうするだけの資格と権利を有しているとルル・ベルから指摘されたことで、初めてラスティは、その数式の存在を意識したのだ。と同時に、いまさらながら疑問に思えて仕方ない。
なぜ自分は自らの手で、人生の幕引きをしようとしなかったのか。ラスティは過去を思い返し、いつでもその機会はあったはずだと確信した。
たとえば、遺体安置室で黒焦げになった母の亡骸と面会した時。たとえば、撮影所からの帰りに家の近所を流れる汚水まみれの川沿いを渡った時。たとえば、父親の喉元をナイフで掻っ捌いて、生暖かい血が胸元にどっぷりとかかった時。
思いつく限りでもこれだけあった死のターニングポイントを、無事に避けられたのか、あるいは単に見逃していたのか。
「分からないな」
まるで他人事のような台詞が出たものだと、ラスティは自分でも変に思った。だがそれ以上の感想が沸かないのも、また事実だった。
「君は、そういうことを考えたことはないのか?」
話題の矛先がずっと自分の方へ向けられていることに居心地の悪さを多少なりとも感じたのか、ラスティは逆に問いかけた。
「さすがにないかな」
場の空気が、これ以上澱むのを避けるかのように、ルル・ベルはあえて、あっけらかんとした風に言った。
「さっき言ったでしょ。僭主様が失ったものを取り戻してあげるのが、わたしの望みだって。それを達成するまでは何があっても死ねないの。だって、死んだらおしまいだから。もう二度と、僭主様に何かをしてあげられなくなっちゃう」
「殊勝なことだ。サプライズ云々のくだりは置いておくとして……誰かの為に何かをしてあげようとする行為は、俺からは一番遠いところにある理念だからな」
自嘲的な笑みと共に、何かを諦めた者がそうするように、軽く目を伏せる。
「ハンターだって、誰かのために働く職業でしょ?」
慰めるようなルル・ベルの物言いを受けて、しかしラスティは突っ撥ねるような態度で言ってのける。
「ボランティアじゃないんだ。そこには必ず、金銭の絡みが発生する。逆に言えば、金が絡んでいない限りハンターは人助けなどしない。なんでもかんでも金で線引きをするのが、この仕事の本質だ」
「ラスティさんも、そうなの?」
そんなことはないんでしょ? ないよね? と言外に含んでいるような言い方。ラスティは肯定も否定もせず、視線を窓の外へ向けたまま、石のように黙りこくった。
無言のままのラスティを横目で伺いながら、ルル・ベルは哀しみをわずかに眉根に乗せて口を噤んだ。彼の真意を問いただすようなことはしなかった。これ以上、ずけずけと相手の心に踏み込むのもどうかしていると思ったし、今は運転に集中するべきだと、もどかしい気持ちを無理やり切り替えるしかなかった。
だが実際のところ、たずねられた当の本人でさえ、何が正しくて間違っているかの判断がついていないのだ。それは裏を返せば、善悪の境目を意識的に探ろうとしている訳だが、それこそ、ラスティの性格からして有り得ない心の揺れ動きであった。
人生の価値を正しく決定づける要素として念頭に置いていた、私財や金銭の充実具合。それに執着する今まで通りの自分がいる一方、そんな《《些細な面》》にしか価値を見いだせないのかと、もう一人の姿形の見えない自分が、精神の片隅で叫んでいる。人生における善と悪。それを知りたいと願っている。不思議なことに。
思考の回路が勢い良く神経の火花を上げて信号が駆け回り、たどるべき新たな道筋を探し求めたあげく、袋小路に入り込んでしまったような感覚を胸に抱いたまま、ラスティは座席の背もたれに身を預けた。
それから少し目を瞑った。瞼の裏で、いつものようにビジョンが――ランプの小さな灯だけを頼りに過ごしていた、日々の惨めな暮らしが走馬灯のように流れていく。
大金があれば状況は違ったのだろうか。ビジョンが浮かぶたびに、そんな意味のない問いかけをしてしまうのは毎度のことだった。しかし今回ばかりは、その問いかけは確かな意味を持ち合わせていた。
「精神的豊饒性」
聖典に記された御言葉を諳んじるように、ラスティが言った。
「それが何なのか都民に教え込むのが君達の最終的な目標だと、さっきそう言ったな」
確認を求めるような口調に、ルル・ベルは黙って頷いた。
「一番乗りしたいわけではないが、まず教えてくれ。君の言う『精神的豊饒性』を身に付ければ、都民は誰でも幸せになれるのか?」
「それは僭主様の定義するところによると――」
「そうじゃない」
竹を割るようにきっぱりと言った。その冷え切ったアイス・ブルーの瞳が、思いがけない切り返しをされたことで驚くルル・ベルの横顔を捉えて、離さなかった。
「君の言葉で聞きたい。僭主の言葉じゃなく、君が思うところの『精神的豊饒性』が知りたい。君自身は、どう考えているんだ?」
心なしか救いを求めている声であるかのように、ルル・ベルには聞こえた。それでも、遠い異国の文化を説明しろと言われているような気がするのは、なぜだろう。
魔導機械人形の口から発せられる言葉は、僭主の影響力からは逃れられない。しかし、それはあくまでアンドロイドの範疇を出ない、保衛魔導官のような純粋な機械仕掛けの人形のみに通じる論理に過ぎない。半ば人間と化しているルル・ベルには当然、自我が備わっているはずなのだから自分自身の考えを持っていなければおかしいと、他ならないルル・ベル当人が感じていた。それなのに、いざ言語化を試みようとすると、どこを話の起点にすればよいのか、困惑するしかなかった。複雑に絡まりあった紐の結び目を解くようなものだった。
とっかかりになる起点がどこにあるのか。見つけ出そうとするのに大変苦労して、そんな自分に愕然となった。
耐え難い沈黙が、しだいに車中を満たしていく。
「ごめんなさい」と、ルル・ベルは苦し気に言ってから、すぐに「どんな言葉で言い表して良いか、今はまだ分からない」と、保険を掛けるように付け加えた。
「そうか」
ラスティは、申し訳なさそうに目を伏せるルル・ベルから視線を外し、再びフロントガラスへ向き直った。コンパスも無しに一人で孤独な歩みを続ける旅人のような眼差しが、ガラスに映り込んでいる。
「でもね」
突然、天啓が降りてきたかのように、ルル・ベルが口を切った。
「これだけは言える。『喪ったものを取り戻してあげたい』って気持ち。その気持ちがあれば、多分、人生っていうのは、いまよりも少しだけ輝くんじゃないかな」
「自己犠牲の精神というやつか」
「そこまで大袈裟なものじゃないけど。でも、自分にとって大切な人が苦しんでいたら、その人が失くしてしまったものを、与えてあげようとする心持ちは大事だと思う。そういうのって、きっと、お金じゃ取り戻せない場合がほとんどだから。喪失を抱えた人に何をしてあげられるのかを考えるのって、お金を稼いで自分ひとりだけ幸せになることより、とても価値があることのように思うの」
「それが、君なりの意見というわけか」
「うん」
まさにそれを実践しようとしているのが、ルル・ベル本人に他ならない。
それでも、ラスティはこう思わざるを得なかった――しょせんは夢物語ではないのかと。
アンドロイドとしてのアイデンティティーを放棄し、人間の娘になろうと努力している彼女の想いが成就される保証など、どこにもないのだ。第一、そんな奇天烈な現象が本当に実現するのかすら、事の顛末を聞かされた今でも、ラスティは半信半疑でいる。
しかしながら、ある意味では家電製品の延長でしかないアンドロイドに、どうしたことか、みずみずしいほどの清冽さを感じてしまっているのも事実だった。その清冽さを意識するにつれ、彼の中で昔の思い出が蘇りつつあった。
最下層の住人であるラスティは、生まれてこの方、本物の星を見た事がなかった。薬物に手を出す前の母や、気が狂う前の父からその存在は教えられていたが、自分のような恵まれない人間は、それを一度も見る事なく一生を終えるのだろうと、子供心にそんなことを漠然と思っていた。
だが違った。彼は五歳のころにそれを目撃した。
家の近所で、一人でボール遊びをしていた時だ。たまたま道端に落ちていた雑誌のページをめくった際に飛び込んできた一枚の写真に、それがでかでかと映っていたのだ。広大な夜空に、風穴を開けるかの如く輝く、白い星々が。
本物ではない、ただの複写に過ぎない。それでも、あれを目にした時の鮮烈な感動を、ラスティはいまでも忘れてはいない。聞くのと見るのとでは印象が大きく違った。花火のような衝撃に打ち震えた。
その、年端もいかない子供時代の大切な思い出が、今また別のかたちで蘇りつつあった。あの時に抱いた心の高ぶりと同質のものが、ラスティの中で確かに芽生えていた。
ルル・ベルの眼差しの奥にある、清涼にして激しいときめきは、まさにあの時の星そのものに見えた。どれだけ手を伸ばしても決して手に入りそうにもない、気高い精神性のかたちだった。
「そういうことか」
納得――うっかり零れ出た独り言と共に、思考が袋小路を脱して閃きとなり、進むべき方向を見出したような気がした。頭の片隅を占めていた、自分自身の行動への疑問が解消されていく感覚があった。つまりは、依頼金をたんまりと貰えるにも関わらず、どうして一度依頼を断ったのかの答えを見つけたに相違ない。
「笑える話だな」
実際、ラスティは笑っていた。喉の奥から、断続的に洩れる引き攣った声。滅多に他人には――それこそフェヴにだって聞かせたことはない――それは嘲りとは異なる笑いだった。自らに対する皮肉の笑いだった。
「どうやら、俺は君に嫉妬していたらしい」
女神のネックレスを――母から贈られたお守りを右手で強く握り締める。いままで意識的に目を逸らしていた己の心情。その一端をはっきりと意識しながら、ラスティは小さく頷いた。
「嫉妬?」
「君は幸せ者だ。誰かの為にそれだけ必死になれるということは……俺も、母の為に何かをしてやるべきだった。彼女が喪ってしまったものを、取り返してやるようなことを」
ラスティは真顔に戻り、息を殺して自らを見つめ直した。目の前に突き付けられたナイフの鋭さや、煌めきや、切っ先の角度を丹念に観察するような目つきで。
「もう俺には何もできない。何もしてやれない。母や父が喪ったものを取り戻してやるようなことは決して。そんな俺からしてみれば、君の行動が羨ましく見えてしまって、仕方ない」
正直な告白だった。実に正直で、それでいて、途轍もなくやるせない精神の吐露だった。たまらず、ルル・ベルは上ずった声で言った。
「でもラスティさんは、いま、わたしの為に動いてくれているじゃない。何もしてやれないなんて、そんなひどいこと言わないでよ」
「……金が手に入るから、請けただけだ。金はいい。全てを水に流してくれる」
「嘘だよ」
ルル・ベルが不満そうな、それでいて哀しみを湛えた調子できっぱりと口にした。
どうしてそんなに己を卑下するのだと、言いたげな風でもあった。
「それは嘘。ラスティさんは――」
「左に入れ」
会話を打ち切る様に指示を出す。ルル・ベルは慌ててハンドルを切ると、一般道へ車を向けた。口にするべきタイミングを逸して、言葉は喉奥に引っ掛かり、仕方なく飲み込まざるを得なかった。
「どのみち明らかなのは、この街に住む誰も彼も、何かを失いながら生きているということだな」
それまでの話を総括するように締めくくったラスティの瞳は、すでに道の先へ向けられていた。何が待ち受けているか分からない、最下層の奥の奥へ。