第一幕 第七場
おれは精神科医を訪ねるため、精神科の個人病院にやってきていた。そしていま個室の中で、医者と一対一で向き合っている。
「先生どうかお願いします」おれは言った。「催眠術で記憶を呼び起こしてほしいんです」
「黒川さん」医者は渋い顔をしている。「あなたの事情については、よくわかりました。ですが残念ですけれども、そういうことでしたら、わたしは力にはなれません」
「どうしてですか!」おれは声を大にする。「先生は催眠療法を使えるんじゃないんですか。その道のエキスパートだと聞いて、自分はここに来たんですよ」
「たしかにそのとおりです。わたしは精神科医で催眠療法を得意としております」
「だったらどうして力になってくれないんですか?」
「催眠療法はあくまでも病んでしまった心をケアするためのものであって、忘れてしまったり、失ってしまった記憶を取りもどすためのものではありません」
「意味がわかりません!」おれは食ってかかる。「催眠術で記憶を思い出すことはできるんでしょう。だってテレビとかで見たことがありますよ」
「黒川さん、あなたがおっしゃっているのは、逆行催眠や退行催眠のことだと思いますが、それで記憶を呼び起こすのはおすすめできない。特にあなたの場合、その記憶が刑事事件とかかわりがあるというのなら、なおさらそれはできない。いや、やってはいけないのですよ」
「どうして協力してくれないんですか」おれは思わず椅子から立ちあがる。「こっちは犯人の顔を見たはずなのに、それが思い出せずに苦しんでいるんです。どうか助けてください」
「黒川さん、あなたの気持ちはわかりますが、けどそれはできないのです」
おれは憤然と相手をにらみつけてる。「どうしてですか?」
「それを説明しますから、とりあえずすわってくださいよ」医者は腰掛けるようジェスチャーする。「どうにか気を鎮めて、わたしの話を聞いてください」
おれは不満げな表情で椅子に腰掛けると、医者に視線を据えた。相手は真摯なまなざしをこちらに向けている。そのため怒りとともに、不満をどうにか堪える。
「よろしくおねがいします」おれはぶっきらぼうな口調で言った。
医者はうなずいた。「催眠術によって記憶を呼び起こす方法は、昔はよくおこなわれていました。特にアメリカなどでは八十年代あたりにはブームになるほどでした。さらには事件が起きた際には、催眠術によって記憶を呼び起こし、それが裁判で有力な証拠と見なされたこともあったのです」
それを聞いておれは思わず口を出す。「だとしたら先生、どうしてそれを止めるんですか?」
「実はアメリカでこういうことがあったんです。ある事件が起き、その被害者に逆行催眠をおこない、犯人につながる有力な手がかりをつかもうとした。そしてそのかいもあって犯人が見つかり逮捕されたのです」
「よかったじゃないですか。事件が解決して」
「ですがこの話にはまだつづきがあるのですよ。その事件後に別の容疑で捕まっていた人物が、その事件を自分がやったと自白したんです。そのため事件は再調査され、その結果、自供した人物こそが真犯人だと判明したのです」
「えっ!」おれは素っ頓狂な声をあげる。「……それってどういうことなんですか?」
「その後の検証でわかったのですが、催眠術を利用した記憶を呼び起こすやり方は、まちがった記憶を形成する場合があることがわかりました。そのためその信憑性が疑問視され、いま現在では裁判で証拠として取り扱われることはなくなったのです。ですからあなたが催眠術を用いて記憶を呼び起こしたとしても、それはかならずしも正しい記憶とは言えないのです」
その事実におれは深く絶望する。どうにか記憶を取りもどせないかと考えた末に行き着いた答えだったが、それは不定された。だとすればおれはどうすればいい?
あぜんとして口が聞けないであるおれを心配してか、医者はおれの肩にやさしく手を置いた。
「黒川さん、催眠術による記憶を呼び起こすことには協力できませんが、傷ついたあなたの心を催眠術によってケアすることなら協力できますよ」
「……そんなことでおれの心の傷は癒えませんよ」おれはどうにかことばを口にする。「やつを捕まえないかぎり、おれの心の傷は、癒えたりしません」
医者は気の毒そうにおれを見つめる。
「いろいろと勝手な事を言ってすみませんでした」おれは頭をさげると、ゆっくりと立ちあがる。「これで失礼します」
希望を打ち砕かれたおれは、暗い表情で部屋を出て行く。