第一幕 第四場
おれはいま青木ソウスケが運転する車の助手席にすわり、窓の外に目を向けている。太陽が沈む水平線を見つめながら、ほんとうならこの世界は夕日によって赤く色づいているのだろうな、と思った。いまのおれにはただの白黒映像のようにしか見えない。
おれはため息をつくと視線を車内へともどし、青木に顔を向ける。青木は何色なのかわからないネクタイを緩めると、息をついた。そして眼鏡をつるをくいっと持ちあげる。
「悪いな青木」おれは言った。「送ってもらって」
「いいってことさ。どうせついでなんだから」青木はこちらを一瞥する。「それよりも車はどうしたんだ? どこか調子でも悪かったのか?」
「車にはなんの問題もないよ。あるとすればおれ自身だよ」おれは表情を曇らせた。「信号機がよくわからなくてね。どれが正しいのか判断できないんだ」
「……そうだったな。すまん忘れていたよ」青木はばつが悪そうに言う。「ところで記憶のほうはどうなっている?」
おれは力なく首を横に振る。「だめだ。事件についてのことが、いまだに思い出せない」
「そうか。それは残念だよ」
「すまない。そのせいで犯人を野放しにしてしまっている。あいつは、『キャットマン』は白石を殺した」そのことを思い出し、おれは怒りとくやしさから唇を噛んだ。「おれはその顔を見たはずなのに、どうしても思い出せない。情けないだろ、おれってさ。恋人が殺されたのに、その犯人の顔が思い出せず、そのかたきを討つこともできないなんて」
「あまり自分を責めるな」青木はなだめるような口調だ。「だれもおまえのことを情けないなんて、思ったりはしてはいないさ。逆に記憶障害で苦しんでいるって同情しているよ。それにこうしておまえだけは、生き延びたんだ。頭を鈍器で殴られて死にかけたのに、いまおまえはこうして生きている。それだけでぼくはうれしいよ。いや、ぼくだけじゃない、きっとみんなもそう思っているさ」
「そう言ってくれてありがたいが、おれ自身が自分のことをそう思っているんだ。白石を助けることもできず返り討ちにあい、そのせいで犯人の顔を見たはずなのに、記憶障害の後遺症で思い出せず、さらには色盲になるおまけつきだ。おかげでおれは色のない、灰色の世界の住人だよ。まったくいやになる」
「治らないのか?」
「記憶障害のほうは何かのきっかけで記憶がもどることあったとしても、それがいつになるかはっきりとしてことは言えない、と医者に言われたよ。もしかするとあすにでも思い出すかもしれないし、このまま一生思い出せないかもしれないだってさ」
「そうか」青木は気難しそうな顔つきになる。「それじゃあ、色盲のほうはどうなんだ? そっちは治る見込みはあるのか?」
「望みは薄いね」おれは肩をすくめた。「そもそも遺伝や病気などの内的要因ではなく、頭の怪我による外的要因で色盲になるケースが非常にめずらしいと言われた。だからその対処法も治療よくわからないらしい。そもそも頭を怪我し、それによってどうして色盲になっているのかすら、その原因がわからないんだってさ」
「それじゃあ、おまえはこのまま一生、色盲のままなのか?」
「かもな。けど医者からこういう話を聞かされたよ。頭を怪我してそのせいで文字が反転して見えるようになった患者の症例があるそうだ。どうして書かれた文字を反転文字として、その患者の脳が認識してしまっているのか、その原因を突き止めることができなかった。だがある日、その患者がふたたび頭を怪我した際に、その症状が治ったんだとさ」
「だとしたら黒川、おまえにも可能性はあるのか?」
「さあな。けどそんな可能性よりも、おれは記憶がもどる可能性のほうが重要だよ」おれは声を強める。「あいつは、キャットマンはいまだに捕まっていない。おれはそれが許せない。たとえ警察が捕まえられなくても、いつの日にかぜったいにおれが捕まえてやる」
「けどキャットマンはおまえたちの事件以来、この一年間その姿を見せていないんだろ」
おれはうなずいた。「ああ、そうだ」
「それに警察のほうも手がかりがなく、捜査も難航していると聞いているが、何か進展はあったのか?」
「……何もない」おれは顔をしかめる。「だからこそおれは、自分の記憶を取りもどさなければならない。それがおれの使命だ。やつを捕まえることができるのは、おれだけなんだから」
「黒川、おまえの気持ちはわかるが、あまり自分を追いつめるな。犯人を捜すのは警察の役目だ。おまえが無理を——」
「警察なんてあてにならないさ!」おれは思わず声を荒らげ、青木の声をさえぎる。「キャットマンが連続通り魔強盗として何年も活動していたのに、捕まえられない連中だぞ。警察はキャットマンが猫のアニマルマスクをかぶり、黒い雨合羽を着て、夜な夜な人通りの少ない道で人を襲い、金目の物を奪うぐらいしかわかってないんだ。それ以上のことを何も知らない。やつがいつどこで犯行に及ぶのかさえ、予測できない無能どもだぞ」
おれの怒声にたじろいだのか、青木は何も言えずにいる。
「しかも警察はおれたちの事件を、キャットマンではなくその模倣犯の可能性もありえる、とか言い出す始末。その根拠が襲われたにもかかわらず、何も金品らしいものを盗まれていないからだとさ。ほんと、ふざけた話だよ」
おれは言い終えると、いつのまにか額に浮き出た汗をぬぐった。溜まりにたまって鬱憤をぶちまけたことで、興奮してしまったようだ。感情がうまく抑制できない。でもそれも仕方のないこと。こっちは恋人を殺されているのだから。
ひと息つき呼吸を整えると、いま一度青木に顔を向ける。青木は自分が叱られたかのように、意気消沈している。
「ごめんな青木、おまえに怒鳴ったりなんかして」おれはすぐさまあやまる。「べつにおまえは何もしていないのに……」
「気にしないで黒川」青木は気を取り直すかのように、少し明るい口調で言う。「ぼくは気にしていないから」
「すまない……いや、ありがとうだな」
「ねえ、前々から事件についてずっと思っていたんだけど、ひとつ訊いてもいいかな?」
「なんだよ」
「事件当日、黒川と白石は緑山キャンプ場でキャンプをしていた。そしてその夜、キャンプ場近くにある緑山ドリームワールドの廃墟の中で襲われたんだよね」
「事件当日のことはよく思い出せないが、警察の調べだとそうなっている」
「何も盗まれていないと言ったけど、それはほんとうなの?」青木はしばし間を置くと声を強める。「たとえばの話なんだけど、お金を盗まれたりしなかった」
「いや、所持品は全部あったし、財布の中身も無事だ。キャンプ場にあったテントの中も荒らされてはいない。なくなった物は何ひとつなかった」おれはそこで眉根を寄せる。「そんなことは、わかりきっていたことだろ。どうしていまさら質問するんだ?」
「いや、べつに。ただちょっと気になっただけだよ……あまり気にしないで」青木は歯切れ悪くそう言う。「それよりも、黒川のマンションが見えてきたよ」
視線を前に向けると、いつのまにか自分が住んでいるマンションが見えていた。どうやら話に夢中で、そのことに気づけなかったようだ。青木がマンション前に車を止めると、おれはそれをおりる。
「きょうは送ってくれてありがとう、青木」
「このくらいおやすいごようだよ」
別れのあいさつを交わすと、青木は車を走らせていなくなった。