第6話 死 闘 (ⅱ)
3名分の影が、聖アンジェロ宮殿のすぐ裏手に聳える森にあった。
そのひとりは、大柄ではあるが太さを感じさせない、精悍なる体型の男であった。普段は公務を行っている居城を目の前にして、すでに予想していた事態の重さを知るとともに――自らの罪を悔いていた。
左手をこめかみに当てる仕草を示すとともに、その内部の惨状を思い描きながら、立ち姿勢のままで顔を伏せるような挙動を取っている。
「シグルド様」
その漆黒の鎧袖に両手で触れる影があった。女性としては短髪の部類に入るであろうそれを風に棚引かせながら、彼女は慰めに入っていく。
「必要なことです。必要なことだったんです」
「どこが必要なものか。私が機会を誤ったばかりに。もっと早く戻っていれば……」
「シグルド様、シグルド様……こっち、こっち向いて」
「おい、ここでは――」
がさがさ、と小枝を揺らす音。敵の斥候ならば、こんな大袈裟な音は立てない。それは、「あなたたちの居場所を知っているんですよ。味方なんですよ」という兆候的メッセージであった。
「ヘイムヴィーゲ、そんなこと言うのは隊長を否定する行為よ」
「ロスヴァイセ。でも……」
「ふたりとも」
シグルドは、静かに嗜めるような視線を送ると、
「それで、報告は」
「はい。兵隊移動用の魔法陣を発見しました。シグルド様のおっしゃった、そこの斜面の麓あたりです。隠し通路のすぐ近くでした。もう敵兵の輸送は終わっている感じでした。それで、わたしたちは」
「突入後、二手に別れる。お前たちは侵入しているであろう敵兵の殲滅。何百といった単位では侵入していないはずだ。こちらの方は直接にセルギウス聖下の居る上階広間へと向かう。いざという時はそこで防御陣を張っているよう、常々より聖下に伝達している」
「でも、シグルド様。おひとりでは」
「くどいぞ」
「……」
普段は冷静なヘイムヴィーゲであるが、そわそわとしたような挙動を感じるロスヴァイセだった。いつもなら黙って従っているというのに。
「では、出入口まで共に行こう」
シグルドは、その均整の取れた肉体をもって、伸び伸びとした序走を切った。その後に続くふたりも、普通に走っていては永遠に追いつけないことを知っているため、初めから全力での疾走であった。
~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~
地下通路を走っているはずだったが、普段ならば臭うはずのない死の香りが立ち込めていた。厳密には、それが香る前から分かっていたのだが。というのも、地下通路へと入るために崖の麓へと足を踏み入れようとしたのだが――そこには、すでに結界が張られていたから。
円形魔術陣による結界だった。シグルドの索敵によれば、それはあらゆる方向から宮殿への侵入を防ぐための壁として機能している。すなわち敵らは、あたかも聖アンジェロ宮殿を自分たちの城であるかのように扱っていることになる。その結界を一撃で粉砕しつつ、シグルドは奥歯を噛んでいた。
苛立ちと苦悶と不安とを募らせながら、先頭を行くシグルドが通用門を視認する。
「待たせたっ!」
シグルドが、大廊下に広がる下履き絨毯――だったものを視認するのと、ヘイムヴィーゲが口を押さえるのと、ロスヴァイセが頬内の肉を噛み千切りそうになるのとは、ほとんど同時であった。
まともな形状の死体は少なく、中には弄びを受けた者もあった。男の死体は、思う存分に串刺しにされ、女の死体には陵辱の跡があった。苦痛に塗れた表情の死体が鮮明に映っていたのは、城内における照明という照明が、すべて点灯されていたからである。それは、魔柱らの饗宴のためだった。命乞いをする生き物を弄んで殺し、保存してある食糧や酒類を頬張って愉しむための、饗宴だった。
ロスヴァイセは視線を逸らさなかった。ここは殆ど出口であるからして、亡骸のほとんどは兵隊のものかと思われたが、魔柱の屍体もそれなりにあった。その比率は、目分量で2対1といったところ。完全なる奇襲にしてはかなりの健闘に違いない、とロスヴァイセは思った。思いたかった。
ヘイムヴィーゲは、見知った顔の男が、顔のすべてのパーツ、それも視神経までもが抉り抜かれ、もぎ取られたうえで――すっぱりと開かれた頚動脈の中に突っ込んであるのを見て、思わず涙が込み上げてきた。そんな死体が、この階には多くあった。悲しみを堪えて上階へと向かおうとする中で、今度は豪奢なる欄干に繋がれて辱めを受けたヘイムヴィーゲの友の惨状が視界を支配するのだった。見ていたくなかった。
やはり、首の動脈の一部が開かれたうえで、そこに身体の各所のパーツ――性器までを含めて――が強引に詰め込まれていた。それらの一部が弧状に損壊していることからして、恐らくはそのようなかたちで食事を取っていたのだろうという推察が出てくる自分の不気味な冷静さが、ますます嫌になるロスヴァイセであった。
「隊長、行きましょう。ちゃんと使用人用の避難口もありますし、それに近衛隊もおります」
「ロスヴァイセの言うとおりです。ひとりでも無事であることを祈りましょう……」
「祈るんじゃない」
ロスヴァイセに返答を告げるとともに、ヘイムヴィーゲの腕を強引にとって――平手打ちを放つシグルド。
「祈るんじゃない。そんなものに頼った時点で負けだと教えてきたじゃないか。運というのはな、最大限に努力した者に対して降ってくる、ほんのわずかな恩恵に過ぎぬのだ。ヘイムヴィーゲよ、お前はいつまで呆けてる」
「……シグルドさま、わたし……弱くなりました?」
「……そんなことはない。ただ、本調子になれないだけさ」
こうして、赤絨毯の階段を登っていく3名。長大に続いているそれを、彼らは息を乱さず上がってゆく。やがて、さっきの饗宴の場よりふた回りは暗い空間に到達した。
「いいか。まずはここから続く渡り廊下をまっすぐに進む。途中にある階段が見えたら一旦の別れだ。私は上階に行く。君たちはさらにまっすぐ。激しい戦いになっているとしたら、その先にある棟々である可能性が高い。ちょうど避難口もそちらの方にある。覚悟を決めるんだ」
ヘイムヴィーゲの眼差しは少し疲れたような様子で、しかしながら思慮的な気配を留めていた。彼女にとっての普段の佇まいが戻ってきたのを確かめて、シグルドの表情が少しだけはにかんだ。
「……あなたこそ」
ロスヴァイセには聞こえないように、そうっと呟くヘイムヴィーゲだった。
「危ない、そこに何かいる!」
シグルドの声の方が僅かに早かった、とヘイムヴィーゲには思えた。ロスヴァイセも同じ意味のことを叫んでいたから。
飛んできた屍体の腕先を斬り払って彼女は、天魔槍ニジェルアルクスをまっすぐに構える。さほど大きな槍ではないものの、魔器の威力というのは、純粋に使用者の武力と魔力とに比例する。
「一気に駆け抜けるぞ!!」
シグルドとロスヴァイセは、一番手を同時に駆って出る。武器を構えた分だけ後れを取ったヘイムヴィーゲだったが、すぐに追いすがる。
「……! ……!」
奥の方で、声が聞こえる。
「詠唱だ。いいか気をつけろ! 停まれという意味じゃない、気を付けて駆け抜けろってことだ!!」
シグルドの檄とともに、この中では二番目にすばしっこいロスヴァイセの炎の剣撃が、敵人めがけて疾駆していった。
途端、黒緑色の液体が前方へと散っていく。数体の屍体を片付けることに成功して……いなかった。肉人形は、またカタカタと動き出して形を整えようとしている。
「これは……死霊魔術師だ」
「参りましたね、隊長。それ」
「以前に講義でも教えたが、イーオン教国にはない系統の魔術だ。知能生物の死体を操作して我が物とできる。攻略法は……」
大振りされた大剣は、狭く長い廊下の中で――周囲の者が耳を塞がざるを得ないほどの衝撃音を放つのだった。
シグルドの魔器、風魔剣アル・サンクトゥスによる一閃は、瞬く間に幾筋もの竜巻となって死霊どもを切り裂き、払い飛ばした。城内の壁に激突することで砕け散ったかつての仲間たちに苦悶の一瞥を向けて、シグルドはさらに疾走する。魔術師との距離は詰まっていた。
敵の魔術師は、まだ何かの呪文を詠唱していた。操作や召喚などの常在型な魔術については、形相に絶えず働きかける必要が生じるため、その意識を上位次元へと接続しておくための詠唱が不可欠となる。
「屍体爆散」
死霊魔術師による宣明は重低音ではあったが――これまでのボソボソとした声ではなく、明瞭なる発音であった。即時発動型の魔術に関しては、その一瞬の意識の強さによって魔現の際の強度が決まるといっても過言ではない。
「伏せろッ!!」
自分の周りに竜巻を出現させ、とっさの守りに入ったシグルド。ロスヴァイセは愛剣となったばかりのリエラムに意識を込めて、それが発動させた炎の壁に身を委ねる。ヘイムヴィーゲは、その頑強たる火炎の真後ろにいた。ここは一旦の安全地帯である。
前列のシグルドは、起こした風によって死霊を滅多斬りにすることで活路を開こうとするも、あまりの敵数の多さに、その歩みは牛歩であった。にも関わらず、死霊は次々と魔術師の背後より現れる。その供給源たる戦場を鎮めるべく、これから立ち向かわねばならないというのに、時間は一刻を争うときている。
ロスヴァイセは、炎の隙間からシグルドの斜め顔をそっと覗いた。歯がゆい表情をしていた。仲間の屍体が襲ってくることなど気にも留めずに突進すべきかと思ったが、こいつらの肉体に毒性が付与されている可能性もあった。そうなると、今後の戦闘での苦戦は必死である。
「くそ、こいつは端っから……足止め要因だったってことね……!」
「大丈夫、わたしが行くから」
嘆息するロスヴァイセの背後で、天魔槍を構えるヘイムヴィーゲ。次々を押し寄せる屍体らがヘイムヴィーゲの集中を乱すより前に、熾星剣によって死した者どもを殺処分していく。
ロスヴァイセが何十体かの屍体を倒した後に、天魔槍の柄部分をカツンと床に突いたヘイムヴィーゲ。準備完了の合図であった。
「シグルド様!」
瞬発的に振り向いたシグルドであったが――その振り向いた先に、1本の大槍となって大気を駆け抜けていくヘイムヴィーゲの姿を映した。いや、映したというよりは、映ったという方が正しい。というのも、シグルドでさえ認識できない速度だったから。ロスヴァイセにとっては、さらに刹那の時であった。なにしろ、ヘイムヴィーゲが消えたと思ったら、魔術師の断末魔が聞こえてきたのだから――夜明けの羽ばたき、超動。
なんのことはなかった、それは重力操作の力をもつ天魔槍ニジェルアルクスに内蔵される魔術だった――いや、内蔵されるというよりは、魔器が装者に代わって魔術を唱えていると言った方が正しい。
星辰の力のひとつである、重力の動きを書き換えることで――その天球が自転を続ける力の一部を操作し、我が物としたのだった。死霊魔術師が消えたことで、周囲の屍体はその動きを止めた。
屍体らの冥福を祈る余裕すらなく――その後、3名の特等兵団は各々の役割を果たすために散っていった。