第一幕 第一場
いまおれは恋人の白石ヒカリとともに、キャンプ場にある展望台から景色をながめている。展望台には自分たち以外の人はおらず、ふたりっきりの状況だ。
おれはズボンのポケットにしまっておいた薄型のビデオカメラを取り出すと、ディスプレイ画面を開いてそれを起動させる。そして景色に見とれている白石に、ビデオカメラを向けた。
こちらが撮影していることに気づいたのか、白石がビデオカメラに顔を向けた。すると照れくさそうにはにかみながら、ショートの髪をいじりだす。
「ちょっと急に撮らないでよ」白石が言った。その透き通った声は心地よく聞こえる。「もう、いつもそうやって、人が油断しているときにカメラをまわすんだから」
おれはくすっと笑うと、ビデオカメラのピントを調整する。画面に映る白石の顔は小顔で、目鼻立ちがはっきりとしている。ほほを淡い色のピンクのチークで染め、その唇を赤い口紅で彩る。そして茶色い瞳で、こちらに穏やかなまなざしを向けている。
「だいじょうぶだよ」おれは言った。「ちゃんと美人に撮れているから、そんなに見栄えを気にしなくても平気だよ」
「またそうやって黒川はわたしをからかう」
「まさか、事実を言ったまでだよ。きみのきれいな姿を撮りたくて、こうしていつもビデオカメラを持ち歩いているぐらいさ」
「もう恥ずかしいからやめてよ。それよりもわたしなんかよりも、あれを撮ったらどうなの」
白石はそう言って外の景色を指差す。おれはそれに従いビデオカメラを向けた。するとまぶしく輝く太陽の光を浴びた、自然の景色が画面に映り込んだ。緑色をした芝がひろがり、そのまわりを青々とした木々が森を形作っている。空は青く澄み渡り、そしてその空には七色に輝く虹がかかっている。
「見て、きれいでしょう」白石が楽しそうに言った。「虹が出ているのよ」
「ああ、そうだね」
「ねえ知ってた、虹って種類があるの。外側が赤くて内側が紫色をしているのが主虹と呼ばれているんだ。その反対に外側が紫で内側が赤色なのが副虹って言うんだよ」
おれはビデオカメラを操作して、虹をズームアップすると、それを注視する。虹の外側は赤色で内側に向かうにつれ色は変化し、やがて最後は紫色で終わっている。
「だとしたらあの虹は主虹でいいのか?」
「そのとおり、あれは主虹よ。虹に種類があるのは光の屈折による現象のせいなんだって。おもしろいと思わない」
「同意するよ。虹に種類があるなんて知らなかったよ」
「すべては光のせいなの。光が起こす神秘のマジックだよ」白石は声高に言う。「それに光がないと人は色を知覚できない。光があるからこそ人は色づいたこの美しい世界を享受できる。だから光はすごいんだって、小さい頃に亡くなったお父さんに教えてもらったの。だからわたしに、ヒカリって名前をつけてくれたんだってさ」
「すてきな話だね」
おれはビデオカメラを虹から白石へともどした。するとそこにはまるで子供のような笑みを浮かべる白石の姿が。その目はきらきらと輝いている。
「ねえ黒川、あの話を聞かせてよ。『灰色の世界』の話をさ」
「またあの話をさせるきなのか」おれは少しばかり困惑した口調になる。「ほんとうに好きだな」
「だっておもしろいんだもん。だから聞かせてよ」
「しかたないな」おれは声の調子を整えるかのように、咳払いをすると語りだす。「おれは小さい頃、この現実世界の大昔は、きっと色のない灰色の世界だと思っていたんだよ」
「それはどうして、どうしてなの?」白石がつづきを催促するかのように言う。
「よくテレビとかで過去の白黒映像が映っているのを見て、それで昔は色のない世界だと本気で思っていたんだよね。だから親に訊いたんだ、世界が色づいたのはいつからだって。そしたらふたりとも困惑しているんだ。だからおれは尋ねた理由をしゃべったんだよ。そしたら大笑いされたよ。その発想はなかった、この子は天才だってほめるんだぜ。だからおれは自分が天才だって思い込んで、この世界には昔は色がなかったんだって、みんなに自慢げに言ったら、馬鹿な子供扱いされて恥をかいたんだよ」
話を聞いていた白石が、声をあげて笑い出しはじめる。
「おいおい、笑うなよな。この話は何度も聞いているだろ。いまさら笑うなよ。恥ずかしくなるじゃないか」
「だっておかしいんだもん。何度聞いても笑えるから」
おれは眉根を寄せる。「もしかして馬鹿にしている?」
「ううん、まさか」白石は首を横に振る。「馬鹿になんかしていない。かわいいと思っているよ。おもしろい考えだなって」
「あくまで子供のころの話だからな」
「それじゃあ黒川は、いまはもうそう思っていないの。この世界がいつ色づいたのか考えたりしないのかしら?」
「あたりまえだろ。そんな馬鹿げた考えは子供のときに捨てたよ。この世界は色づいている。それはあたり前のことで、もとからこの世界は」おれはそこではっとし、ことばを切る。「……どうしてこの世界は色づいているんだ?」
「えっ……?」白石が不思議そうに首をかしげる。「それは光があるからでしょう」
おれはあたりを見まわし、世界が色づいていることをあらためて確認する。たしかめるにつれ、胸が早鐘を打つのを感じた。すると手ががたがたと震えはじめ、そしてビデオカメラがこぼれ落ちる。
「どうしたの黒川?」白石が心配そうにこちらを見つめる。「様子が変だよ」
「……ここは、この世界は現実じゃない。ここは夢の世界だ」
「何を言っているの?」
「この世界は色づいている。だからこれは夢なんだ」
白石は顔をしかめた。「意味がわからないわ」
「……ごめん、きみを助けられなかった」おれは苦しげな表情になると、両手で頭を抱える。「ほんとうにごめん」
白石はわけがわからないといった様子で、おれを見つめる。その表情から事情を説明してと、言っているのがよくわかる。だがおれは何も言えずにいた。
「ねえ説明してよ黒川。いったいどういう——」
白石のことばをさえぎるようにして、サイレンの音が響いてくる。そのせいか白石はとまどった様子であたりに視線を向け、音の出所を探っている。だがその当惑した表情から、音源らしきものは見あたらないようだ。
やがてサイレンの音はしだいに大きくなり、いまや耳を聾するほどだ。
「やめろ!」おれは負けじと声を張りあげる。「やめてくれ!」
だがその声はサイレンにかき消される。そしておれは——
目覚めるとそこは自宅のベッドの上だった。まくらもとではスマートフォンが目覚ましのアラームを鳴らしている。おれはアラームを止めると上体を起こした。そして先ほどまで見ていた夢の内容を思い返し、目に涙を浮かべる。
「……ちくしょう。ごめん白石」
おれは涙を拭うとベッドから立ちあがる。そして窓に歩み寄ると、カーテンを引いた。朝日が部屋に差し込むと、そのまぶしさから思わず目を細める。
やがておれはゆっくりと目を開けると、窓の外の景色に意識を向けた。そこにあるのは灰色の世界だった。