第二幕 第七場
「事件についてはわかったわ」アリスが言った。「つまりあなたは、記憶障害の後遺症のせいで、事件にかかわる記憶を失ってしまった。けれどトラウマになってしまった一部分を悪夢として、なんども夢で追体験しているのね」
「はい、そうです」
「そしてその悪夢から失われたであろう、犯人に関する記憶や情報を探りたいというわけでしょう」
「できそうでしょうか、アリス先生?」おれは期待を込めて言う。
「さあね」アリスは肩をすくめた。「そんなことやってことないもの。ましてやPTSDの夢を扱うのは、はじめてだからね」
アリスは口をつぐむと、あごに手を添えて黙考しはじめた。おれはただ静かに、その姿を見守る。やがてアリスは口を開いた。
「夢が覚醒時においては、その当人が全然おぼえのないような記憶を駆使することはある。夢は覚醒者が自分では持っているとは思わない知識や記憶を持っているものなの」
おれは眉をひそめる。「それはどういう意味でしょうか?」
「そうね。これも例をあげて説明したほうがわかりやすいかもね。これはわたしが子供のころの話なんだけど、小学校高学年のころにうさぎの飼育係をやる機会があったのよ。すると不思議な夢を見るようになったの。自分がどこか知らない遊園地らしき場所にいる夢なんだけど、その夢のなかに紫色をした人型のうさぎが登場するのよ。そしてわたしに紫の風船を差し出してこう言うの。ようこそ、夢の世界へ、とね。だからわたしは、いま自分が夢のなかにいることに気づいた。夢のなかで夢だと気づく夢を見たの」
「それはめずらしい夢ですね。でもその事と、先ほどの話にはなんの関係があるんですか?」
「じつはこの夢なんだけど、うさぎの世話をするたびによく見るようになった。だから不思議に思って母親にこの夢の話をしたわ。そしたらその夢に出てきた紫色の人形のうさぎは、いまは閉園してしまった緑山ドリームワールドのマスコットキャラクターのひとりだとわかったの。そしてその口癖がまさに、ようこそ夢の世界へ、だったわけ。母親の話だとわたしは幼いころに、まだ閉園前の緑山ドリームワールドを訪れたことがあったみたいで、どうやら夢はわたしがおぼえていない、思い出せもしなかったその記憶を引き出して、夢に登場させたの」
「アリス先生はそのことは、いまでも思い出せないんですか。それとも思い出したんですか?」
「思い出せるわけないわ」アリスはくすっと笑う。「まだ物心つく前の話よ。要するに、夢からめざめた状態である覚醒者の思考活動からでは思い出せないようなものすら、夢はこれを利用するの。つまりは一度精神的に所有した記憶は、跡形もなく失われることはない証拠ね。言い換えれば、人は記憶を忘れるのではなく、思い出せないだけだとも言えるわ」
「なるほど。そういうことですか」
「あなたはいま、事件について強い関心をいだいている。そうよね黒川さん?」
おれはうなずいた。「もちろんです」
「事件については心的トラウマを植え付けられ、その場面を何度も繰り返し見ているのよね」
おれは表情を曇らせる。「はい、そのとおりです。何度も何度もあの悪夢を繰り返し見てきました」
アリスは腕を組むと、思案気な表情になる。「じつを言うとね、夢がなんの検閲を受けずに、実際にあった出来事をそっくりそのまま夢で再現することはまれなの」
「そうなんですか?」
「ええ、そうよ。ただあなたの場合はPTSDによる追体験だから、そこまで不思議ではないのだけど、ただどうしていつも同じところでかならず目が覚めるてしまうのか。それがどうしても不可解で謎だわ」
「おれもそう思います。あともう少しのところで犯人の顔を確認できるはずなんです」おれはくやしさから顔をゆがめた。「だけど、どうしても目覚めてしまうんです」
それを聞いて、アリスは頭をかかえてしまう。この難問をどうすればいいか、悩んでいるようだ。
「……とりあえずその件は、いまは置いときましょうか」アリスはコーヒーをひと口飲むと、深く息をつく。「とにかく事件についてトラウマになるほど強い関心があるあなたが事件の夢を、さらにはあなたの思い出せない記憶を、夢が利用することは、じゅうぶんに考えられるわね。もしかするとその夢から、犯人に手がかりを探ることができるかもしれない」
そのことばを聞いて、、おれは声を大にする。「ほんとうですか、アリス先生!」
「あくまでもできるかもしれない、という可能性の話よ。それにこんな特殊な夢の解釈なんてはじめてだから、うまくいく保証もない。それでもよければ力を貸すけど」
「ありがとうございます」おれは深々と頭をさげた。
ついにおれは、アリスに協力を約束させることに成功した。