第3話 被 虐 (ⅱ)
あれから、3週間が経つ。シグルドの救援によって窮地を脱したふたりだったが、彼は、その場で死亡している3名の部下たちを眺めると、一瞥をくれただけで乗馬した。一目散に散っていく敵兵にも、まったく興味を示すことはなかった。
ロスヴァイセとアストラエアは、それが彼なりの死への態度であることを知っていた。悲しみには目もくれない、という態度を示しながらも葬儀には必ず出席し、その部下がいかに勇猛だったかと遺族の前で語って聞かせるのである。時には、その場で咽び泣くこともあるという。
それからは、小競り合いの日々が幕を開けた。数百単位の魔柱が領地に侵入しては資源の奪取を繰り返す。それぐらいの数ならば、こちらの百使隊で一蹴できた。
神使というのは、最低限の捕虜しか取らなかった。何十匹か殺しただけで散っていく敵兵らを見ながら、次の出撃を憂いる軍団兵らの姿を、ロスヴァイセも、アストラエアも幾度となく垣間見ることになった。
特等兵団としての輪番が回る日になると、今日も緊張を保たねばならないのかと憂鬱な気分になる。自分たちの痛みは大したことはなかったが、戦場において死傷した軍団兵を見詰める気分というのは、いつまで経っても慣れることはない。
「エア、ヴァイセ、最近目が疲れてないか」
「疲れてるわよ、先週は3回も出撃だったのよ。もう、どんだけちょっかい出してくるのよ」
「仕方ないよ、だって強力な魔柱がいたら私たちが戦わないと。死者が増えちゃう」
「エア。責任感が強すぎると、ぽっきり……」
「ちょっと、お偉いさんに聞こえちゃうよ」
トールの注意を受け、彼女らは押し黙った。そこは、食堂の付近にある休憩所だった。昼食の時間ではあるが利用者が多いため、もう少ししてから入ろうという意見になっていた。
彼は、軍歴においては彼女らの先輩であった。特等兵団においては、ロスヴァイセと同期である。そして、特等兵団へと任用される以前には、アストラエアと同じ十使隊に所属していた。彼女が槍兵で、彼が術兵だった。
柔和そうに映る容姿のうちに爽やかな笑みを携えた男は、いつも彼女らと一緒に行動することが多かった。気が合う関係というのもあるが、それだけではない因縁めいたものも3名にはあった。
「エアってさ、ほんと戦場と日常では性格ちがうよね」
「トール、それは言わないでえ!」
「あんた愛嬌あるんだから、そのままの性格で戦ってもいいのよ?」
そう言って、ぐりぐりと頭を横から撫でるロスヴァイセ。
「死んじゃうよ、わたし!」
「はは、みんなエアのこと、戦場では男みたいだって言ってるよ。僕は格好いいと思うんだけど」
「そうかなあ」
「この娘ったら、学校でも男の子に混じって遊んでたのよ。土いじりとかばっかり。女の子の趣味なんて、ひとっつもないんだから」
「だって、お人形さん遊びとか苦手なんだもん……」
「エア、気にすることないよ。自分の趣味だから大事にしなって。君だけの趣味なんだから」
「うん! ありがとうトール」
仄かなる視線でトールを見上げるアストラエア。トールと視線が合うと、なんだか恥ずかしくなって視線を逸らすのだった。
そして、彼女は俯いた。
自分の趣味が男寄りのものだという自覚はあった。だが、その一方で、彼女の容姿というのは可憐の一言だったのだ。平均よりもわずかに高い身長に、女性的な膨らみも多分に備えている。先の戦で、敵から男だと間違えられたロスヴァイセは、彼女の身体を見遣りつつ、あらためて感慨に耽るのであった。
アストラエアの下半身のことは、彼女の親戚を他においてはロスヴァイセしか知らない。学校においても、貴族が通う学び舎だったために運動能力を見る授業はなかった。それに水泳ぎの文化など、寒帯に限りなく近い亜寒帯に定住するイーオンの国民にとってはあまり縁のないものだった。
唯一、危ぶまれたのが身体検査であったが、これは親戚らの手によって隠匿する努力が懸命に行われた。呪われた子であるのが分かれば、迫害を受けるのは自分たちだからである。そんな気苦労を負わされていたためか、血の繋がった親族ですらアストラエアを足蹴にした。ロスヴァイセにしても、そんな光景を見てしまったことはあった。
ふいに、そのような記憶が浮かんできた彼女だったが、話題を切り替えるべく、
「ねえ、トール。そろそろ行こうしょ、食堂」
「ああ、もうちょっとだね。でも、まだ僕たちが座れる席は少ないよ。ごちゃごちゃしてると誰かにぶつかっちゃう。因縁つけてくる奴もいるからね」
「ふぅん、じゃあもうちょっとだけ。トール。こないだの件って、あれでいいよね?」
「……ん! ああ、ちゃんと用意した」
「もう、ギリギリ過ぎるのよ。こんなところで話さないといけなくなったじゃない!」
「ごめん、ごめんって。あっ」
「もう、その杖は希少ってレベルじゃないでしょ! 簡単に落とさないで」
「いやあ、よく滑っちゃうんだよ。ほら、この杖の材質ってすべすべしててさ」
木槌型の、魔杖アルリドフィリを上下に掴みなおす癖のあるトールは、度々それを地面に落としてしまうのだった。彼の給付点では何百年かかっても手に入れることは不可能であろう、魔器のひとつ。
仲睦まじく会話するふたりを少し遠くから眺めて、アストラエアは想った。どうして、あんなに仲良く会話を楽しむのが自分ではないのかと。いつも、自分が話す量はそう多くなかった。話しかけようとしても機会が巡ってこずに、後で無理やり割り込んでおけばよかったと後悔するばかりだった。
「はあ……」
アストラエアは、午後一番に教練があるから先に食事をするという旨をふたりに告げた。
彼女は、特等兵団に入る前からあらゆる武器の腕前を認められていたから、特等兵団の一員となった今では、おおっぴらな教練依頼が訓練課から来るようになっていた。
そのための準備時間を少しは犠牲にしても、アストラエアはこの3名で食事を取りたいと思っていた。思っていたのだった。
~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~
「うわあ、美味しそう」
いつもの平凡な食事(大麦の粥と林檎、それに申し訳程度のオリーブの実)ではあったが、今日は月に一度の楽しみの日でもあった。木製トレイの中央に載っかった、「チョコパイ」というらしい菓子がそうだった。
シグルドが総督になってから、ある国との交易の道が開いたらしい。他国の出身たるシグルドは、イーオン教国の神使と比較して、より多くの国々を知っていた。いったい、どこの国からこんなものがやって来るのか。彼女はおろか、行政官ですら知る由もなかった。というのも、シグルドが直接交渉することで輸入していたから。
アストラエアは、つるつると滑る黒目色紙の上部を掴んだ。それはギザギザとした形になっていて、そこを握ることで開けやすくなっている。するりと小さな袋が開いて、その中からは真っ黒な円状の菓子が出てきた。開けた袋は、ほかのゴミとは分けて捨てる必要がある。呪われているので普通の焼却をしてはならず、土に埋める必要があるらしい。
「いただきま~すっ!」
それを齧ったなら、じわりじわりとチョコレートの甘みが口の中に拡がっていった。パイを口から切り離し、もしゃもしゃと噛み砕くと、蕩けるような油脂の甘味が襲ってくる。舌上のみでなく、歯茎にまで染み込んでくる理想の味は、彼女の心、いやすべての兵士の心を捉えて離さなかった。
飲み込む惜しさを堪えながら、すでに咀嚼され切ったパイだったもの。それを飲むこんですぐ、次なる一口へと移る。こうして、手のひらのすっぽり収まるほどの大きさのそれを食べ切ってしまうと、教練の支度をすべく、木製のトレイを持ち上げて席を立つのだった。
卓と卓の間をするりと通り抜けて、返却口までもうすぐというところだった――彼女が、椅子に足を引っ掛けてしまったのは。
「あぁ、ごめんなさい」
「……ごめんじゃねーし、どうしてくれんだよ、俺のこれ」
「……!」
アストラエアは、蒼白だった。
その卓には、5名~6名ほどのグループが席についていた。そのうちのリーダー格と思われる男の――チョコパイを床に落としてしまったのである。
「あーあ、どうしてくれるんすかねえ、これ。フォルトナさん、どうします?」
「ん、どうすっかな」
フォルトナと呼ばれた男は、座ったままでアストラエアに視線をやった。彼女は、この男には見覚えがあった。彼女とそう離れてはいない組の十使隊長を務めていた男で、最近になって百使隊長へと任用された。なんでも、執政官に目を掛けられてのものだという噂が流れているのを、彼女は聞いたことがあった。
「どうしてくれんだよ、これ。おい、アストラエアさんよお」
「ご、ごめんなさい」
チョコパイは、兵士の間では最高の奢侈品としての評価を得ていた。イーオン教国においては、貨幣制度はなく、行政が用意した国家市場による取引しかできない。個々間の交換活動については、食料や衣服などの生活必需品に限られている。
が、いくつかの黙認されている例外があり、兵士間におけるチョコパイの交換活動がそうだった。彼らにとっては、この甘味こそが貨幣の代わりのひとつであった。
「どーしてくれんだよ!」
「う、うぅ……」
アストラエアは、泣きそうだった。
自分には、こんな貴重品を弁償するだけの資力はなかった。彼女は、いつもチョコパイは保存しておかずにその場で食べていたから。彼女が自堕落だったのではなく、ただ単に欲しいものがなかったので、貨幣的な役割をもった財を保存しておく必要がないのだった。
彼女の効用関数には、ニュメレール財という存在はなかった。そのほとんどが、直接消費にて効用を得るための財貨であった。
「それじゃあ、賭けをしようぜ。面白そうな賭けがあるんだ、試してみたい。お前が勝ったらパイはいいぜ。だが、負けたらパイふたつ分を取り立てる」
アストラエアは、混乱だった。少し迷った末に、選んだのは――
「ど、どんな賭け?」
「まず、この人間どもが使ってる鋳造貨幣。これを2枚用意する。つい立てを使って、俺には見えないようにした状態で、お前はこれらを投げるんだ。それで、転がった片方の裏表を教えてくれ。残りのコインの裏表を推理する。もちろん、当たれば俺の勝ち。まさにイーオン神のおぼしめしってわけだ」
「わ、わかった」
「10回勝負だからな。その方が、イーオン神が確実な判定を下してくれる」
アストラエアは、トレイをつい立て代わりしてコインを投げ続けた。すぐ傍らでは、彼の取り巻きが様子を観察している。かくして、神の判定は喫した。
フォルトナの的中結果 |○○✖○✖○○○--|
「もう、これで6回当てた。やるまでもないな」
「そんな……」
「さて、じゃあ払ってもらおうか」
アストラエアは、食堂内を見渡した。ふたりの姿はなかった。
屋外へと連れ出されたアストラエア。誰も来ないであろう絶好の場所を彼らは知っていた。兵舎の真裏にある小道をずっと進んで、聖アンジェロ宮殿の内部にある倉庫の壁に面した、森林地帯だった。
「さて、じゃあ払ってもらおうかな」
「も、ものはないんだ。ちょっと待って、2ヶ月待って。チョコパイを貯めるから」
「待てるかよ」
「なにか、代わりのもので返すから……」
「国家市場には録なもんがありゃしねえ。あったとしても貴族でなきゃ買えないだろ、まともな奢侈品なんてよ」
「だから、なんてか他のもので……き、給付点はいっぱいあるからっ!」
「ダメだっつってんだろ!!」
大声を挙げられ、アストラエアは萎縮した。近づいてくるフォルトナ。彼の行動は、初めから決まっていた。わざとチョコパイを落とすのも、適当な女兵士を引っ掛けるための策を仲間たちと相談しあうのも、彼にとっては、すでに決まっている幸運だった。
「黙ってろよ」
フォルトナが迷いなく掴んだのは、アストラエアの乳房だった。豊満なるそれは、男の手のひらでも握り切れぬほどの大きさ。それがぐにゃりと握られると、アストラエアは心臓が痒くなるような恐怖に包まれるのだった。
「……黙ってろよ? 1回で許してやるから、な?」
フォルトナには、許してやる気など毛頭なかった。
彼には、こうして性奴隷にした女兵士が十数名という単位で在る。女を殴りつけて陵辱を楽しむというのが、ならず者時代の彼の性癖だったが、軍団に入ってからもそうした欲望が尽きることはなかった。
アストラエアは、羞恥だった。
心は、確かに羞恥だった。しかしながら、不気味な快感が自分を支配しかけていることに気が付くと、これから自分が受けるであろう事態を想像して――
「ハハハ、フォルトナさん、見て下さいよ! こいつ、涙目になりながら――ニヤついてやがるっ!」
「本当だな、こいつ笑ってる。まあ、笑うしかないんだろ。こんな状況じゃあ。あのアストラエアも堕ちたもんだな」
周囲の視線にさらされ、辱めを受けることの意味が、今のアストラエアの心には歪んで映っているのだった。とめどなく溢れてくる涙。これは恐怖の涙なのか、それとも歓喜に属する涙なのか。今の彼女には、理解できずにいる。