第4話 回 春 (ⅱ)
夕闇は、薄紫色の空模様だった。太陽はとっくに沈んで、あとはその残滓が消え去るのを待つのみである。もうすでに街灯を点灯させ始めている大通りからだいぶ外れた街並みに、その屋敷はあった。
イーオン教国の市民としては、豪奢な佇まいの家屋であった。その門は建物と一体になっており、客人たちは円周状になった天井をくぐることで出入りを行う。どんな馬車でも通過できるほどの大きさ、それは典型的な貴族の屋敷であった。
1階の中央にある広間は、家族用のダイニングとして利用されていた。いま、ここには家族一同が集結している。まず、上座に座るのがパスカリス=インユリアという男だった。中肉中背で身長はやや高め、小さな髭を生やして骨ばった顔である。鶏の蒸し焼きをほぐした肉切れを自家製のソースとともに齧っている。時折、葡萄酒を飲むのだが、その視線には逸りがある。
その彼から見て左前に在るのが、息子のダマススであった。父親と同様の体格だが、顔はすらりとしており、イーオン教国では相応の美男子として通用する。父親と同じような蒸し鶏の食べ方だったが、葡萄酒の種類が違うのと、デザートは食べない主義である。そして、さらにその隣に座るのが――アストラエア=インユリアである。
アストラエアは、羞恥だった。
純白のドレスなんて、今まで着たことがない。それに、こんなに美麗な髪型も。ワンポイントとして、麻の長巻を上半身に纏っているのだが、首の横部分へと掛かるそれが邪魔で仕方なかった。それに、女性としては筋骨隆々たる彼女には、この装いを自ら台無しにしているんじゃないかという不安が常に付きまとっている。
この仕立てをやってくれたのが――彼女の真ん前、入口側に座っているフルウィアという者だった。アストラエアは、彼女に対して綺麗な女性だ、という印象を抱いていた。
女としては短く切り揃えられた髪に、切れ長の瞳が眩しかった。さっき、思わず目が合ってしまったのだが、歴戦の彼女ですら視線を逸らさざるを得ないほどに不思議な圧力をもった相手であった。
「エア、どうだい味は」
「お、おいしいです、すごく! 兵舎の麦粥とは大違いです、あれ辛くって、固くって」
「はは、たくさん食べるんだよ。軍団兵なら、いくらでもいけるだろう」
「うん、おいしい!」
この家の主人、といっても――パスカリスは父ではなく、叔父なのだが――から優しい言葉を掛けられ、久しぶりの家族団らんの空気を得た彼女は、休暇を取ってよかったと心から想う。
アストラエアは、忌避だった。
こんな呪われた身体に生まれ、親族からは奇々怪々たる視線で見られた。晩餐会では、これみよがしに噂話をされたり、わざと足を引っ掛けられたりもした。時には、ひどい嫌がらせを行う者もいた。守ってくれるのは当時の家族しかいなかった。
その家族らも、それに親戚らの半分も逝去している今では、それも懐かしいことに感じられる。アストラエアは想像してみた。もしも、もしもパスカリス叔父さんがこの家に一緒に住まないかと言ってくれたら。自分を、後継者として指名してくれたら。
インユリア家の仮当主というのが、今現在の叔父の立場である。本来の家権というのは、叔父の妹であるアストラエアの母親にあった。パスカリスというのは、現在は禁治産者である彼女の後見者に過ぎない。実の当主である母親というのは、いまだ精神病の只中にあるのだが、彼女がどのような状態にあろうと、死なぬ限りはその座が動くことはない。しかも、一度他家へと婿養子に入っていた彼には、イーオン教国の慣習法においてクリアーせねばならぬ壁は多かった。
しかしながら、イーオン教国の家族法においては、一定期間が経つとパスカリスが家を継げるようになる。アストラエアは、そのことを知っていた。だから、朝方の挨拶の際に、アストラエアを後継者にする気があることをパスカリスが匂わせた時、期待感が込み上げて仕方なかった。
6年ぶりの実家だった。あの、魔柱による大奇襲から生き残って軍役に就くことを決心してからは、一度たりとも実家に帰っていなかった。同じ貴族出身である、ロスヴァイセにしてもそうだった。
「いやあ、どうだいお前ら。アストラエアは」
「うん、昔のまんまだ。いや、昔よりもずっと女性らしくなって」
アストラエアは、赤面だった。昔、よくダマススに馬乗りになって苛めたものだった。今は亡き、叔父の妻――すなわち彼の母親に見つかって、平手打ちと踏みつけを食らった際のことを思い出し、しみじみとした気分になる。
「本当ですわ、アストラエアさま。でも、あたしはあの頃の方に興味がありますわ。凛々しくって、格好よかったそうですね。成年の前では、そうでもなかったそうですが」
フルウィアが、そう言ってパスカリスに目線を送ると、彼は途端に俯いてしまう。
「みんな、ありがとう。休暇は今日だけなんだけど、精一杯楽しむからね」
「アストラエアさま。ぜひ、あたしの部屋にいらして」
「まあまあ、エアも疲れているんだし」
もうすぐ食事終了だという合図とでも言わんばかりに、彼はふたりの子に向かって次の言を打った。
「さて。本当なら初めに話しておくべきだったが。今日の会の理由だ。というのも、アストラエアは特等兵団に選ばれていてな」
「なんだって、まだ入って10年も経ってないんだろう?」
「兵役期間なんて関係ないですわ。素晴らしいことです。あの特等兵団ですよ。1万以上いる軍団の中で、たったの11名! 単騎駆けで敵将の首を殺る、一騎当千の軍勢! あたしの幼年時代に、街中で仲間たちから何度も武勇伝を聞かされて! 憧れだったの……」
その時だった、パスカリスがフルウィアへと視線をやったのは。
「いけませんわ、卑しくもインユリア家の娘がなんて血生臭い。まるで下賤の子みたい……」
「先日だったかな、アストラエアから連絡を受けた。それで、是非家に来て欲しいと。いや、本当は前々から帰ってきて欲しいとは思っていたんだ。でも、彼女から連絡がなかったから。兵役が忙しいんじゃないかと思うと、どうも気が乗らなくてね……とにかくだ、皆アストラエアを歓迎しよう。うちの家族の一員なんだからな」
食事が終わって、アストラエアは懐かしの自室に行く――前に、母親であるベアトリクスが眠っている宅内病室を訪れた。アストラエアに話しかけられると、聾唖者のごとく途切れ途切れにゆっくりと言霊を紡いでいくのであるが、元の精神が壊れているゆえに会話もままならない。そんな母の痩せこけた姿を見ながら、アストラエアは想った。
こうなったのは自分のせいだというのが、過去におけるアストラエアの結論だった。あの大奇襲の日、母は――偶然の産物に過ぎないだろうが――弟や妹よりも、アストラエアを優先して地下室へと隠れた。半日が経って、ほぼ壊滅した家の中でゼリー状の合成物となって発見された父、妹、弟の変わり果てた姿を見た叔父に、母親は責め立てられた。だが、その母にしても、アストラエアにとっての祖父母を失っている。心の傷は大き過ぎた。彼女は自殺を図り、そして――
アストラエアは、結論したのだった。自分の罪を。きっと、自分でなく他の血族ならば、こんなことにはならなかった。叔父だって悪気はなかった。彼だって、その日のうちに家族や親族のほとんどを魔柱に殺されていたから。
アストラエアが選んだのは、贖罪としての軍役の道だった。魔柱を討ち果たせばそれでよし、討ち果たせずに死のうと、それは罪を購ったことになるというのが当時13歳の彼女の考えであった。
何十分が経っただろうか。ようやく、アストラエアは病室の椅子から立ち上がる。約束が、待っていたから。夕食後に大事な話があるという、叔父からの伝言があった。母親の手をもう一度だけ握り締めてから、彼女は席を立つ。