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これは少しマズイんではないだろうか、と湿った窪地を歩きながらフィンブルは考えていた。
なぜなら、ここまでの道のりで、上とつながる道が見付からなかったからだ。帰りにはあの段差をクライミングすることになるのだと思うと、なかなかに気が重くなるものがある。
雑魚Mobとのエンカウントはどうしてか一度も無い。運がいいだけなのか、それとも。いつの間にか背の高くなっている草の中を進みながら、フィンブルは少し嫌なものを感じた。
なぁ、ちょっと変じゃないか――と後ろの2人に問いかけようとしたフィンブルの眼前で、突如高く視界を塞いでいた草むらが切れ、代わりに清らかな泉――というか中型の池といってよいサイズの水場が現れた。周りにはそれまでのとは全く違う種類の背の低い植物が群生し、岸辺にはフィンブルの身長の半分位の髙さの石碑――《記憶石》が立っている。おりからの風に揺れてきらめく水面の透明感は、しばらくの間3人から言葉を奪った。
無言のまま、水際へと歩く。屈みこんで程よい湿り気を帯びた黒色の土に生えた小さな植物を見て、ムートが言った。
「これが……ヒールハーブ」
「そこら中みんなこればっかりだな……取り敢えずムートの分、後俺とフレアの分を採ればいいってこと、だよな」
やり方など知らなかったからおそるおそる慎重な手つきで黄緑色の葉だけを摘む。この場所でステータスウィンドウを出すのは面倒だったので、さしあたり腰のポーチに放り込む。フレアとムートもそれにならった。
「これで依頼達成……なのかなあ? ボクセーブするよ」
そう言ってムートが記憶石を操作し始めたのを、フィンブルはぼんやりと眺めていた。自分とフレアには見えないホロウィンドウを操作し、位置情報を保存するかを問うダイアログが流れ――
そのとき、フィンブルの脳裏に走ったひらめきは、自身の思考よりも速くフィンブルの声帯を震わせていた。
「だめだムート!! ストップ!」
「へっ?」
こちらを振り返ったムートの右手の人差し指は、不可視のホロウィンドウのキィに深々と突き刺さっていた。
深いため息と共に、フィンブルは喋り出した。
「……この世界のセーブっていうのはプレイヤーデータの保存じゃなくて、位置情報の保存なんだよ。だから死んでもデスペナは受けるし、アイテムを失くしたら取り返せない。ただこの場所に戻ってこられるってだけなんだ、つまり」
未だに事態が飲み込めない様子のフレアとムートに、嗄れた声で告げる。
「これで他の記憶石にセーブしないうちに死んだ場合、ムートはこの場所から♯復活♯(リスポーン)しなきゃならないんだよ。そこからの移動で死んだらまたくりかえし。仮にそこでログアウトしたとしても、次のログインでまたこの石碑がスタート地点になるから、生きてエルベルムに帰れないかぎりここに縛られ続けてしまうんだ……」
「そんな…………」
次第にムートの顔が凍りついていくのを、フィンブルはどうすることも出来ずに見ていた。
「ごめん、ムート。ほんとは記憶石を操作しようとした段階で何が何でも止めてなくちゃ駄目だったのに……」
本当に申し訳ない気持ちで頭を下げる。
ムートは不安げな表情のまま懸命に微笑んで首を振った。
「ううん、フィンブルは悪くないよ、これはみんなボクのしたことだし……それに、ほら! フィンブルが言ったんだよ、仲間なら謝らなくていいんだ、って。ボク頑張って戦うから、元気だしてよ、フィンブル」
フィンブルははっとして、また少し苦いものを感じながらムートの言葉を聞いていた。
――何をやってるんだ、俺は。
――理想を演じると決めたなら、俺が元気付けられていてどうする。ムートの不安を消して、何がなんでもその言葉を本当にしなきゃ駄目だと分かっているのに。
フィンブルは拳を握り締めて、低く、誰にも聞こえないように呟いた。
「……絶対に守り抜く。ムートを」
「フィンブル?」
怪訝な顔でこちらを見るムートに、フィンブルはつとめて明るい口調で言った。
「俺はお前を守る。いや、俺がお前を守る! 絶対死なせない。だから心配すんなよ」
唐突な宣言ではあるものの、ムートにもしっかりフィンブルの目に宿る光が届いたようだった。
「まだボクは助けて貰ったおんがえしをしてないから、頑張るのは、ボクだよ」
お互いに深く視線を交わし合っていると、注意深く2人を見守っていたフレアが元気よくムートに言った。
「気を使わなくていいわよ。ムートくんはわたしたちがガッツリガードしちゃうから!」
威勢の良さと底抜けの明るさを併せ持ったフレアの言葉に、フィンブルも続ける。
「そうだ、フレアの言う通りだぜ! お前が軽く暇になる位、どんな相手でも瞬殺で蹴散らしてやるよ」
「…………ふたりとも、ありがとう」
蕾のほどけるような柔らかな表情でそう言ったムートの頭を、フレアがぐりぐりとかき回した。
「本当にもう弟にしたいわあ、ムートくん。でさ、もう行こうよ? このフィールドに入ってから今まで一回もエンカウント無かったけど、ここが安全地帯だなんてどこにも書いてないし」
フレアがそこを気にかけていたのは割と予想外でフィンブルは少し瞠目したが、すぐに顔を引き締める。
ここまで危機らしい危機はなかったものの、今フィンブルたちが受けているクエストはもうそろそろまるっきり♯初心者♯(ニュービー)、とは言えないかな、くらいのプレイヤーのための《ランク2》クエストだ。採集クエとは言え、どんな危険があるのかまだ分からない。
こんなところに長居は無用、さっさとムートを守りながら街まで辿り着かないと、とフィンブルは足をざっと踏み出した。
「フレアの言う通り、早く帰ろう。ちょっと嫌な感じがするんだ」
先陣を切ってもとの視界を塞がれる草むらへ歩き出すフィンブルの後ろ、ムート、フレアの順番についてくる。フレアにしんがりを任せたのはすまないな、と思いつつ、ふたりでムートを守ると言った以上、フレア自身は微塵の迷いも無いだろう。
行きに通って草が倒れたルートを歩くが、短期的に作られた道は酷く歩きにくい上に狭い。窪地を掻き分け掻き分け進んだ行きの方が厳しい道のりだったはずなのに、帰りのそれは理不尽に思えるほどに長い。時々後ろを振り返って見る。幸いフレアもムートもはぐれはしなかったが、やはりどこか気疲れした様子が見える。小さいムートはもちろんのことなのだが、フィンブルはフレアの疲れの中に、色濃い不安を見てとった。手強いモンスターとの戦闘になる可能性に対する不安を。
とはいえ、歩けば確実に目的地への距離は縮まるものだ。がさがさと草を鳴らしながら歩いていた三人の前方ぎりぎりに、焦げ茶の土壁が現れ、忌々しい草むらがついに終わった。思わず後ろのムートとフレアに大声で叫ぶ。
「おい二人とも、俺たちが降りてきた所だぜ!」
その声が激しくここまでの行程で疲労していることに、フィンブルは言い切ってから気が付いた。
三人が安堵と共に残りの距離を全力で駆け出そうとした、そのときだった。
「ガルルゥウウウウアアッ!!」
獣の激しい咆哮が窪地に轟き渡り、四方の崖に反響した。弾かれたように叫びの発信源の左方向を見ると、平原で戦った強敵――レッサーウルフの姿があった。フィンブルたちは咄嗟に武器を構え戦闘体勢をとり、ムートは自己エンチャントのスペルを唱える。しかし、オオカミは単身ではなかった。最初に現れた一体の後ろから2匹。その逆サイド、フィンブルたちをはさみ打ちにするように1体。ムートが呆然として呟く。
「レベル3が……4匹……」
「フレア! ムートを守るぞ!!」
「言われなくても!」
フレアと背中合わせに立ち、間にムートを守るようにする。崖の上からオオカミたちが次々と飛び降り、こちらが身動きする間も無く、鮮やかな身のこなしで四方を囲む。オオカミは群れで狩りをする動物だということを、フィンブルは今更ながら思い出していた。
「フレア……お前、一発でもまともに食らえばヤバいの、分かってるよな」
「平気よ、このワンドで全部叩き落とすわ。それよりフィンブル、ちゃんと前に集中してなさいよ」
「流石戦闘狂。安心しろ、俺もムートには鉤爪一本触れさせないさ」
オオカミを睨み付けながら恐怖と疲労を隠して軽口を掛け合うフィンブルとフレアそれぞれの背中から、震えながらも確かな声がした。
「…………ボクも、たたかう」
ムートが魔法剣を構えてフレアの前に出たのが、見なくても分かった。
「フィンブルたちにおんがえししなきゃいけないんだ。守られてばっかりはもう止めるって決めたんだ……フィンブル、ボクに背中を預けて。近接型が♯前衛♯(フォワード)なんだ。フィンブルとボクがおねえちゃんを守って、おねえちゃんが魔法を撃つ。そうじゃなきゃ、いけないんだ」
「ムート、お前……」
「……ムートくん」
震えた声に込められた万感の思いは、フィンブルの心に痛いほど届いた。恐らくフレアにも。フレアは詠唱を始め、フィンブルはムートに短く、肩越しに言う。
「背中、任せたぜ」
「……うん!」
疲労も恐れも掻き消えた。あんな小さなムートが、凶悪なモンスターを相手に戦おうとしているのに、何を怖じ気づいている場合か。
「ガルルッ!」
ついにしびれを切らしたレッサーウルフたちが、一匹ずつそれぞれ時間差をつけて飛びかかってきた。スピードはぎりぎり見切れなくもないが、ただ回避しただけでは後ろのフレアを守れない。フィンブルは落ち着いて右半身に構え、手にした曲刀を踏み込みながら右下に振る。刀身を深みのある黄色の光が包み、生身では不可能なスピードで右腕が閃いた。斜め斬り基本スキル、《ティルト》。
繰り出されたアクションスキルは前方から飛び上がった一体と、遅れて右から飛びかかったもう一体をほぼ同時に切り裂く。アシストを得た刃の威力は雑魚の部類に属するオオカミの攻撃を容易く跳ね飛ばした。一瞬硬直してフィンブルの動きが止まるが、ASを食らったレッサーウルフはそれより長いディレイに入る。
後ろでは先に動いた一体をムートが魔法剣で深々と斬り抜く。フレアを狙った一体は余裕で回避され、詠唱の完了した火球を食らって悶える。運良く火属性特有のステータス異常である《火傷》が発生し、秒間何ポイントかの♯DoT♯(時間経過ダメージ)を受け、さらに一定確率で行動が阻害される。火傷を食らったオオカミを一旦無視して、すぐにムートが追撃にかかる。
フィンブルはすでに2匹への追撃を開始していた。背の低いオオカミは水平斬りが向かず、使うならば垂直斬り《クリーヴ》だったが、フィンブルはあえてASを使わずに最初に正面から飛びかかってきていた方のオオカミの首に斬撃を加え、すぐに《ステップ》でその場から移動した。一瞬前にフィンブルの頭があった位置をもう一体の凶悪な右前足が抉る。
「当たらなければどうということはない!」
どこかの軍人の言葉を叫びつつ、フィンブルはあくまで一体目に向かって《クリーヴ》を繰り出した。薄赤い閃光がまた首筋を切り裂く。攻撃点から激しく飛び散る白い光。クリティカルが決まった証だ。
「グアアアッ!」
これが曲刀。まだまだクリティカル率は低いと言わざるを得ないが、定めた狙いはしっかりと弱点を切り裂いている。相手のHPがぐいっと減少し、ゼロへ。グラスを爆破するような破砕音と共に、真っ白な破片が粉々に飛び散る。
まずは一体とった! と自信をつけるフィンブルの耳に、フレアの叫びが届いた。
「フィンブル! 後ろーっ!!」
反応する時間は無かった。後ろに首をひねる暇も無く、頭に激甚な衝撃が加わる。
「くぉっ……」
視界が一回転し、身体が何かに激しく叩き付けられる。右も左も分からなくなりながら、予想外にポストモーションの短かったもう一体が攻撃してきたことを悟る。
――ここは……今俺はどこだ!?
がむしゃらに手足をばたつかせる。すぐにつま先と掌が地面を叩いて、倒れ地に伏していることを知る。転がって仰向けになったフィンブルが見たのは、追撃を加えようと飛びかかり、上から今にも必殺の爪を降らせようとするレッサーウルフだった。
「うわあああああああっ!!」
叫んだってどうにもならないのは分かり過ぎるくらい分かっていたことだが、やはりこんなときに悲鳴は出るものだ。目をつぶり、間に合わないと知りながらさらに横に転がってフィンブルは爪の衝撃を待った。
しかし、予期していたダメージは無かった。かわりにフィンブルの感覚器官が受け取ったのは熱感。そしてゴウ、空気の振動。
「フィンブルーっ!」
フレアが火球を撃ってオオカミを吹き飛ばしていた。敵のHPゲージが更に減って赤くなる。
だが、とフィンブルは違和感を覚える。物理防御の低いフレアが自身をターゲットしているオオカミを無視してフィンブルに加勢するなど、いくら火傷で敵の行動が阻害されているとはいえ簡単に出来ることではない。どうやって――
「――ボクだって戦えるんだ!」
ムートだった。少し無駄はあるものの、これまでとは比べものにならない被弾を恐れぬ大胆な動きで二匹を相手に格闘していた。
火傷を食らっている方を出来る限り無視し、最初にダメージを与えたレッサーウルフに隙の小さいASを叩き込む。小さな身体と重さの無い魔法剣が有利に働き、硬直の極端に短いASが実現している。みるみるうちに二匹のゲージが減少していく。
「俺も負けてらんねえなっ!!」
魔法の衝撃で壁面に叩きつけられ動きを止めたオオカミに向けて走りながら右水平斬りの構えを取る。敵と自分の立ち位置の高低差から、確実にダメージを与えられる最適解。
水平斬り《ガッシュ》の黄色い光を帯びた剣尖が、レッサーウルフの喉笛を抉る。クリティカルは発生しなかったものの、部位ごとの防御力の差はある。ゲージがゼロになったレッサーウルフは一匹目と同様にカシャーン! と音を立てて幾千の欠片に分解する。フィンブルの足はそれが視界を覆う前に地を蹴っていた。
「フレア! ムートッ!」
二匹相手に接近戦を行うムートと、物理防御の薄いフレアが果たして持ち堪えているのか――。
しかし全ては杞憂に終わった。火傷を負った方のオオカミにはまだHPを5分の4ほど残したフレアが撃った火球によって爆散した。ムートは流石に何発か被弾し、すでにゲージは黄色くなっていたが、その相手は更に深手を負っている。
「グルアッ!」
怒りに両眼を燃やしたレッサーウルフが、身体をたわめてムートに体当たりを仕掛けた。全力を注いだその攻撃は重さもスピードもかなりのものだった。生半可なガードでは小柄なムートは簡単に潰されるだろう。
「うおおおおおおおおお!!」
剥き出しの牙に向けて、ムートもまた全力の斬撃を放った。鮮やかな緑の光が激しく衝撃を散らし――ダメージを与えることなく受けることなく、オオカミはのけぞり、ムートは後ろに倒れて硬直した。MPの切れたらしいフレアが息を飲む。しかしムートは慌てていなかった。
「フィンブル、スイッチ!」
「おうっ!!」
ムートが♯自分から弾かれて♯(傍点)作った隙間に《ステップ》で滑り込む。強攻撃同士がぶつかったときのブレイクはアクションスキルの技後硬直などとは比較にならないほど長い。フィンブルはニイィ、と顔に獰猛な笑みを浮かべた。
「俺達の勝ち」
言葉と共に、右手の曲刀が仄赤い光を帯びる。全力を込めた一撃のサウンドエフェクトとオブジェクト破砕音が、レッサーウルフの断末魔を掻き消し、ランク2クエストの戦いはようやく終わった。
《次回1章完結》