3-22 《ラスティ・ギア》の覚悟①
まとわりつく気怠さを振り払うように、ブランドンは跳ね起きた。仮初の視界の中、ぼやけた輪郭が次第にくっきりとフレームを形作り、電子の瞳の奥の水晶体が、少しずつ像を結んでいく。周囲を見回すが、《鉄のジャングル》の針葉樹も金属光沢の草木も見当たらない。代わりに、暗黒色の岩がドームのように頭上に覆いかぶさっていた。
ブランドンは恐る恐る立ち上がり、《アバター》の手でそっと岩に触れる。《感覚:湿度》を情報圧として認識した。
〔よう、ぐっすり眠れたかよ〕
声に振り向くと、ウォルト=ナヴィが蓮華座を組んでいた。見ると、彼の小さな背中からは、太い八本の触手が宙へ向かって伸びていた。その先端から流れる水流が岩のドーム内を奔り、渦を巻き、水の円環を形成している。
〔偽装欺瞞だ。この水流が安定しているあいだは、俺たちの居場所が向こうに知られる心配はない〕
ブランドンは、周囲を取り囲む電子流体の方陣と、岩のドームとを見比べる。まるで、水棲生物が暮らす岩礁地帯のようにも見えた。こんなプリセット・アプリは見たことがない。市販品ではなく、特注仕様だろう。それも、素人には扱えないピーキーな類の。
〔向こうって……なんだ。いったい、なにがどうなってる〕
〔落ち着けよ。とりあえず……三日間ってところだな〕
〔三日間?〕
〔アンタが気絶していた日数について教えてやってんだ。現実換算で三日間。電脳空間だと……だいたい六十時間ってところか〕
〔……は?〕
困惑するブランドンに、ウォルト=ナヴィは目を閉じたまま事実を告げる。
〔あの《女将軍》な、別れ際のアンタに病原菌を仕込んでやがったのさ。電眼経路で感染の後、自己認識を阻害する類のやつ。むかーしむかしの大陸間戦争時に、連邦の軍属にいたなんとかってヤツが構築したサイバー・ワームが、一部モデルになってやがった。そこまでは突き止めたが、初期構造の把握には時間がかかるな。それでも、ひとまず治療は終わった。アンタの防衛反応の機能回復を待っていたんだよ……奴の応接室で最後になにを見たか、覚えているか?〕
ブランドンは記憶を遡る。しかし、《女将軍》の聴き取り調査は覚えていても、《鉄の館》を出た前後の記憶がすっぽり抜け落ちていた。
〔わからない。なにも覚えちゃいない〕
〔だろうな〕
ウォルト=ナヴィが鼻息を漏らす。呆れているのではなく、敵の電脳工作が想定以上だったことを重く見ているようだった。
〔市警が用意した《アバター》の防衛反応を喰い破るあたり、並みのウイルスじゃないのはたしかだ。もちろん、そんなブツの扱い方に長けている方もな〕
〔あの陰謀論者の銃愛好家が、電脳工作者だっていうのか?〕
〔いや、それはねぇだろう〕と、即座にウォルト=ナヴィが否定する。
〔ヤツが仮に電脳工作者だとしたら、《鉄の箱》のデザインも奴の手による可能性が高いって話になるからな〕
〔違うのか?〕
〔あの応接室の稠密性はなかなかのものだったが、本人の性格とマッチしねぇ。仮構物は、それをデザインする人間の性格がもろに反映される傾向にある。あんな奴に、あれほど神経質な手触りを再現できるほどの『なめらかさ』があるとは思えない〕
〔つまり、本人に電子工作の腕はない。どこか別の誰かの手を借りてウイルスを仕込んで……俺を殺そうとしたわけか〕
〔あるいは《ワイザツ・フォーラム》か、もっと深いところの闇マーケットから仕入れたってセンも考えられる。それほどのブツだった。あのまま放っておけば、電脳炎症じゃ済まなかったぜ。情報圧に電脳基盤が灼かれてボンッ!……夢棺をマジの棺にしちまうところだった。オレがいたから、なんとかなったんだ〕
感謝しろ、と言いたげな口調だが、今回ばかりはブランドンも素直だった。
〔ありがとう〕
頭を垂れ、心からの礼を口にする。
〔現実に戻ったら、なにか奢るよ〕
偽りのない本心だった。こんな台詞をナヴィに向けて口にするなんて、ブランドン自身、思ってもみなかった。
〔へぇ、気が利くねぇ〕
ウォルト=ナヴィの口角がわずかに上がり、しかしすぐに真顔に戻った。
〔だが、敵はオレたちを返す気なんて、さらさら無い感じだぞ〕
水環が解けて集まり、ブランドンの目の前に薄い板状のスクリーンを形成する。映し出されたのは、偽装された空間の外の光景だった。図鑑でしか見たことのない古代生物と、それらを従える、ならず者の集団。ジェットヘルメットにゴーグル、襟元にはピンバッジ、革皮質感を付与した厚手の迷彩柄ジャケット。鱗のような肌を光らせ、鋭い鉤爪でハンドルを握り、大型バイク・アバターを駆っては円を描くように暴走するその姿。まさに荒くれ者そのものだった。
〔《ライダース》が、どうしてここに〕と、ブランドンが怪訝そうに口にした。
〔ただの《ライダース》じゃねぇ〕と、ウォルト=ナヴィ。〔《チーム・クリテイシャス》……ここ最近、勢力を増している連中さ。まったくしぶとい奴らだ。諦めて寝倉に帰ってくれねぇかな〕と、こともなげに口にした。
ブランドンがスクリーンを凝視する。右手でジェスチャー・スイッチを駆使しながら現実と連絡がつかないか試す。応答を待つあいだ、再び視線に意識を戻す。荒くれ者たちが被るジェットヘルメットには、大型肉食獣の横向きのマークが刻まれていた。むかし見たアクション映画のカバーデザインにそっくりのやつ。
〔館を出たら、すぐこれだ。奴ら、似合わないことに二重攻撃なんぞを仕掛けてきた〕
〔接続妨害か。どうりで、さっきから現実との交信ができないわけだ……このバイカー集団がウイルスを仕込んだって可能性はないのか?〕
〔現実で魚が空を飛ぶくらい、あり得ねぇ話だな。狂暴であるに違いはねぇが、おつむの方はたいしたことのない連中なんだ。それでも、こうも多いと迂闊には動けねぇが〕
〔奴らの周りに引っ付いている、この《ペット・アバター》たちが特に厄介そうだな〕
ブランドンはスクリーンに映る小型の肉食獣たちを指さしながら続けた。
〔見たところ、人間側のメインアプリは車輛制御系だけだが……この《ペット・アバター》たちには声紋分析アプリと広帯域収音マイクアプリが搭載されているはずだ〕
〔舐めてもらっちゃ困るぜ。こちとら何年これでメシ食っていると思ってんだよ〕と、ウォルト=ナヴィ。〔俺の夢棺は特別製でな。偽装欺瞞のアルゴリズムを毎秒変化させているから、そうやすやすと解読はされねぇ。奴らにしてみりゃ、音も立てずに転がる透明で小さな石ころを探すようなものなのさ〕
〔……そうか〕
安心して息をついたブランドンだったが、ふと気づく。
〔ちょっと待て。毎秒?〕
〔ああ、そうだ〕
〔オートでやってるのか?〕
〔それだけだと法則性を掴まれる可能性があるから、たまにマニュアルに切り替えてる。ウイルス製作者がすぐ近くにいる可能性を考慮するなら、用心するに越したことはねぇからな〕
こんな風にな、と言って、ウォルト=ナヴィが組んだ両手の人差し指をピンと立てる。動きに反応して、水流がベクトルを変え、泡のような形状へと成った。なにげないジェスチャー・スイッチのように見えるが、市警時代に電脳方面の捜査を担うことの多かったブランドンにはわかる。これは超人じみた芸当だ。
▲▲▲
油田基地に対する絨毯爆撃と、それに伴う海洋への燃料流出。過剰投入された生物兵器による陸上生態系の破壊。そして、核弾頭による放射線汚染と水源汚染……しかしながら、大陸間戦争が破壊したのは自然環境だけではなく、人工環境もまたそうだった。数多の電子兵たちが跋扈する電脳空間は現実に比肩する第二の戦場となり、量子の戦火は熾烈を極め、多くを裂け目の向こうへ追いやった。広大なデータ区画は、情報の残滓も残らぬほど荒れ果てた。
戦後、修復の目途の立たない旧来仕様のネットワークシステムは、国家解体運動と時期を同じくして一新された。有志の技術者たちは、全天候型耐環境作業服にその身を包み、海中作業ロボットを駆使して、重金属や有害物質に汚染された海洋の底の底へ潜り、水深八千メートル地帯に新たな光の網を敷いた。そして、それを土台にして、プロメテウスは都市型の電脳ネットワークを構築した。
以来、電脳空間を快適に過ごすうえで必要になる種々のサービスは、その時代ごとにサービスの提供形態を変化させつつも、民間企業――無論のこと、そのほとんどが企業連合体の傘下――が担い続けるという根本の部分は変わらずにいる。企業連合体、わけてもレーヴァトール社が、やはりここでも先導役を任された。
いまでは血みどろの政治・武力闘争関係にある企業連合体と都市公安委員会は、五十年ほど前は蜜月の時を過ごし、それより以前、すなわち都市建造の初期の頃は、厳かな冷戦関係にあった。国家解体からの都市建設に至り、公共事業にかかる莫大な費用を、レーヴァトール社を筆頭とした企業連合体の輸出産業で賄うことがまだできていた時代は、表だって敵対することもなければ、必要以上に慣れ合うこともしなかった。
そんななかで、当時、レーヴァトール社の会計監査役を務めていたシンマ・D・クサナギは、独自の判断で、公安委員会の中枢を形成する三百人委員会の有力者へ接近。将来的な企業献金をそれとなく匂わせつつ、電脳空間の設計に有利な法案を通すよう働きかけた。
その結果、建都初期の頃の電脳空間には企業連合体の経済的思惑が強く反映され、企業が保有する情報にカギをかけておく電子金庫としても扱われた。最下層地下から汲み上げられる生活エネルギーの源である過脊燃料の精製技術や、階層間エレベーターの建築技術、そして、学究局の新規技術開発情報……秘奥の御業の外部流出を防ぐため、他都市へのアクセスには一時的な制限が設けられた。現在では多少緩和しているものの、それでも、他の都市の電脳空間へアクセスするには、いちいち正規の手続きを踏まなければならない。
だが、そうした閉鎖的状況が八十年以上の長きに渡って続いている背景には、電脳空間の設計に携わった企業所属の情報デザイナーたちの方針と、都民の嗜好傾向も強く関係している。徹底したマーケティング調査の末に、情報デザイナーらは都民のルソー的引きこもり形質を選択。その結果、黎明期を迎えた電脳空間には情報金庫や経済活動圏としての側面以外に、エンターテイメント産業に連動する個人・団体の消費スタイルの活性化を促す場としての役割も与えられた。
そうして作られた電子の場も、いまから三十年ほど前に《フォーラム》の名称で、目的や種類別に細分化され、仕切り板が設けられるようになった。空間を分割することで法律の適用範囲を明確化する、というのがいちばんの目的だったが、一極集中を続ける情報を前にした利用者が、過剰な情報圧に呑まれる危険性を回避するために、情報の発生点を均一化するよう調整するという狙いもあった。
とはいえ、ネットワークの本質が海であることに変わりはない。表向きには仕切られていても、その深層では情報の海流が常にうねりをあげている。ジャンルの異なる《島》同士での小競り合いが日に日に増していくのは、当然の成り行きだった。治安はさざなみのように乱れ、その間隙をついて、新たな金脈を求めて犯罪者たちが殺到。さざなみは、次第に漆黒の波となって、各地の《フォーラム》の情報の砂浜を浚い続けている。
法改正に次ぐ法改正。犯罪に次ぐ犯罪。そうしたいたちごっこの果てに、偽装欺瞞というアプリは生まれた。もともとはデジタル・サバイバル・ゲームの参加者のひとりが、さる民間企業が有料配布していたアプリをゲーム向けに調整したアプリだった。
いつの時代も、市場に普及する技術とは、技術の新規性にあるのではなく、汎用性の部分にある。偽装欺瞞は、その単純な構造ゆえに改造の手が入りやすかった。そのせいか、いまでは企業データを保守点検する情報傭兵会社だけでなく、電脳強盗をする者たちにまで愛用されている始末だった。ブランドンも市警時代、偽装欺瞞を悪用して企業やプライベートハウスの炎上防壁をすり抜けようとした輩を、何人も摘発してきた経験がある。
そうした経験に裏づいて言えるのは、優れた探知機能を備えた《ペット・アバター》の群れを相手に、ここまで完璧な偽装欺瞞の練度を誇る者など、いまだかつて目にしたことがなかったということだ。例えるなら、いまのウォルト=ナヴィは時速十キロで坂道を全力疾走しながら、脳内で量子演算を行い、はるか上空を飛び交う鳥たちのさえずりを耳にして、彼らの心情を的確に推し量ることを同時にやっている。そう、ありえないことをやっている。
その状態を六十時間も維持。人知を超えた電子的体力に驚嘆するよりさきに、ブランドンの胸に去来したのは負い目だった。これだけの技能を誇るのであれば、たやすく《ライダース》の包囲網を突破できたに違いない。彼ひとりであるならば。足を引っ張っているのは自分自身だ。
すまない――反射的にそう口にしかけたが、すんでのところで呑み込んだ。この状況での謝罪は、「なめらかさ」を重視する彼に受け入れられるとは思えなかった。直感だった。ウォルト=ナヴィが求めているのは、きっとそれじゃない。
ウォルト=ナヴィの言う「なめらかさ」とは何を意味しているのか。この危機的状況で、なぜだかそれが妙に気になった。単に、習得している電子的技能の素晴らしさのことを言っているのか。たしかにそれもあるだろう。この一匹のタコの性格が、どこか古き職人気質を彷彿とさせたからだ。
非合法に片足を突っ込んでいる《更新強化人》より、都市発展のための個人生産性の向上を名目に完全合法化された《カセット使い》の方が、人口比率で見ると多くを占めている。電脳情報技術に疎い人がプロ顔負けの仮構物デザイン技術を習得したり、運動音痴が球技のプロスポーツ選手と同等のボール・テクニックを習得することに、もはや誰も疑問を持たなくなった。プロメテウスは、技能の価値が均一化した時代を迎えており、それは同時に、技能の絶対的価値も相対的価値も等しく下落した時代であることを意味していた。その中でタコたる彼が、特別な、ひとつの、オンリーワンのタコたる由縁を技能に求めているのだとしたら、理屈が通る。
だが、それだけが「なめらかさ」の正体ではないようにブランドンには思えた。
〔それにしてもだ〕不意にナヴィが口を開いた。〔なんで《女将軍》はオレたちを消そうと決めたんだ?〕
たしかに、それは注意深く考えなければならない事案だった。
〔ギャロップ・ギルドが、呪学分野と関係を持っているからじゃないか〕と、ブランドンはあえて遠回しな表現を使った。個人名を出すのは、なんとなくためらわれた。この場にルル・ベルがいなくとも、彼女の名誉や誇りを間接的に傷つけるような発言は、極力控えたかった。
〔反呪術をスローガンに掲げている組織が、こちらの聴き取りに素直に応じてくれた時点で、裏があると勘繰るべきだったのかもしれない〕
〔そのことを予想しなかったミハイロじゃないはずだぜ〕
やけに自信に満ちた口調でナヴィが続ける。
〔あのオッサンのことだ。こうなることがわかっていてオレたちを送り込んだ。そう考えるのが自然だ〕
ありえる話だ、とブランドンは頷くが、同時に、なんて血も涙もないことを考えるのだとも思った。ウォルト=ナヴィに対してではなく、ミハイロに対して。これでは、まるで自分たちがこの状況を打開できるかどうか、テストを仕掛けているようなものではないか。
……テストだって?
急速に視界が広がるような感覚があった。仮初の肉体に不可視の電子の導きが起こり、ブランドンはいま、この瞬間にぶらりと垂れ下がった《感覚》の細く頼りない糸を意識の手でひたと掴みながら、その先端がどこに結びついているか必死になって考えた。
糸を引っ張っているうちに、あるひとつの疑問が到来した。
なぜ、ウォルト=ナヴィにはウイルスが感染していないのか。
言い換えるならば、なぜ自分だけがウイルスに感染したのか。
〔だとしたら、ヤツらの狙いは俺なんじゃないのか〕
唐突に、その一言が飛び出た。
〔《女将軍》は、俺だけを秘密裏に始末したかったとは考えられないか? 初期構造の追えないウイルスを使ったあたり、事件化させずに不審死に見せかけたかったのか。あるいは《ライダース》に罪をなすりつける予定なのかもしれない〕
〔アンタのお友達が殺された件は?〕
〔……そうだとしたら、口封じの対象はギルドのエージェント全員になるはずだ。やるのなら、このタイミングじゃない。そもそも、奴らがピート殺しに直接的に関与していて、且つその事実を否定するのなら、徹底的に理論武装をしたうえで聴き取りに応じたはずだ〕
〔サディー・サハルはイイ奴だった。彼が関与しているはずがない。《アカデミック》にハメられて、容疑者に仕立て上げられたんだ……論拠に乏しい、感情優先の一点張りだったな〕
〔あの映像を見せたときの反応も、どこか冷ややかだった。いまにして思えば、俺が口に出すあらゆる情報を、はなから信じてやるものかって態度だった〕
〔……もしかして、アンタ、あいつらから何か個人的な恨みでも買ってんじゃないのか〕
〔いや……〕
否定しようとして、ブランドンは口を噤んだ。これまでの人生を振り返ったとき、恨みを買ってない人物を数えることのほうが難しかった。《殴られ屋》稼業。悪役を演じたパフォーマンス。そして《血の祝祭事件》……そこまで記憶を遡ったところで、ふと、昏い閃きが脳裏を過った。
〔推測だが、《炎と祈りの交流会》には遺族がいるのかもしれない〕
〔遺族……?〕
首を小さく傾げるウォルト=ナヴィだったが、すぐに合点がいったようで、〔ははぁ〕と納得したように声をあげた。
〔お前がむかし轢き殺した市民の遺族か〕
〔もう少し、言い方ってものがあるだろ〕
〔事実じゃないか。変にごまかすより親切だろ〕
ふん、と小さく鼻を鳴らす。水泡が再び姿を変え、今度は水のヴェールとなって、二人の間に仕切りを作るようにたゆたいはじめた。仮想のスクリーンは依然として展開されたままだ。
〔だが、なるほどな。筋は通っている。階層間移動緩和法が敷かれて以降、最下層の電脳空間に出入りする奴らも増えたって聞くしな。中層の奴らが出入りしているのかもしれねぇ。それに、初期構造の追えないウイルスなんて、そんな御大層なブツをデザインするには時間が必要だ。おおかた、連中はもうずうっと長いこと、アンタへの恨みを募らせて、復讐の機会を伺っていたんだろうよ〕
〔だが、その復讐行為は、ナヴィ。君の力で防がれつつある〕
〔それがオレの仕事だからな。まぁ護衛対象がアンタってのは、不満の一言に尽きるが〕
余計な一言を、なぜいちいち付け加えるのか。さきほどの感謝の気持ちが、ブランドンの中で急速に薄れていった。外見は少年の姿をしていても、やはりタコだ。人間とは思考経路が違う。
頭上を覆う岩のドームの有無を言わせぬ存在感と、ウォルト=ナヴィの辛辣な物言いが、ブランドンの心中で相乗効果となって働いていた。効果はてきめんだった。かつて自分が起こした事件の遺族がいるかもしれないという確信的予測に現実的という名の重みを与え、仮初の背を圧し潰そうとしてくるくらいには。
ピートが殺されたのも――強まる自責の念がそうさせたのか、気づけばブランドンは暗澹たる気持ちで推測をはじめた。ピートが殺されたのも、もしかして俺が関係しているのか? 彼は企業スパイでもなんでもなく、ただ巻き添えをくらっただけだとしたら? 特別な体組織構造や、住居登録の偽造、そういったものは事件に何ら関係なく、むしろ、この一連の不可解な事件の核を形成しているのが、己の過去に由来しているのだとしたら……
〔いま、後ろ向きな気分でいるだろ〕
ウォルト=ナヴィが心中を見透かすように言った。
〔せっかくの命の恩人が、なにかと意地悪な詰め方をしてくるんでな〕
無視してやろうかとも思ったが、やはり我慢ならず、反射的に言い返していた。それに対して、ウォルト=ナヴィはなにが面白いのか、その小さな肩をカタカタと震わせると、失笑を漏らした。
〔タコの心、人間知らず……ってところか〕
〔……さっきから、なにが言いたいんだ〕
〔繰り返し言っていることさ。自分が組織を構成するパーツであることを自覚しろ。イメージしにくいってんなら、歯車って表現でもいい〕
〔だったら、さしずめ俺は、血に濡れて錆びついた歯車だな〕
〔そこまで自分を客観視しておいて、どうして自分のために回転しようとしねぇんだよ〕
〔しているつもりだ。ピートの事件を解決するために、俺は回転することを決めた。だからギャロップ・ギルドに――〕
〔それだ〕
タコの太い触手が一本、間違いを指摘するかのように、錆びついた歯車の左肩を打擲した。ブランドンは瞠目した。それがナヴィからブランドンへの、初めての接触らしい接触だったからだ。痛みはない。機能回復した防衛反応のおかげで。だが、ブランドンはこの《感覚》を感じたいと思った。あのナヴィが、わざわざそうした行動に出たことの意味を《感覚》したかった。
〔死んだ友人の事件を解決する。アンタは、それが自分にとっての神だと言っていたな〕
〔俺が、そんなことを?〕
〔ちっ、ウイルスの影響で覚えてねぇか……たしかに言ったんだよ。人間は誰しも『真実』って名前の神を頭に飼っている。アンタだってそうだ。『ピートの死を解決する』って文言を書いたラベルを、頭の中の神様に貼って生きてんだ。だがな、それがアンタの人生と、どう関係しているってんだ〕
〔どうって……〕
〔本質的に言えば、なにも関係しちゃいねぇ。ピートはピート。アンタはアンタだ。事件を解決したところで、死んだ友人が還ってくるわけじゃねぇ。それにアンタ、この事件を解決すれば、負け犬な自分の人生もきっと上向きになるって、どこかでそう信じ込んでいるんじゃねぇのか?〕
胸の中心を、予想外の角度から撃ち抜かれて、ブランドンは閉口した。
〔そうやって他人の死に縋りながら捜査をしていっても、解決した後に残るのは、虚無だけだ。つまりは、なにも残らねってこった〕
縋ってなどいない。自分はただ、過去を清算したいだけだ。本当なんだ。信じてくれ――そう言いたかったが、できなかった。心の片隅に放置して、見過ごしていた心のゆらぎを指摘されたような感覚になったせいで。
ピートの死に縋っている。
たしかにそうかもしれない。
でも、それだけじゃない。
最下層に堕ちてからは、自分は常に何かに縋って生きてきた。
去ってしまった妻と、幼い息子。
そして、守ってやれなかった機動警察隊時代の部下たち……
ジェームズやユリウス、ジュリアンたちのこと。
彼らのことを、想い出さない日などなかった。
その時はじめてブランドンは、昨日も、その前の晩も、自分が夢枕を使ってないことを、いまさらのように思い出した。それを使わずとも、比較的穏やかに眠れてしまっていたことに。そのことに罪悪感を抱きそうになったところで、またもやウォルト=ナヴィが檄を飛ばすように言った。
〔ミハイロに言われなかったか? 直感を頼るな。力学を信じろ……ピートの事件を解決するのと、アンタが自分の人生をかじ取りするのは、まったくの別問題だ。そこにむやみやたらと直感を働かせて、関係を持たせて、意味を見出そうとするな。自分が守りたかった相手は、自分のせいで殺されたんじゃないかとか、そんな論拠不明な推測に囚われるんじゃねぇ。すべては必然じゃなく、偶然の連鎖なんだと、それぐらいの強い気持ちで捜査に臨めやがれ〕
ブランドンは傾聴した。ナヴィの、あえてこちらを挑発するような叱責口調が、どことなくミハイロのやり口に似ていたからだ。
〔(もしかして、ナヴィはミハイロの……)〕
外で敵が待ち構えている状況にどう対処するべきかを考えるより、いまは、この気難し屋な腕の立つ電脳工作者の口から漏れ出るひとつひとつの言葉の意味を、仮初の耳で聞き逃すことなく拾い集め、意識で噛み砕いて己の物にする必要があると思えた。それぐらい、ウォルト=ナヴィの捜査信条は価値のあるものだった。
オレたちはパーツだ――ナヴィがしきりに口にする、その言葉の本当の意味を、ブランドンはやっと理解しかけている。自分という『歯車』を迎えてくれた、ギャロップ・ギルドという『事件捜査装置』。それを構成する者のひとりとして、学んでおくべき心構え。それこそ、ピートの友人としてではなく、ひとりのエージェントとして捜査に臨むうえでの絶対的条件だった。
過去との繋がりを認識しながら、己という歯車を未来へ向けて回転させる――唐突にブランドンの仮初の脳裏にビジョンが湧いた。これは、手漕ぎボートをまっすぐ漕ぐことによく似ていると直感した。進行方向とは逆の風景を見ながら前進する――遠ざかる過去を見ながら、近づく未来を背中に意識して、己の力だけでひたすらオールを動かす。そのための勇気を、いまここで身に付けなければならないと強く意識した。ミハイロの手を取り、事件捜査の入口へ飛び込む際に奮った勇気とは、また別の種類の勇気だ。すなわち、行動に伴う責任を受け入れる勇気だ。過去に犯した罪を免罪符に、極まった状況へ能動的に人生を回転させていくことを躊躇していては、ピートの死はおろか、自分の人生すら無駄になる。ミハイロやルル・ベルの協力も――
ルル・ベル。
ブランドンは、両の拳を強く握りしめた。胸の中に、熱いものが込み上がってくる。
敵の術中にまんまと嵌まった結果、現実世界で三日間が経過したとナヴィは言っていたが、ルル・ベルはどうしているのだろう。首尾よく前進しているのだろうか。いま、こうしているあいだも、あの聡明なエージェントは回転を続けているに違いない。スティンガーへの聴き取り調査を経て、事件解決に役立つ重要な手掛かりを掴んでいたとしたら。それを俺の元へ届けようと、いままさに上層から最下層へ下りている最中だとしたら。
〔もたついている場合じゃないな〕
初めて出会ったときに、彼女に抱いた印象。
昏い都市の底を照らすかのように、眩しく燃える鉄心のような佇まい。
いかなる濁流が押し寄せてきても、決して折れることはないと思わせる、あの小さな身体。
彼女の隣に立つに相応しいエージェントへ、成長しなくてはならない。
〔わかったよ、ナヴィ〕
叩かれた肩の辺りを手でさすりながら、落ち着き払った声でブランドンが返す。
〔俺は、錆びついた歯車だ。悔しいが、過去は断ち切れない。錆は錆だ。それでも、そこに油を差してくれる人たちがいる。ミハイロ、ルル・ベル。それに、ナヴィ。君だ〕
ブランドンの、噛み締めるような語り。
ナヴィは目を瞑ったまま、ただ黙って聞いている。
〔俺は、君たちと共に回転したい。君たちという、隣り合う歯車と共に〕
〔ふん〕
ナヴィが、小さく鼻を鳴らした。そこに、不満とは別の感情が滲んでいるのを、ブランドンは感じ取った。
〔六十点ってところだな〕
〔ギリギリ赤点は避けたって感じか〕
〔まだ練習問題だ。ここからが本番さ。そういうわけで、オレもいい加減に本領発揮といく〕
〔仕掛けるんだな〕
〔考える時間だけは、十分にあったんでね〕
〔俺のおかげだ〕
〔ぬかせ。つまらねぇこと言ってる暇があるなら、帰還地点までの道を叩き込みやがれよ〕
水のスクリーンに二次元の俯瞰地図が表示された。《アイアン・フォーラム》エリア10-4の全域は、現実換算にして、およそ五キロ四方ある。
〔敵の数は十。《ペット・アバター》はその三倍だ〕
《ライダース》の面々を赤、恐竜の軍勢を青の交点でそれぞれ示す。
〔本来なら《跳足》を使ってひとっ跳びといきたいところだが……奴ら、帰還地点付近に《地雷》を設置しているかもしれねぇ〕
たしかに見たところ、《ライダース》の連中は帰還地点の周辺に密集してほとんど動いていない。明らかに何かを企んでいる配置と言って良かった。
それに対して、青い光点。おそるべき歯牙を有した爬虫類の《アバター》の群れは、エリアのいたるところに、まんべんなく広がっている。
〔うかつな行動はとれない。マニュアルで動くしかねーぞ〕
地図が二次元から三次元へ。情報量が向上。天然のジャングルを模したエリアらしく、そこには青々と覆い茂った密林が広がっていた。現実の世界では、決してお目にかかれない光景だ。
〔ざっと確認したところ、これだけの規模に関わらず、書き換えられたエリアに亀裂は見当たらねぇ。イメージ・コートの上書きプログラムも、おそらくウイルスを作ったのと同じ奴が担当してやがる。けっ、オレに負けず劣らずの仕事熱心な野郎だ〕
憎らしげにウォルト=ナヴィが毒づいた。二重攻撃は接続妨害を主な狙いとした破壊工作のひとつだが、これも偽装同様、使い手の調整次第では、副次的効果を上乗せすることができる。しかしそうは言っても、エリアのイメージ・コートの書き換え。それも全域に影響するレベルのものを搭載するとなると、アプリの挙動が重くなり、結果として二重攻撃の精度にも影響が出るのが普通だ。そうはなっていないという時点で、《ライダース》ならびに《炎と祈りの交流会》の背後には、相当の電子工作者がいるとみて、間違いはなかった。
もしかすると、魔導機械人形たちが絡んでいるのかもしれない……ミハイロに教えられた、あの四体。そのうち、姿形とスペックが判明していない二体。モンフル・エル・ブルーオーシャンか、ディスコ・エル・フロアゲート。そのどちらか、あるいは二体とも関係している。そうブランドンは睨んでいる。
〔で、俺たちの現在地は?〕
ウォルト=ナヴィが返事を寄こす代わりに、スクリーン上に緑色の光点が出現した。
〔厳しいな〕
ブランドンがぼやいた。
緑色光点は、青色交点の中にあった。ゆっくりと常に動いて、青色交点と接触しないよう細心の注意を払っている。ウォルト=ナヴィの、針の穴を通すような、極めて精緻なコントロール。
〔《跳足》は使えねぇが、最短ルートは導き出せる。いいな。オレの出すルート通りに動け。そうすりゃ、ひとまず《ペット・アバター》の群れは抜け出せる。《地雷》の撤去にゃ、ちょっと手がかかるだろうが、まぁオレの手にかかれば問題はない〕
〔だが、もしもあのウイルス製作者が、近くに潜んでいたとしたら?〕
〔あぁ?〕
〔ただの《地雷》じゃないかもしれない。なにか特殊な細工が仕込まれているとしたらどうする。いくら君の偽装欺瞞が優れているとは言っても、《地雷》解除のために帰還地点付近に動きが偏れば、奴らに居場所を勘づかれるかもしれない〕
〔じゃあどうすりゃ良いってんだ。偽の信号でも流して引きつけろとでも? 無駄だな。《ペット・アバター》には声紋分析アプリと広帯域収音マイクアプリが搭載されているって、アンタも言ってたじゃねーか。偽の信号なんて、たちまちのうちに解析される。こっちからヒントをやるようなもんだぜ〕
〔ああ。だから俺が囮になる〕
〔なに?〕
目を瞑って表情を崩さずにいたウォルト=ナヴィの、その細く整った眉根がピクついた。
〔敵の狙いは俺だ。俺を殺そうとしているなら、あえて奴らの前に出て行ってやる〕
〔その隙に、帰還地点に近づいて《地雷》を撤去しろと?〕
〔最初は《ペット・アバター》たちが食いつくだろう。だが、奴らの動きを躱し続けていれば、痺れを切らして《ライダース》の本体も動く。俺にはわかるんだ。我慢が効かなくなった人間は、どんどん行動が単純になる。奴らが痺れを切らすまで俺が持ちこたえれば、ナヴィ、君のほうだってずいぶんとやりやすくなるはずだ〕
〔《殴られ屋》時代に培った経験を活かそうってか〕
〔逃げたり避けたりは得意なんでね〕
半分強がりでブランドンは口にした。
〔ダメだ〕
ウォルト=ナヴィが鋭く言った。
〔いいか。アンタ、なにもわかってねぇよ。オレたちはパーツだ。組織という名の装置を正確に動かすための歯車なんだ。それぞれに与えられた役割があるんだ。オレの役割は、アンタを防衛することだ。その守られる側のアンタが、囮になって敵を引き寄せる? そんな無茶苦茶な提案、呑み込めるわけないだろ〕
〔じゃあ、俺の役割は守られることだっていうのか?〕
〔何言ってやがる。アンタの役割はもう終わったじゃねぇか。あの陰謀論者への聴き取り。それをやっただけで十分なんだ。あとは余計な口出しをしないで、オレに任せとけばいいんだ〕
〔しかし、そうは言ってもだ、ナヴィ。いや、ウォルト=プロテクト〕
電子世界で職人魂を振るわんとしている彼を押しとどめるように、ブランドンはその決定的一言を口にする。
〔ひとつの歯車が動いて、もうひとつの歯車は止まっている……そんな装置に、なめらかさはあるのか?〕
少年姿の電子工作者が、目を瞑ったまま押し黙った。
背中から伸びる八本の触手はなめらかに偽装欺瞞を続けているが、ウォルト=ナヴィのまとっている雰囲気は、さきほどまでと明らかに変わっていた。不意を突かれて動けないという具合に。その隙間を縫うようにして、ブランドンはダメ押しの一言を叩き込んだ。
「歯車というのは、隣り合う歯車と共に動くからこそ、意味があるんじゃないのか」
協調――それはときに同調圧力となって個人を圧し潰す作用を持つが、いま、この状況にそれは当てはまらない。目の前の危機を突破するために、俺を使えと言わんばかりのブランドンの言い分。それはけっして、投げやりな気分から生じたものではない。過去を見つめながら己の未来を突き進むと決めた、ひとりの孤独な男の覚悟だった。
〔男子三日会わざれば刮目して見よ……ミハイロなら、きっとそう言うだろうな〕
ウォルト=ナヴィが、ゆっくりと瞼を開ける。黄昏色の瞳が、目の前のエージェントを捉えた。
〔八十点だ。ブランドン〕
〔ナヴィ……!〕
〔覚悟は受け取った。いまから偽装欺瞞を一部解除して、ブランドン、お前を外に出してやる〕
少年姿を借りたタコの口角が、期待に満ちて持ち上がる。
〔クソッタレのトカゲ野郎に、お前の強さを見せつけてやれ〕




