1-14 襲撃の【循環(エンドレス)】②
エコーが言葉もなしに動いた。機械刀を手に提げて、屋上から壁へ飛ぶ。青いロングブーツに包まれた彼女の細い足=炭素鋼材に金属繊維を編み込んだ強化筋骨。凄まじい脚力と恐るべき重心バランスを発揮しながら、地面と水平に壁面を駆け抜ける。
ラスティの両腕。その前腕側面部がぎらりと光る。周囲の闇に牙を突き立てるように二対の高周波振動ブレードを展開。
近接戦闘へ持ち込まれる事態を想定し、瞬時に構えた。両足を小さく広げ、重心を意識しながら肘を曲げる。正中線はそのままに、左腕をやや前へ突き出す。素早く攻撃が可能で、それでいて防御にも移れる基本姿勢。
壁を駆け下りるエコーへ向けて、ラスティの瞳から放たれる異能の力。壁という壁を捩じ切り、次々に大穴を空けていく。足元を崩して空中に放り出されたところを狙う算段。
だが、エコーは一流のダンサーのように軽やかにステップを踏みながら大穴を避けると、途中で壁を力強く蹴り、飛翔。
宙を飛ぶ紅い魔女。その細い手首と腕と肩の連動が一体化し、あたかも、鞭をしならせるかのように振り下ろされる、機械刀の一撃。
その無駄のない動きが生み出した迷いない太刀筋を、ラスティは刃を露出させた左腕を斜めに振り上げることで、機敏に迎え討とうとした。
刀身の一閃を、自慢のブレードで溶断しようとする覚悟の顕れである。
しかしながら、機械刀の白い輝きが目前にまで迫ってきた刹那、胸に広がる一抹の不安――俺は悪手を打ったのではないのか――悪寒めいた感覚が彼の全身に警告を訴えた。
その直感は、最悪な事に正しかった。
見た目にはなんの変わりもない機械刀の刀身が、振動で激しく赤熱するラスティのブレードを、火花の一つすら立てず、中ほどから軽やかに切り分けたのだ。
そう表現するのが最も適切だと思える光景だった。溶けかけのバターにナイフを通すような。ありえないほどに、滑らかすぎる切断だった。
驚愕――空中からの斬り落ろしなどという、腰から下の重心移動を完全に無視した滅茶苦茶な運動力のみで、これだけの壮絶で奇妙不可解な斬撃を放つとは!
想定外の事態に目を剥く一方。ラスティは砂時計の砂一粒の中で、右へ体を入れ替えていた。人体の限界を超えて高められた反射速度と運動神経が、それを可能とした。紙一重の体捌き。瞬間的な回避行動を。それのおかげで結果的に命は繋いだ。
しかし、機械刀は摩擦を無視したかのように、左腕の肘から先を、やはり正確に切り分けた。
激痛が刹那のうちに駆け抜け、自動的に痛覚遮断システムが作動。明後日の方向へ飛ぶ金属の腕と、機能を喪失した薄い鋼の刃。ラスティはそれらには目もくれず、残った右腕を全力で横薙ぎに振り抜いた。
痛烈なヒット=エコーの左側頭部にめり込む鋼の拳。甚大な衝撃を叩きこまれ、エコーがホテルの壁に激突する。常人なら頭蓋骨が陥没しているはずだが、エコーは呻き声を一つも上げず、即座に起き上がろうとした。
その時、彼女のすぐ足元の地べたが一斉に捩じ切れた。木っ端微塵に吹き飛ぶアスファルトの盛大なシャワーに混じって、飛来する弾丸の嵐=サブウェポンとしてベルトに挟んでいた、オートマチック・ハンドガンの連射撃。
思わぬ反撃を受けても、エコーはどこまでも冷静に状況を見極めていた。壁に背を預けるようにして尻餅をついたまま、素早く機械刀を目元にかざし、盾の要領でカバー。眼球部への損傷だけは避けようという防御姿勢だった。
それでも、ラスティは構わずに、ハンドガンのトリガーを引き続けた。ありったけの弾丸が正確にエコーの顔面へ叩きこまれ、火花を散らして、白い額や顎に大小のへこみを生じさせていく。
しかしながら、そこまでだった。撃ち抜くことは叶わなかった。貫通力の低い二十二口径の銃弾とはいえ、恐るべき外皮硬度と言って良かった。
だがそれ以上に衝撃的だったのは、機械刀の刀身の腹に命中した弾丸が、弾かれるでも軌道を逸らされるでもなく、粉々に、跡形もなく砕け散っていったことだった。
ラスティの脳裏で戦慄が吹き荒ぶ。
あの白く光る刀身の表面には、目に見えない鋭い細かな突起が無数にあって、それがドリルのように回転して弾丸を削っているのかと、そんな滅茶苦茶な推論を立てながらラスティは撃ち続けた。
ハンドガンの弾倉から最後の一発が放たれた直後、ラスティはそれを放り捨てると同時、右膝を機関砲形態へ超速変形展開。
腰を低めに態勢を整えつつ、反動を殺す為にすぐ背後の壁に肩と背をつける。それこそ、全身義体者として備えうる、最大の射撃武器を起動させるための前準備だった。
起き上がりかけたエコーを、ラスティのアイス・ブルーの瞳が射抜く。
機先を制する瞬発な動作=右膝から覗く黒い銃口。接合神経をはしる脳内伝達という名のトリガーを引いた途端、凄まじいほどの勢いで銃火が瞬いた。
外装埋込式M330擲弾――ブレス・ショットの決死的発射=圧倒的破壊力の顕現。灼熱の予感を抱かせながら、右膝から飛び出した鋼鉄の榴弾が大気をぶち抜く。
――これらの一挙手一投足の刹那。瞬間のフレームの中でラスティは思い出していた。ハンター稼業駆け出しの頃に、ある同業者から聞いた話を。
その昔、粗悪な造りの一刀を手に、市街に蔓延る乱染獣や全身武装のサイボーグを切り伏せる、常人の域を遥かに逸脱した刀術の達人にして、凄腕のハンターがいた。
ある日の事、メディアの取材に応じた彼は、一人の記者から子供じみた質問を受けた。飛来する弾丸を抜刀により切断することは可能かと。
サービス精神に疎い彼は淡々と答えた。
弾丸の切断。それはいかな剣技をもってしても、叶わぬ芸当であると。しょせんは御伽の話。空想の世迷言。真に受けるだけ馬鹿馬鹿しいと断じた。
興ざめする記者をよそに、彼はまた、淡々と続けた。
ただし――銃弾を逸らすことなら、その限りではないと。
銃口から発射された弾丸は、ジャイロ効果により弾軸を安定化させている。これを崩す唯一の策があるとするなら、それは刀身を銃弾の横腹に軽く当てることから始まる。
弾丸の回転とは逆の方向へ力を与えるようにして、刀身を瞬間的に引き戻せば、安定軸の均衡は破られる。事実、銃器を持つ相手に対しては、そのように対処してきたと、彼は話の結びにそう言った。
どれだけの研鑽を積もうとも、狂人めいた修行に明け暮れようとも、人が人である限り、絶対に乗り越えられない『域』は確かに存在する。
だとするなら、エコーがこのとき取った行動にも、納得がいくというものだ。
なにせ、彼女は人間ではない。アンドロイドにして魔導の人形。肉の体では一生叶うことのない、数多の魔導式を自在に駆使する人造の兵器。ディエゴ・ホセ・フランシスコの申し子たる者であるからこそ、
「(馬鹿な――)」
彼女には、容易かった。
しなやかに鞭を振るようにして機械刀を振り下ろし、鋭利な切っ先で撫でるように、グレネードを切り分けるなんてことは。
流暢に刻まれる斬閃。音速へ達しようとするグレネードは本来の機能を発現する暇もなく、塵芥と化し、宙空で死に絶えた。奇妙不可解にして壮絶な光景に、ラスティの心が絡め取られる。そこに、明らかな隙が生まれた。
「(なんだ――!?)」
地下からマグマが吹き出すかのように、辺りの地面がドロドロに溶解しつつ盛り上がる。それは明らかに、機械刀によって傷つけられた地面の一か所を起点に広がっていた。
新たな驚愕――ラスティの両足が、ずぶり、とアスファルトの池に埋没した。反射的に上空へ跳んで逃れようとしたが、そこで液状化していた地面が、急激に冷却されたかのように瞬時に固まった。
気づけば辺り一帯が、地殻変動のあおりを受けたかのごとく、でこぼこに隆起していた。支えを一時的に失いかけたホテルが、傾斜をつけて佇んでいた。
突然に身動きを封じられ、それでも、ラスティは諦めてなどいない。右腕にありったけの力を込め、瓦割りの要領で握り拳を足元へ突き下ろす。アスファルトを力づくで割り、この状況から脱出しようとする試み。
だが、拳が地面と接触する寸前――ぶち割ると決めていたラスティの心を嘲笑うかのように――足元がまたもや泥濘へと変じた。
全く予想外のことだった。加速しきった拳を止められるはずもなく、右腕が溶液化したアスファルトに埋没。
決して離さないとばかりに、間を置かずして固まる地面。さながら、大地そのものがエコーの味方をしているかのような、一連の不可思議現象。
「無駄だ。どれだけ手を尽くそうとも、私の【循環】からは逃げられない」
先ほどよりもずっとまずい、間抜けともとれる姿勢をラスティは強制的に取らされる格好となってしまった。
口の中がカラカラに乾いていった。もうどれだけ脳内物質を過剰分泌しようとも、抑えきれない恐怖がサイボーグ・ハンターの胸中を支配した。
右腕と両脚は地面に拘束され、左腕は呆気なく斬り飛ばされ、一番の武器である歪視も通用しないのだ。誰がどうみても、反撃の余地は根こそぎ奪われていた。
「こういう状態を、貴様たちの世界では、まな板の上の鯉と言うのだったな」
地面に突き刺さったままの機械刀を引き抜き、凄絶な気を放ちながら、ゆっくりとした足取りでラスティへ迫るエコー。
その歩みは勝利を確信した者のそれで、同時に彼女が無意識のうちに選択してしまった、最大のミスでもあった。
「やああああっぁぁぁぁああああああああッッッ!」
この圧倒的な有利状況を、一気にひっくり返してしまうくらいの。
「ルル・ベル……!?」
驚きながらラスティが放った言葉は、戦闘の場に突如として乱入してきた者の姿を、正確に言い表していた。
両足に加速効果を持つ魔導具を装着させたルル・ベルが、地を滑るようにして走り、決死の雄叫びを上げながら、手に持った魔杖をバットのように構え、エコーの頭部へ向けて――
「おりゃああああぁぁぁぁあああああああああああッッッ!」
全身全霊を込めて、フルスイング。その極めて原始的な単純攻撃が、最先端科学の申し子を狂わせたのは確実だった。
金属が割れるかのような音と共に、とてつもない勢いでエコーの体が吹っ飛び、地面を二、三回跳ね飛び転がった。
九十度にねじれた首のまま、エコーは死にかけの薬物患者のように、何度も四肢を震わせた。彼女にしてみれば、何もないはずの空間から、いきなり空恐ろしい衝撃を食らったに等しい。防御姿勢をとるのは、ほとんど不可能と言ってよかった。
ルル・ベルのチョーカー型の魔導具。それの効果が今なお継続し続けて、彼女の存在確率を著しく低下させているせいだった。
エコーの思考に雑音が混じる。不意に敵の存在感が消失した事実に対する戸惑い。それが、大きな隙を生んだ。
ラスティは、思いがけぬ形で舞い込んできた好機を、恐怖を押しのけて即座に掴んだ。倒れ込んだエコーの頭のそばにそれが転がっているのを認識するやいなや、奥歯を三度噛み締める。
間を置かずに、闇の一点で閃光と爆発の柱が生じた。
ラスティの電子チップが発する無線通信を受けて、さっき捨てたばかりのギミック仕込みの携帯電話が、隠された機能を見せつけたのである。
不意打ちめいた爆発を受け、エコーの頭部が超高温の炎に包まれ、みるみるうちに融解していく。その様を、呆然とした表情でラスティは見届けた。
すでに手足は自由になっていたが、動けなかった。巨大な安堵の波が精神を包み、その場にへたり込みそうになるのを堪えるので精一杯だった。
「ラスティっ……さんっ!」
ルル・ベルが、初めて男の名を口にした。苦しそうに真一文字に結ばれたその唇が、ひそかに震えていた。
炎の照り返しを受けて光る赤い眼差しは、つい数十分前まで確かにあったはずの……ラスティの左腕が生えていたはずの箇所へ、向けられたままだった。そこから決して、視線を外そうとはしなかった。
「ご、ごめんなさい。わたし、わたし……心配になって後を追ったんだけど……でも、来るのが遅くて……ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
「謝る必要はない。むしろ、来てくれて助かった」
自責の念に苛まれるルル・ベルに対し、どんな表情を浮かべて良いのかわからなかったが、とにかくそれだけは伝えなければならなかった。
「でも、その、ひ、左腕が……」
「痛覚はカットしてある。痛みはない」
「関係ないよ! そんな、そんなの全然、関係ないんだよ……ラスティさん」
いまの彼女にもし涙腺が生じていたら、大粒の涙を零しているのではないか。そう十分に思わせるほどの、ありったけの悲痛さが込められた声だった。
「ごめんなさい。本当に、本当にごめんなさい」
ルル・ベルはラスティの左肩に指先を這わせると、その断面を愛おしむように撫でた。未熟な自分にはこんなことしかしてやれないと、己の立場を嘆きながら。
「ありがとう、ルル・ベル。俺は大丈夫だ。何も心配はいらない」
機械化されていない唯一の部分。人間の証明として最後に残された良心は、過ぎ去りし日の記憶を呼び起こすトリガーとなり、ラスティは想いを馳せずにはいられなかった。身も心も疲れ果てて家に帰ってきた母に、語りかけた時のことを。
あの時の母も、こんな気分でいたのだろうか。




