第二幕 第二場
おれは街中をぶらつき歩いていた。けさ見た夢が頭にこびりついている。どうして白石ヒカリが死ぬ場面を、何度も何度も繰り返し見てしまうのだろうか。そしてなぜか犯人の顔を見る前に、かならず目が覚めてしまうのか。
「どうして悪夢を見てしまうんだろう」おれはいつのまにか、自然とつぶやいていた。「どうしてなんだ?」
なぜあのような悪夢を、何度も繰り返し見てしまうのか?
……その答えはわからない。
所詮は夢は夢。そこに意味などあるはずがない。だとしたら、どうして人は夢を見るのだろうか?
「……夢ってなんだ?」
そんなことを呆然とつぶやきながら歩いると、行く先の雑居ビルの看板が目に留る。それを見ておれの足は止まってしまう。
「夢占いの館」おれはそれを口に出して読む。「あなたの見た夢を解釈します……か」
つい先日もこの看板を目にしたな、とおれは思った。はたして夢に解釈するほどの意味があるのだろうか。だとしたらおれが何度も見るあの悪夢の意味は?
自然と足が雑居ビルの階段へと向かう。そしてそれをのぼると、いつのまにか夢占いの館と書かれたドアの前に立っていた。しばらくのあいだ、そのドアをあけるべきかどうか逡巡する。
「……何をしているんだおれは?」おれは自分をあざ笑う。「所詮は夢だぞ。それに占いなんてばからしい。非科学的だ」
おれはきびすを返し、階段をおりようとする。だがその瞬間、あの悪夢が脳裏をかすめる。頭を殴られぐったりとする白石の顔。それを思い出すと、怒りと悲しみが湧いてくる。助けられなかった。そして未だに犯人の顔を思い出せない。なんでもいいから、記憶を思い出すきっかけがほしい。
おれは引き返すのを思いとどまると、わらにでもすがる思いで、夢占いの館のドアへと向かう。そしてそのドアを開いて、その中へと足を踏み入れた。
そこは西洋風の部屋の造りになっており、アンティーク調の家具が設置されている。部屋の中央にはゆったりとした大きめのソファーがふたつ、丸テーブルを挟んで向かい合っている。そのため部屋はホテルのロビーを彷彿とさせる趣がある。部屋にはいる前に自分が思い描いていた、暗くて怪しげなイメージとは大きくかけ離れていた。
だが部屋の奥にいた女性は、自分がイメージしていた占い師そのものの姿をしていた。頭にベールをかぶり、ドレスのようなワンピースを着ている。後ろを向いているのでその顔はわからないが、腰の辺りまでまっすぐな髪が伸びているのがわかる。
「悪いんだけどお客さん」女性が振り返りながら言う。深みのある落ち着いた声だ。「うちの店は予約制なの」
女性がこちらに顔を向けた。占い師ということばから、高年齢な女性だとばかり思っていたが、かなり若く見える。自分と同年代ぐらいだろうか。
その姿に思わず気を取られるも、おれはすぐに我に返る。
「あの……すみません。ここははじめてで、予約制だなんて知らなかったんです」
「でしょうね」女性は微笑みながら、こちらに歩み寄る。「この店はわたしひとりで経営しているから、飛び込みのお客さんには対応できないの。だからきょうのところは、お引き取りください」
「そうでしたか」出鼻をくじかれ、おれは気落ちしてしまう。
「と言いたいところだけど」女性は話をつづける。「きょうは偶然にも暇だし、それに男性のお客さんなんてめずらしいから、特別に見てあげるわよ」
女性は部屋の中央にあるテーブルを手で指し示して、そこにすわるように促す。おれは指示されたとおりに腰掛けると、その反対側に女性はすわった。
「わたしはこの夢占いの館の主で、アリスと言います。以後お見知りおきを」
本名ではないな、とおれは思った。その顔立ちは明らかに日本人のものだし、ハーフにも見えない。だがその瞳はふつうの人よりも大きく見え、力強い目力を感じる。そのためその衣装と相まって、ミステリアスな空気を醸し出している。おそらくアリスというその名は、商売上の芸名やペンネームみたいなものだろう。
「ところでお客さんの名前はなんて言うのですか?」アリスが訊いてきた。「差し支えなければ、教えてもらってもいいかしら」
「おれの名前は黒川カズと言います」
「そう黒川さんね」アリスは微笑んだ。「いい名前だわ。それじゃあさっそく、あなたが見た解釈してほしい夢を教えてちょうだい」
「……あのちょっといいですか」おれはためらいがちに言う。「夢というのは、解釈できるものなんでしょうか?」
そのことばを聞いてアリスはくすっと笑う。「この店に来ておいて、そんな質問してくるとはね。あなた懐疑主義者なのかしら」
「いえ、そういうわけじゃないんです。ただ気になるんです、夢というものに解釈するほどの意味が込められているのかどうか」
「いいわ。だったら説明してあげるわよ。たぶん黒川さんが思っているように、大多数の一般の人たちは夢は荒唐無稽で意味のないものだ、と考えている。だけど人が夢を見るには理由があるのよ。だからその夢を解釈して意味を与えるのが、夢占い師としてのわたしの役目なの」アリスはそこでひと呼吸間を置いた。「ところであなたは精神分析学者である、フロイトをご存知でしょうか?」
「フロイトですか」おれはしばし考える。「名前は聞いたことがありますが、実際にその人が何をしたのかは、よく知りません」
「なら説明するわね。ジークムント・フロイトは一九世紀後半から二十世紀前半にかけて活躍したオーストリア出身の精神分析学者よ。彼は無意識をはじめて発見した人物として知られているわ」
「無意識を発見ですか?」おれは眉根を寄せる。「それはどういう意味でしょうか」
「その発見以前まで、人の行動はすべて自分の意志で決まるものだと考えられていたの。だから人間の心には自分では意識できない、無意識という領域があって、それが人の行動に影響を及ぼすという彼の考えは当時としては衝撃だったの」
「なるほどそうだったんですか」
「そうだからフロイトのその名前は、世界じゅうに広く知れ渡っているわ。そんな彼が著した本のひとつに『夢判断』というものがあって、精神分析学者として彼が夢について研究した成果について、書かれたものなの」
「そんな本があったんですね」おれは感心したように言う。「知りませんでした」
「わたしの夢占いはその夢判断に書かれた内容を参考にして考えた、自分独自のオリジナルの解釈法を使うのよ。夢占いと言ったけれど、実際の占いのようにあいまいなことばや意味深なことばで、受け手の都合のいいように解釈できるようなバーナム効果を使ったりしないから安心して。そんな詐欺師みたいなインチキな行為なんて、わたしはきらいだからね」
その話を聞いて、最初に抱いていた疑念が崩れていく。占いのように非科学的なものではなく、歴史的に有名な精神分析学者であるフロイトの考えをもとにして夢を解釈する。もしかするとこの夢占い師には期待できるのでは、という希望がかすかに生まれる。だがまだ信用したわけじゃない。
「でもほんとうに、そんなことが可能なのでしょうか?」
「まだ疑っているのね」アリスは口元に笑みを浮かべる。「じゃあ逆に訊くけど、どうして人は夢を見ると思う?」
「えっ!」不意をついた質問におれは困惑してしまう。「人が夢を見る理由ですか。わかりません」
「だったらどうして、いったいなんのために人が夢を見るのか教えてあげるわ。基本的に夢の源泉となる材料は、現実およびこの現実において展開されている精神的活動から採ってこられたものなのよ。たとえ話をするなら、ある子供の夢の話。この子はあるお菓子を食べたくてしかたなかった。けれど母親からはそれを禁じられてしまった。するとその夜、そのお菓子を食べる夢を見た。では問題です黒川さん。どうしてその子はそんな夢を見たんだと思う?」
「えーと、それはお菓子を食べたかったから……ですかね?」おれは自信なさげに言う。「現実で食べられなかったから、夢で食べたということですか」
「そう正解」アリスは指を鳴らした。「その子はお菓子を食べたいけど、それを食べさせてもらえなかった。その抑圧されてしまった思いや感情が夢の源泉の材料とされたのよ」
「……けど、その話はあまりにも単純すぎませんか。夢というのはもっと複雑で、わけがわからないものですよ」
「またしても正解」アリスはふたたび指をならした。「子供は素直で単純な夢を見るものなの。だけど成長するにつれて、その見る夢は複雑化していく。成長するにつれて知識が身に付き、そしてその精神活動が複雑になるようにね。やがて大人が見るような荒唐無稽な夢を見るようになるわ」
「なるほど、そうだったんですか」
「子供はおのれの欲望に対してとても素直な生き物。だから夢にもそれが素直に表れる。けどわたしたち大人はちがうでしょう。自分自身やまわりの関係など、物事を単純に見ることはできない。ときにはそれが息苦しくも感じてしまうくらいにね」そう言ったアリスの表情は、少しばかり憂いているように見えた。「だから夢も複雑になってしまう。子供のように欲望に素直に生きるのは、この現代社会では、できることではないから」
「たしかにそのとおりです」
「だからそんな大人の複雑化した荒唐無稽な夢を解釈するのに、この夢占い師であるわたしがいるのよ。わたしが見た夢を解釈し、その意味を見いだすの。もちろんすべての夢という夢を解釈できるわけじゃない。だけどね、きわめて多くの夢は解釈可能で、その意味を見いだすことができるのよ」
「それがほんとうだとしたら、すごいことですね」
アリスは苦笑する声を漏らした。「まだ疑っているの?」
「いえ、そういうつもりで、言ったわけでは……」おれはことばに窮してしまう。「でもまあ、じつはまだ完全には信用できなくて」
「しかたのないお客さんね。それならもう少し、くわしく説明してあげる。でもその前にお茶でもいれましょうか」
※フロイトが世界ではじめて無意識を発見した人物ではありませんが、そこらへんの話をくわしく書いても本筋に関係ないうえに、話のテンポが悪くなるので、世間一般的に思われているように「彼は無意識をはじめて発見した人物として『知られている』わ」と本文中に記しています。