第7話 主 義 (ⅰ)
結局、アストラエアが教皇の間へと参じることになった。それにステファの応急措置と、自身の魔術とで傷が癒えかけているトールも随行することとなった。
下の階では、すでに大きな戦闘音が鳴り響いていたから、味方の合流も時間の問題かと思われた。アストラエアが、まだ足取りが覚束ないトールの腕を引っ張っている様子を見ながら、ロスヴァイセは思っていた。こめかみよりも、ちょっとだけ右にある古傷のことを。
もう、4,5年は前のことだった。軍内での模擬戦において、アストラエアはロスヴァイセとの組み合わせになった。まだ緒戦の段階だったので厳密な審判がされるような環境にはなく、周りの先輩衆から、たまには“真剣”で勝負してみるよう提案を受けたのだった。
当時の彼女らに兵歴はなく、ただの訓練生という扱いだったから、これまでは木製の模造武器しか持たせてもらっていなかった。だから、ロスヴァイセは喜んで先輩の提案に乗った。それが一生消えない傷を生むきっかけになるとは思いもせずに。ロスヴァイセの脳裏に、あの時のアストラエアが鮮明に浮かぶ。
まったく、歯が立たなかった。真剣を持った途端に殺気が溢れ、その動きは見違えるようになった。あらゆる方向から出鱈目な速度で攻め立てるアストラエアに、ロスヴァイセは1分も待たずに降参した。だが――アストラエアは攻撃を止めなかった。周囲による強制力なくしては、彼女は命を失っていた。少なくともロスヴァイセにはそんな確信があった。
アストラエアが槍を持つようになるのは、それからさらに紆余曲折あってのことである。
「……ねえ、トール」
「どうしたんだ、エア」
「さっきのわたし、どうだった」
「格好良かったよ」
あと何分か歩けば、教皇の間に辿り着く。シグルドが向かっているとは聞いているが、それでも不安な気持ちが込み上げてくる。
「どうしたの、エア。もしかして、怖くなった?」
「なったかも」
「やめてくれよ、戦えるの君しかいないんだからな」
「……うん、がんばる」
アストラエアは、ほんの少しだけトールの方に身体を寄せる。
恐ろしいのは事実だった。上階に敵が居ないという保証はないし、もし襲われた場合、そして多数だったなら――恐らくトールは守りきれない。死ぬだろう。彼は、あくまでアストラエアの指示役としての随行だった。闘える身体ではない。
「……僕のことはいいよ。構わず戦って。いや、戦え。それが軍団というものだ」
「カッコイイこと言うんだね」
「そりゃあ、男の子だから。女の子の前じゃあね」
「わたし、とっくに成年してるからね」
「そりゃあ失礼」
ふたりは談笑し合った。今日の夜が今生の別れになるかもしれないから。とにかく話をしながら、急いで歩いた。どのみちトールは走ることができないので、牛歩になるのは自明だった。
やがて、最上階のひとつ下の階まで辿り着く。この階の最奥に、第114代目の教皇であるセルギウスが居るはずだった。寝室は、その大きな広間からしか行けない構造になっているから、この方向で間違いない。どこか秘密の抜け穴でもない限りは。
ふたりの足音は次第に速くなっていく。この先にどんな光景が待っているのか、とにかく焦りに支配されていた。
「エア、走るんだ。後で追いつくから」
「……うん。分かった」
アストラエアが、軽快なる開走を決めたときだった。そう遠くはない奥の暗闇から、微かに蠢く影をトールが感じ取ったのは。
「エア、居るぞ!」
「……!」
分かった、とばかり走りゆくアストラエア。彼女が神経を凝らすと、廊下の右端に隠し切れぬ殺気を見出す。
「……惜しかったな」
槍撃を放つ彼女だったが、自分の身体が急に浮いてしまったことに驚きを隠せないでいる。ぐいと真横に引っ張られる感じで、壁へと叩き付けられた。追撃を察知した彼女は握っている槍で防御しようとするも、それが言うことを聞かないのだった。
柄を掴まれたままで放り投げられたのだという結論を導くとともに、長槍を捨てて回し蹴りを打った。それが受け止められたような触感とともに、バックステップでもって退避する。
「やるじゃないか、さすがは特等兵団。すれ違った時から、ずっと闘りたいと思っていた」
「あなた、まさか」
聞き覚えのある声だった。フォルトナほど鮮明ではないものの、確かに聞いたことがある。
「どうだ、思い出したか」
窓のない長大な廊下は――思いのほか暗闇が濃かったので、彼女には姿がよく見えなかった。見えなかったが、なんとか答えの候補を探り当てることができた。その中でも、最悪の可能性を――アストラエアは信じることにした。
「アレス隊長。どうして……あなたが?」
「まあな、この年齢になると色々あるんだ」
録に話もしたこともない仲だった。だが、アストラエアは彼のことを知っている。いや、近衛隊の隊長を知らない者など軍団の中には居ないといっていいが、その格闘センスまで含めて分かっている神使というのは、限りなく少数である。
「そこを開けてくれませんか。僕は戦えませんが、彼女は戦えます。その槍が相手だと、あなたも不利でしょう」
「お前、なにを言ってるんだ? 拳闘者に対して失礼だとは思わんか。いや、戦場で闘うお前たちの考えも分からないではないが」
「ぜんぶ、ぜんぶ知ってるんですね?」
「そうだ。こちらが提案して、あちらの敵将と調整した侵入策のことも、階下で起こった部下たちの虐殺のことも、ベリアルが倒されたことも。ぜんぶ聞こえていた。さあ、ようやく俺の番が来た。楽しませてくれ」
「……つまりは、そういうことね」
「そういうことだ」
アストラエアは、敵の懐に飛び込むとともに――垂直円を投じるように槍撃を放った。それがあまりに簡単にかわされたことを確かめて彼女は、さらなる突きを打ち込む。
だが、その突きをすり抜けるだけの身体能力がアレスにはあった。
「遅い、まだま――ぐbおッ!!」
「……」
長槍を放り捨てながらの膝蹴りが、アレスのみぞおちへと命中していた。槍撃は端から囮だった。突きをかわした相手が懐へと飛び込んでくることを見越しての膝蹴りである。
こうして膝をついたアレスへと、にこやかに微笑むアストラエアだった。
「槍を使うなんて、誰が言ったの?」
「ぐ……は、は、ははははははは」
喉から絞り出すような声でもって、男は笑い出した。
「本当に面白い女だ。楽しませてもらおうか」
肉弾戦の火蓋が、切って落とされた。
~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~
見事な戦いだった。上段突き、上段蹴り、直線打ちなどの大振り技を無駄のない流れでもって仕掛けるアレスに、それらをすんでのところでいなしながら受け止めるアストラエアという構図だった。
大柄の男による連続攻撃は、トールがかつて見たことがないほどに洗練されていて、大胆で、美麗だった。対するアストラエアは、防戦一方であった。体重が違い過ぎると言ってしまえばそれまでだが、とにかく攻撃の手を欠いていた。
アレスによる回し蹴りをしゃがんで避けたなら、そんな動きなど読んでいたとばかり踵落としへと変化していく。両手でそれを受け止めるのだが、衝撃を吸収することは出来なかったようで――アストラエアは両膝付きの姿勢となった。
「そらッ!!」
受け止められた右脚を起点として、残りの脚での顔面蹴り。その二段蹴りとも呼ぶべきものは見事に命中し、その身体はすっ飛んでしまう。
「エア!」
「大……丈夫」
大丈夫とは言ったが、恐らく聞こえてはいないだろう。溢れ出る鼻血が気になって、まともに発音ができていない。
「なんだ、そんなものか? まあ、うちの隊員よりはずっと強いが」
「……アレス隊長。あなたはそんなこと言ってて悲しくならないのか? みんな殺されたのに」
「ああ、死んだ。だがそれでいい。愛しき弟子たちも死んだが、うるさい老害どもも死んだ。これでよかったのだ。革命にとっては致し方ない犠牲者よ」
アストラエアは、鼻血を拭うとともに穴に溜まった血分を吹き出した。すっくと立ち上がる。
「いいぞ。もしお前がうちの隊にいたならば、虐殺などさせなかったやもしれぬ」
「それは恐縮……ですっ」
激しい撃ち合いが続いた。
組み合いの当初こそアストラエアが攻め続けるのだが、次第にペースを握られて劣勢となってしまう。これまでトールが見てきたパターンだった。その度に、彼女は後ろに下がって、また組み手が再開されるのだが――ただ、アレスがそれを許しているだけだった。戦いを楽しんでいるのだ。
外から、内へ。内から、外へ。様々な角度から拳撃を続けるアストラエア。腕に、胸に、腹に、脚に。とにかく打ち続けるも、体重差だけはどうにもならない。
ここで、フェイントとしての飛び蹴りを打ち込んで――ガードの上から正拳突きを放った。それは、アレスのこめかみに命中するも、
「はあああああっ」
「ぎっ!」
喉仏から染み出てくるような発音とともに、首元に右手をあてがわれてしまう。締めつけの始まりだった。今打ち込んだばかりの右腕は、敵人の左腕によりロックされてしまった。
「……!」
その締めつけの強さに、苦悶の表情を浮かべるアストラエア。ぎりぎりと頚動脈が締まっていく感触が、彼女の心を――さらに燃え上がらせるのだった。
アストラエアは、自由である左手と、地に付いている2本の足の裏に意識をやった。ロックされている右腕が、今の彼女にとっての安定への起点のひとつとなっている。
「エア、エア!」
トールは、我慢し切れずに飛び出そうとしていた。だが、留まった。視線の先で繰り広げられる光景のためだった。
遠目だったが、闇に慣れた目でトールは認識していた。アストラエアが、絡み付いたままのアレスの右手指に噛み付いて、ロックを解いたことで――その技は成った。
アストラエアは、跳んでいた。身体を捻りながら飛び跳ね、そして、確かにアレスの右腕へと身体全体でもって絡み付いている。両の太ももで、男の上腕が挟まれる。
と同時に、アレスの右半身がおかしな動きを見せ始めている。そちら側だけがグラグラとして、今にも倒れそうなのである。トールはいま見ている技について全力で記憶を探った。そうだ、確かに習ったのだ、大昔のことではあるが。あれは、そう――
「ぬうんッ!!」
「うあっ!」
アストラエアの身体が黒鉄色の床に叩き付けられても――その右腕への絡みを離すことはなかった。トールは、トールは確かに思い出したのだった。アレスの痛みに震える表情を観察することによって。
それは、アストラエアの必殺の一撃だった。しなやかなる両脚でもって、敵人の二の腕あたりを中心として挟み込む。そうしたなら、自らの骨盤を支点として、その腕の関節を全力で逸らしていく。肘関節が可動域を越えて伸ばされた相手は、ひたすらに力の方向を変えようと努めるしかない。もっとも、そんな状態になってから逃れられる余地のある者など軍団には存在しないと言ってよいのだが――跳び付き十字固め、完成。
苦痛に顔を歪ませるアレスを眺めながら、トールは――こんなときにも関わらず、回想に耽っていた。いや、耽らざるを得なかった。
もう、だいぶ昔のことだ。自分が特等兵団への入団を認められる1年半ほど前だったろうか。当時、アストラエアと同じ十使隊に属していた当時のトールは、将来は剣兵としての活躍を期待される若兵だった。
当時、すでに一人前の軍団兵としての職務を遂行していたアストラエアだったが、槍兵であった彼女に対して、トールは疑念を抱いていた。確かに槍の腕は見事なものだったが、他兵とは違って他の方向性を試すことのないアストラエアの様子は、トールには疑問の対象となっていた。
そんなある日、トールは彼女に無理やりに剣を渡すと模擬戦を売ってでた。先に一撃を入れた方が勝ちというルールだった。それは、様々な武器を使いこなせた方がいいし、ある武器を選んだからといって途中で他のものを試してもよいのだということを後輩に習慣付けるためであった。
剣戟は、周りから見ても見事なものだった。両者ともに、あたかも真剣勝負であるかのような撃ち合いを続けているのだが、その中にも、刀身を合わせて受け流す、相手の脈をずらすために態と小音を立てるように剣同士をぶつける、フェイントとしての踏み込みなど、多様なる技巧があった。
やがて、互いに剣を振り抜けるにも支障が出るほどの疲労が溜まったところで、当時の十使隊長が提案したのである――トールの剣士生命が絶たれたのは、いわば運命だった。
「どんな手段を使っても、先に参ったと言わせた方の勝ち」。遊び心での提案だったが、それが告げられるやいなや――アストラエアの足先は、地面を蹴ってトールの顔に砂利を浴びせていた。すかさずアストラエアは剣を振りかざすが、それはフェイントであった。受けたトールにとっては不思議な感覚がしたろう――剣の先にある感触が、急になくなってしまったのだから。
アストラエアは、剣を捨てていた。トールの真後ろへと体勢をずらし込むと、そのまま襟締めを決めてみせた。トールは、強引にアストラエアを腰投げすることで、これを回避したのだが――両者の身体が地面に着いた途端、トールはその左腕が絡み取られていく感覚を得た。それを防ごうとする右腕を軍靴で蹴飛ばされ、その1秒後――華麗なる関節技によって、彼の剣士生命は絶たれたのだった。
トールは、痛みに顔を歪ませるアレスを眺めながら、アストラエアについて――これまでにロスヴァイセから聞いたことを整理しつつ、導き出していた己の結論を再確認している。そうして、それが正しいものであるかを確認するという作業をどうしても躊躇してしまうのだった。どうしても、アストラエア自身に確かめねばならないことだから。
「うおおおおッ!!」
立ち上がった。アレスが立ち上がったのだった。彼が勝機を見出したのか、それともアストラエアが油断したのかは分からない。だが、彼は確かに――アストラエアに右腕を絡み取られたまま黒鉄の床へと屹立していた。
アストラエアは、全知だった。
こと戦においては、敵人のすべての動きを読んでしまえるのだった。それは、視覚、触覚、嗅覚などのあらゆる感覚が彼女を戦へと駆り立てるからだった。アレスが、彼女を壁へと叩き付ける動きを示す直前であった、アストラエアが動いたのは。一気に十字固めを解除すると、想定が狂ったアレスは体勢を崩してしまう。
その隙を見逃すはずがなかった。真後ろから飛び付くと、そのまま前方向へと大男を組み倒す。こうして、男の首には死神の鎌が掛かった。アストラエアの右手は――アレスの頚動脈の真下を通って、その襟首を握っていた。そのまま右手首を翻す。そして、左手によって男の背筋を押さえ付けながら、寝姿勢のままで彼女は回った。回り続けた。その度にアレスの首は極まっていき、意識が遠のいていく――回転送り襟締め、開眼。
「……」
アストラエアは、困憊だった。
昼からずっと運動を続けており、肉体疲労は限界に達していた。それでも彼女の情感は、彼女に『もっと動け。動ける』と命令叱咤するのであった。
アストラエアは、トールの方へと向き直った。普通に話ができるほどの距離だった。トールは彼女を心配して近づいていた。
「ごめんね、怖かったね」
「そんなことないよ」
アストラエアの表情が曇った。その顔は、彼によれば――アストラエアの、いつもの顔。戦場以外での顔付きに思えた。
「う、ぐす……わたし、わたしああやって、トールのこと壊したんだ……どうして、こうなるんだろ。ねえ、教えてよ。どうして、壊したくなっちゃうの? どんな武器を握っても、さっきみたいな肉弾戦でも、どうしても――本能に逆らえなくなるの。でも、槍を握った時は違う。そんな衝動は起こらないの。どうして、ねえ、教えてよ。トールなら知ってるんでしょ」
トールのもつ答えは推論に過ぎなかった。だが、いま言わねば機会はない。
「武具にまつわる神々だ。大昔に、イーオン教国が成立する前に存在していたという数多くの神々の一種。今は追い出されてしまったが、存在はしているという。彼らは剣の神、槌の神、弓の神、杖の神……槍の神。とにかく大勢いる。数ある神のうちで、それに好かれている神使の得意武器がそれになるんだ。もちろん教科書なんかには書いてないけど、軍団では大昔からその考え方で訓練をやってる」
「……うん」
アストラエアが反芻しやすいよう、間を置いてからトールは語りかける。
「アストラエア。君は、そうした類の神に好かれている。いや、愛されていると言っていい。その神々は使用者の武器に宿る。そして使用者に扱われ、思う存分に暴れて益を得る。多くの益を得られる使用者がいれば、そうでないこともある。ここまで言えば分かってもらえたと思う。君は、槍の神だけには、そこまで愛されていない。だからこそ、槍だけはなんとか普通に扱うことが出来るんだ」
「……」
彼女は、心当たりを探していた。槍の神に愛されぬ理由を。確信めいた考えは浮かんでこなかったものの、瑣末な心当たりを考えてしまい、顔が真っ赤になってしまう。
「……ごめん、話し過ぎたね。行こう。教皇のいる広間に」
「こっちこそ。ありがとうね。トールがいたから、楽になったよ!」
到底、軍団兵とは思えない爛漫な笑顔に、トールの心は掻き乱されていく。彼は、掻き乱されてはならないだけの義務も義理もある立場だったが、それでもアストラエアが愛おしかった。
こうして、ふたりは――その門の間近へと立った。門戸の取っ手を掴んだなら、少しだけ引いてみる。鍵はかかっていない。
「じゃあ、手はず通りに」
「うん、わかった!」
想像よりも、開扉による音響は小さかった――奇妙な当ての外れ方だったが、あくまで彼女は前だけを見据えていた。