第6話 死 闘 (ⅰ)
アストラエアは、失望だった。
「どう……して? なんで……?」
「……はっ」
ニヤリと口角を釣り上げるフォルトナを凝視して、アストラエアは、
「どうしてっ!! 軍団の一員であるお前がっ!! 魔柱の手引きなんかしてるっ!!」
「気が変わったんだよ」
「ふざけるな、魔柱側に就くなど!」
「ついてねえ。魔柱とは一時の仲だ」
「……どういうことだ」
「てめえの脳筋でよく考えな。あんなペテンに引っかかった阿呆が」
「……きっさまあぁ……!」
はち切れそうになった頭を冷やすため、戦闘衣に僅かに残った水分を拭い取って、顔に掛けた。性質情報を歪めたことで現れる自然物は、本来のそれよりも遥かに脆い。彼女の手に染み付いただけで、水分はあっという間に大気へと溶けていく。
とはいえ、水蒸気爆発を浴びたばかりの彼女だった。その頬に冷たい水が染み込んだだけで、思わず痛みの声を上げそうになる。彼女が来ている戦闘衣というのは、耐衝、耐刃、耐熱、耐水ときているうえに、自身の魔術力を高める効果まである。当然、魔術に対する防御も高くなる。
「けっこうもつんだな、あんな馬鹿みたいな魔術を食らったってのに。さすがは特等兵団ってか。お前、一般の軍団兵の戦闘査定じゃ上位数パーセントに位置してたもんな。まあ、俺もだけど。ところで、あの魔術師だけど、魔柱の中でも相当の手練らしいぜ。俺たちの敵さんも太っ腹だなあ、そんなやつ貸してくれるなんて」
「……馬鹿が。そのへんの頭は、てんで効かないようだな」
「あぁ?」
「そんな強力な奴らを手引きして、目的達成後とやらに皆殺しにされるのはお前たちだ」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ。んなこと分かってるよ、そんなことさせないように近衛隊があいつらを止めるんだろうが。ただ俺はな、これから殺されるであろうお前をちょっとでも楽に逝かせてやろうと思ってるんだよ。情けだ、情け」
「やっぱり、お前は馬鹿だ」
「てめえ、根拠はあるんだろうな阿呆女」
「敵将の、ベリアルという者が来ているとしたら……近衛隊まで含めて全滅だろうな。あいつの強さはシグルド隊長にも匹敵するぞ」
「……ほざいてろ」
顔面蒼白には至らずとも、その表情が強張る様子を観察できたと彼女は思っていた。
一般の兵は、特等兵団の戦闘記録を知らない。だから、ベリアルとデカラビアの2名が特等兵団の複数名を始末していることを知らない。フレイらの殉職自体は知っているが。
「はあっは、ああははははは!」
「なにが可笑しいっ」
「フレイの奴が、無残に犯し殺されたやつだろ?」
「……どういうことだ。なぜお前が知ってる?」
アストラエアは、思わず舌打ちをしてしまう。どうして、どうしてフォルトナが。百使隊長だったとはいえ、一般兵である彼が知っているんだという疑問が彼女を支配していた。
その事実について、「裏切り者は彼だけではない」という自明の前提に接するのと――フォルトナの炎熱魔術が迫り来るのを認知するのとは同時であった。
せかせかと小さな人工丘陵を駆け回りながら、アストラエアは結論に達する。相当な公職に就く者が、この反乱の首謀者であると。
「メサラ執政官かっ」
「……?」
暗闇ですら判別できる、「なぜ知っている」という表情こそ彼女が欲しかった反応だった。
メサラが首謀者というのは勘に過ぎなかった。過ぎなかったが、フォルトナの反応によって首謀者を絞り込めるかもしれなかった。アストラエアは、本来ならばメサラの名が出てきた直観的推理の正体について論じたかったのであるが、当然ながらそのような暇はない。
鞭打つような形状の焔を跳ぶようにして避けるのだが、限界は間近であった。それは少しずつ角度をずらしながら、時には思い切って発射位置を変えるかたちでアストラエアへと迫る。
フォルトナの術兵としての能力は本物だった。ただでさえ疲弊しているのに、これ以上は戦えたものではない。ただ、不幸中の幸いなる要素は――
「アストラエアぁ、覚悟しろやっ!」
アストラエアは、当初の位置関係よりもずっと前に出ていた。かわす余裕はなく、常緑高樹の枝上に乗っかり、さらに上へ。
「枝葉ごと燃やし尽くしてやるっ!!」
燃えたぎる熱の大気が円状となって樹木を覆った。アストラエアは、ギリギリで樹上までたどり着くも、
「葉炎」
魔術師にとって、詠唱のみならず魔術名の宣言なるものは――その成功のための最後の一指しのようなものであった。魔現という、魔術発動のための最終ステップにおいては、それそのものの出現について強烈にイメージできる必要がある。そのための暗示として、彼らは日々、魔術名の宣言と鮮明なるイメージングとを連結させる訓練を積んでいるのである。
『不幸中の……幸いだな』
アストラエアの、心の言葉だった。常緑高樹は真っ赤な炎に包まれているも、アストラエアは、そこから飛び降りはしなかった。炎に包まれながらも、待った。
その翼を、戦闘衣の背中部分から取り出しながら――
『さっきの魔術師に比べると、魔術力がひと回りは弱い。本当に幸運だった』
アストラエアは、飛翔した。
燃え盛る炎の中から身を乗り出したのだ。滑空しか出来ない神使の翼ではあるが、錐揉み状にジャンプするなどして、その速度を高める方法はいくらかある。その運動能力は、フォルトナの予想よりも遥かなるスピードを体現する――
「どこに降りるつもりだ、させるか、おい! 俺の女だぞ!!」
言を荒げながら、連続的に炎熱を飛ばしていくフォルトナ。もはや、そんな雑な想念でもって放たれるのは魔術などではなかった。ただの素朴な炎に過ぎない。
「皇女に向かって、どんな口を聞いてるんだゴミ虫野郎っ!!」
アストラエアは、およそ女性とは思えない口調で言葉を返すのだった。そして、自身の愛槍を、身体をぐにゃりと歪ませながら――投げた。
「うお、あぶねえ!!」
辛うじて回避したフォルトナなどには目もくれず、アストラエアはクラウディアに駆け寄る。
「大丈夫ですか、クラウディアさま!!」
「……はい! 助けに来てくれて……うっ、えぐ、う……ありがとう……怖かった」
切ない瞳で見上げてくる少女だったが、暖かい瞳で見守っている余裕もなかった。
「……おい、覚悟はいいか! そのクラウディアはな。俺が……」
「お前ごときが呼んでいい名じゃないっ!!」
あまりの大声に、フォルトナが一瞬だけたじろいだ隙に走り出すアストラエア。その肩には皇女を担いでいる。
目指すは城内だった。皇族ならば避難用通路の場所を知っている、というシグルドの講義内容が頭に残っていた。
「あ、アストラエア? 重くはないですか?」
「空気みたいなものですよ、わたし達軍団兵にとっては」
「逃がすか!」
そこまで余裕のある距離でもなかった。だが、武器の1本すらもっていないアストラエアが戦うなど無謀の極みだった。ひとまずは逃げ切らねばならない。アストラエアの体力ならば、皇女を担いでどこまでも走れるのだが――
「もらったぞ!!」
炎熱の矢が、アストラエアの右腰ぎりぎりを掠めていく。そのあまりの熱さに、皇女を抱えたまま崩れ転がるアストラエア。皇女に対する申し訳なさと、一抹の絶望とが彼女の心にはあった。
たちまちに丘を駆け下りてくるフォルトナ。
「よ~やく、捕まえられるな!」
「アストラエア!」
「く、クラウディアさま……すいません」
立ち上がろうとするアストラエアだったが、距離は詰められつつある。
最後の手段はあったが、この土壇場ですら躊躇されるほどの手段である。それしか彼女には残されていなかった。いや、土壇場においても手段があるだけ恵まれているのかもしれない。
「あ、アストラエア。お願い、今だけクラウディアって呼んで。秘策があるの……」
そう言って、クラウディアは耳打ちをする。目前へと迫り、余裕のあまり徒歩へと切り替えるフォルトナ。その顔は、まさに下卑の一言である。
「な、なにを言ってるんですか……」
「はやくっ」
アストラエアは、覚悟を決めた。
「……クラウディア」
「!」
アストラエアは、高く澄んだ声で、クラウディアの耳元で囁くのだった。
そして、次の瞬間。確かに感じた。魔力の鼓動を。
「ありがとうございます。わたくしが魔術を使うには、何とかして、その……雰囲気を高めるしかないんです。心が高ぶっていないと、そもそも魔繋すら出来なくて……こんな、どうしようもない血統――と、とにかく、もうちょっと待ってください!」
「お待たせエェ~~!!」
濁りと臭みがごっちゃ煮になったような声で、フォルトナは叫び来たる。
どうやら、クラウディアが扱う魔術の発動には時間がかかるらしい。アストラエアは、後ろ手のような姿勢になってクラウディアの手を握った。市井で流行っているらしい指文字で、クラウディアの手の平に「がんばれ」と書き込むのだった。
「アストラエア……」
ここで、クラウディアと距離を離した。フォルトナのところまで歩いていくと、よろよろとなりながらも視線を彼へと合わせる。勝機は、一度きりだった。
「じゃあ、まずはお前からな。もちろんお前だよ、アストラエア」
アストラエアが考えた、勝機を見出すための術はただひとつ。
「ご、ごめんなさい……でしたっ」
「……あ? どういうつもりだ、こら」
「あ、あたし、本当はフォルトナ先輩のこと……きらいじゃなかった……です。でも……」
「でもぉ!?」
アストラエアの腹部に痛みが走る。目の前のフォルトナに握り締められていたから、彼女のお腹の脂肪分を。また同時に、フォルトナは人差し指でアストラエアの顎を持ち上げる。
「でも……なんだよ。ほら、言ってみろ」
「だ、だって。フォルトナ先輩……あ、あんな乱暴なことするんだから……もっと、もっと優しく誘ってくれてたら……そ、それで。その……あたしも、先輩へのアピール不足でした。ごめんなさい……でしたっ」
「ほお……」
瞳を涙で濡らしつつ、両手を組んで上目遣いのアストラエア。うるうると光り輝く涙の粒は、可憐な乙女の命乞いとしては十分過ぎるものだった。
「お前、馬鹿じゃねえの」
「ば、ばか、です。でも、フォルトナ先輩。あたしの気持ち、受け取って下さい……でした」
「……」
フォルトナは、苦笑していた。分かっている。分かっていた。しかしながら、それでもアストラエアの可憐さに胸を打たれている自分がいた。
ずっと、アストラエアを抱きたいと思っていた。自分の女にしたいと思っていた。機会はやってこなかった。だから、無理矢理にでも作りだそうとした。それが、あんな結果になってしまった。
アストラエアに仕掛けたペテンが判明し、懲罰房行きとなった。出世との縁も切れたと思っていいだろう。そんな彼にとっては、自分の意思であろうとなかろうと、アストラエアがこうして――自分の女になりたいと命乞いをしてくることに意味があった。
「クク、ククク……よし」
「ふぐっ」
アストラエアの頬が掴まれる。そのまま、口吸いが始められようとしていた。
「おい、震えてるぞ」
「だ、って、フォルトナ先輩と……こんなこと。や、優しく……」
「任せ――」
「アストラエア、手を!」
アストラエアは、天使だった。
いや、天使はクラウディアの方で、アストラエアは、その力を分け与えられただけだった。
「な……は……」
騙されたことよりも、アストラエアを失った怒りよりも――
「な、な、なんで……」
「さて、決着をつけようかフォルトナあああああああッ!!」
「どうして、お前たちは空を飛んでいるんだっ!!」
神使という種族が完全に空を飛べなくなってから、はや千年が経つ。それは、標準的な退化によってだった。大昔の神使というのは、日々の飛行に関する時間的な量が格段に多かった。だが、文明が発展してからは飛行のための時間はどんどん減っていった。飛行の訓練をしたくとも日々の労働が忙しく、そのための時間を取ることができない。
それこそが現在の神使である。滑空ならば辛うじて出来るものの、それすら不可能になるという論者もいる。空中遊泳のできる神使というのは、すなわち存在しないのである。だから、フォルトナは奇跡を見たように興奮してしまった。
「……覚悟を決めろッ!」
とはいえ、アストラエアには武器がなかった。すべて使い切っていたから。だから、魔術そのものが武器であった。
クラウディアは、念じた。フォルトナが地面へと吸い付けられて動けなくなるイメージング。
「な、な……身体が……うご……か……」
フォルトナはしゃがみ込んで耐えるも、そこから微動だにできない。
「アストラエア、これから……て下さい」
「分かりました……願わくば、イーオン神よ。わたくしめにお力を」
刹那だった。
「がはァっ!!」
フォルトナには反応不可能な速度でもって、重力魔術――といっても基礎の基礎であるが――は決まった。アストラエアの自重は石柱並みとなった。こうしてフォルトナに降り注ぎ、踵落としを叩き込んだのである。
うつ伏せに倒れているフォルトナを一瞥すると、アストラエアは、
「よかったな、最後にわたしの下で死ねて」
彼女の引き締まった腿の下、フォルトナだったものを認めると――そのまま、何事もなかったようにクラウディアへと向き直る。
「皇女。お待たせしました」
アストラエアは、歓喜だった。
ただ勝利したという感無量に酔いながら、浮遊しつつ降りてくる皇女を右手でもって掬い取る。
「大丈夫でしたか……クラウディア」
「……うんっ、ありがとう! すごくかっこ……よ……」
皇女の瞳の色が変化したことを察して、アストラエアは即座に背後を――
「ぐっ!! お前……」
「ざ、ざまあ……があぁっ!」
その場において、軍靴のつま先で脳天を蹴飛ばされ、ついに絶命したかに思われた。確認している余裕はなかった。
だが、アストラエアは最後の一撃を食らってしまった。醜悪な色をした、煙状の魔術だった。彼が魔術を唱えられる状態でないことから察するに、魔術道具を使用したのだろうと彼女は推論する。
「アストラエア、大丈夫!?」
「し、心配ありません……」
アストラエアは目眩を堪えながらも、この症状について妙な懐かしさを覚える。どうにも頭が回らない。
「お、皇女。急に気分が悪くなったのですが……もし、そのような魔術についてご存知でしたら……」
「実物は知りませんが、文献で読んだことがあります。敵を病気のような状態にする魔術について」
「……ちくしょうっ!」
『どうすればいい? 皇女を安全な場所へと匿い、その後に宮殿まで乗り込むつもりだった。いったん乗り込んでしまえば、武器のある場所に目星はついている。だが、こんな調子では護衛すらままならない。武器があっても振るうことができない。ああ、とりあえずさっき投げた愛用の長槍を拾おう……』
「アストラエア、アストラエア! ごめんなさい、わたくしがもっと早く」
アストラエアは、クラウディアの真摯な瞳に貫かれたように、そこから目を離すことができなかった。
「……皇女、皇女。わたしは迷っていました。今から、あなたがお知りの避難用通路までお守りしていきます。そして、この場から退避するのです」
「……アストラエアは?」
「わたしは、その後で城内に踏み込みます。特等兵団の中でも気心の知れた者に心当たりがあります。彼は、きっとこの事態に気が付いているでしょう。いや、もう非番の軍団兵にも連絡がいっているかもしれない。とにかく、生き残りの兵らと一緒にセルギウス聖下を守ります。いざとなれば盾ぐらいにはなりましょう」
「いや、いや、怖いの……」
「クラウディア……」
「ごめんなさい。分かってはいるんです、分かってるんです……」
アストラエアは、皇女の肩を抱くのだった。
「さすがはイーオン教国が誇る第一皇翼です。それでは、避難通路までお守りします」
「心配には及びません。この庭園のすぐ近くにありますから」
そう言って、彼女は寝巻きをたくし上げながら、地面ごと倒壊してしまった庭園のすぐ近く、ここいらでは最も巨大な広葉樹に右手の平を当てる。そうしたなら、樹木の形状がすっかりと変わってしまって、木目状に開いた入口へとクラウディアは入っていく。
闇の中へと消える前に、振り向いた彼女に笑顔を向けられたような気がしたし、またそれは苦悶の表情かもしれなかった。彼女の姿が消えると、また樹木は元の形へと戻っていく。
アストラエアは、虚心だった。
これから起こるであろう戦闘、そしてその後の運命を噛み締めながら、満月が燦爛と照らす星空へと眼差している。
ふいに、満月に向かってその手を伸ばしたなら――アストラエアは、自分の身体が月明かりを受けてなお、翳っている気がした。