第6話 死 闘 (ⅴ)
「はああああっ!!」
怒声を上げながら、アストラエアの長槍はベリアルへと迫っていく。普段のものより、だいぶ高級な槍だった。手に馴染むだけでなく、その重さも心地よい。
「ふんッ!!」
真上から振り下ろされる大剣の隙間を塗って、ベリアルの股下をかい潜っていくヘイムヴィーゲ。一瞬、真下へと気を取られた隙に――彼の斜め上から降ってくる流星として、リエラムによる焔の矢は認識された。
大剣を盾として用いるも、斜め後ろ方向に在るヘイムヴィーゲの追撃である――天魔槍による重力波に、彼の肉体はぐらついてしまう。すかさず、ロスヴァイセによる一閃がベリアルの脇腹を掠るのだった。
その刀身より出でる焔は、ベリアルを焼き尽くすはずだったが――瞬く間に掻き消えることになった。いったん、その剣を彼女らに向けて投げ飛ばしたベリアル、次いで凄まじい形相でもって魔力を発したなら、瞬く間に焔は火の粉となって舞い散るのだった。
反撃は、また続く。対する追撃も、また続く。
一直線に走って行くベリアル。そこには、恐怖で顔を強ばらせながらも――先輩の敵とばかり熾星剣リエラムを構えるロスヴァイセの姿があった。
「……明けき夜」
それが、リエラムに篭められし至高の剣技の名前だった。
魔器においては、使用者の魔力量が足りていれば勝手に魔術を発動してくれるのだが、使用者の意思の品質によって威力が変化するのは自明の理である。
その焔は、蒼かった。空気抵抗を受けながら四方八方へと尾を散らす、ロスヴァイセの迸る怒りを掻き立てた一閃だった。その焔をなで斬りにして霧散させるには、彼にとってのあまりの時間を要した。
「くらえぇっ!」
ロスヴァイセのひと太刀が、ついにベリアルの巨躯を捉える。胸板に傷を入れただけだったが、これまでは想定以上の素早さでもって攻撃をことごとく回避されていた分だけ、それは3名にとっての希望となった。
「……今よ、アストラエア!」
唾が咽喉に絡んだような滑りとした声で、ヘイムヴィーゲが事伝える。アストラエアが「分かった」と頷きを返すと、彼女は引き続き天魔槍へと思念を送っていく。
見れば、ベリアルの様子がおかしい。アストラエアは、じりじりと近寄りながら攻撃の機会を伺っているというのに――彼は、微動だにしていない。いや、できなかった。天魔槍による重力操作によって。それは、このフィーニスという世界において生物を大地へと這わせるところの、呪いの力として認識されていた。
「……」
動けないベリアルを、高翼の構えを取ったアストラエアが静かに狙っている。ベリアルの顔は、憤怒だった。もう少しだけ、彼女が近くに寄ったなら。歯ぎしりの音が聞こえてくることだろう。
「いくぞ……」
誰にも聞こえぬよう、そう呟いたアストラエア。合計で3歩ほどのステップの後に、その場の誰にも認識できぬほどの速度で放たれる突き。アストラエアの身体は、その戦闘衣と相まって、まるで――
そうして、彼女の長槍は砕け散った。側で見ていたはずのロスヴァイセも、ヘイムヴィーゲも、一瞬なにが起こったのか分からなかったが、アストラエアによる高速突きと同時に、ベリアルの身体が――今もそうだが――黄色く光って、膨張しているのだった。
それは、あたかも金色なる生物の獣毛が周りを食うように肥大化していくような、そんなイメージでもってアストラエアには捉えられた。彼女は、動けなかった。勝利を、勝利を一瞬だけ確信してしまったのだった。兵士としては二流の怠慢である。そのせいで、こうして動けずにいる。
「エアっ!」
ロスヴァイセが手を引いてくれなければ、その金色の膨張物に巻き込まれていたろう。アストラエアは、かぶりを振りながらロスヴァイセに謝るのだった。
「ごめん、わたし」
「気にしないで、いいのよ。それより……」
その膨張物が、次第に形を取っていく。「早く逃げるんだ」と叫びながら床を這っていたトールが、ステファに抱えられて階段の隅まで移動していることを確かめてヘイムヴィーゲは、
「変化……変化の魔術。まさか」
その姿が顕現するにつれて、これから起こるであろう絶望に顔を歪ませるヘイムヴィーゲだった。
「あいつ、あんな脳筋のナリして魔術まで使えるなんて。嘘よ……」
ロスヴァイセは、右腕を抱えながらそれをずっと見ていた。逃げられないのは分かっていたから。
「ドラゴンだッ!!」
トールがそう叫んだ瞬間に、超大なる尻尾が具現化する。一気に振り回されたそれは、ヘイムヴィーゲが咄嗟に反応した結果である防御など軽く突き破って、その華奢な身体を防具置き場に陳列された収納棚まで吹っ飛ばすのだった。
それでも、なんとか自分の下腹部を両手で挟み込むようにして身体を翻していく。様々なものが砕け散る音とともに、ヘイムヴィーゲの身体は倒れゆく棚々の海へと沈んでいった。
「GHWWAAAAAAA!!」
この場にいる誰もが聞いたことのないであろう、階下中をガタガタと鳴らし立てて崩し去っていくような――大いなる咆哮が、この空間を支配している。
ロスヴァイセは、一歩、また一歩と下がっていく。途端、走り出すと――アストラエアのすぐ側へと。そうして、耳打ちを行った。
「一応確認するけど……退避するの?」
「そんなこと、わたしに聞くのか」
「冗談よ」
ふたりは、改めて武器を構える。一瞬、トールとステファの方を見遣ったが逃げる気はないようだった。ここまで来れば、いや、どこまで行っても行っていなくとも、軍団としての職務を遂行するだけだった。
こうして、姿を現したのは――黄金色の蜥蜴肌を有する、アストラエアたちにとっては見上げるほどの――紛れもなく、竜であった。その巨体が身動ぎしたかと思うと、しなやかな挙動の竜爪がアストラエアを薙ぎ払った。彼女の運動能力でも、初見では見切れない。
「もう一発!!」
ロスヴァイセは、すかさず二撃目の焔の矢を放つも、てんで効いている様子はなかった。直接、竜の肌に命中したにもかかわらず。
竜は、ロスヴァイセへと歩みを進めてくる。圧倒的な速度でもって。
「くそ……」
ロスヴァイセは、一気に万策が尽きたような表情で、僅かに瞳を降ろした。今の光景によって、これまでの前提が崩れ去ったと認識しているようだった。だから、次の瞬間に彼女の内蔵が抉られるのもまた必然だった。
「う、そだ……あぁ、早……早……過ぎる……」
距離を詰められた状態から、その竜尾による突きを受けた。熾星剣でのガードもなきに等しく、ロスヴァイセの女性らしい、ぽっこりと浮き出た可愛らしいお腹は――噴き出る流血でいっぱいになってしまった。尾撃の直線上に居なかったことだけが不幸中の幸いであった。
「あ、あぁ、エア、エア! 逃げて!!」
「GYUUAAAE……」
アストラエアは、漂白だった。
自分からはなにも考えてはいなかったが、あらゆる想念が湧き昇ってくる感じは不気味に心地よかった。
「な、なにをしているの。ま、まさか……ダメッ!!」
ドラゴンのすぐ側を通るようにして、アストラエアはベリアルを見上げる。これから面白いものを見せてやる、とでも言わんばかりの笑みとともに。
竜は、動かなかった。それにより、まだ彼が自分の意思を保っているのだという確信が込み上げてくる。
「エア! それだけは、それだけはだめ! やめるのよ!!」
アストラエアは、倒れ伏すロスヴァイセの前髪を掻き上げた。右のこめかみから耳にかけて、未だに跡が残る傷があった。アストラエアは、彼女を愛おしげに見詰めると、にこりと微笑んでから――すぐ側へと転がる、熾星剣を右手に取った。
「アストラエア……ねえ、エア。お願い、逃げてよ」
アストラエアは、ベリアルと向き合っている。その竜は、そこいらの剣よりもゆうに巨大な爪々を構えると、「弄んでやろう」と言わんばかりの撫で声を轟かせ――振り下ろした。
「……?」
アストラエアは居なかった。
そこには居なかったが、疑問の解決を得る間際に、ベリアルは背後からの殺気を感じ取った。
一閃。竜肌を貫くかと思われたアストラエアの刃は、ベリアルの右前足によって弾かれる。直後、反撃の乱れ突きが飛んできたが、一撃、また一撃と、リエラムを器用な形で盾状に用いることで、猛攻をかわしていく。
ベリアルは、何度も何度も爪撃によってアストラエアを薙ぎ払おうとするのだが、生物の限界点に達したかのような反応速度と、熾星剣リエラムの魔器としての完成度の前に阻まれてしまう。
一体、どこから自分の何十倍もの巨体から放たれる攻撃をかわせる要素があるのだろう、と傍らで眺めるトールだったが、その答えが彼の脳裏へと舞い降りるのに、そう時間は掛からなかった。
『そうだ、魔器は彼女を――』と、トールが思い付くのと同時だった、ベリアルが攻撃の手を緩めたのは。肩で息をするように、苦しそうに嗚咽を吐き出す竜。アストラエアは、なんの躊躇いもなく追撃をかけていく。
飛翔しつつ、その口を目掛けて撫で斬りを打とうとする。ベリアルは、大口を開けて彼女を飲み込もうとするも、アストラエアの滑空によりタイミングをずらされてしまう。かくして、その巨体に青焔の斬撃――明けき夜が命中することとなった。
「GAYYAAYAUAUA!!」
その怒涛の声は、真下の階にも響いていることだろう。軍団兵が萎縮していないと良いがという想いを込めつつ、ロスヴァイセは脇腹を抑える。
「う、が、いつつ……!」
「大丈夫ですか!?」
駆け寄ってくる女らしい甘い声に、ロスヴァイセはステファの存在を認める。
「トール先輩の応急措置は終わりました。次はあなたです」
「……生きてたらいいわね。お互い」
「……ですね」
ベリアルは、あらかた啼き終わると、またアストラエアの方を向いた。向いたものの、そこまでの時間が竜にとっては尽く浪費であった。アストラエアは、熾星剣リエラムを構えている。さっきと同じく、槍を翻すようにして肩に載せる姿勢――高翼の構えである。
アストラエアは、無我だった。
「……幻魔」
そう呟いた途端に、アストラエアの姿が消えた。竜は、消えなかった。代わりに、非常識な動きでもって四方八方から切り刻まれる竜の姿があった。出鱈目な動きで、あらゆる方向からベリアルは切り裂かれていた。爪による攻撃も、足による踏みつけも、てんで当たりはしない。
それどころか、リエラムによる斬撃をぶつけられる度に、ベリアルの身体は大きくのたうつように揺らめかねばならなかった。
「GWAA,AA,a……」
ついに首筋を切られ、もはや竜の命が空前の灯火に感じられた時だった。
その生き物は、最後の力を振り絞った。翼をはためかせて送風を始めたのだ。アストラエアは一旦、立ち止まった。その斜め後ろ方向にはデカラビアの死肉が転がっている。
アストラエアは耐えるつもりでいた。この送風もそう長くは続かない、すぐにバテるはずだ。そこが勝負であると、彼女の無意識は認識していた。
やがて、送風が止んだ。それとともに飛びかかるアストラエア――のさらに真上を、竜は飛行している。デカラビアの元にまでたどり着くと、辛うじて原型を保っている肉体を持ち上げるとともに、アストラエアへと投げ付ける。
それを避けるべく心象を始める瞬間であった、その竜の口から熱線が放たれたのは。
デカラビアだったものの肉体から大爆発が起こった。彼女の身体は、その爆風を避けようがなかった。ゴロゴロと冷たい床を転がって、転がって、転がる身体。ようやく壁までぶつかって、それは止まった。
アストラエアは、未だにリエラムを握っていた。これを離さざるを得なくなる時が、彼女にとっての死期になるのだろう。だが、もう限界だった。幻魔という剣技はアストラエアの身体に負担をかけ過ぎていた。
「まるで、剣の神でも見てるみたいだ」
トールは、静かに口ずさみながらも、今さっきまでの彼女の美しさを讃えていた。
剣の神を、自身へと降ろす。あのような技は伝説上のものだと思っていた。というか、偶然に尾鰭が付いて泳ぎ回るという現象の太古版だと思っていた。自分の考えが裏切られて嬉しいなど、それまでの彼には考え付かぬことだった。
だから、よろよろと立ち上がる彼女を垣間見て、なんとしても彼女を守らねばならないと思った。それに、今あいつに勝てる可能性があるのは――アストラエアしかいない。傷だらけの身体ではあるが、盾ぐらいにはなる。
トールが、そう決意して立ち上がったときだった。アストラエアも同時に立ち上がるとともに――ベリアルまで走り寄っていく。待ち構えていた竜はその爪を振り下ろした。両者の力が接触するも、今度はアストラエアが跳ね飛ばされてしまう。限界だった。
「エア、それ以上はだめだ。剣の神に魔力を吸われ切ってしまう!」
あちらへと歩みを進めようとしてトールは、自分の行いを止めるとともに最後の忍耐へと臨もうとしていた。まだ、まだ勝機が残っていることを証明したかった。
ベリアルが近付いていく。リエラムを構えるアストラエアは、その顔から精気が消えかかっている。だが、瞳は死んでいない。むしろ確信すら見て取れるような笑みを、たった今浮かべるのだった。それを確かめて、トールは胸をなで下ろす。
ドラゴンの爪が、これまでの最大級の勢いでもって振り下ろされる直前だった――その背中から血柱が吹き出したのは。その刀身が真っ黒い槍は、不気味で安心感のある光沢でもって、この狭い空間を照らしている。
「GYUUUAA……!!」
「……油断するからよ。わたしは……まだやれるっ!」
先ほどのアストラエアが垣間見たのは、竜の死角から狙いをつけるヘイムヴィーゲの姿であった。
天魔槍ニジェルアルクスの魔術開発指針である、重力。その力でもって、ヘイムヴィーゲは体格に見合わぬ長大な飛翔を決めてから――錐揉み状にベリアルの背中へと落下していった。
「どうしたの、エア。まだまだね」
そういうヘイムヴィーゲの方がはるかに朽ちた格好をしていたが、今現在のアストラエアの耳には入らぬことだった。瞳の虹彩までを力で満たすかのような物苦しい表情を湛えたまま、アストラエアは――最後の斬撃をベリアルに見舞う。
竜の躯体は、よろよろと寒々しい石の床へと沈んでいく。やがて、その躰は独特の鈍い音を立てて転がった。
(第6話、終)