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第4話 回 春 (ⅳ)

 アストラエアは、鈍足だった。

 何度も倒れたし、今もまだ倒れそうではあるが、ゆらり、またゆらりと、自室への足取りを進めていく。


「あぁ、があぁっ」


 今にも意識が飛びそうだった。とんでもない毒を盛られたに違いなかった。わずかに動こうとしただけで、下半身が言うことを効かなくなるし、しかしながら、ゆったりとしていれば気分が落ち着くような気もする。あのままだったら、間違いなくパスカリスの手に掛かっていただろう。


「落ち着け、落ち着けえ……わたしは、わたしはツイてるんだ、今……あ、あ、はあぁっ」


 ここまでだった。壁に手をついて嘔吐しかけるアストラエア。最悪、あいつが後ろから追ってきたら……仮に回復したとして、縛られなどすれば動けなくなってしまう。


「……くそおっ」


 アストラエアは、目を閉じた。敵陣の真っ只中で眠りこけてしまうかのような気分だった。


「おい……アストラエア。大丈夫か!?」


 名前の呼び方は、明らかに慣れていない。そして男性の声。とくれば……。アストラエアは、そんなことを思いながら自分の肩を支えてくれる男の腕の中へと納まった。


「だ、ダマスス……さんか。すまない、私の部屋まで……ちょっと、気分がな」

「気分、悪いみたいだな。なんか口調もおかしくなってるし。ああ、君の寝室はこっちだよ」


 ダマススに肩を支えてもらいながら、一歩、また一歩と部屋へと近付いていく。その足取りは、あまりにぎこちなかった。慣れない歩き方だったのは当然だが、それだけでなく――男の腕を操作する精神の方が、異常をきたしていたからでもある。


「着いたよ。君の部屋」

「あ、ぁり……がとぅ……う……」


 改めて礼を言おうとして、男の顔を見上げようとする。


「全然、回復してなさそうだな。ベッドまで運んでやるから」


 そう言って、ぐいと身体を持ち抱えられそうになる。その右腕は、あらぬ部分を掴んでいた。


「あ、あ……?」

「心配ないよ、君は今からちょっとだけ介抱を受けるだけだ。病院みたいなもんだから、俺の言うことを聞いてね」

「……」


 アストラエアは、過敏だった。

 他者の善意にも、悪意にも、過敏に反応してしまう鼻があった。それは、意識せずとも常々より働く、呪いのように機能することもある。


「ダマスス、あなたは」

「え?」


 そう告げてアストラエアは、ダマススを見上げる。


「男として恥ずかしくないのか」

「……!」


 父親ほどには多言でなかった。


「んぁ、きゃあぁっ!」


 いきなり持ち上げられるアストラエア。彼女は軽いので、一般兵ほどの体力もない彼であっても身体を浮き上がらせることができる。


「ほんとに兵士さまかよ、俺の女よりも軽いぜ」

「や、やめて放てぇ……」

「うるせえっ、黙って言うこと聞け!!」

「ぐ……」


 戦時ならば、なにくそと言い返せるのに。男に怒鳴られただけで萎縮してしまう己の弱さが嫌だった。嫌だったのだ。だが、今の彼女にはどうすることもできない。


「やだ、離せ、いやだあっ」

「暴れんな!」


 ぼかぼかと、ダマススの身体を殴っていくアストラエア。だが効いていない。ダマススは、おかまいなしに自室へと連れ込もうとしていた。


「やだ、やだ、やだ!」

「黙れ」

「あ、あぁっ!」


 アストラエアが着ている、純白の生地に無造作な波の刺繍が入った社交服(ドレス)が首元から強引にはだけられた。釣鐘型のふた房が、明らかな上下動を伴って、揺れた。


「おお、すげえ!! 今、俺の腹まで衝撃が伝わってくるみたいだった、これからのひと時が楽しみだな」

「うっうぅっ……」


 露出させられたショックと羞恥とで、彼女の心は半ば砕かれてしまった。もはや、男の言葉を喋るような血潮など何処かに消え去っている。だが、男に手を引かれながらも――彼女は、彼とは反対方向へと力を働かせ続ける。


「……こいつ、ここでぜんぶ剥いてやろうか」

「やめて、やめてよぉ……」

「お兄様」


 ダマススの頬面が、一瞬で凍りつく。

 ああ、時間をかけ過ぎてしまった。ちょっと俺も飲み過ぎたろうか、といった後悔の念が聞こえてくるような顔だった。


「こんなところで性行為なんて。お父様もびっくりです、尊敬しますわ」

「あ、あ、フルウィア、これはな」

「今なら何も見ていません。聞いていません。誰にも言いません」

「お、おう。頼むぞ」


 そう言って、そそくさと逃げ帰ってしまった。ここから十歩も離れていない部屋だった。


「大丈夫で――」

「うわあああああーーーん、怖かったよぉ~~!」

「あらあら……さっきまでの鋭い感じはどこにいっちゃったのかしら? ほら、こっちにきて。ドレスなんていいのよ、明日お父様に言っておきますわ」

「言わないでぇ~~、弁償できないよっ!」

「大丈夫。心配しないで」


 そう言ってフルウィアは、アストラエアを頬を優しく掴むと、その耳元にキスをするのだった。


「大丈夫だから。さあ、あなたの部屋に行きましょ。いっとくけど、あたしも……信用しなくていいからね?」

「……」


 アストラエアは、フルウィアの袖を片手で摘んでいる。その匂いなら、確認したばかりだった。悪意はどこにもない。

 アストラエアは、恐怖だった。

 さっきの男もそうだが、なによりパスカリスだった。自分を騙し討ちにして、後継ぎになどする気はなかった。それが悲しくて、アストラエアは――苦し紛れに有力な軍団兵(ミリテム)となるための道のりを夢想しつつ、その遠さに打ちひしがれる。

 寝室に入ってからは、フルウィアが優しく会話してくれた。街の話題や、料理の話題など、軍団(レギオン)たるアストラエアにはちんぷんかんぷんの内容だったが、それでも会話は楽しかった。とにかく、もっとずっとお喋りしていたいと思えるような、フルウィアはそんな相手だった。

 今日は休暇を取っているし、明日も非番だから(とはいえ、兵舎には居る必要がある)、今日の夜はゆっくりと会話を楽しみたいとアストラエアは思っていた。何時間かが経って、それが叶ったことを確かめると急に眠気が込み上げてくる。


『今日の夜だけで、色んなことがあり過ぎた。もう寝よう。フルウィアが番をしてくれるから大丈夫』

 

 アストラエアは、瞼を閉じた。フルウィアに見守られながら。

 アストラエアは、愚鈍だった。


~ ✩ ★ ✩ ★ ✩ ~


 女が、女の寝顔を覗いていた。


「可愛い寝顔ね、アストラエア」


 フルウィアは、寝静まっているアストラエアの吐息を愛撫するように顔を近づける。その吐息は、とても甘く感じられた。フルウィアの心奥より湧き出る猛毒は、彼女自身の情欲を掻き立ててやまなかった。


「アストラエア! アストラエア……」


 フルウィアの眼差しは、どんな角度から眺めても美しいアストラエアを舐めずるように――やがて、ベッドの上に馬乗りになった彼女は、アストラエアの腰に手を当て、それを下方向へとずらしていく。やがて、それ(・ ・)に当たるのは時間の問題だった。

 握り回すように刺激する手の中で、それ(・ ・)は次第に肥大していく。


「やっぱり。ダマススに襲われるのを見てるときから、不思議に思ってた。直感も馬鹿にならないわね。まあ、組み合ってる時に、たまたま太ももより上が見えたのだけれど」


 そう告げて、フルウィアは――まさぐりを停止した。


「まさか、こんなところで同族に出会うなんて。こんな偶然、本当に……」


 彼女は、自分がパスカリスに買われたときのことを思い出した。色街で商売をしていた彼女だったが、呪われた身体であることを客に通報され、官憲に取り押さえられようとする、まさにその時だった。パスカリスは、金で彼女の身柄を買ったのである。

 それからの、彼女の青春時代からの記憶が頭をもたげていく――パスカリスから、家事や炊事について徹底的に仕込まれたこと。それが成ると、次は財産法についての辛い勉学でもって鍛えられたこと。そんな彼でも、ときどきは悲しげな顔をしていること。娼館で働いていたというので、初めはダマススに馬鹿にされたこと。紆余曲折あって、すっかりと彼を下僕として扱うようになったこと。パスカリスの指示で、いい年になって17歳だと嘘をついていること。本当は22歳で、ダマススよりも4つほど年上だということ。


「ふふ、まさか。こんなことを隠していたなんて。お父様」


 いつもいつも、自分がパスカリスを慰めていること。時には、非道い行いを強要されていること。こんなに尽くしても、道楽息子のダマススに家を継がせようとしていること。アストラエアを熱っぽい視線で眺めていたパスカリスを見て、親族に欲情するどうしようもない男だと感じたこと。

 でも、やっぱり彼を愛していること。地獄から自分を救ってくれた、不器用でぼんくらな貴族のこと。


「ふふ、エア。気を付けなきゃ。わたしも、あなたのこと気に入ってるんだから」


 それだけ告げると、彼女は立ち上がった。パスカリスを慰めに行くためだった。「娼婦としてお前を買った。戸籍に入れるつもりはない」と過去に言われているからには、娼婦として尽くすことが、彼女なりの命の恩人に対する使命だった。ダマススに家を継がせると分かってはいても、色街という地獄に居るよりは、ずっとましだった。

 現実においては、パスカリスはフルウィアを長女として戸籍に入れているし、ダマススの成長によっては彼女を後継指名する(はら)積りでいる。だが、そんなことは今のフルウィアには関係のないことだった。

 今日も、娼婦は主人を慰めるために――暗く、冷たい廊下を歩いていく。だがやがて、いつものように――主人の部屋の前で、薄紅色の感情が胸を駆け上ってゆくのだった。

 (第4話、終)

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