第7話 主 義 (ⅲ)
どれぐらい、そうしていただろうか。
暗闇だった。両足ともに固定されており、左腕は痺れて動かなかった。かろうじて、右腕だけが自由に動かせる。
ああ、そうだ。瓦礫に押しつぶされて、半ば生き埋めになってしまったのだ、と直感できたし、それは事実だった。
少なくとも、目覚めてからは数分が経っている。アストラエアは、自分の顔が醜い状態になっているだろうと思っていた。鏡などないが、そんな気がした。
こうして、孤独に耐えていた彼女だったが、ここで初めて声を上げるのだった。
「あーあ、逢いたいなあ」
「……奇遇だな、俺もそんな気持ちだった」
「!?」
紛れもなく、その声の主は敵だった。見覚えがあるという程度でしかないが。だが、それは彼女が逢いたくない者のひとりであるのは違いなかった。
「俺は、悪い気分じゃないと言ってる」
「あなた……ど、どどどこにいるの?」
「見て分からないか。ああ、お前たちは目が悪いからな。鼻も悪いようだが。俺はな、ここにいる」
「ひいっ」
急に触られて驚いてしまった。彼女の右手には何者かのざらざらとした感触――いや、正体などとっくに分かっている。
「ベリアル。あなた……」
「覚えていたか。なにか、口調や雰囲気が違う気がするが」
「気のせいだっ、なんで、なんで生きてるの」
「俺の台詞だ。もうこんな状態で半日だ。動きが取れぬ状態というのは本当に飽きがくる。それにしても誰かいるのはわかったが、まさかお前だとは。神も残酷なことをする」
「神? あなたたち魔柱にも神がいるの?」
「神使よ、互いに蔑称で呼び合うか。それとも」
「名前なんてなんでもいいよ。それより、神、いるの?」
アストラエアは、暗闇の中で寂しかった。だから、話し相手なら誰でもよかったのかもしれない。
だが、それだけではない。ともに全力で戦った者同士には磁力のような力が働く。お互いに喋りたいとは思ってはいなくても、それでも無理やりに近づけようとする、そんな力が働き続けている。
「いるぞ。お前たちのように幻想的なものではないが。俺たちの神は、俺たちが自由に創る。至高の神であり、生命のない神だ」
「どういう……こと?」
「自分が信じる思想や真理、それを神とみなす」
「わかんないよお」
「お前、本当にあの女か? ぜんぜん違うではないか。声真似でもしているのか」
「してないよっ、わたし、アストラエア=インユリアッ!」
「そうか。あいにく、俺たちには長々しい名を付けたがる者が少なくてな。俺は、何百年間もずっとベリアルだ」
魔柱というのは、長命だった。神使の平均寿命がせいぜい100年であるのに対し、彼らはその3倍は生きる。成年である期間が長いのが特徴だが、大食らいである期間が続くためか、はたまた民族性によるものか、食糧事情は常に切迫しているという。
「う、んん……」
「どうした」
「なんだか眠いの」
「死ぬなよ」
「……寝るだけ。あなたこそ」
「……なんだ」
「あっさりと死なないでね」
「……」
眠りにつこうとしていると、右半身の先から何かが焼けるような音が聞こえてきた。香ばしいような、生臭いような、不思議な匂いだった。先の戦闘によって鼻の中は血塗れであり、あまり匂いというものは感じ取ることができないでいる。
アストラエアは、自分のお腹が鳴っていたことに気が付いた。
「き、きかれてないわよね……」
「ほら。やる」
「!?」
「どうせ非常食などないのだろう、だが俺にはある。俺たちの場合は生肉に近いものだが、それではお前が食えぬからな」
「なんで、どうしてこんなことするの? 敵なのに」
「これは運命ではないかと思っている」
アストラエアは、その言葉に一瞬だけはっとなり、またすぐに我に還る。
「なに言ってるの? わかんないよ」
「縁、というものだ。俺とお前がこうなる可能性は無いに等しかった。だが、こうして互いに腕一本で繋がる距離になってしまった。俺の神は、こうした意味のある運を与えてくれる」
「……運命、かあ」
アストラエアは、その呪われた身体を想った。すべての運命に意味があるというのなら、自分のこの呪われた体には如何なる意味があるというのだろう。
彼から手渡しされた焼肉を頬張ると、ほどよい血生臭さに悶えながら食した。ぐちゃり、という神経繊維でも噛んでるんじゃないかという触感が嫌になったが、すぐに慣れた。
「ありがとう、おいしい」
「……出してもいいぞ」
「……え?」
「したいんだろう、遠慮しなくていい。俺は勝手にしている」
「……!」
思わず、顔が真っ赤になってしまう。
同僚の男性から性的な軽口を叩かれたことなど、いくらでもある。だがこんな風に、恥ずかしいことでも真面目に真剣に伝える者とは出会ったことがなかった。
アストラエアは、なんとか腰をずらして用意を整えると――岩を挟んで、おそらく目前に居るのであろうベリアルの表情を思い浮かべながら――顔を真っ赤にしながら用を足すのだった。
~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~
「……だから」
「……なのか、それもそうなんだがな」
アストラエアが身動きを取れなくなって二日目だった。
初めは右腕しか動かせなかったものの、今では右半身が動かせるようになっている。だが翼に関しては、まったくもって動く気配はなかった。それだけでなく、相変わらず鼻も痛い。臭いを嗅ごうとしても血の臭いにかき消されてしまう。
その一方で、今では身体の自由が利くから、ベリアルに気付かれないよう様々な行為をすることもできた。ただ、ベリアルが居る方向というのは岩壁の関係でどうしても見ることができないのだった。
「それで、なんでベリアル達は自分のことしか考えないんだ?」
「個々の好きにさせるのだ、そのうちに均衡がやってくる」
「それっていつ? 永遠にやってこないかもしれないよ」
「とにかく、社会にかくあるべきという価値観など存在しない。個々がそれを考え、全力でもってぶつけ合う。その結果こそが最良ということだ。社会のために手を尽くすより、各々が自己の思いのままに生きる方が社会的な効用は高まるのだ」
「だから! その個々とかいうのがそもそも不完全じゃないか! 不完全な存在が自由にやったら、それこそ問題だよ!」
「それでも均衡へと調整されていく」
「だから……」
議論は、平行線だった。
きっかけは、何気ない一言だった。戦場での戦いにおいて、神使は逃げた自分の味方を殺すという話題になった時だった。
アストラエアは、そういう約束で戦場に入っているから当然だというが、対するベリアルはそれが間違いだという。どんな者にでも自己の自由と生命、および価値観を重んじる理由があるという。どんな者にでも、自己の欲求をどこまでも体現しようという責任があるという。だから、逃げ惑う者が厳しく当たられるのは自己責任としても、同胞殺しを規則化するのは間違いであると彼は主張している。
対するアストラエアは、社会を神聖なものとして見ていた。あらゆる必要で繋がりあって、その社会における効用の上昇を目指して力を発揮し続ける。彼女にとって、仲間とともに居ることはそれだけで嬉しいことだった。だから、社会が個々の生物を縛っているように思えても、それは協調という幸福へと繋がるしかない鎖の輪へと連結させているだけだし、慣習を破った者が相応の処罰を受けるのも致し方ないことだった。
そういうわけで、理性ある生物にとっての善悪の議論が始まったのだが、未だに止む気配などなかった。お互いに一歩も引かず、ついに数時間を費やしてしまう。アストラエアは、次第に――戦場での、彼女の精神性へと変貌を遂げていくのだった。
「それじゃあ具体例を挙げてみろ! わたしだって、求められたら挙げる用意はある! 時間はいくらでもある」
「例えば、泥棒の例を見よ。俺の幼少時の話だ。ある村は裕福で、またある村は裕福ではなかった。ある時、泥棒が裕福な隣の村へと盗みを働くために獣道を破っていった。そこは、野生動物ですらほとんど通らない地域であって、通るとすれば、その一帯の住民でしかなかった。それも稀有な。両村を繋ぐ道路はなかった。裕福な村は、両村の間に道路を拓くことを計画してはいたが、捻出できる予算はあまりに足りなかった。やがて、その男の盗みが噂になり始めていた頃、さらに泥棒を仕掛けようとする者があった。もちろん、あの男が掻き分けた道を通るのが一番楽だから、そいつも其処を通っていく。何度も、何度もそれが繰り返された。次第に、それ以外の堅気の者たちも通るようになっていった。道は、どんどん広くなっていき――仕舞いには、両町を通る道が整備されるようになった。初めの状態の獣道を整備するよりはずっと楽だったから。予定されていた予算に収まるようになったのだ。そう、運命は切り拓かれたのだ、泥棒によって。この実話こそが自由を重んじる立場の重要性を示唆している」
「都合が良すぎる! 実際には負効用の方が大きいと思われる。そんなに財産が取られたら村同士で戦争が起きるに決まってる。戦争というのは、経済とは違ってマイナスの交換だから、お互いの財産をどんどん破壊していった方が自分の得になる。そういう風になるに決まっている。あなたのは、たまたま運がよかっただけだ」
「戦争など起きない。単に入ってきた泥棒を捕まえて、彼と引き換えに相手の村の財産を引き渡してもらうだけだ。それが出来なければ賊を処刑すればよい。それで解決だ」
「処刑した後でどうするんだ。結局、財産は諦めるのか……そんなことあるはずない」
「まあ待て、アストラエアよ。論点が逸れている気がする。村のことを論じたいんじゃない、生物の第一原理が善か悪かについてだろう」
「そうだった、確かに。わたしは、どうしても倫理というものを信じたい。みんながみんな繋がっている。ひとりでは出来ないことを、みんなで分け合って労苦を我慢することでより良い社会が造られていくんだ。みんなが少しずつ出せるものを出し合う。出し合って、それらを結集していくことでひとりよりもずっと大きなものが出来る。少なくとも、わたしはそう思ってる」
「だから、我慢をせよと」
「社会の発展のために必要なんだ。みんなが努力することで結局は幸せになれる。魔柱にはその意識が低すぎる」
「アストラエアよ、それは誰に習った……? と問われれば、為政者だと答えるだろう。お前たちの社会には、学校というものがあるのだろう? そこで、そのような思考様式を教わるのだったな。では、どうしてそのようなことを教わるのか理解しているのか。それは、為政者の側にとって都合がいいからだろう。そう、社会の発展のため、それは分かる。俺たちも合意によって協調し合うことはもちろんある。お互いの利益のために、自分の意思でそれを決定するのだ。そうして責任を果たす。だが、神使の場合は、いや山脈の彼方に住まう人間どもだってそうなのだが……違うのだ。意思によって合意しているからではなく、それが常識だからという理由で協調行動を行っている。要するに、考えていないのだ。それに生物の第一原理という意味でいえば、禽獣らを見てみよ。奴らは、常に自分のことだけを考えて生きているではないか。にも関わらず、なかなか絶滅しない。ずっと大昔からこの世界に生き続けている。奴らと俺たちは、見た目や思考能力こそ異なれど、感情を有しているという点では一致する。ならば、生物にとっての第一原理というのは、お前が言うところの社会的な判断でいうところの善――ではなく、悪というものではなかろうか」
「ベリアル。なかなか説得力のある説明だったとは思う。だが、禽獣だって自分の家族のことぐらいは考えているだろう。皆の餌だって取ってくる。それは、善……と言い切れるかは置いといて、利他的な考えというものじゃないか?」
「利他的? ふん」
「利他的……だろう。他者のために動いている」
「アストラエアよ、利己的とか、利他的とか、それは本質的な概念とはいえない。なぜなら、すべての生物の取る行動すべては常に自分のための行動だからだ」
「どういうことだ」
「今しがた、禽獣の話を挙げたろう。例えば、肉食獣ならば自分の群れのために他生物を狩ることで食糧をもたらす。だが、それは家族のためなのか。違うだろう、自分のためだ。生物というものは、自分のタネを残すために生まれてくる。だったら、その禽獣にとっての最終目的というのは、仔の自立なのだ。自分が獲った餌を分け与えるというのは表面的なものに過ぎない。となれば、俺たちにしたってそうだ。俺たちは、少なくとも理性も感性も、基礎的な力にしても、他の似たような種族に対してはるかに優っている。ところで、その俺たちを創った神とやらが、俺たちにどう命令したかは分からぬが――俺たちでさえ、禽獣と同じように、自己のタネの残すべく命令されることで生存している。ここまで言えば、なんとなく想像がつくだろう。神使だろうと、魔柱だろうと、その本質は利己的なのだ。家族に限らず、自分が属する社会のために尽くすことが正しいとしても、それは最終的には自己の最大利益へと繋がる形で消化される工程に過ぎないのだ。家族のためは自分のため、友の為は自分のため、上司のためは自分のため、部下のためは自分のため、愛しい者のためは……自分のためだ。自分の利他的な行動を思い返してみよ。どんな行動だって、精神的なり、肉体的なり、自分にとっての幸福に繋がると結論したからこそ、そのような行動に出たのだ。利他的という言葉はな、“利己的”という状態を基準点にして、如何にしてそれが見えにくくなっているかを示す概念に過ぎないのだ」
アストラエアは、なにも言えなくなっていた。うまく頭が働かないというのもあったが、その論理性というか――説得していく力の源である、ベリアルの思想というものを感じてしまったから。彼の話は、まだ続くようだった。
「俺たちは、自己にとっての幸福を最大にして、次世代へとタネを残すという命令を神から受けている。だが、ほとんどの連中が、その命令を間違って理解している。正しく愛することが大事だの、恋という感情が官能的だの、創造主はそのようなことは言っていない。生物が、自分たちの社会にとって都合よく解釈しただけの結果に過ぎない。自分たちが属する社会のため、倫理道徳に従って生きよという考えにしたってそうだ。その解釈を作っている大元は――為政者だろう。この世界の頂点付近に君臨することになった、運のいい連中だ。奴らの正体は、まさに獣だと俺は考えている。だから、自分たちの第一原理である悪に従って、自分たちにとっての都合がいい世界を形づくっている。分かっただろう、為政者たちは“悪”に従って動いているからこそ、この世界が成り立っているという均衡が実現しているのだ。それで、結局どういうことかと言えば、生物の第一原理は悪だということだ。生物というものは、なんであれ自分の好きに生きればよい。力が足りなければそこで力尽きるし、力があるならば許される限りの暴虐を尽くせばよい。いずれにしても、それが生物の第一原理である“悪”に沿っているのだから、自分にとっての生を後々に悔いることはないのだ。これこそが、俺の思想であり――宗教だ。俺の中にいる神というのは、とても孤独で――とても力強い存在だ」
アストラエアが言えることは、限られてしまっていた。しまっていたが、言わずにはいられなかった。
「でも、わたしはやっぱり、第一原理……っていうの。それは、やっぱり善だと思う。みんながいいって、感じるもの。為政者がどうこうって話は分かったけど、それでもやっぱり、みんなが悪くてもいいっていう考え方だと社会が成り立たないよ。それに、あなたが言ってるところの“悪”っていうのは、なんだか……“善”の側の活動にただ乗りしてるような気がするの」
「そうか。分かり合えなくて残念だ」
こうして、ふたりの間を静寂が支配したが、やがて肉が焦げるような音が聞こえてきた。もう、これで何度目だろうか。アストラエアには数えるのも億劫になってきた。
「肉だ。そろそろなくなるがな。自分と意見が対立するからといって、初めの方針を曲げるような真似はしない」
「……ベリアル」
「……なんだ」
「ありがとう。わたしたち、同じ種族だったら友だちだったかも」
「そうだな」
~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~
もう、限界が近かった。
少なくとも四日目に突入しているのは間違いない。少しは身動ぎできるようになったとはいえ、アストラエアの付近は排泄物に塗れていた。自分の鼻が潰れたようになっていて幸いだったと思ったが、ベリアルにとってはさぞや臭いだろうという考えを抱いて、気が悪くなる毎日だった。
話の種も尽きてしまい、あとは……相当に本質的な生の議論が残ってはいたが、お互いにまともな思考力は残されていないのだった。となると、残る話題はおのずと限られてくる。
「ベリアル」
「なんだ、アストラエア」
「もう、死んじゃうの?」
「……あと、もって2日か」
「……いやだよ」
「……」
「いやだよお」
彼と話していても、すっかりと普段のアストラエアばかりだった。激しい議論になっても、彼女は彼女のまま、自然体で在って――男性的な姿はなりを潜めていた。それは、女性としての姿がアストラエアの本質だからかもしれない。
「一体、なにが嫌なのだ。俺は敵だが、たまたま一緒に埋まっただけだ。共に被害を受けているではないか」
「でも、ご飯くれるじゃない」
「……気まぐれだ」
「うそだよ、あなたもお腹減ってるくせに。お腹が鳴る音、聞こえてくるよ。それに、誰かと居ないと寂しいわけじゃないけど……誰かと一緒に何かしていた方が、楽しいから。わたしは」
「そうか。では、俺の腹にお前の同僚が居るとしても?」
「……え?」
アストラエアは、言葉を失った。そうだ、ベリアルは浮遊している状態から王の間の壁を破ってきた。ということは、あの場にいたであろう、ロスヴァイセやヘイムヴィーゲ、それにステファは……。
「小さい女だ。槍を持っていた」
ヘイムヴィーゲのことだった。
アストラエアの動悸が急に収まるとともに、不自然な安堵感が込み上げてくる。
「あの女の上半身を食い千切ってやった。すると、戦闘時から予想していたとおり奴の腹には赤子がいた」
アストラエアは初耳だった。まさか、ヘイムヴィーゲに子がいたとは。誰との子だろうと想像するも、軍内の色恋には疎かった。だが、なによりもアストラエアが驚いたのは、彼女が殺害されたことに対してそれほどの怒りが込み上がってこないことだった。
まるで、同じ釜のメシを食ってきた仲間の死について憤ることで、ベリアルとの埋中の関係を壊す方が嫌であるかのように。
アストラエアは、冷静だった。
不気味な冷静さに因われていることが、自分でも分かった。
「アストラエアよ」
「……どうしたの」
「怒らないのか」
「……いいよ、もういい。戦いだもん、しょうがないよ」
「そうか。では、最後に聞いておく。お前、一体どう言うことだ? その……気性というか。戦をしているときのお前は」
「お前は……なに?」
「幻魔だ」
「幻魔?」
「俺たちの国に伝わる、伝統的な悪魔の類だ。非常に素早い動きで、それでいて強靭無敵。加えて、どんな姿にも化けることが出来る。おおよそ誰とでも交流を深めることが出来るが、それでいて……狂おしいほどに我欲が強い」
「……はは、わたしのことだぁ。自己中だし、わがままだし……うっ、それに……うっ、えぐっ……こんなに……血なまぐさくて……なんで、わたしこうなんだろう。ごめんね、ベリアル。わたし、本当は嫌な奴なんだ。だって、ベリアルのこと騙してる。騙してるって分かってて、それを喋ってない」
「……これから喋ろうとしてるだろう」
「ん……ぐぅ……それは、本当に利己的、だよ。利他的じゃない。わたし自身が、楽になるために話してるんだ」
「……どうでもいい、それ、言ってみろ」
アストラエアは、涙を飲んだ。まだ死にたくないというのもあるが、自身の決意を深めるためでもあった。この世界で、ロスヴァイセを含めた数名しか知らない、彼女の秘密。
「……女じゃない」
アストラエアの口から漏れた言葉は、ベリアルの口から漏れた言葉でもあった。
「!? どうして?」
「初めて見た時だ。おかしいと思った。雌の臭いがそんなに漂ってこなかった。いや、少しは漂っていたが。それで、二回目に戦った時に初めて分かった。確信はなかったが。お前が放つ気迫、少なくとも女のものではない」
「そうなんだ、知ってたんだ。じゃあ、じゃあさ、わたしのここに――」
「もう言うな。これ以上、生命力を無駄遣いするものではない」
「そうだね、生きて出ようね」
アストラエアは、にっこりと笑うのだった。ベリアルの姿は、相変わらず石柱上の何かに阻まれていたが、それでもアストラエアはそちらの方向を見詰め続けた。ぼうっとした感覚で、あまりものを考えられなかったが、それでも話し相手の存在だけが希望だった。
「そら。これで最後……のひとつ前の肉だ」
「ありがとう」
ベリアルが握ってくる手の平が、とても熱く感じた。震えもある。けれど、その熱は数日前に比べれば弱まっていた。
アストラエアは、絶望の淵にあった。ここまで来れば、軍団が捜索を諦めている可能性がある。といっても、第一日目からどんな掘削音も聞こえてはこなかったが。
~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~
アストラエアは、絶望だった。
もはや、隣にいる者との会話すらなかった。あれから半日程度しか経っていないと思ったが、急に生気が失われてきた。元々、無理をしてきた神生だった。これまでに、葬送に伏されていたであろう戦いは幾度もあった。たまたま生き延びてきた結果だった。
彼女は、想った。ロスヴァイセやトールのことを。こんなしょうもないことで死んでしまって、迷惑をかけてしまった。願わくば、軍役の引退までは生きていて欲しいという願いを込めた。
次に浮かんできたのが、家のことだった。必ずインユリア家を相続してみせると母の目前で決意したのに、この様だった。家の財産はパスカリスがすべて取っていってしまうのだろう。母を想うと、悔しくて仕方がなかった。もっと、もっと武勲を挙げて、家督を継げるような、そんな軍団兵になりたかった。
アストラエアが、うつらうつらとしていると、彼女の腰を啄くものがあった。ベリアルの指先である。
「ほら、これで最後だ。生ですまない。もう、焼くための魔力がない」
「あ、あ……」
声は、掠れていた。
アストラエアは、それを言おうか言うまいか迷っていた。少しでも力を蓄えたかったから。そして、その肉を温存しようか、今食べるかという二者択一をも迫られたことになる。意識が消えそうだった。実際に眠りに落ちそうだったし、もう眠ってしまいたいとも思っていた。
アストラエアは、黙考だった。
ずっと考えて、考えた。だが明確な結論が出ないし、そもそも頭が働かない。一体どうすれば、という焦燥が彼女を支配している。
アストラエアは、自分の腰元にある腕に意識を遣る。それはベリアルのものだったが、いまだに引っ込められてはいない。痙攣するその手の先を、ぐっと握り締めてアストラエアは――
彼女には、軍団兵としての選択基準があった。すなわち、直感の逆を行き続けるという原理である。十分な思考時間を取ることができない戦場にあっては、なんらかの原理や規則による行動を取り続けるということ、すなわち実効性があって、真理により近いルールを確立できた者が生き残る。
彼女の答えは、ひとつに決した。
「ベリアル、ありがとう――うん、おいしいよ」
「そ、そう……か、よかった」
アストラエアが選んだ答えというのは、その事実を知るという道でもあった。ベリアルの腕が、その場へと垂れる。アストラエアの身体には、これまでの彼の行動を説明付ける――全身が震撼するような血流の怯え、そして確信があった。
「ベリアル。どうして自分の身体を食わせていたの? どうして、そんな状態になりながらもわたしと議論をしていたの?」
「最後に……」
真上で、震音が響いている。
聞き覚えのある音だった。加速度的に大きくなっていくそれは、土木工具のみならず削土魔術も併用しているらしい。ふたりでいる時間が、終わろうとしていた。
「最後に、お前と話して死にたかった。敵陣の只中で生き埋めになって助かるはずがないだろう。俺には死ぬ道しかなかった。だが……」
真上で、震音が響いている。
いつの間にやら、アストラエアの真上にその音はあった。このままでは自分の声が通らなくなってしまう。早く、早く言葉を。彼に相応しい言葉を。
「ベリアル、ベリアル!」
「なんだ? 俺の身体はもう動かなくなるんだ。早めに済ませてくれ」
「……好き、好き……好きだから、ね」
真上で、震音が響いている。
ベリアルは、アストラエアの想いを受け取ったうえで反応に迷ってしまった。身体の約2割を分けてしまったゆえ、もはやまともに口を利くことすら難しい。さっきから発音はぶれてしまっていた。掘削音は、ますます大きくなっていく。
ベリアルは決意していた。生き埋めになった時から、自分の死に場所を此処にするしかないと受け入れていた。ベリアルの声帯が震える。
「お、お、おおお、お、俺も、好きだ!! す……き……だ」
真上で、震音が響いていた。
それがすっかりと止んだのは、ベリアルの声によって、捜索隊がその場所に目星を付けたからである。
ベリアルは、アストラエアの嘘の告白を見抜いたうえで――自分も、その嘘に染まりたいと思っていた。嘘に染まってもいいから、アストラエアにだけは、自分をもっと、もっと見ていて欲しいと、少なくとも瓦礫に埋まってからは――ずっと、そう思っていた。
(第7話、終)