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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
3rd Story ザ・ポリフォニック・バベル
110/130

3-2 ブランドン・ブリッジス

《ヴァハール》には、流行りのポップスが会話の邪魔をしない程度に響いていた。鼻腔を掠めるのは、安価な食用油を加熱した際にありがちな、グリースにも似たキツい香りだ。


「どうした?食べないのか?」


 毎回のように注文しているオリジナルバーガーセットが目の前にあるというのに、ピートの食指は伸びなかった。店に入ったときからどこか思い詰めた表情でいた彼は、ややあってから口を開く。


「おれ、都市(ここ)を出るつもりだから」


 改まって口にしたというより、日常の何気ない会話の隙間に滑り込ませるような、そんな自然な口調だった。


「言っとくけど、マジだから」


「そうか」


 親指の腹についたホット・チリ・ソースを舐めとりながら、ピートの対面の椅子に座るブランドンは、疲労に蝕まれた体を背もたれに預けると、何事かを思案するように目線をキッチンへ向けた。


 キッチンの奥では、人間の従業員が配膳用ロボットへの指示出しや、ホールの動きを管理するアンドロイドからの報告を受け取りつつ、ちらちらとブランドンたちの方を伺っている。だが、そんな反応を見せてくるのも致し方ないところがある。かたや、パーカーとカーゴパンツに身を包んだストリート・スタイルの不良少年。かたや、顔面に刻まれた青痣や切り傷を絆創膏で乱雑に隠した三十半ばの男だ。厄介事を持ち込んできそうな雰囲気を、嫌でも醸し出している。


 沈黙が二人の間に流れる。気まずさの一歩手前に落ちようとしていた空気を打破したのは、ブランドンの何気ない一言だった。


「いつ出発るん…つっ…ッ」


 すっかり萎びたフライドポテトを異に収めようと口を大きく開きかけたところで、ブランドンが反射的に顔を歪めた。絆創膏に覆われていない左の口の端が切れた。鮮血が、たらりと流れる。


「大丈夫?」


 おしぼりでとっさに口元を拭くブランドンを、ピートが心配そうな表情で伺ってきた。


「ああ……なんともない」


「なんともないわけないだろ。さすがに一晩十二試合はやりすぎだって」


「客がノッてたからな……それで、いつ出発()るんだ?」


「一か月後くらい。それまでに配信で稼いだお金とか、諸々の経費とか、ちゃっちゃと整理したいんだよね」


「移住するとなったら、なにかと入り用だろう。口座にはどれくらい入ってるんだ?」


「えっとね……」


 ピートは携帯端末を取り出すと、都市最上層に管理サーバーを設ける市銀(バンク)の口座情報を確認した。もちろん、未成年のピートに口座開設の権利はない。稼業を始めるにあたって、ブランドンが開設した専用口座であり、その管理はピートが一任されていた。


「端数を無視すると、五百二十三万ゼニルってところかな」


「結構溜まったな」


 感慨深そうにブランドンは呟いた。重要なのは残高の桁数ではない。いまさら、金銭に執着して現状が激変するとも思えない。無機質な数字の羅列から感じ取るのは、ピートとの七年間にわたる足跡だけでよかった。


「取り分は、お前が七、俺が三で良い」


「ん……」


 ピートは軽く頷いた。当然、納得しているわけではない。せめて五分五分だ。いや、仕事の中身を考えれば、ブランドンが売上金のほとんどを懐に入れて然るべきだと、ピートはそう考えているのだろう。彼の大人しい反応をみて、ブランドンはそう考えた。


 だが、そうだとしても、ピートにも相応の報酬があって当然だとブランドンは考えている。月末に翌月分の道路使用許可申請書に必要事項を記入して役所に提出し、《殴られ屋》パフォーマンスの許可を得る。パフォーマンスの当日に、ちょっかいをかけてくる市警の奴らがいたら、駄賃(キャンディ)を握らせて見逃してもらう。マイクパフォーマンスで観衆を沸かせて、挑戦者を募る……ピートがこなす仕事はどれも、一言で言えば根回しであり、お膳立てである。とてもではないが、自分にはできない。だからこそ、売上金の配分に関する意見のやり取りを何度も繰り返してきた。そのたびに、頑なにピートはブランドンからの提案を断り続けていた。都市を離れることになっても、彼の決断は変わらないらしい。


「手伝えることがあったら言ってくれ。お前と違って会計をこなすのは無理だが、タンスの下からレシートをかき集めることぐらいなら出来る」


 自らの無能さを自嘲するように、ブランドンは笑った。不良とはいえ、相手は顔に幼さの残る十代の少年だ。額に皴を刻んだ三十半ば過ぎの男が卑屈な態度を取る相手としては、似つかわしくない。二人の関係性を知らぬ者がこの光景を眺めれば、どこか異様さを覚えるに違いなかった。


「なんか、さ」


 バーガーを食べ終え、口に残る食べカスを炭酸飲料で洗い流すブランドンに向けて、ピートは言った。


「あんまり、悲しんでないよね」


「いやいや、驚きはしたぞ。切り出すタイミングが唐突だったからな」


「だって、改まって言うと、なんか……」


「泣きそうになる?」


「いや、そんなんじゃねーから」


 気後れする己を誤魔化すように、ズレてもいないベースボール・キャップをせかせかと被り直すピートを微笑ましく思いながら、ブランドンは訊いた。


「悲しいに決まってる」


「オッサン……」


「でも、同時に誇らしくもある……この都市を去るか。いい決断だ。俺には出来ない選択だな」


 瞼が赤黒く腫れ上がり、半分しか開かない右目には、穏やかさがあった。


 ピートは俯き加減になり、押し黙った。


「お前の勇気が、お前自身を正しい道へ誘うよう、祈っているよ」


 噛み締めるように、ブランドンは言った。


「階層間移動規制緩和法が敷かれたところで、俺や、お前のような人間は、どうやっても中層には這い上がれない。俺もお前も、前科者だからな」


「……うん。まぁ、そうだね」


「だったら、こんな都市からは、とっととおさらばした方がいいんだ。それが賢明な判断ってやつだ。ところで、おふくろさんも一緒か?」


「え? あ、あぁ」


「もしかして、引っ越しの理由はそれか?」


 口にしてすぐ、心の中で反省した。詮索するような聞き方になってしまったからだ。


「まぁね。ていうかさ」


 ピートは前傾姿勢になって問い返した。


「おれのことはどうでもいいんだよ。おれがいなくなった後のオッサンが心配なんだよ。ちゃんとやってける?」


「気にするな」


「いや、気にするでしょ。まさかと思うけど、おれが都市を離れたあとも、ずっと《殴られ屋》を続けるつもりなの?」


 もちろん――と即座に言いかけたところで、ブランドンは慌てて口を噤んだ。ピートの薄茶色の瞳に、いつになく真摯な感情を見て取ったからだ。まるで、見えない秤を手にして、こちらの心情を推量してくるような、そんな感覚があった。ピートがそんな態度を見せてくるのは、この七年間で初めてのことだった。


「別に、責める気はないんだよ」


 場をやり過ごすように押し黙っていると、ピートが助け舟を出すように言った。別に、今この場で身の振り方を決めろと急かしているわけでない、という釈明の意志も込めて。少年のようなあどけなさと、青年に特有の怖いもの知らずな性格だけでなく、相手の立場を慮れるだけの配慮も、ピートは持ち合わせていた。これでは、どっちが年上で年下か、わかったものではなかった。


「ただ、もしこのまま続けるんなら、もう少し体をちゃんとした方がいい。いまどき、機械仕掛けのサイボーグなんて古臭いけど、それでも、もう少し強化筋骨や金属繊維を移植するなりして、耐久を上げないと、あとは……」


「あとは、なんだ?」


「……いや、なんでも。まぁでも、本当に見ていてヒヤヒヤするからさ。特に、今日の第九試合なんか……止めに入ろうかと思ったくらいだよ」


「あの左のアッパーか」


 振り返るように視線を宙に向けながら、ブランドンは口を開いた。


「避けるわけにはいかんだろ。お客さん渾身の一撃だ。あれ避けたら商売にならない」


「んなこと、わかってるけどさ」


「それに、あのアッパーは実際のところ、そんなに大した一撃じゃなかった」


「顎に仕込んでる衝撃緩衝材(ショックアブソーバー)で威力を相殺したからでしょ?」


「それ以上に、あのお客はとても共感能力の高い人だ」


「……それが、どう関係してるの?」


「空気を読む力より、自分が相対している相手の表情を伺うタイプ。どんなに外野が囃し立てても、こっちがある程度痛がれば加減してくれるのは分かっていた」


「なにそれ。なんで言い切れるのさ」


「ライジング・ゼオ・シリーズ」


 ブランドンはストローに口をつけ、咥内に残ったバーガーのカスを炭酸飲料で流し込んでから言った。


「十数年前に中層で流行ったハイテク・スニーカーだ。あの客が履いてたのは、中期のモデル、Z-13だな」


「オッサン、スニーカーオタクだったの? 初めて知ったんだけど。てか、そのナントカって靴を履いてたから、なんだっての?」


「ハイテク・スニーカーってのは、機能性と実用性を兼ね備えた靴だ。Z-13は防水性に優れていて汚れにくく、軽くて動きやすい。湾港労働者の多くが、鉄板を埋め込んだだけの安全靴か、使い古した格安のスニーカーを日常使いしているなかで、ああいうタイプのスニーカーを履くのは珍しい。現場の状況に左右されずに、一定のパフォーマンスを常に発揮できるよう意識しているということだな。おそらくは、現場の労働者たちを束ねる班長的な立場の人なんだろう」


「そういう、ある程度の部下を持つ人に求められるのは、協調性と共感性。それが、靴の選択にも表れている。そういう性格をしている人は、どんな状況下でも無茶な要求はしてこないし、予想外の危険な行動に出ることもない。分別を重んじるタイプ。だから、ガチにオッサンを殺しにかかるようなパンチも繰り出してこないってわけ?」


 思考を先回りするかたちで、ピートが答えを口にした。ブランドンは嬉しそうに小さく頷いた。


「靴は口以上に物を言う。ガキの頃、親父に教えられたんだ」


「ふぅん」


「将来役に立つかもしれないから、知っていて損はないぞ……まぁ、世の中にはガワだけ立派にして、醜悪な中身を隠す奴も多いが」


 ブランドンは失笑して、再びストローを口に咥えると、残りの炭酸飲料を飲み干した。頬の筋肉の収縮に合わせて、貼ったばかりの絆創膏がミミズのように動く様を、ピートはなんとはなしに眺めた。


 このプロメテウスにおいて――あらゆる階層の立場や思想を越えて――いま【もっとも玩具にしたところで罪悪感が湧くことのない人物】なるレッテルを、世間が醸し出す暗黙の了解の内に貼られているブランドン・ブリッジスが、こんな有様になる姿を見るのは、なにもこれが初めてではない。一緒に夜の路上に立つ度に、幾度となく目にしてきた光景だ。しかし、だからといって慣れて良いかというと、そうは言えない。


 ――にしても、あんた、普通じゃないな


 ピートは、件の客がブランドンに向かって口にした言葉を不意に思い出した。


「まぁ、あれだな」


 なんと切り出せばよいか、キャップのツバを弄りながらうつ伏せ気味になり、少しの思考に耽ったのちに、顔を上げて口にする。


「オッサンは、もう少し自分って奴を大事にした方がいいよ」





 ▲▲▲





 《ヴァハール》を出た頃には、すでに時刻は夜中の二時を回っていた。


 店先でピートと別れ、ブランドンは帰路へ着く。


 最下層唯一の歓楽街で賑わうC区の夜は、いまが最高潮を迎えていた。黒い箱舟のように君臨するいくつものクラブハウスでは、音楽に深く酔えるようにと、聴覚神経を鋭敏化させる封言呪符(ウエハース)呪身(エンチャント)した若者たちが頻繁に出入りしている。かたや会員制ラウンジでは、光沢のある人工肌を艶やかせる夜職(ナイト・ジョブ)の男や女が、享楽に耽って悦楽の美酒を堪能している。無用な諍いが起こらないよう、客とスタッフ、そして通りの者たちへと鋭い目線を配るのは、機械化手術、もしくは呪符で身体強化を施した、屈強な風情の黒スーツ姿の用心棒たちだ。


 生身だからこそ味わえる快楽に現を抜かし、熱狂するためだけに存在が許されたこれらの娯楽施設を陽とするなら、同じC区画でありながら、メインストリートを挟んで東側の街区は陰の土地と言えた。寸分違わぬサイズと完全な深紅色でカラーリングされた長方形の建造物が、墓標のように建ち並んでいる。静謐を極めるサイバー・ポートたち。それこそ、都市が持つもう一つの顔……電脳空間へ旅立つ出発港(ポート)にほかならない。その威容さとスケールの大きさからして、一棟につき定員五百人は優に抱える夢棺(コフィン)がひしめいているとみて良いだろう。


 だが、ブランドンは知っていた。このC区で、いや、この都市で最も目覚ましい活力の象徴としてあるのは、会員制ラウンジでも、クラブハウスでも、ましてやサイバー・ポートでもないことを。


 むしろ、それら施設を日夜稼働させ続けている都市の人足の実相にこそ、都市科学の粋が込められている。企業戦士(サラリマン)技術労働者(エンジニア)、その他大勢の、専門・非専門を問わないスタッフたち。企業の力により、真の意味での不眠者となり、飲まず食わずで何十日間もの連続勤務に余裕で耐えうるだけの、飛躍的な身体的進化を果たした者たち。


 プロメテウスの医療科学がエンターテイメント・サービスと強固に結び付いたおかげで誕生した、完全なる奴隷階級。新時代のサイボーグ。


 フューリーオーグ……その名を口の中で静かに呟きながら、ブランドンは忌々しさを隠そうともせず、足早にC区を離れた。


 喧騒が遠のくにつれ、視界が開けてきた。タクシーを使わず、ネザー・リバーの支流のひとつであるアウトサイト・リバーにかかる鉄橋を徒歩で三十分かけて渡る。そのまま道なりに歩いてB区に入ると、再び視界が窮屈になってくる。慣れたものだが、それでも鬱陶しいのは相変わらずだ。


 違法増築を繰り返したアパートメント。誰が名付けたか《コラージュされた魔城》とはよくいったものだ。だが、そこに住むのは、恐ろしい魔王のような絶対権力を誇る者では、当然ない。むしろ、穴倉でみすぼらしく屍肉を貪る小鬼(ゴブリン)たちの住処というのが、的を射ている。


 そのうちの一棟に――もはやどこからどこまでがまとめて「一棟」なのか、初見時には判別しがたいが――ブランドン・ブリッジスの自宅はあった。アパートに備え付けのエレベーターで五階まで上昇。エレベーターを出て、コンクリート塗装された回廊を右に曲がって、三番目の角を左に。そこからまっすぐ突き当りまで進んで右へ曲がり、五番目の角を左へ曲がって、また突き当りへ向かう。五〇六号室。そこが彼の部屋だ。


 自宅の玄関前に、人がひとり座り込んでいるのが目に入った。土埃でひどく汚れたグレーのパーカーを着た、痩身の人物だ。頭からフードを被っているため、表情は伺えない。ドアに背を預けて、右手の爪を忙しなく噛みながら、左手に持った携帯端末をじっと見つめている。


「おい」


 呼びかけても返事はなかった。こういうのは日常茶飯事だった。違法増築を繰り返したせいで、複雑に入り組んだ階段や非常口の多さに迷った挙句、見ず知らずの人の玄関前で油を売る酔っ払いや浮浪者や薬物中毒者(ジャンキー)たち。いちいち市警に連絡するのも手間がかかる。こういう時は、力づくで追い払うというのが住人たちの流儀であり、ブランドンもそれに倣うことにしている。


「おいっつってんだろうが!」


 ブランドンは怒号を浴びせつつ、右の前蹴りを、不審者の肩へ放った。


 軽い。空の木箱を蹴ったような感覚が、スニーカーの足底から伝わってきた。


 蹴られた勢いで、パーカーのフードがずり落ち、不審者の顔が露わになる。男だった。驚き顔でこちらを見上げている。行使して当然の権利を、不当に侵された立場の者が見せる反応だった。それが、更にブランドンを苛立たせた。


「お前、なんだ。その(ツラ)は」


 頬が病的に痩せていた。瞬きの回数は正常だ。薬物中毒者ではない。栄養失調気味の浮浪者だと、ブランドンは即座に判別をつけた。よく見ると、浮浪者は両耳にムジークを着装している。それで、反応がなかったのも納得がいった。イヤーカフ型デバイスのそれで、耳からではなく、体内の水分を媒質に、体の奥で音響を体感していたのだろう。


 すると、この浮浪者もフューリーオーグということになる。おそらくは、いまの身体/精神状態に合致したエンタメ・プロダクツを楽しんでいたに違いない。映画ホロ活劇ドラマか。なんにせよ、自分にとって都合の良い物語を貪っていたことは確かだ。


 ブランドンは、さらにムカつきを覚えた。


「聞いてんのか!」


 さっきより強めに、浮浪者の顔面へ蹴りを放った。《殴られ屋》稼業をしている時とも、ピートを相手にしていた時とも違う、あまりにも粗野な行動。それもまた、ブランドン・ブリッジスという男の本性のひとつであることに、間違いはない。


 蹴り飛ばされて、男の体は派手に後ろへ飛び、回廊の錆びた手すりに背中を強く打ちつけた。汚れた手の平から携帯端末が滑り落ちて、両耳からムジークが外れた。そのうちのひとつは手すりを越えて、はるか階下へ落ちていく。もうひとつは男の足元へ転がった。


「消えろ!」


 容赦なく睨みを効かせる。男は一瞬だけ、名残惜しそうに階下へ視線を投げかけたが、すぐに携帯端末を慌ただしく拾い上げると、そのままブランドンの前を横切って、非常階段の方へ脱兎のごとく逃げていった。


 その時には、すでにブランドンの右手の平は、ドアに備え付けの電子錠台へ翳されていた。五秒経過。掌紋認証クリア。玄関ドアを開けて、ドアチェーンをしっかりかけてから、スニーカーを適当に脱ぐ。滑り込むようにベットへ体を沈める。都市法に則り、最下層は歓楽街のC区を除いて、最下層住宅の夜間は電気もガスも止められていた。はるか頭上の中層プレートに取り付けられた人工照明のわずかな青白い灯りが、カーテンの隙間から差し込み、生傷だらけのブランドンの顔をほのかに照らす。


 質素なものだ。キッチンもリビングも浴室も、ネコの額ほどの広さしかない。洗濯機は共同。トイレも共同だが、洗濯機を使うよりも不便で仕方なかった。玄関を出て階段を下ったり上がったりで、用を足すのに片道三分もかかる。そのため、トイレ近くの部屋は、今より倍も家賃がかかる仕様になっていた。払えない額ではないが、わざわざ引っ越そうとも思えなかった。そんな気力はなかった。ただ、日々の暮らしをやり過ごすので精一杯だった。


「五百二十三万ゼニル……そのうち三十パー……百五十六万ゼニル……」


 その数字に生活以上の価値を見出すことは、ブランドンにはできなかった。


 急に、例えようのない寂しさが胸の奥深くから湧き上がって、身悶えしそうになる。


 ピートがこの都市を出ていくと口にしたとき、ショックを受けなかったと言えば嘘になる。だが、彼の決断に水を差す権利が自分にないことは、ブランドンにはよくわかっていた。


 ピートは正しい決断をした。この都市に長く留まっていれば自動的に幸せになるなんてことはない。階層間移動規制緩和法が三年前に施行されたとはいえ、審査基準を満たす条件は、ラクダが針の穴を通るより難しい。特に自分のような人間(・・・・・・・・・)にとっては。


 たしかに貯金額だけを見れば、それなりではあるし、他の最下層民と比較すれば満足のいく数字だ。だが、個人がどれだけ稼いだところで、行政や司法が階層間毎にかけている各種税の比率をちょっといじれば、あっという間に生活は苦しくなる。最下層で暮らすということは、そういうことだ。


 そして、そういう未来が現実的に想像できてしまうくらいには、都市は気まぐれで冷酷だった。個々人の幸福を追求するのではなく、都市の寿命を延ばすことに権力者たちが目を向けている以上、個人スケールにおける未来の先行きは、不透明極まりないと考えるのが自然だ。であるなら、ピートのように新天地への出発資金として金を使うのは、全く理にかなっていると言えた。


 ピートは正しい決断をした――だとしたら、自分は何なのだろうかと、ブランドンは自問自答の海に沈んでいく。毎晩毎晩、こうして己の肉体を痛めつけ、仮想空間の世界ではおもちゃにされ、友人が旅立っていく後ろ姿を、ただ眺めることしかできない自分。そこに意味や価値を見出すのは至難の業であった。


 しばらくベッドに突っ伏していたブランドンだったが、息苦しさから顔を上げるように上体を起こすと、ため息をつきながら、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。慣れた手つきで連絡先の一覧を表示させる。片手で数えられるだけの連絡番号のなかに、それを見る。


 別れた妻の連絡先。


 八桁に並ぶ数字は、ブランドンに何も語りかけてはこない。それはただの数字でしかなかった。行動に移すことで、はじめて機能が発揮される。行動を起こさない限りは、何も変わらない。そうわかってはいても、頭の中を駆け巡るのは「躊躇い」の三文字だけだった。


 今夜こそ電話を掛けるべきか、掛けないべきか。答えはいつも出ない。毎晩のルーティーン。何の意味も為さないルーティーンだ。そう分かっていて、それでも止められなかった。別れてから七年。息子はすでに十二歳になっている頃だろう。先月が誕生日だ。その時も電話を掛ける勇気がなかった。


 元気で暮らしているのか。ただ、それだけ教えてくれたら……だが、それ以外に何を口にすればいいんだ? 最悪な出来事に巻き込まれ、交わすべきではない言葉をいくつも交わした挙句、妻を傷つけ、息子に失望された自分に、いまさらどんな言葉があると?


 そうして十分ほど経過したところで、ブランドンは何もかも諦めたように、携帯端末をベッドに目掛けて放り出した。ふと、ベッドわきに置かれた写真立てに目線がいった。窓から差し込む人工照明の光を受けて、デジタル・フォトフレームが写真の中の人物を立体的に立ち上げる。


 生まれたばかりの息子を抱えて幸せそうに微笑む妻の姿は、暗闇の中で、まるで幽霊のように見えた。ブランドンは目を逸らすと、フォトフレームの電源をただちに切った。そうして、逃げるように浴室へと足を運んだ。


 何が自分に欠けているか、ブランドンはとっくに分かっていた。

 勇気だ。

 それさえ手に入れば、確実に自分の人生は変わると信じていたし、それが、金を稼ぐことや、悪評を高めること以上に困難であることも、十分承知していた。


 勇気はどこに転がっているのか。


 考えても分からなかった。

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