第7話 主 義 (ⅱ)
広間は真っ暗だ、とアストラエアは思った。思ったが、右奥の方に辛うじて灯火が見える。アストラエアの周囲には、いまだに燻る炎を湛える燭台があった。ついさっきまで火が灯っていたということだろう。
耳を澄ますと、やはり奥の方から小声が響いてくる。恐怖に怯えたような、自分の運命を悟っているような。奇妙に落ち着いた声だった。アストラエアの行動は、ひとつだった。
「動くなッ!!」
影が、動いていた。ひとつは――恐らく、座り込んで萎縮している様子の影。もうひとつは歪だった。というのも、それはまともな影ではなかったから。ぼこぼことした円柱状の塊の上に、1本の棒が立っているような。そんな影だった。剣を携えている。
それらの山が、幾体もの死体が折り重なることで作られる肉の彫刻であることを彼女は認めるのだった。その形を作り出したと思しき者が、こちらを振り向く。まだだいぶ距離があったが、アストラエアにはすぐに分かった。
「アストラエア、トール。無事でよかった」
「隊長!」
ふたりが、ゆっくりとそちらへと歩いていく度に、萎縮した影の正体も見えてきた。メサラである。
「ああ、だから、分かるだろう。魔柱に騙されたんだ」
「……どうやって?」
「取引だ、取引をしようとしてた。そしたら」
「そのようなこと、執政官たる貴方であっても教皇の決裁を要するはずだ。議会を通してなくてもいい、その証拠はどこにありますか。それに、そんなこと私の方にも合議してもらわないと」
「いや、だから奴らが勝手に入ってきたから」
「さっきは騙されたと言ったでしょう。どういうことですか……それに、こいつら魔柱に私が襲われたわけは? この奥の部屋で震えているであろうセルギウス殿下については、どう説明するおつもりで」
シグルドが指差す先にはセルギウスの部屋があった。その扉には夥しい数の切り傷や突き傷が刻まれている。メサラが招き入れたであろう、今もシグルドの足元で無残な姿で死んでいる者たちの犯行は明白だった。
シグルドはすべて分かっている。分かっていて、こうして聴聞している。トールはそのように感じていた。すべて、というのはまさにすべてであって、つまりこの状況のみならず、メサラが裏切り者であることが分かっていた。どのタイミングで仕掛けてくるか、敵の侵入兵数など、ありとあらゆることを想定したうえで自ら戦場に出るという罠を仕掛けたのだ。
そのうちのいくつかの要素は誤ってしまったが、その戦略自体が正しかったことはこの結果が物語っている。
「……ふむ、執政官よ。どうしても矛盾が生じるようですな。では、こうしましょう。正直に吐けば、これまでのことは……大方なかったことにすると約束しましょう」
「い、いや、儂は……本当に知らぬ。気が付いたら、やつらに……」
「……」
どうやら、シグルドはこの場でメサラを処することには失敗したようだった。
後日、裁判でもって裁くしかない。言質を取れないということは、そういうことだ。最悪、アストラエアとトールさえ来なければ、客観的な証拠不十分でもメサラを殺せた。だが、部下たちに見られているとなれば話は別だった。
確たる証拠の無い者を兵士が処刑している場面を見られるというのは、シグルドにとっては汚点であった。
「シグルド隊長。僕たちは……」
「それ以上言うな。この男とは裁判で必ず決着をつける」
疾風怒涛の声は、どんどんと大きくなっていく。下の階から軍団兵が昇ってくるのが分かった。恐らく、この場面を多くの者が観るのだろう。武官側からのメサラへの不信の増大が、文官によって実施される裁判の結果にどのように影響を与えるかは分からないが、この歴史的な場面は、イーオン教国の軍団ならば必ず見ておくべき場面であるのは違いなかった。
「エア、終わったね」
「もうちょっと。まだ、もうちょっとだけ。ロスヴァイセと、ヘイムヴィーゲと、ステファに会えたら……それで、本当におしまい」
アストラエアは、黄昏だった。
同じ建物の中に、愛する者がいて、その距離感が焦燥たる想いを掻き立てていくのだが――とにかく、アストラエアはもう休みたかった。
もう少しだけ気を張っていれば、その通りになっていたかも知れないのだが。
「エア、伏せるんだ!!」
ガラスも、壁も、柱も、まとめて吹き飛ばされていた。
彼女はかろうじて瞼に入れた光景は、黄金竜が王の間へと突撃を放ちつつ、最後の一撃を自分たちに見舞ってやろうと咆哮を立てているというものだった。
距離はない。ベリアルの間合いならば、全員を巻き込める。
「死ねえ!!」
メサラの声が聞こえると、いつかどこかで見たような閃光と爆音が――それが、デカラビアが使用していた異国の兵器であることを思い出すとともに――アストラエアは、狼狽していた。
さっきまで勝ったと思っていたのに。どうして、どうして――? そんな想いを、竜による体当たりと異国の兵器とで、この大きな室内が倒壊を始める最中、思い描いていた。
「GUAAAAAAA……」
アストラエアの目前に竜の姿があった。もう少し近ければ彼女は呑まれていたろう。その竜の真上に、崩れた天井の一部が落ちてくる。雄叫びを上げる竜と、そして、自分の真横にもその塊を落ちてくるのを垣間見たアストラエアは、死を覚悟せざるを得なかった。
死、という語彙を意識した数瞬後、彼女の後頭部に瓦礫が命中した。脳天が鈍くなって痺れていくような感覚とともに、床に崩れるアストラエア。この死というものが、自分と愛する者を割く存在なのだと朧ろげに感じてしまった刹那、彼女の瞳には涙の粒が溜まっていた。