第4話 回 春 (ⅰ)
アストラエアは、休暇だった。
いよいよ、明日へと控えたそれを満喫できるかどうかという期待と不安とが彼女を襲っていた。今、歩いている場所というのは、兵舎の長廊下であった。ここをまっすぐ行くと、これから特等兵団が使用する予定の軍議所が見えてくる。
薄汚れた象牙色の廊下を歩いているとき、彼女はよく考え事をした。大抵は、なんでもないようなことだが、例えば――明日の休暇のことであるとか、とても大切な事案について、思いを巡らすこともある。アストラエアは、アーチ状に縁どられた屋根を見上げつつ、ちらりと覗く流れ雲を見ながら考えていた。
「……んっ!」
気が付けば、目の前には――執政官であるメサラが、数名のお供を連れて歩いてくるところだった。もう数秒、気づくのが遅れると危ないところだった。ぶつかってしまったなら、どんな刑罰を受けたってしょうがない。
「おいおい、気をつけろよ」
お供である長身巨躯の男、といってもベリアルほどではないが――その男に注意を受けた途端に、アストラエアは背筋が走るような想いがした。殺気が走ったのだ。生物が負の感情を高ぶらせたときに周囲に発する微量な磁気を、非常に微弱ではあるが、彼女は感じていた。
「いや、まさか」
その男について、アストラエアは思い返していた。皇宮を守護する近衛隊の隊長、アレスである。城内当番を除いては、宮殿内に入ることが滅多にない軍団兵だったが、彼らは別格の存在だった。もちろん宮殿内には出入り自由であるし、朝昼晩と3食が用意されているし(他は夕食のみ自腹)、なによりは、その給付点である。
特等兵団の団員は、俸給表では6級が与えられる。これは、およそ上級中隊長、数千人規模の軍団兵を率いる隊長格かそれに準ずる程度の給付点額であるが、彼らというのは、さらにそのふた回り上の給付点を得ていた。
とにかく、ただの精鋭では入隊することすら適わない、まさに選ばれし者が所属するというイメージを抱いていた彼女は、「まさか」と思った。というのも、衆前でこんな簡単に殺気を出すような者が、近衛隊の隊長であるなど――
「そうか、それなら辻褄が……いや」
あらためて気配を察するも、やはり殺気のようなものは露と得られない。となると、残りは執政官であるメサラしかいなかった。先ほどまで、この先にある軍議所でシグルドと作戦会議の相談をしていたはずだった。そんなに血に塗れた認識を抱かねばならない場面だったのだろうか、と彼女は疑問した。
そういえば、フォルトナにしても同じだった。ロスヴァイセが憎くて憎くて仕方がないような、そんな殺気を発していたのを思い出す。思い出して、改めて自分の弱さと、そして幸運、なによりも大事な仲間への想いを深めるのだった。
「まずいっ」
近衛隊のひとりが、こちらを振り返った。
あらぬ疑いを避けるため、彼女はすぐに本来の目的地である軍議所へと歩を進めるのだった。話題なんてもう分かっている。今後における交戦時の救援シフトの発表と、お決まりの訓示が待っているに違いなかった。
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議題というのは、ごくごく簡単なものだった。簡単とは言っても、切実なものだったが。シグルドは、悲壮感をまとった態度で、それを語っていた。集っていた特等兵団の面々も、引きずられるかのように表情は暗い。
室内は、その全面が壁に囲まれており、窓は開閉式だった。会議中は開いてはならない規則になっている。中央には、これでもかというほどの大きさでもって配置された石机。誰かが通路側の椅子に座ると通行困難になってしまうほどの余裕のなさである。
「……ということで要約するが、魔柱の侵攻はこれまでの月ペースに比較して6倍以上にも膨れ上がっている。軍団からの要請で、我々も救援的に出動を重ねる必要がある。ところが、11名いた我々も……先の合戦の結果、8名となってしまった。今後の救援当番表は、これまでより厳しいものとなる。今回集まってもらったのは、私が作成した当番表について皆の合意が欲しいと思うからだ」
隊員の合意など、本来ならば必要ないのだが。シグルドが、神使としては変わった思想をもっていると言われる所以である。
皆に紙面を配布すると、シグルドは面々の様子をしきりに観察していたが、それほどまでに落胆の色がないことを確認した。胸を撫で下ろすような面持ちになる。
「順番表を見て欲しい。まずは哨戒兵への同行についてだが、これは1日に1名のペースで行ってもらう。この1週間に参加しない者が休暇ということになる。具体的には表のとおりだ。また、奴らとの小競り合いが起きた場合、8名のうちの4名がこれに参戦することになる。これまでは私が臨機応変に声を掛けていたが、ルールをつくることにした。意見のある者、挙手を願いたい」
「……」
誰も、意見などなかった。未曾有の事態であるのは誰もが理解している。そのうえで、信頼の厚いシグルドの指示に意見するというのは、殆どありえない選択であった。
「みんな、私は反対意見が欲しいと思ってる。どうだ……お、ヘイムヴィーゲ! どうした?」
「4名というのは……その……多いと思います。小競り合いであれば、2,3もいれば十分です。皇都の守備を固めた方がよいかと」
シグルドが、ヘイムヴィーゲに対し、斜め方向に僅か傾く仕草を見せる。
「……これは、ある筋からの相談でな。こっちも頼んだんだが、どうしても4名にしてくれという。挙句の果てには、高給取りのくせに、なんて難癖まで付けられてな」
「……」
アストラエアには、まったく心当たりがないでもなかった。憶測に過ぎなかったが。
「それはそうと、連絡事項がある。ロスヴァイセ=アミキティオ!」
「はい! なんでしょうか」
「起立」
「……はい」
彼女は、思い出していた。食堂付近で起こしたトラブルについて。結局、噂によって判明してしまい、3名は詰問を受けてしまった。そして最も叱られたのがロスヴァイセであった。慎重に情報を集めたトールとは異なり、大した相談もなく突っ走ってしまった。
トールが、取り敢えずの引き止め役が必要だったと主張するも、シグルドの態度は変わらなかった。たとえ手遅れになったとしても、それは騙されたことに対するアストラエアの責任だという立場であった。
常に戦場を意識する、とかく騙しに対しては警戒を怠らないというのが彼の戦略姿勢であった。だから、アストラエアがペテンに引っ掛かったことについても叱責を受けた。
その反対に、トールはペテンを半ば見破ったことに対する賞賛が送られたが、やはり血生臭い言動については、しっかりとお叱りを受けた。
フォルトナには、同志を騙した咎によって十使隊長への降格と、禁固1ヶ月がシグルドより申し渡された。他の所業については目下調査中である。
「さて、用件は何だと思う?」
「え、い、いやあ、なにかなあ……?」
渋い顔になって、視線をはずそうとするロスヴァイセ。だが周囲からの驚きと祝気が籠った歓声を聴いて、彼の方へと視線を戻すのだった。「あ」、という彼女の声は、歓喜が圧縮されたものであった。
「ロスヴァイセ、おめでとう。熾星剣リエラムの保有許可を決定する。俸給表の6級、8号給を与える」
「おめでとう」
「やったなあ」
仲間達から口々に祝いの言葉をもらう彼女は、輝いていた。イーオン教国において4本しか存在しない魔器である熾星剣リエラム。現場において戦闘を行う軍団兵として、最高の栄誉と言っていい代物だった。
「フレイの敵を討とうとしてくれたことは聞いた。ぜひとも、彼女の無念を晴らしてくれ!」
「……はい!」
アストラエアは、感涙だった。
親友が認められたのが嬉しくて仕方がなかったから。と同時に、明日の休暇が急に億劫になってきた。それは、場合によっては――彼女が、この特等兵団へと帰れなくなることを意味していたから。