3-6 都市の底を照らす彼女は①
最初に目覚めたのは嗅覚だった。一寸先の足元すら見えない暗闇の中で、人の焦げる肉の匂いだけが、その場に充満していた。血肉を大鍋にめいいっぱいに詰め込み、何時間も煮込んだような悪臭。今まで何度となく嗅いできた罪の匂いだ。現実でも、そして悪夢の中でも。
隊長、隊長――
闇の奥から、ジェームズの明朗な声が聞こえる。
ここですよ、隊長――
姿の見えない亡者たちの声が、次第にいくつも重なって空間に反響する。ひとつひとつは聞き慣れた、決して忘れることのできない声。だが、懐かしさを覚えるより先に、後悔の念が胸の奥から湧き上がってくる。彼らの呼び声に応える余裕はなかった。
いや、応え方が分からないのだ。どのような顔をして彼らの元へ行けばいいのか。ブランドン・ブリッジスは、真っ暗な足元から一歩も動き出せないまま、部下たちの朗らかな、しかしどこか寂しさのある呼び声を、ただ耳で受け止めるしかなかった。
あなたって、どうしていつもそうなの――
部下たちの声に混じって、別の声が鋭くブランドンの耳朶を打った。かつて愛し、そして今も愛している女。愛の結晶たる我が子の小さな手を連れて、自らの下を去ってしまった女。いまこの場であたりを見渡しても、姿はどこにもない。
彼女の声を耳にしただけでブランドンは泣きたい気持ちに駆られていた。それほどに、彼の孤独さは極北を迎えていた。
頭の中でぐちぐちぐちぐちいつまでも考えて、なかなか行動に出ようとしないんだから――
ああ、そうだ。全く以て、君の言う通りだ。
それでいて、いざ行動に出たら出たで、ああするべきではなかったとかなんとか、後悔ばかり。もう少しはっきりしなさいよ――
意志の強さを感じる声色。呆れたようでいて、叱咤激励ともとれる言葉が、暗闇の奥から響いてくる。懐かしさで胸がいっぱいになる。
他人から見れば、なんて厳しい言葉を投げかける女だと思うかもしれない。事実、眉間に皴を寄せながら放たれる妻の小言の数々に、うんざりしたことがないと言えば嘘になる。だが、今はその小言すらも、絶望の淵に立たされている孤独な中年男の耳には心地よかった。それほどまでに、非情な理由で別れざるをえなかった女との想い出を、いまだ捨てることが出来ずにいる。
自分の人生は、自分の力で引き受けるしかないのよ――
瞬間、目の前を白い何かが横切った。暗闇の世界へ急に差し込んできた光のように、それはブランドンの目に映った。
残像を引いて走る、白い人影――思わず後を追おうとしたところで、何かに足元を掴まれた。懸命に前へ歩き出そうとするが、大樹の根っこに絡めとられたかのように、足が動かない。
あなたに足りないものは、あなたが良く知っているはずよ――
だんだんと声が遠くなっていく。待ってくれ! と思わず叫び出しそうになりながら、ブランドンは、己の足元を見て卒倒した。
往く手を阻んでいたのは、暗闇から生える、何十もの焼け爛れた手。
死者の手の群れ。
▲▲▲
首筋に浮かぶ寝汗をスウェットの袖口で拭きながら、ブランドンは自室のベッドからのっそりと身を起こした。
枕元の時計を手元に引き寄せ、瞼を擦りながら確認する。時刻は夜中の三時を回っていた。この時間になると、隣の部屋に住むサイボーグ夫婦の科学武装的な喧騒も、上の階で違法改造した食虫植物の世話に勤しむ独居老人の大きすぎる独り言も、さすがに止んでいる。
それこそ、窓の外に並ぶ灯り無きビル群が夜の帳のなかに沈んでいる様は、海底深くに沈んだ遺構を彷彿とさせるものがあった。さしずめここが深海であるなら、自分は海の底でじっと動かず、ただ好機が来るのを黙って待っているだけの、奇妙な魚なのだろうと、ブランドンは思った。
ベッドに座ったままの姿勢で上半身を捻り、仰向けになりながら白い枕を一旦どける。その下から出てきたのは、ピンク色のプラスチック製の歯ブラシだ。
自分の人生は、自分の力で引き受けるしかないのよ――
歯ブラシの持ち主だった女の声。夢の中でたしかに聴いた、彼女の口から放たれるひとつひとつの言葉が、いまでもはっきりと思い出せる。半信半疑ではあったが、ある程度の効果が認められたことに、ブランドンは結構本気で驚いていた。都市の簡易呪符が優れているというより、メスメティウス・カンパニーの呪的技術力が頭一つ抜きん出ていることの証拠だ。
今日の夕方、警察とのひと悶着の後に、自宅へ帰ったブランドンを玄関先で待っていたのが、この、数週間前に頼んだ特注性の枕だった。夢枕という名前の通り、夢の世界で使用者が心に思い描いた人物と、リアルな会話を楽しむことを目的とした枕。明晰夢の呪的応用品。日頃から苛まれている悪夢を多少でも軽減するために購入したが、ものは試しと、別れた妻が使っていた歯ブラシを洗面台の引き出しから取ってきて枕の下に置いてみたのだ。悪夢の完全解消とはいかなかったが、あれだけクリアに妻の声を耳にできたのなら、御の字というものだ。
久方ぶりに妻の声を聴くことが出来れば、心は満たされるはずだ。そのはずだった。しかし、どうしたことだろうか。ブランドンは胸の奥がぽっかりと空いたような、空虚な思いが芽生えてくるのを否定出来ずにいた。過去の想い出は前進するための力を与えることはなく、むしろ逆だった。親しい友を亡くし、かつての同僚たちの信頼も失くした。その厳然たる事実を、ますます鋭く、目の前に突きつけられているような感覚。
その感覚を振りほどくように、色褪せた歯ブラシを右手に洗面台へ行こうと腰を上げたときだった。太腿のあたりに、何かがぽとりと落ちてきた感触を、スウェット越しに感じた。左手で拾い上げて確認しようとするも、暗がりのせいでよく見えない。電気を点けようにも、この時間、最下層の電気供給は都市法に則り規制がかかっている。不便極まりないが、それが最下層の暮らしの常だった。
ブランドンはベッドの下から懐中電灯を取り出して、自身の左手に翳した。薄青い光の線が、天井から落下してきた「それ」の正体を露わにする。
親指ほどの大きさのある、真っ黒な甲虫だった。表面がやけにつるつるとしていて、研磨したばかりの金属片に近い手触り。口吻部分には鋭い鋏状の顎が生えていて、呼吸でもするかのように、カチカチと小さく音を鳴らしている。
ここが築数十年は経つアパートで、加えて上階の一部テナントに飲食店が入っていることことも考えれば、よくわからない虫が窓や玄関の隙間から侵入してくることなど、珍しい話ではない。とりあえず逃がしてやろうと窓枠に近づこうとしたとき、今度はベッド近くの床を、何かが叩く音がした。ブランドンが音のした方に懐中電灯を向けると、やはりそこにも甲虫が、仰向けになって短い六本足をジタバタと動かしている。
嘆息をつきながら拾い上げようと、腰を屈めた瞬間、また一匹、また一匹……と、さながら本降り前の雨粒のように、黒い甲虫が、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と音を立てて天井から落下してくる。
「(なんだ……?)」
ぞわっと背筋に悪寒がはしる。ほとんど反射的に懐中電灯の光を天井に向けた。
「うわっ!?」
腰を抜かして、ブランドンはその場に尻もちをついた。
「な……なん……?」
自分でも情けない声が出た、と客観的な感想を唱えている余裕などなかった。それほどの衝撃だった。何十、いや、目視する限りでは百は優に越えるであろう黒蟲の群れが、天井の一角を完全に占拠していたからだ。懐中電灯の光を浴びても、蟲たちはその場から移動することはなかった。それどころか、互い互いにその硬質な外皮を擦り合わせ、
ぢり、ぢり、ぢり、ぢぢぢぢぢぢりりりりりりぢぢぢぢ。
と、不気味な不協和音を奏でながら、排水溝から汚水処理場へと流れ込むヘドロのような緩やかさで、動き始めた。
集合的知性の狂気と呼んでも、差し支えないだろう。黒い甲蟲たちはお互いの位置を巧みに入れ替えながら、天井の一角である形をとった。それは三次元的な、やや角ばった半球形状で、中央に位置する部分に二つの窪みが生じ、そのすぐ下方が小さく盛り上がり、さらにその下方は、真一文字を描くように線が引かれた。それは眼球であり、鼻梁であり、そして唇だった。
「ヒト」の顔だ――そうと気づいた瞬間、ブランドンは、きっとこれは、夢枕が誤作動している何よりの証拠だと思い込むようにした。自分はまだ、悪夢の世界に囚われているのだと。だからきっと、こんな非現実的な光景を目にしてしまっているのだと。
だが、これは紛れもない現実だ。そう告げるように、何百という蟲が象った、この世のものとは思えない顔貌が……目撃者の脳に、その悍ましいほどの嫌悪感を強制的に植え付けるように、性別の判断がつかない【声】で囁きかけた。
【鍵は、どこだ、どこにある】
どこに発声器官があるのか判然としないが、蟲の顔貌はたしかにそう口にした。ブランドンは訳が分からず、尻もちをついた姿勢から微動だにせず、ただ目の前で起こる奇怪な現象を見届けるしかなかった。
【あるはずだ、鍵が、お前が、受け取って、いるはずだ……】
まるで警告するかのような声色だった。
ブランドンは恐怖に打ちのめされるばかりだった。歯の奥をがたがたと鳴らして、目を瞬かせながら、状況を理解するのに精いっぱいでいる。
そうこうしているうちに、顔貌の「口」が苛立ちを隠そうともせず、その異形さによる恐怖の尋問を続ける代わりに、強硬手段に打って出た。蜘蛛の子を散らすように――これが文字通り、ただの「蜘蛛」であるなら、どれほど幸運だったことだろう――顔貌を構成していた甲蟲たちが散開したのである。
そこから先は、信じられないほどの破壊の嵐だった。散り散りになった甲蟲たちは恐るべきスピードで、天井を、床を、壁という壁を、飛ぶように這いずり回り、目につくもの全てを、容赦なく浸食しにかかった。
電子レンジや冷蔵庫、洗面台をびっしりと覆い尽くして、その小さくも強靭な顎で等しく噛み潰した。カーテンも、窓ガラスも、テーブルも、目につくものすべてを狩り尽くす勢いで進撃する。特にテーブルの被害は酷く、ひとつひとつの引き出しの中身に至るまで、徹底的に、そして暴力的に検められた。
甲蟲たちはそれだけに飽き足らないのか、ベッドの足を齧り尽くして粗大ごみと化させ、シーツを引きちぎってはボロ雑巾に仕立て上げた。ブランドンにささやかな黄昏時の想い出を与えてくれた夢枕も例外ではなかった。新品同然の白だったそれが、黒の軍勢に犯され、後に残るは舞い散る羽毛の残骸のみ。
甲蟲たちは、まるで鬱憤を晴らす労働者の暴動然とした荒々しさで、三分と経たないうちに、ブランドンの自室を廃墟と化させた。
その時になって、ようやくブランドンの脳裏にひとつの選択肢が浮かび上がった。生物としての本能が、この状況を前にして、たったひとつの有効と思われる戦略を彼に取らせた。
「(に、逃げ……逃げないと……!)」
床に放り出した懐中電灯を奪い取るように手にして、へっぴり腰で立ち上がると、ブランドンは脱兎の如き勢いで玄関口へと走り出した。
裸足のまま、飛びつくように掌紋認証式の電子ロックを開錠しようとする。だが、ドアノブ付近に備え付けられた電子錠台に手を伸ばしかけたところで、何かに弾かれたように手を引っ込めた。
その眼が、驚愕と絶望に見開かれる。
「む、蟲が!?」
見るも無残な有様だった。甲蟲たちはすでに、電子錠台を機能不全に陥るまで貪り尽くしていた。それだけに飽き足らず、用意周到にも、ドアの隙間という隙間に、その小さくも硬質な体を滑り込ませていた。ブランドンは力尽くでドアをこじ開けようとするが、それも叶わない。ここまで来ると、もはやただの見境の無い狂暴な蟲というよりかは、意志を持つ敵性知性体と呼ぶに相応しかった。
万事休す。まともな脱出手段はすべて封じられたかのように思えたが、ただ唯一残された道があった。リビングの割れた窓ガラスに、自然と視線が吸い寄せられる――ブランドンはごくりを息を呑んだ。
ここはアパートの五階。地上から二十メートル弱はある。そして、この高さからの脱出を実行に移せるだけの経験を、ブランドンは過去に積んでいる。
昔取った杵柄――機動警察隊在籍時代に会得した五接地回転法を、いまここで発揮するべきか。するべきだ。命が惜しければ。そんなことはブランドンにだって分かっている。
だが、迷いが生じた。そもそも成功するのか疑問だった。指導教官による鬼のしごきを、血反吐を吐く思いで耐え抜いた末に習得した実戦力。いまこそ、それを発揮しないでどうする。
わかっている。わかってはいるのだ。
だが、どうしても体が動かない。
「(なんでだ)」
いつから俺はこうなったのだ――膨れ上がる恐怖心よりも、自分に対する情けなさから来る苛立ちの方が、いまは勝っていた。
習得した技術は、時の経過と共にとっくに錆びついていた。技術に油を差すチャンスは、いつだってあったはずだ。それを怠ってきたのは、他ならぬブランドン自身だ。
自分の人生は、自分の力で引き受けるしかないのよ――
脳裏に湧く残響に、ブランドンは泣きそうになりながら、心の中で頷きを繰り返す。
「(たしかに。いつだって、君の言うとおりだ)」
深く息を吸い、そして吐く。できるだけ甲蟲の存在を意識しないように、目を瞑り、ただひとつのことに集中する。目の前に立ちふさがる現実を打破するのは、いつだって自分ひとりの力でしかないことを、強く己に言い聞かせる。
「(よし……)」
心の準備は整った。そうして、リビングの方を振り返ろうとしたのと、人ならざる人の声が部屋に木霊したのは、ほとんど同時だった。
【どういう、ことだ、なぜ、ここにない】
いつの間にか、蟲の軍勢が人の形を象って、廃墟然と化したリビングの中央に二本足で陣取っていた。黒い人間。そう形容する以外になかった。蟲たちの蠢きが激しさを増し、表皮を滑るように揺らめかせ、一歩、また一歩と、極めて滑らかな足の運びでブランドンへと近づく。
「あ……」
現実はいつだって非情だ。固まりつつあったブランドンの決意は、あっけなく崩壊した。壁に手をつき、両足を震わせて、もたれかかるようにして壁に背を預ける。
【こうなったら、そのカラダに、直接聞くしか、ないようだ】
蟲人間が、厭らしそうに唇を動かした。口の奥から、重力に逆らえられなかった何匹かの蟲たちが、ぽろぽろと床に零れ落ちる。
距離が近づけば近づくほど、その異様さが際立った。蟲人間の目に位置する部分には、ぽっかりと穴が空いているだけで、反対側の光景を見ることができた。あらゆるものを吸い込んでしまいそうな虚無の力が、そこには込められていた。その虚無の瞳に見つめられるだけで、ブランドンは、自分がいま何をするべきなのか、すっかりわからなくなり、激しい混乱に脳を揺さぶられるしかない。
「や、やめ……」
引き攣りそうな声を上げる。蟲人間は構うことなく、蟲同士の不可思議な連結力で構成された黒い右手で、ブランドンの胸倉を掴み上げた。凄まじい万力だった。親指ほどの大きさしかない甲虫であっても、集合すれば大人ひとりを持ち上げることなど容易いのだと言わんばかりに、蟲人間の唇が喜色に歪む。
このまま絞め落とされるのか。それとも、あのベッドやテーブルのように、体のあちこちを噛み千切られるしかないのか。
いっそこのまま、気をやってしまった方が楽かもしれない――などと考えながら、ブランドンは恐怖に支配された眼差しで、力なく虚無の瞳の向こうを見やった。
小柄な人影が、窓枠を越えて、飛ぶように室内に転がり込んできた。
たん、と軽やかに床に着地する靴音。
いち早く反応したのは、蟲人間の方だった。ブランドンの胸倉を掴んだまま、首を百八十度回転させる。と、その直後、リビングから飛んできた三条の光線が、勢いよく蟲人間を貫いた。左肩と、右大腿部。それから、右肩。
撃ち抜かれた弾みで、胸倉を掴んでいた蟲人間の手から力が抜けるのがわかった。ブランドンは甲蟲を懸命に払いのけながら距離を取った。光線は、ブランドンにひとつも命中しなかった。偶然なのか? いや、精密にコントロールされた攻撃であることの証明に他ならない。
蟲人間は呻き声ひとつ上げなかった。だが、危機的状況を察知したようで、身体を構成していた蟲たちは、たちどころに散開した。
「大丈夫ですか!?」
逼迫した声で叫びながらブランドンに駆け寄ってきたのは、ひとりの小柄な少女だった。紫灰色のセミロングヘアを揺らし、壁にもたれかかったブランドンの様子を確かめる。
血のように赤い瞳をした、少女――少なくとも、ブランドンの目にはそう映った。
少女が近づいた拍子に、ブランドンの鼻先を香りが掠めた。若葉の青々とした清涼な香り。それが、恐怖に慄くブランドンの理性を、穏やかに、包み込むように刺激した。
「お怪我はありませんか?」
「あ、あの……」
突然の闖入者に困惑するブランドンに構わず、少女は、その小さな手でブランドンの頬を挟むと、体のあちこちを素早くボディ・チェックしはじめた。目立った傷がないことを確認すると、安心したようにほっと息を吐き、だがすぐに、闘争に赴く戦士のように、厳しい表情を作り、言った。
「大丈夫そうですね。自己紹介は後にしましょう」
「は、はい?」
「怪我がないようで安心しました。まずは……」
言いながら、少女はリビングの方を振り返った。散開した甲蟲の群れが、恐るべき速度で陣を形成。黒々とした三角錐を象り、邪魔された恨みを口にするように、ぢりぢりと不快な金属音を奏でる。
「この場を切り抜けましょう!」
物量に勝る眼前の敵をものともしない力強さで、少女はブランドンを庇うように、蟲の軍勢を前にその身を晒した。
少女が首から下げている、女神像のペンダントが直付けされたネックレス。
God Bless Youの刻印が、闇夜の廃墟を照らすように輝き出した。




