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第5話 背 信 (ⅰ)

 アストラエアは、黄昏だった。

 なぜなら、昨日から今朝にかけてのことを考えていると、どうしても訓練に身が入らないから。

 朝、目覚めると、そこには彼女の荷物が設えてあった。フルウィアが準備をしてくれたのだろうか。天掩(カーテン)を開くと、外は薄暮にも似た薄紫に佇んだ朝の大気が、アストラエアの視線の先に拡がっているのだった。晩秋の太陽が、遠い山々が刻んでいるぎざぎざの地平線から顔を出すのは、まだ少し先かと思われた。

 まさか、あんなことがあった後で朝食に顔を出すわけにもいかず、そのまま荷物を3階の窓から外へと放り出すと、自分もそのまま地面へと飛び降りるのだった。

 走り去ってゆく彼女だったが、もしも後ろを振り向いたなら、同じ3階の窓から微笑ましく見送っているフルウィアの姿を眺めることができたろう。パスカリスの居るベッド(寝台)を――情熱的に慰め続けた熱夜の跡を背後に構えながら、アストラエアは見送られている。


「……くっ!」


 突きから構えに戻る際に長槍(ピルム)を落としてしまった。普段の彼女ならばありえない失敗である。いま、彼女はひとりで鍛錬に及んでいる。そこは、聖アンジェロ宮殿から少々離れた地点にある山間(やまあい)の開けた土地だった。特等兵団(カリウス)には普段の訓練というものが課されていない。強さを求めるための時間については、あくまで自己責任として投資するという原則における自由があった。

 その代わりとして、休日は一般の軍団兵(ミリテム)に比べて若干少ない。それに戦場へと赴いたなら、少数精鋭において敵将の首を取りに行ったり、自軍を大軍から守護せねばならなくなる。

 アストラエアは気を取り直して、合計で9つある槍術の基本となる演舞をひとつを取り始めた。

 槍兵がいっぱしと認められるためには、演舞において合格点を叩き出す必要がある。彼女が槍を始めた当時は、なかなか上手くならず――何度も上官に叱られながら汗を流していたのだが、その現実は、当時のアストラエアにとっての救いとなった。槍に向いていないことが、槍の神に愛されていないことが彼女を救ってくれたのだった。

 

「……」


 せっかく軌道に乗ってきた演舞であったが、心の表層に染み付く思い出が彼女を捉えて離さない。

 アストラエアは、ロスヴァイセの右まぶたの真上から右耳にかけての斜傷のことを回想した。最近それを垣間見てしまったのは、あの日――特等兵団(カリウス)の先輩であるフレイらが戦死したノウス平原での出陣前のことだった。

 均整の取れた、すらりとした体格の乙女の顔を傷つけたことを思い出し、アストラエアは苦悩した。苦悩したが、しても仕方がないのも事実だった。5年ほど前のあの日、ロスヴァイセを圧倒し、切り刻むことを愉快で仕方のなかった自分の愚行を思い出す。

 そんな憂いを振り払うかのように、アストラエアは槍を振るい続ける。身体は汗ばみ、熱っぽくなった身体を冷やそうとするのであるが、次々を運動を重ねる彼女には大した意味はなかった。そうして、流れ続ける汗は1枚の薄膜となった。ふいに風が吹くと、それがアストラエアの肢体を、時に優しく、時に激しく撫でていく。

 アストラエアは、槍だった。槍がアストラエアで、アストラエアが槍だった。

 見れば、長槍(ピルム)の鋒が夕日を受けて浅く輝いている。そうして跳ね返った光が、彼女に瞬きをさせる。空は、赤銅色だった。アストラエアが、いったん槍を収めて周囲を見渡すと、自分がこれまで聞き逃していた、あらゆる森林の音楽を知った。たった今、草の葉擦れの響きが彼女の聴覚に訴え出たばかりであるが――その葉擦れはまた、彼女の心奥に響いた、彼女自身にとっての思い出の痛みでもある。

 アストラエアは、恍惚だった。

 彼女は、自分が槍術をやりながら、考えることを知らず、口を開くことを知らず、聴くことを知らず、匂うことを知らず、やがてはすべての感覚が消え去っていくような――そんな存在になっていくのが分かった。


「……帰ろう」


 ついさっきまで、寝食を忘れて専事へと励む生粋の男であるような形相で鍛錬を為していた彼女だったが、急に甘いものが食べたくなった。空模様を見上げると、そろそろ帰らねば食堂が閉まってしまうことを分かる。

 哨戒活動の当番であるロスヴァイセのことを想うと、さらに胸が締め付けられた。それは、火急の事態を心配する心の(おり)でもあったし、きゅうぅ、と細糸で心臓を絡め取られるような痛みでもあった。

 最近は、哨戒中に出くわす魔柱(デモヌ)の数が多いという。彼らの国では慢性的な食糧不足らしく、近年では神使が居住する地域にまで足を運ぶようになっている。そのおかげで、軍団兵(ミリテム)らが歩哨として駆り出される数も、実際の戦場の数も、どんどん増えているのだった。

 今日に至っては、年に数回、不定期に行われる大哨戒の日であった。魔柱(デモヌ)の前線基地があるやも知れぬ地域のみならず、人間が忍び込んでいそうな場所まで含めて徹底的な捜索活動が行われる。特等兵団(カリウス)においては、アストラエアとトールを除いた全員が出動している。


「ああっもうっ」


 アストラエアは、(かぶり)を降った。心配事を心の隅へと追いやって、兵舎へと向かって走り出す。


~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~


 もうだめだ、と彼女は思った。食堂の受付締切に間に合わない可能性が出てきていたから。颯爽と地面を蹴るアストラエアだったが、日没が早くなる時期であるのを鈍く認識していた結果であった。

 心の中で、「時間よ停まれ!」と叫びながら彼女は、公職域への門を抜けると聖アンジェロ宮殿を通り過ぎ、そのまま二番目の角を左折していった。この一帯というのは、あらゆる変化に富んだ色彩を有する大庭園であるが、いまは夜だった。その華やいだ雰囲気もなりを潜めてしまう。そんな様子にしみじみと感じ入りつつ、アストラエアはいつものように右の小路へと入った。


「いだあっ! な、なによこれえ……」


 壁だった。花の壁。

 厳密に言えば、それらは剪定(せんてい)された広葉樹による緑塀だった。たまたま彼女が体当たりした場所に、いくらかの花々が咲いていただけで。それらはアイボリーに染まっていたから、薄暗闇でもなんとか認識できた。

 ここで、彼女は――自分が道を1本間違えたことに気が付いて――強引にその花の壁を乗り越え、向こう側を覗き込むのだった。


「ああ……!」


 食堂の入口が閉まっていく様子を遠目に眺めながら彼女は、


「まあいいか。給付点プレミウムが失くなるわけじゃなし。非常食を食べて凌ごう」


 と無理やりに自分を納得させるのだった。そのまま緑塀の向こうへと着地した彼女は、その道が、数週間前に自分が連れて来られた場所の付近であると分かった。フォルトナについての記憶というのは、彼女にとって忘れたい記憶のひとつである。

 彼は、もうしばらく懲罰房に入っているはずだから、今は会う可能性がない。それを想念するとアストラエアは、たまには違う方向から帰ってみようと、そのまま花の壁に沿って歩き出すのだった。

 そんなこんなで――意図せずに宮殿の離れ部分へと到着してしまった。恨めしい気分で引き返そうとするも――同時に、『もっと茂みの奥まで進んでみたい、なにがあるのだろう』という男の子じみた考えを抑え切れなくなった。

 それは、彼女の身長よりもずっと高い、雑多な植物が織り成す障壁であった。アストラエアは、戦闘衣(アーラ)の背中部分に意識をやった。ふわり、とその威容を(あら)わにしていく純白の翼。彼女のそれは、神使の中でも特等に優れた雅を(たた)えている。

 その状態から、一気に走り出すアストラエア。適当に見繕った松の太枝へと飛び登ってから、一気に――飛翔ッ! 神使には飛行能力は備わっていないものの、滑空ならば出来る。こうして、植物の壁を飛び越えて向こう側へと降り立ったアストラエア。


「こうなってたのか。じゃあ、ここから帰るには……さっき見えたところだと、ここをまっすぐ行けば……ええと、ぐるっと迂回になって……」


 ブツブツとやりながら、幾本もの木立を抜けて小丘(しょうきゅう)を乗り越えるべく頂上まで来たところで、ふたつの認知を行うことになった。

 まず、ひとつめは――監視光である。魔術による散光が、あたりへと飛び散っていた。危うく犯罪者になるところだったアストラエアは、ぐるりと地面に身を投じながら、たったいま視線が捉えた、瀟洒なる幾何学上に編まれた庭園を見下ろすこととなった。


「……」


 女性にとって、興味がないはずはなかった。ここは宮殿の中だった。完全に。

 が、彼女は己の方向感覚のなさを呪うことはなかった。軍団兵(ミリテム)にとって兵舎周辺の地理を把握するというのは、はっきりいって義務的行動であるという慰めもあったし、なにより――この庭園をもっと眺めていたかった。

 しかしながら、アストラエアがわずかに立ち上がって。これまで歩んできた方向からの監視光が走ってきたのが視界に入ると、無意識に庭園側へと走り転がっていかざるを得なかった。


「いっつう!! い、うう、しゃべっちゃだめ……」


 根元の基礎部分へと頭を打ち付けてしまったアストラエア。そのまま立ち上がって、監視光がいずこかへと消え去ったことを確認する。少しの間ならば、大丈夫だろう。


「よ~いしょっ」


 懸垂をするかのように、石灰岩質で組成されている庭園の柵へとよじ登った彼女が――顔面蒼白となったのは、顔を乗り出した瞬間に、


「お、皇女さ……ま……?」


 イーオン教国が、フィーニス全域に誇る第一皇翼(だいいちこうよく)たる――クラウディア=アエテルニタス――と鉢合わせてしまったからである。

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