第3話 被 虐 (ⅰ)
聖アンジェロ宮殿に夜の帳がかかる頃には、南東の空は朱と橙が混ざったかのような色づかいとなって、イーオン教国を照らしていた。その色調は、教国の伝統に照らせば、凶兆の顕れであったからして、神官衆らは大いに慌てふためき、大教会にて臨時の祈りが行われることとなった。
その教会の斜向かいの方角に、宮殿はあった。ドーム状の城郭にから突き出た幾つかの尖塔、吉兆色たる青系統の色によって部分部分がライン状に塗り固められている。限りなく薄汚れた象牙色の城壁は、往来の歴史を感じさせた。
その最上階には議会所があって、それより下の階は行政官らの執務棟として利用されている。さて、この会議所内においては、深夜の議会などあろうはずもないのだが、ある小さな室内――議会事務局が普段用いている施設であるが――では、数名の外套に身を包んだ者たちが、密会を行っている。
「では、大まかな段取りについては、今のとおり合意します。あなた方は、このまま攻撃を続ける。儂らは、継続的な他国通貨の供与という形での支援を行う。時が来れば、内部への魔術門を一時的に開くことを約束しましょう。あとは、儂らと貴方がたの運次第じゃ。一時的に休戦することにはなっておるが」
「一気に、こちらが攻めてもよいと。事実上はそういうことだな」
その巨躯の男は、謀略的なことには疎いが軍事的なことには通じている、というのが執政官たるメサラの考えだった。
両概念ともに、政治という共通の面に接していることから、戦に長ける者ならばすなわち謀略の才も有しているという命題を、この老獪は見出していた。
「少々、ご確認を」
メサラと、その部下らとは反対側の席に巨躯の男はいたのであるが、それが連れ立っている副官が口を開いた。
「最終的な利益の配分ですが、アウレウス金貨で1,500枚を供与するという約定ですが、そのような金額を工面できるのでしょうか。イーオン教国は貨幣は使用していないでしょう。それに、人間どもの国にいって食糧に替える手間というのが、私たちにとっては負担だ。食糧については現物支給として頂きたい。たっぷり蓄えてあることは知っています。今日、あなたのところの兵糧管理官に色々と握らせましたから。それで計算しましたところ、イーオン教国の市民を1年間に賄える分を超過した分について、私どもの1者・1日あたりの食糧必要額、まあこちらで勝手に見積もったものですが、それで割りますと……」
「……分かりました、返答します。少々、待ってくだされ」
メサラは、思う。
魔柱との交渉を開始してから、相応に日が経っていた。これまでは彼らの知能の低さを戦場を観察しつつ馬鹿にしていた。だが、やはり代表格ともなると相応の尤物を用意できるものだ、というのが彼の直感であった。
余剰の食糧でもって、魔柱の住む国家、いや国家であるかすら怪しいその国の窮状を救うことは容易であった。計算などするまでもなく、メサラにはそれが分かっていた。だから、デカラビアの作成した計算書の結果欄だけをちらりと確認すると、自分の直感とそうまでズレてはいないことだけを確認し、目の前の両者に視線を戻すのだった。
「いや、食糧は無理ですな。どうあがこうと見つかるでしょう。金貨なら見つかりようがないし、工面もできる。手数料や委託料などの予算費目ならば誤魔化しが効きますし、あんたらが少数で忍び込む段になったら用意しといてやる。あんたらに盗まれたことにすればよい。他にも欲しいものがあれば移動魔術とやらで運べる分だけは用意する。とはいえ、そう多くは用意できんだろうな」
「分かりました……おい、ベリアル。どうだ?」
「俺は、これでいい。俺たちが忍び込んだ際、どさくさに紛れて殺されないようにするんだな、メサラ」
「心配ない、儂の部屋には最高の警護班を用意するからな。おくびにも入ってはこないことじゃ。もっとも、教皇をぶち殺した後で暇を潰したいというなら、別に腕試しに来てもよいぞ。少しならば殺しても構わん。まあ、その時にはあんたらも死んでるじゃろうが」
「ハハハハッ」
魔柱のふたりはメサラの冗談が気に入ったのか、大笑いに巻き込まれる事務室となった。しばらくして笑いが止むと、
「楽しみにしておく。では、最後に供食の儀を」
そう言ってから、魔柱らは持参品である葡萄酒を持ち上げ、杯へと取り分けるのだった。これは、そもそもの交渉を持ちかけたメサラからの提案だった。お互いに持ち回りで飲料を持参し、まずは自分たちが交渉開始前に毒見として1杯だけ飲み干す。そうして交渉が終わった後に、全員でさらに1杯を飲み干すのである。
“供食というのは、生物にとっての仲間としか行われることはない”という、メサラがその神生のなかで見出した命題のひとつであった。儀式が終わり、両者が隠し通路へと入ったことを確認すると、
「おい、お前たち。今まで見てきて、どうだった」
魔柱側からは2名の参加だったが、神使の側は3名だった。メサラ自身に戦闘能力はないし、有事が起こる予定日より前の裏切り対策であった。
「相対的に小柄な方は、なんとかなりましょう。ですが、あの大きい方は手ごわいですな。1対1では苦しいやもしれませぬ。もしあやつらが裏切った時には、必ず複数名で奴にかかる必要が」
「あれ、どーしたんすか? ビビってるわけじゃないんでしょ?」
「油断大敵だ」
「ふたりとも。お前たちは儂に選抜された数少ない同士だ。それも軍事面での代表じゃからな。何かあっても、そう簡単に死んでくれるなよ」
「分かってますよ、執政官。俺だって欲しいもんがありますし」
「では、解散とするか」
ベリアルにはひと回り劣るものの、見事な体格のその男は一足先に席を立つと、男に比べれば小柄な後輩を連れ立って部屋を去っていった。
「ちょっと、隊長! 俺、もうちょっと執政官と話したいんですが」
「本来ならば、お前のような者が会話することすらおこがましい方だ。さっさと行くぞ」
彼らが出て行った後の室内には、計画が軌道に乗りつつあるという期待に頬を歪ませつつも、感情的な起伏を抑えようという奇妙な焦燥感にとらわれる小男だけが残った。