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第8話 拘 束 (ⅱ)

「うう、ずっ、ぐすっ、ロスヴァイセのあほぉ……」


 兵宿所から出て、しばらくは市街地の方へと歩き続けた。10分も坂道を下っていると、次第に涙も大気へと移ろうようになった。

 イーオンの市街地というのは坂上に開けた土地だったので、そこまで農牧業には向いていなかった。代わりに、微傾斜状の地形を農牧業と併用するという形での商工業が盛んとなった。今でも、この坂を降りる商人らの馬車と、他国より軽微かつ高価な資本を運んでくる馬車とが行き交っている。

 アストラエアは、ぶらりぶらりと周辺を歩き回った。ちょうど、ここから見える湖のたもとに彼女の実家がある。4階建てで家屋の壁面が象牙色の、とにかく様々な建築資材や彫刻、その他植物などが豪勢に放り込まれた屋敷である。


「なんかないかな」


 誰にも聞こえないように呟きつつ、アストラエアは歩き続けた。ただ散歩しているだけで、ロスヴァイセと喧嘩になったという記憶は薄らいでいき、市街の喧騒を眺めての感想が負の記憶を上書きしていく。


「……!」


 そんな時だった。

 アストラエアは身を隠した。目の前に、哨戒番を終えて兵宿所に帰還中のトールの姿が見えたからだった。

 少しだけ、綻びたような見た目だった。戦闘があったのだろうか、それともひどい地形を歩いたのだろうか。こっそりと見続けるのは咎められるような気がしたものの、それでもアストラエアは目を離さずにはいられなかった。せめてここからの情景だけは、瞳のフィルムに収めておきたいと思っていた。

 トールは衣料店の前に差し掛かって、見本用に展示されている品々を眺めていた。以前、アストラエアが本宅で着ていたような純白の生地で、その胸部を柔らかな差し布が挟んでいるようなものだった。


「誰かに買ってあげるのかな」


 トールは、そのまま何分か眺めていたが――やがて周囲を見渡し始めたのを認めて、彼女は慌てて裏路地の方へと引っ込んだ。


 『まだ、まだ陳列を眺めるつもり? 位置的には危険だ、バレる可能性がある。トールの察知能力だと、離れた真後ろを横切っただけでも見つかりそう……』


 しかも、特等兵団(カリウス)には団員の現在位置が分かる魔術道具(マギアツール)が支給されている。『もし、ここでトールが使用したなら』という考えがよぎると、彼女はその場を離れざるを得なかった。


「うう、しょうがない!」

 

 アストラエアは、メインストリートをいくつか離れた先の裏路地を歩いていた。

 こんなところにも商店はある。イーオン教国において、経済的交換過程は国家の権能であるため、生活必需品などを除いては個人商店の存在が認められることはない。だが、こうしてスラムに近いところだと様々(・ ・)な経済活動が行われている。

 他の公職にある者たちはさておき、軍団(レギオン)においては、ある程度の奢侈(しゃし)品の交換は黙認されていた。抜き打ちで給付点(プレミウム)の残額をチェックされることもあるが、多少の誤差ならば検査官も見逃してくれる。

 こうして裏店を見回っているうちに、アストラエアは群衆が覗き込んでいる何か(・ ・)を見つけた。それは穴のようだった。というのも、観覧者はみな一様に真下方向を覗いていたから。

 ああ、あれか。そう思念するとともに、アストラエアは興味を示しつつあった。

 幸いにも、いまは戦闘衣(アーラ)を着用している。一応は河床整備工事の帰りだったから。まだ湯浴みも行っていない。当然ながら、工兵にとっての正装は持っていないので、ならばせめてもと自軍にとっての正装で工事に臨むようにしていた。

 アストラエアは、その穴へと一直線に向かっていく。群衆の前へと差し掛かったなら、隙間を見つけては強引に身体を()じ込んでいく。不満そうな者もあったが、軍団兵(ミリテム)の姿を見ながら文句を垂れるほど度胸ある者はそうそういない。


「ああ、やっぱり。まだ、生きてた……う、ひどい」


 その穴の下にあったのは、人間の巣だった。

 イーオン教国と、魔柱(デモヌ)が住まう巨大な山々の麓地域とを隔てるのがノウス平原で、その間の一直線を両端へと拡張していくと、それぞれが長大なグリア山脈にあたってしまう。だが、人間どもはそれを越えてくる。そこに楽園があると信じて。

 だが、実際には神使にとっての遊興の道具が関の山で、通常は捕えられた場面で5割が死に、4割が奴隷となり、残り1割がこうして――


「いえz、cんふぁうれtr!!」

「がdだzxcじおs!!!」

「cwりおcmうぇqんbヴいんfbるvざsーー!!」


 神使にとっては聞き慣れない言葉だった。一体、なにを話しているのか理解できない。他種族であって、しかも住んでいた所がここまで離れれば当然なのだが。だが、文脈について考えると要旨は明らかだった。


「おお、すげえ。取り合ってる!」

「妹、大逆転なるか!?」

「勘弁してくれよ、せっかく大穴が当たると思ってたのに!」


 アストラエアは、憤怒だった。

 この穴の中では、最後の食糧を巡って――そこまで身体の大きくない兄が、その妹を打ち倒しているところだった。観客が投げた木の棒を持って、何度も、何度も妹を殴りつけているのだが、その瞳には涙を溜めている。

 こうした経緯について熟知しているであろう聴衆の話を、アストラエアは耳をそばだてるように聞いていた。

 元々は、父母兄妹の4人家族だった。グリア山脈の右翼側の麓で捕縛された家族は、この穴へと入れられた。楽園があると信じて山脈を越えてきた彼らに、人生最大の試練が待ち受けていた。早い話が見世物小屋である。家族同士で殺し合いをさせて誰が生き残るかというのが、今回の催しのテーマだった。

 まずは、主導権を握っていた父親を残りの3人が共謀して殺した。その次に、兄が――夜、寝静まった時を狙って母親を撲殺した。そうして、しばらくを食糧を分け合っていたふたりだったが、ついに兄による最初で最後の暴虐が始まったというわけだ。

 アストラエアは、その様子をさめざめとした心理でもって眺めていた。彼女は、自分の心が――どんどんと無下なる闇に染まっていくのを感じた。

 アストラエアは、ずっと眺めていた。


「おおーー、いったぞ、いった!!」

「やったぜえ、賭けてた甲斐があった!!」


 兄が、年端もいかぬ妹に対する強姦を始めていた。強引に後ろを向かせ、尻を剥き、髪を掴んで叩き伏せる。妹の瞳には涙が溜まっていたが、不思議と兄の瞳に溜まる涙の方がずっと多いような気がしていた。

 アストラエアは、静観していた。


「だfはsdjfはs!」

「yfはj、あshfdじゃss、だfはdぅいrんqwるdds!!」


 妹の身体が、完全に兄の支配下へと入った。聴衆の歓喜は最大へと達する。近親相姦という線に賭けていた者にとっては、まさしく僥倖(ぎょうこう)であった。アストラエアは、その聴衆の歓喜へと耳を預けている。預けていた。まだ、賭け(ベット)には間に合うかもしれない。

 おもむろに、アストラエアは群衆を掻き分けて胴元の方へと。その男は、アストラエアとはちょうど反対側に在った。


「おい、店主。この見世物小屋の店主かな。まだ間に合うか」

「おお、兵隊さん。しかも女性の方。ぜんぜん間に合うよ。強姦の賭け(ベット)は締め切ったけど、殺害の賭け(ベット)だったらまだ間に合うよ」

「風俗営業の適正な運営形態に係る法律施行規則第7条第4項第2号のイに基づき、強制執行する」

「……は?」

「すぐに中止して違法行為の顛末書(てんまつしょ)を届け出ろ。そうしたら見なかったことにする」


 店主の表情は、まさに蒼白だった。他種族を虐待するためのショウというのは、こうした暗がりの路地で行われている。その客層の中には、当然に軍団兵(ミリテム)なども含まれる。

 こうした見世物が規制されるようになったのは、シグルドが総督(デュクス)となってからだった。すべての理性ある生物は平等であって、自由に生きる権利が基本的には保証されているという、これまでの原則にはなかった考え方を導入したのだった。


「い、いやいや困りますよ」

「困る、じゃない。すぐに中止しろと言ってる」

「ひっ!」


 アストラエアは、店主の喉元へと槍刃を突きつける。その手が上がって合図がされると、従業員らが観客達の興奮を鎮めるためのラッパを鳴らす。途端、穴の上に網が掛けられる仕組みが動いた。


「ん、どうしたあ? まだ、犯ってねえぞ」

「どうした、一旦中止ってか」

「知ってる、あいつだ。さっき割り込んできやがった軍団兵(ミリテム)。おい、なんだよ」


 アストラエアは、激昂だった。

 だが、周りの観客、およそ四,五十名はアストラエアを睨んでいた。俺たちの数少ない楽しみを邪魔するな、と喧伝(けんでん)するようなざわめきでもって彼女に敵意を向けている。


「おい、お前も兵士だろ!」

「……」


 せっつかれて群衆から現れた大男は、「面倒くさいことになった」とばかり、ニヤニヤとしながら彼女の元までやってきたのだが、


「……お前。確かフォルトナの隊だったな」

「ひいいっ! な、なんであんたが」


 大男は、まさか特等兵団(カリウス)がこんな場末を警戒しているとは思わず、そのなりをすっかりと引っ込めてしまった。観客たちに小突かれながら、その者は波の中へと消えていく。

 不平の声は、ずっと高まり続けている。アストラエアは、ついに諦めた様子で、


「いいか、このような行為は風俗を乱す行為だ。よって、禁じられている! 軍団兵(ミリテム)として看過できないことに関しては、断固として中止措置を執行する!」

「ふざけんな、引っ込め!!」

「アバズレが!」

「不細工なのは性根だけにしとけ!!」


 彼らが平気で罵詈雑言をぶつけるのは、軍団兵(ミリテム)が無許可で殺傷行為をしてはならないのを知っているからである。これも、シグルドが制定に動いた決まりだった。

 イーオン教国では、軍団(レギオン)が警察機能(場合によっては事務)を兼ねていることもあり、大昔からぶっきらぼうな取り締まりが横行していた。それが正された結果として、アストラエアは――今こうして苦境に立たされている。

 アストラエアは、舌打ちをしながら槍を振り回すのだった。


「いい加減にしろ、いいか、今から強制執行する。執行に抗う者は制裁する!」

「いいのか、そんなことして!」

軍団兵(ミリテム)として恥ずかしくないのか!!」

「公務員には分からないだろ、俺たちにはな、これぐらいしか楽しみがないんだよ!」


 アストラエアは、困惑だった。

 今も穴の下で争っているであろう兄妹を一時保護することは出来る。だが、もしも観衆が抵抗してきたら? アストラエアがまともに槍を振るえば、怪我をした者が出るどころでは済まなくなる。程度によっては、彼女は懲戒を受けることだろう。そうなると、家を継ぐという理想も儚く消え去ってしまう。

 別に、人間などの兄妹を救いたいわけではなかった。アストラエアにとって、人間というのは――他の神使たちと同様に、「数ある動物の中でも多少は高等な知能をもつ生物」程度の認識しかなかった。猿類よりは賢くて、神使や魔柱(デモヌ)よりはずっと弱い。そんな中途半端な存在が人間だった。

 だが、不思議と人間というものに対する抵抗感というのが――アストラエアにとっては弱いようである。彼女自身も、その理由を理解できないでいる。

 

「くそ……」


 ああもう、どうすればいいんだ。そんな声がアストラエアを支配している。

 罵声はどんどん大きくなっていき、やがてはアストラエアへと詰め寄る者まで出始めた。いったん退くかと考えたものの、すぐにかぶりを振らねばならなかった。今ここで離れると妹は死ぬ。最後は兄も殺されるだろう。こうしたショウの最終幕というのは、聴衆からの石投げと相場が決まっている。

 アストラエアは、周囲を見渡してみる。少しでも情報があればという考えがあった。ふいに、店主が座っている少しだけ高くなった台を見据えた。そこの端にある通用口を見据えると、小走りを始める。


「おい、案内係だな。私を下まで降ろしてくれ」

「あ、えーと……」


 バツが悪そうな顔をして顔を背ける案内係をどかして、通用口を開いた。無理やりに入っていき、兄妹を救おうとする(はら)だった。その蓋は重かったが、強引に開いた。それを投げ捨てたなら、アストラエアは飛び込むための心の準備を――


「おい! なにをやってる!!」


 彼女にとっては、聞き覚えがあり過ぎる声。

 浅葱色の魔導衣に身を包んだ、やや長身で、すっきりとした体型の男――トール=カェルレウスの姿があった。まっすぐにアストラエアまで疾走してくる。

 二人目の軍団兵(ミリテム)の登場に、聴衆側へと戦慄が走った。もしや、他にも仲間が来ているかもしれない。だとすれば、まとめて検挙される恐れがある。この場を逃げ切ったとして、芋ずる式に捕まってしまうに違いない。

 トールは、アストラエアへと近寄ると――その手を引いていった。近くの家影へと隠れた後で、トールは彼女の迷いと憂いに満ちた顔を眺める。

 トールは、即座にアストラエアの頬を打った。さしたる痛みはなかったが、その驚きと、なによりも心の痛みがアストラエアを襲った。直後、トールは彼女の耳へと言を打つ。


「エア、何してるんだ。招集が出てるだろ! ほら、あの空!」


 アストラエアは、大空を見上げる。兵舎の方から薄紫色の狼煙が上がっていた。これは、非番の兵らを招集する際の記号のようなものだった。非番として市街での日常を過ごす場合、あの煙には常に気を払っておく必要がある。


「でも、それだけじゃない」

「……うん」

「もし、あの通用口を閉じられてたらどうするつもりだったんだ。あいつらは本当にやったかもしれないぞ」


 アストラエアは、自分の思慮のなさを恥じた。

 トールから、こんなことを言われて恥ずかしい思いをしたというのもあるが、なによりもまず、自分の浅はかさだった。常に先読みして考えることをしない、戦闘馬鹿である自分の情けない姿だった。

 トールは、アストラエアの髪を撫でた。聴衆からは見えないようにして。


「僕がやっておくよ。僕も非番だけど、今回は出る番じゃないから」

「……」


 アストラエアは、無言だった。

 ただ、ひたすらに裏路地を駆け抜けていった。その道は恐らく遠回りだったが、ショウが行われていた場に躍り出ることで、涙に濡れた顔など見せたくなかった。

 アストラエアは、憂愁(ゆうしゅう)だった。

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